いけばな

お花を生ける。

活けることができればいいかなぁ…くらいに私自身お花を習っていた…のですが、ふと、いろいろ何かないかなぁ…。

生け花について調べたいけど、本は買いたくない…。と、図書館へ行ってみました。

そこで、見つけた本。

この本を選んだのは、「○○流」など関係ないところで知りたいなぁ…。この人は何をしている人?著者略歴に書かれているのは、アジアセンター客員研究員だそうです。

 

「いけばな」の思想の根拠や歴史についての探求。なんとも、きれいにお花が生けられている…とめでる心とは違う発想の本。お茶の世界もそうですが、ある意味、流派とか関係ない話を知りたかったのでした。

 

序ですでに書かれていることで、面白い~と興味を持つ話。

 

たとえば、「立花」の作法が、実は奈良の石上神宮に伝わる七支刀の伝承とその形に由来するのではないかという仮説のお話。

「立花」とは七枝の形を示す。

石上新宮とは、布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)をご神体として祀る神社だそうです。

大和における最高の神社といってよく、そこにはいまふれたばかりの「七支刀」をはじめとして数々の武器にまつわる伝承が多いことで知られています。その石上神宮の七支刀と「いけばな」の起源を結びつけようというのですから、その着想には本当に驚かされました。

と書いてあるのです。そうです。序は、著者ではなく、山折哲雄氏が書いたもの。

山折哲雄氏とは?正直、有名な方でしょうけど、知りませんでした。ウィキペディアに載っていた人で確かなら…。

山折 哲雄 (やまおり てつお、1931年5月11日- )は日本の宗教学者、評論家。専攻は宗教史・日本思想史。国際日本文化研究センター名誉教授(元所長)、国立歴史民俗博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、 平城遷都1300年記念事業評議員。角川財団学芸賞、和辻哲郎文化賞、山本七平賞選考委員。

だそうです。

そして、石上神宮とは?

石上神宮は、いそのかみじんぐうと読むそうです。そこから…。

石上神宮は、第10代崇神天皇の御世に創祀された古社で、主祭神として、次の三柱の神様をお祀りしているんだそうです。

布都御魂大神ふつのみたまのおおかみ

布留御魂大神ふるのみたまのおおかみ

布都斯魂大神ふつしみたまのおおかみ

 

私はお茶については詳しく知りたいなぁ…と知る機会を持つようにしていって…としていましたが、お花について調べても興味深い話題があるものですね。

本当かどうかはわかりません。でも、そんな風に考えて見てみる…というのも面白いなぁ…。

もともと、神仏にお供えするお花から発展したもの。それは普通に調べても出てくるお話。

ただ、この本には序章の前にこんなことが書いてあるのです。

仏教説話の中に、インドで山火事や嵐の後、僧侶がわずかに残った小枝を拾っては埋め、再生させたという言い伝えがある。ではなぜ、神仏の供花として始まったとされる「いけばな」が、自然にある草木を切るのだろうか。

そうだなぁ…なるほどね。確かに。草木を切ることも、なんでわざわざ立派な木を切るのだろう?は確かに…。

 

さて、この本に書いてあることが全てが正しいのか?それは知りません。だけど、面白いなぁ~を記録。

 

まず、石上神宮の「七支刀」のこと。

この方は、『道教と古代日本』という福永光司著の本に出会って、その中に、国宝「七支刀」の写真が載っていたそうです。そして、この著者はその写真を見て、「立花(たてはな)の原型ではないか」と直感したそうです。

「七支刀」の形と、いけばなの原型である「立花」の型が、どちらも七枝の型をしていて、判で押したように似ている。

と書いてありました。今の私ではこれは本当か?わかりません。ただ、このことで仮説を立てていらっしゃるのでした。

 

書くには時間かかりますね…。

いっぱい書いてあるけど、実に…本当かを確かめることができてません。

メモにはなるけど…。

 

もともと、お茶もお花も…男の人がやっていたんだよねぇ…。

いつから?それもイマイチ覚えていないけど、女の人がするようになった…。

表千家では、お茶を女性が行う…、老人のお手前を変えて女性手前を作ったと聞きましたね。

とりあえず、花嫁修業で御茶御花…という頭でいた?いる?男性女性。めでたいなぁ…と思っていたのでした。

だって、それって、そんな始まりを知らなくて言っている…ときは、何のために?なんて疑問を持たないでしょうね…。

私は、正直、なんで男性がしていたことを花嫁修業とか言ってるのだろう?と疑問でした。

 

ただ、御花についてはわかりません。床の間に花を活けるため?

きっとそのためかもねぇ…。

だけど、元を知ると、考えるのはなぜ女性にさせるか?というのと、なぜ男性ができないでいいようになったか?

 

正直、お茶の世界では男性も(お花の世界もですが)やっている人はいる。

特に、ホント…?ってビックリするのは、企業の上の方たちの名前も並んでいたりして、お茶しているんだ…と驚きます。失礼かもしれませんが、名誉職かもしれないけど支部長とかに名前が並んでいらっしゃいます。

私が知らないだけ…でしょうけどね。

 

昔の家来?ん…とにかく、お客を招く男性のお手伝いに女性が昔は入っていたのかなぁ…?

いなかっただろうけど、手伝う人を雇えなくなったら…妻に頼むしかないよね。

だったら…と想像するのでした。

 

よくは知らないけど、昔は…お茶をわかっていない男性は出世しなかった。

今は…?

何を知っていたら良いのかなぁ…?

 

日本人なのにねぇ…剣道柔道は学校で義務がかかっていて知っている…と、華道茶道は後は本人のたしなみ。

海外でもやっている人はいる…。

 

剣道も柔道も…でも、武道ばっか…。書道も義務かな?

 

まぁ…もてなしの心は、日本の教育が…家庭教育力が低下している…なんていわれていても、ちゃんと存続・継続している…から、企業の皆様は採用楽ですよね。

お茶はペットボトルの進化。お花はフラワーアレンジメント。

 

多分ね、御茶や御花の世界から遠のいて理解できない男性だけでないけど、女性も増えているから、お茶をたしなむ原点、お花をたしなむ原点知らないで否定。

 

大人が日本文化をどれだけ知っているか…?

実は子どもたちより問われているのは、大人でしょう…なんて思います。

 

 

 

 

能 野守

昨日、ウィークエンド夜能というイベントで能を見に行きました。

 

正直、ちゃんと起きていられなかった…と、同じ姿勢を長時間していて体がきつかった…眠いというより、体が痛かった…。

でも、見ていたくて…と見る気は満々なのに…と、腰が痛くなったり肩が凝ったり…はちゃんと休憩中に体動かしておけば問題なかったはず…と次回はどうにかしたい…って思うのでした。

 

「野守」という能。ある意味なんか不思議で、なんとなくイメージはSFでした。

 

能・狂言ということで、狂言「柿山伏」と能「野守」の2つでした。

狂言「柿山伏」

修行を終えた山伏は、本国に帰る途中のどの渇きを癒そうと柿の木を見つけたたくさんの柿を食べる。そこへ、畑主が見回りにやって来て、山伏を見つける。

大事な柿を食べ散らかされて怒った畑主は、しばらくの間からかってやろうと、犬だサルだと山伏に動物の鳴きまねをさせ……

能「野守」

大和の国・春日野に来た山伏は、野守から「野守の鏡」についての故事を聞き、本当の「野守の鏡」とは昼には人となり、夜は鬼となってこの地を守っていた鬼神の持つ鏡のことだと知る。まことの「野守の鏡」を見たいものだと山伏が祈ると、鬼神が鏡を持って現れ、天界から地獄の底摩どぉ写して見せた後、大地を踏み破って地獄へ入っていく。

 

次のように書かれているブログがありました。

能「野守」は、大和国春日野に伝わる伝承をもとに、世阿弥が書いたものと思われている。鬼の能であるが、和歌をテーマにして上品な体裁になっている。

平安末期の歌論書「奥儀抄」(藤原清輔撰)によれば、雄略天皇が春日野に狩をした際、鷹が逃げたので、その行方を野守に追わせたところ、鷹の姿が池の水に映っているのを見て探し当てた。それ以来、この池は野守の鏡と呼ばれるようになった。新古今集に読み人知らずとある歌「箸鷹の野守の鏡得てしがな思ひ思はずよそながら見ん」は、この池を詠んだのであると。

世阿弥はこの野守を鬼に見立てた。古来日本人にとって鬼とは、死者の怨念が亡霊となった者をさしたが、世阿弥はそれを仏教的な荒ぶる鬼とした。ただその鬼は人間に危害を加える者としてではなく、池を守る精霊のような者として解釈し直されている。

 

「ウィークエンド夜能~yanoh~ 能 野守」自由席ペア1組

能面を博物館で見ていました。

ですから、今回、能面を結構必死に見ていました。不思議…。

本当に、角度によって表情が違うってわかったんです。また、色も違う…。ビックリでした。

老人の面。

そこから…着替えがあっている間の「では?」という情景音楽と説明された囃子。

つぎにでてきた鬼神はなんか凄く不思議な感じでした。

 

と、わからないなりにもちょっとだけ、能。

 

狂言でも山伏が出てきて、能にも山伏が出てきて、能楽の話を昔調べたことを思い出しました。

 

この世のものではないものの力などの力を信じている…そんな世界が、能。

この世のものではないものなどの力なんてない!という…そんな世界が、狂言。

覚え方正しいかはわかりませんが、そんな感じかなぁ?と。

 

「狂言」という言葉は、元々古代中国語で、日本では『万葉集』に見られる。
タワゴトと読まれていて、デタラメな言葉とか冗談という意味でつかわれていた。

キョウゲンと音読みされて普及するのは、白氏文集の中の「狂言綺語」の語が『和漢朗詠集』に引用されて以来と言われているそうです。

「狂言綺語」というのは、もっぱら仏教の立場から、物語などを偽りに飾ったものと否定的に言う場合に使われていた。しかし、次第に「狂言」という語も単独で、常軌を逸した言説や戯れの言葉を指すようになっていったそうです。
この「狂言」が滑稽な芸能を指すようになったのは南北朝時代のこと。

室町時代、「狂言」は能とともに演じられる舞台芸術として確立したが、江戸時代に入ると、それがあやしくなる。なぜなら、江戸幕府の式楽となった能楽四座(のち五座)体制の中に組み込まれなかった狂言師が、近世初期の歌舞伎の成立に参画。歌舞伎の出し物も「狂言」と呼ぶようになったから。
本来の狂言は、武士の専有物になったのに対し、歌舞伎は近年まで民衆演劇の王座を占めていた。「狂言」はむしろ歌舞伎の外題を指す呼称として一般化…。そのため、「歌舞伎の狂言」ではなく「能楽の狂言」という意味で、「能狂言」という名称も生じたとか。

1955年(昭和30年)ごろから狂言の評価の高まりにより、歌舞伎界でもなお狂言という言葉が使われているものの、ただ「狂言」というと能楽の狂言を指すようになった。

狂言という言葉の由来を知るきっかけとなり、「狂言綺語」なる言葉も知らなかったので、学ぶきっかけになりました。
確かに、同じ演目が歌舞伎でもあるな…となぜかわかってなかったけど、こうやって知ることで理解。
本を読んで出てきた情報だけど、インターネット上では見つけることができなかったなー。

現在は、能と狂言の総称を「能楽」と言っているけど、明治維新直後までは「猿楽」と呼ばれていた。
猿楽が能楽と改称されたのは、1881年(明治14年)に家族を中心に財閥や学者も加わって能楽社が設立されたとき、『能楽社設立之手続』に改称の理由として「猿楽の名称字面穏当ならざるをもって能楽と改称し…」とあるそうです。
明治新政府が外国からの使節に見せる日本を代表する舞台芸術として猿楽を指定した時、猿からモンキーを連想することが具合悪いと考えたのだろうと書いてあります。

能だけでも半人前、狂言だけでも半人前、両社でいわば一人格を形成している。

そんな表現を読みながら、不思議だな…全然違うようなのに…と思いました。

能も狂言も平安中期に成立した猿楽の流れを受けている。雑多な芸を包含したものでした。
室町時代初期、能が荘重な歌舞劇として姿を整えたとき、狂言は猿楽に見られた滑稽な寸劇からまだそれほど本質的な成長を遂げていなかったらしい。それが喜劇と呼ばれる舞台芸術にまで成長するにはそれから200年近い年月がかかっている。
その間、狂言ではほとんど舞台装置を飾らないガランドウの殺風景な能舞台で、能と交互に上演されて歴史を歩んできた。だから、純粋な写実的な対話劇として発展することはなく、能の劇形態の影響下で成長した?

元々は、今の漫才などのルーツと辿ると一緒なのでしょうけど、能の影響が色濃く変化してきたのでしょうね。

狂言は対話によって筋を進める曲が大多数。だけど、劇の発端は、登場人物が名のりをして、途中歩いて、相手の家に付くなど、能と同じようなパターン化されているとか。これは、今のコントとも似ているよね…と思います。
中には、次第の囃子で出て次第を謡い、名のりの後に道行を謡って目的地に到着する能をまねた曲もあるそうです。詳しくないから、何という曲かはわからない。

恋慕の狂乱などにカケリを、唐人の異国性の表現に楽を舞うのも能と類似する。

これは、ノートに写したけど、意味が全くわかりませんでしたね。多分、たくさん見ているとわかるんでしょうね。

全体の構成が能のパロディーである『通円』などの舞狂言のほか、能の一部をパロディーとして用いている曲となると数多いとか。その一つに、棒縛りもあると書いてあった。

どこがパロディーなのかも全くわかりませんが、能をそうやって笑いにしているものと能が一緒の道を歩んでいるって凄い。

能と同じ要素は、腰を入れたカマエ(重心を低くした姿勢)と擦り足のハコビ(歩き方)という演技の基本が一緒だそうです。

違うところは、
(道行)
能では、数歩前後するだけの動き
狂言では、本舞台内を名乗座から目付と脇座を通って再び名乗座へ三角形に動く
(泣く動作)
能 手のひらを目の前へ静かに上げるだけ
狂言は…? 写し間違えたかな?

演出・演技が、能は求心的・象徴的で重厚なのに対し、狂言は開放的・具象的で軽妙だとか。

能と狂言が別の演劇のように感じるのは、扱う世界や込められた感情・思想の違いによるところが大きいとか。

世阿弥は本説(出典・典拠)を重視したんだとか。
能は、『源氏物語』や『平家物語』他の古典文学や有名な伝説などを題材としたらしい。
多くは貴族的社会を描いているんだそうで…と1度しか見たことがない。

これに対して、狂言は当代社会の笑うべき断面を舞台化しているんだとか。
登場人物の中で、最高の階級である大名も、江戸時代の大名とは違い、たとえば「隠れもない大名です」と威張って名乗っても、「召し使うものはただ一人」という弱小の地侍にすぎないんだとか。鎌倉時代のことだからな…って思って見てみると、確かに平安時代の後、平家と源氏と…というところで、武家の社会になっていく。元々、自分で土地を耕し、自分の土地として認められて…といった武家が登場する過程を歴史で学ぶと納得!なんてこともあり。あまり歴史は得意じゃないけど、大名イメージも江戸時代のイメージではないというところを踏まえて理解していくと、少しわかる気がすることもある。
そんな大名の召使で下人階級である太郎冠者が最も活躍するところが、庶民的と本に書いてあった。下人階級は売買質入れされるような隷属民なんだとか。そっか…清水を見たときにはわからなかったけど、そうやって少し立場的なことなども知ってみると、かなりおもしろいだろうな…。昔の人達はそんなことも知っていたんだろうから、太郎冠者おもしろいことをしているな…だけではなかった楽しみ方があったんだろうな…。

能は悲劇的、狂言は喜劇的と言われるらしいけど、能は必ずしも悲劇ではないらしい。これもわからない。
途中まで悲劇であっても、ハッピーエンドになっている曲は多いんだとか、だけど、能は笑わないらしい。
それでも、約250曲ある能の現行曲のうち、笑いの表現は二曲『三笑』『景清』があるそうです。
それに対して、狂言は現行曲中、笑いの要素のない曲は、14,15曲なんだとか。

能と狂言において、現実認識や仏教感にも、甚だしい差異があるそうです。

能では、亡霊や怪異を登場させないと、なり立たなくなってしまうんだとか。
でも、狂言では例えば『武悪』では、幽霊になって主人の前に出よと言われた武悪が「身どもはついに幽霊になったことがない」と言って、太郎冠者から「いや、ここな奴が。誰あって幽霊になったものがあろう。きいたこともあろうによって、取り繕うておいでやれ」とたしなめられるんだとか。日本語は古典的だけど、要するに幽霊なんか見たことがないという人に、誰も幽霊になったことがある人もいないだろうし、幽霊の話は聞いたことはあるだろうから適当に幽霊になりきったらいいと言われているってことだよね…。ちっとも幽霊の存在は信じていない世界観。
狂言の『節分』や『博変十王』の鬼や閻魔大王も人間や亡者に手玉に取られて憂き目を見るんだとか。これは、絵本で見たことがある…なんて思うと、狂言そのものはあまり知らないけど、いろんな形で考えは日本では広まっているのかもって思いました。

能では、僧侶の祈祷は常に威力を発揮するのだとか。狂言では、『無布施経』『寝替』『宗論』など住持の物欲・色欲や権勢欲が風刺の対象として笑い飛ばされているんだとか。

そうやって見て行くと、なぜ、能と狂言が一緒にあっているのだろう…?と疑問。正反対に聞こえてびっくりしました。

そのことについて、室町時代という時代背景のことが書いてありました。
土一揆があったり物情騒然な中で、一方、東山には銀閣が造営される…なんて戦乱の中でも、雅もあり?
茶道や華道も成立している時代…と書かれるとほんとうに不思議。

カオス的な上下の観客に対応するために、能楽も能と狂言の役割分担を明確にしなければならなかったのだろう。

この一文は、なるほど…と理解。
そっか…、武士は命はって戦っている人達。幽霊とか信じていられる?そんなことを気にしていたら、人を斬るとかできないでしょうね。でも、その一方で、平安時代から?ずっと陰陽師や祈祷など目に見えない世界を信じてきた貴族たちもいる。いろんな価値観の中で、受け入れられていく必要ありとか言うのはわかるような気がする表現。
観阿弥・世阿弥の親子って凄い!なんて、能狂言そのものよりもそんな処世術に感動してみました。

源氏物語絵巻も、武家中心の社会になって、古典を知るとか、荒っぽくて野蛮なだけではないというところで、絵師に武士が描かせたものが海外に流出している…そんな話をテレビ番組で見たことを思い出しました。

狂言の歴史?
多分、本を変えて記録して行っているから、ノート途中から再度歴史とか書いてある…。
話すための記録だったからまとめてない…それをまとめずに書いて…と、自分のための記録としては大丈夫かな…。

奈良時代、中国から散楽といわれる芸能が渡ってきた。
この「散」という文字には「卑」という意味があるそうです。これは、宮廷で行われていた雅正な芸能であった雅楽に対し、曲芸・奇術・歌舞などを主体とする種種の卑俗な大衆芸能の総称だったんだとか。
後進国だった日本。この散楽も、国立養成組織といえる楽戸(がくこ)で教習。782年に楽戸は廃止されたそうです。

平安時代に入ると、散楽は滑稽さを強めると同時に、「散」の音から「猿」と呼ばれるようになった。
平安中期、『源氏物語』が完成してほどなく、宮廷学者だった藤原明衡によって書かれた『新猿楽記』には当時の猿楽の演目が記されている。

世阿弥は、狂言役者を「ヲカシ」と称しているとか。

室町時代
1349年2月10日春日若宮臨時祭の記録は、前代以降成長を続けてきた歌舞主体の劇のことを、「能」とよんで記された最古のもの。

田楽…もともと豊作を祈る農村の行事から発展した芸能。散楽系の曲芸を吸収していたが、この頃には能も演じていたと書いてある。これはよくわからないけど他の記述の本も読ませていただいた。何が正しいとかイマイチわからない。

1352年3月16日の『周防国仁平寺本堂供養日記』に芸能として「狂言」という語が初めて検出される。

観阿弥・世阿弥の父子は、足利三代将軍義満に認められ、その絶大な支援を得て、猿楽を帰属にも愛好される芸能に引き上げることに成功する。

観阿弥作の能は約10曲、世阿弥作の能に至っては、約50曲が、今日のレパートリーとして残っているとか。

狂言は、舞的な動きも含んでいたとしても、滑稽なしぐさや秀句(洒落)などの言葉遊びを主体とする笑劇のつねとしてアドリブで演じられており、能とともに芸術的に昇華されることは無かったと考えられる。
その上、死と背中合わせの日常だった武士が政権を掌握し、仏教思想が瀰漫していた社会では、軽妙な笑うべきものより深刻で荘重なものの方が高く評価されていただろうと書いてある。

世阿弥の『習道書』に出てくる「笑みのうちに楽しみを含む」
和楽の精神を一番よくあらわしているかもしれないと、狂言師の方が書いている本にありました。

ほのぼのとした楽しさみたいなものが雰囲気的に伝わっていくことが脇狂言の命だと思います。

だそうです。

太郎冠者の性格を大別していくと
愚直と才覚
なんだそうです。

狂言に付いて、調べてみて思ったことは、歴史について日本史を勉強して知ったことを違う角度から見ることができた。あと、お茶との関係やいろんな、今、別物と思って知っていたことたちがつながっていくことが凄い。

どれだけ、能や狂言が広く知られているのかということを学ばされました。

ルーズリーフに書いていったノート。もう一枚が行方不明…。

脇狂言という言葉がふつうにつかわれている文章を読みながら、脇狂言が何か?イマイチわからないまま読んでやっぱりわからないで…専門書はよく知らない人間には厳しい。

昔、「翁」「高砂」「末広かり」が番組のパターンになっていたと書いてある文章も意味がよくわからない。これは、能楽詳しい人にとっては当たり前なんだろうな…。そう思いながらも、この3つは人形などいろんなところで聞いたことがある名称で、こんなつながりがあるんだ…と感動しました。

 

 

狂言の山伏はとっても人間的でした。へんな言い方ですが、柿泥棒してごまかそうとして…呪術を使った…つもりだけど、ちっともかかっていない。完全に念仏を唱えることに意味を見出していない感じでした。

 

能では、山伏は不思議な力を持ってました。

 

衣装の違いやいろいろあるのかなぁ…?なんて疑問を持ちながらもわかりませんでした。

足袋の色が違うくらいはわかるけど…って感じ。

 

 

博多織

【博多織の誕生】

博多織の始まりについては諸説あるそうです。

だけど、博多織の組合では、満田彌三右衛門を始祖としている。この人は、博多の承認で、33歳のとき(1235年)、僧侶 圓爾辯圓(聖一国師)の随行者として博多綱主 謝国明の船で南宋に渡り、5つの製法を習得して6年後、辯圓とともに博多に帰ったそうです。

この5つの製法とは、織物・朱・箔・素麺・麝香丸だそうです。

そして、これらの技術の中で織物と朱を家業と定め、子孫に伝えたんだそうです。

広東織の高度な技術を修得していたから、家業としたんだとか。広東織というのは南方物資の集散地として広東に集まっていた織物全般のことかもしれないそうです。宋から直輸入の意匠や織り方も日本化していき、改良されていく中で、独創的な意匠を考えたいと辯圓に相談したところ、真言宗の仏具(独鈷)と華皿をデザインしてみることをヒントに組み合わせて図案化したのが、今に伝わる独鈷華皿の柄といわれているそうです。

 

天文年間(1532~1554年)、満田彦三郎がさらに入宋して広東の織物を研究して帰り、博多の竹若伊右衛門に秘技を与えてともに工夫し、地質は厚く、浮線紋も柳條もあるモダンでシックな文様を織り出し、覇家台織(博多織)と名づけたといわれているそうです。そして、さらに伊右衛門は改良して「織り耳」をつけ、天正年間(1573~1591年)に帯地として売り出したそうです。

ちなみに、 「覇家台」とは中国における博多の呼称の1つだそうです。

浮線紋って?浮線綾は、織り糸を浮かせて模様を織った綾織物のことだそうで、このことかしら…?

柳條は縞のことみたい…って調べるのが大変。

織耳とは、織物の左右の端のことで書いているのかなぁ…?

 

【献上博多と黒田藩】

関が原の戦い後、1600年に筑前に封ぜられた黒田長政は、博多の西に城を築き、那珂川を外郭の東の境とし、自らの出身地 備前福岡にちなんで、この地を福岡と名づけたそうです。その後、那珂川を境として西の福岡は武士の城下町、東の博多は町人の町になったんだとか。

黒田藩は毎年、独鈷華皿が一幅に二本以上入っている紫・紺・赤・黄・青の5色の男帯を幕府に献上したので、これを献上博多というようになった。毎年3月に帯地十筋と生絹三疋を献上していたそうです。この5色は、もとは隋の思想で、森羅万象のあらゆる現象の基となるものは「木・火・土・金・水」の五つとした五行説を、色と結び付けたものだそうです。

藩は献上博多帯の希少価値を維持するために、保護の名目で生産と販売の両面にわたって厳しい統制を行い、織屋株を持った12戸だけにしか博多帯を織らせなかった。江戸時代の初めは高級絹織物の原料である生糸はすべて中国からの輸入品。幕府は糸割符制度といって、一括購入して割り当てる政策を取っていたが、博多への割当を制限し、境や京に優先的に割り当てたことも博多織を停滞させた。そのため江戸後期まで江戸や京・大坂でも博多帯は貴重品扱いであった。そのことが西陣・桐生・米沢などの企業地から模造博多織を出回らせたんだそうです。

刈安染の青は「仁」を、茜染の赤は「礼」を、藍染の紺は「智」を、鬱金染ないし楊梅皮染の黄は「信」を、そして紫根染の紫は「徳」を表している。とウィキペディアにありました。

1655年には糸割符制度は廃止。国内での養蚕が奨励されるようになったそうです。各地で養蚕が盛んになり、享保から文化までの百年足らずの間に生糸の生産量は4倍。西陣では600戸の機屋が2000戸になったそうです。

博多では、織屋株を持つ織元の中にその権利を売り渡す人が出てきたり、隠織といって藩に内緒で博多織を織る人も出てきたそうです。

黒田藩の博多帯の統制は少しずつ緩んでいったが、黒田藩の施政方針が、企業地としての立ち遅れにつながったことは否めないと書いてありました。

また、模造博多織の普及は、博多織の価格を下落させたそうです。

 

【明治以降】12戸 → 49戸 → 107戸 → 240戸

江戸時代が終って…幕府がなくなって…。

制限が解かれたら、織元から独立して開業する人も増え、明治10年には織元が49戸になったそうです。

明治18年には博多にもフランスの新しい紋織装置やドビー機が入ってきたそうです。

博多織の織元も増え、明治20年には107戸、30年には240戸にも…。

博多では平地献上だけでなく、紋博多や紗の帯なども織られるようになっていった…。

江戸時代に博多織は主に男帯だったそうですが、明治の中ごろから女帯が増えて、女物が主力になって行ったそうです。

第二次世界大戦が始まると徐々に統制も強くなり、昭和17年には企業整理により博多織企業者は31名に。第二次大戦中、博多の布地は、特攻隊の軍服や落下傘ベルトなどにも使われた。

第二次大戦後の復興と経済成長とともに博多織の生産も徐々に増え、昭和47年に最盛期。しかし、昭和48年、昭和54年の石油ショックで業界全体に大打撃を受けた。

昭和51年には博多織は、通産大臣から伝統的工芸品の指定を受けた。

当初の指定は、博多帯のみだったが、博多での着物地の歴史も古いことが証明され、平成23年にはきもの地も指定された。

『日本のきもの+』第49号 等参考

伝統七品目|博多織工業組合

 

【博多織の特長】

博多織の帯をしめていると、キュッキュッと絹鳴りがする…って、ホント、ちょっと動くだけで音がしますよねぇ…。と読みながら思っちゃいました。

この地合は、経糸を細く密に、緯糸を太くし、経糸で緯糸の張りを強くし緯糸を力いっぱい打ち込む織法から生まれたもの。

○絵緯博多

紋の織り出し方。通常の紋織物の場合は、「絵緯」といって地を組織する緯糸とは別に文様表現だけに関わるいろいろな色の緯糸で織り出される。博多織は、紋経糸と呼ばれる地経とは別の経糸によって文様は浮織りにされる。これを「浮けたて」と言っている。

 

博多織の献上帯は、三原組織の平織が変化した「たてうね織」という組織で織られている。

 

実際に体験させていただきました。

足の筋肉を使ったなぁ…って終って足がブルブルしている…そんな感じになりました。体験できてよかったです。感謝。

 

2013.11.13追記

 

 

拈華微笑

ねんげみしょう 拈華微笑

この言葉も、ノートには書いているけど、ネット上に書いていない。だから、探すのにノートをひっくり返さないといけない…面倒。

意味は、言葉を使わずにお互いが理解しあうこと。心から心へ伝わる微妙な境地・感覚のたとえ。

【故事】

釈迦が霊鷲山(りょうじゅうざん)で弟子たちに仏法を説いたとき、黙って大梵天王から受けた金波羅華(こんぱらげ)をひねって見せると、摩訶迦葉(まかかしょう)だけがその意味を悟って微笑んだので、釈迦は彼だけに仏法の心理を授けたという故事による。

 

類義語いっぱい。

以心伝心

経華別伝

教外別伝

維摩一黙

笑拈梅花

拈華瞬目

感応道交

神会黙契

不立文字

黙契秘旨

 

さて、これをなぜメモっていたのか…というと、恐らくその後にメモしていることと関連しているのだろうって思います。

禅宗は、菩提達磨を始祖として、「教外別伝・不立文字」を掲げ、釈尊の説いた経論には寄らず、座禅によって悟りを得ようとする宗派という説明がありました。それを理解するにいたる過程で出てきた言葉。

禅宗は『大梵天王問仏決疑経』という経典をよりどころにしている。

その経典によると、

釈尊が涅槃のとき、聴衆の一人が一重だの睡蓮を釈尊にささげた。釈尊は黙って受け取り、ひねって大衆に示した。その場の大衆は釈尊の意図するところがわからなかったが、摩訶迦葉一人がそれを理解して破顔微笑した。そこで、釈尊は「正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門有り。不立文字、教外別伝にして、摩訶迦葉に附属す」と言って、仏の悟った深遠微妙(じんのんみみょう)の法門は経論・言辞によらず、ただちに以心伝心をもって法を摩訶迦葉に附属した

ということだそうです。この内容が正しいのか?とメモしているのを見ると、ホントかどうか、わかりません…。

 

不立文字、教外別伝」の主張は大梵天王問仏決疑経に見える言葉である。この経典には次のような話が述べてある。ある時大梵天王(ブラフマー神)が世尊(ブッダ)に説法を願い出て金婆羅華(こんぱらげ)という美しい花を世尊に奉った。

説法の座でブッダはその花を大衆に見せた。この時大衆はブッダが考えていることが分からずポカンと見ているのみであった。ただ一人摩訶迦葉(ブッダの高弟)が思わずニッコリ笑った。

これを見たブッダは「吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相微妙の法門あり。不立文字、教外別伝なり。摩訶迦葉に付嘱す。」 と言ったという。この経典に不立文字、教外別伝と言う言葉が出てくる。 いわば禅宗のルーツとも言える経典である。

しかし、このような事実は他の経典には一言も触れられたことはない。この「大梵天王問仏決疑経」は今では中国で作られた偽作経典とされている。不立文字、教外別伝を主張する中国人仏教徒(禅宗関係)が、西天28祖の伝法神話と同じく、自分達の主張をブッダ伝来の正統なものであると権威付けようとしてこの経典を偽作した可能性も考えられるだろう。

禅の公案を集めた「無門関」の第6則「世尊拈花」はこの話を元に作られたものである。著者である無門慧開禅師は大梵天王問仏決疑経が偽経であることは知らなかったらしい。またこの経典には正法眼蔵という言葉も出てくる。

大著「正法眼蔵」を表わした道元禅師も「正法眼蔵」という言葉の基となる経典が偽経であることは知らなかったようである。 日蓮は「蓮盛抄」という著作の中で大梵天王問仏決疑経について述べている。

この経典はいつの時代にインドから伝来し、誰によって翻訳されたかについて古い記録を調べても何も記録がない。従って偽経であると結論付けている。日蓮のこの指摘はなかなか鋭いと言える。

達磨は迫害され殺されかけたと伝えられる。恐らく普通の真面目な中国人仏教徒にとってどんな経典にも書いてない「不立文字、教外別伝」を主張する達磨の教えは経典に基づく仏教を否定する邪教だと考えられたのではないだろうか?

「不立文字、教外別伝」の言葉は圭峰宗密の「禅源諸詮集都序」に教禅一致の思想を歴史的に説明し、達磨の思想として出ている。

「祖庭事苑」という(1108年発刊の禅籍)本には「教外別伝不立文字、直指人心見性成仏」の言葉が出ているとのことである。

「碧巌録」の第一則「武帝問達磨」の評唱には「不立文字、直指人心見性成仏」の言葉が出ているのでこの言葉は有名であったことは確かであろう。

 この文章は、禅の思想というサイトから。

 

さて、この文章から見ても、確かに経典は無さそう…。

 

ただ、迫害されているものに対して、真実はどこにあるか?本当のところを図り知ることは難しいと思います。中国では、迫害するものを徹底的に痕跡を残させない。日本もそうでしょ?

そう思ったときに、本当か嘘か…という話よりも、そこから何を産み出したか?生み出されたものに価値があるかどうか?それでいいんじゃない?ってね。

 

正直、今だって中国は自分の国の考えに合わないものを徹底的になくそうとしていますよね。

 

日本も…そうやってきた過去あり。

 

座禅という一つの手法というのか、この方法はインドでは昔から座り方とかは別であっても、あったもの。

いろんな人が間に入ることにより神とのつながりにバイアスが入る可能性を排除する意味では有効だろうと思います。そして、どのような宗教名で伝えられているとしても、神は自分自身の中にある。つながるための理解を深めたり、そのような存在を肯定するための学びのために宗教はあったとしても、最後は自分の中にある。

 

禅宗というものをよく知らないし、正直、他の宗派も知りません。

ただ、葬式やら、説法やら…いろんな形で私が接している回数が多いのは禅宗。でも、ホント知らないことがいっぱい…。知ろうとすることが最初の一歩かも…くらいです。

 

私の名前自体、お坊さんがつけたということで、とにかく、自分の名前自体を知る意味でも、ちょっと調べて…と思うのです。

もう、詳しくいきさつ等を知っていそうな方々は他界。母もイマイチわかってないし…。

 

ただ、仏教をよく知るお坊さんがつけることはあまりしない字だよと、ある人から言われた漢字が使われている私の名前。その意味もわからないけど、いろいろと知ろうとすることによって知ることは増えていく…意味ではわからないからこそ面白いのかもしれません。

 

いろんな人の役割があると思いますから、私の役割も…と、自覚できているかいないか?以前よりはわかってきたかなぁ…と思うところもあります。

 

華をひねって微笑みあう。

そんなことがあるのか?といわれたら、私はあると思うのです。だから、そんなこともあるかもねぇ~と思います。ただ、伝わるということは、そこまで考えていることたち…ありとあらゆる知識経験等を同じ程度有しているということ。

iPS細胞を公的に発表するまで、黙っておくのに必死でした…という話を耳にしたとき、きっと同じようなことを必死に探求している人たちだったらわかるということがあるということ。私が聞いても、「あ!」って思って出し抜こうなんてできなかったと思うのです。

拈華微笑も、そんな感じかなぁ…って。ある程度まで達した学びを共有しているからこそ気づく。

 

座禅も悟りを得るまでに、無心に…という状態が共有できているのなら宗教宗派の形にとらわれないで通じていくものがありとあらゆる人たち共通していくのかなぁ…?と思います。

表面での違いで争う…それはお互いに学びが足りないということに過ぎないかなぁ…宗教での争いってそんなものではないのかなぁ…私自身悟っているわけではないし、様々な宗教宗派を知っているわけではありません。ただ、知らないで判断することだけは愚か…。知る努力をせずに自分のそれまでのバイアスで、相手の世界観を判断する愚かさは先人たちの反面教師。そうではない人たちから学び、自分自身を精進させたいと思います。年をとっているから自分立ちの方が優れている…と思っている年配者たちに出会う体験を多々持ちますが、偉人たちの文章をたくさん読んでいる読書量の多い若い人のほうが学びが深いのかもしれないと、しみじみ思います。それを強く思うのは、無知無学とは言いませんが、読書量が半端に少ないまた偏っている先生方と接し思うこと。私も知らないことが多い…けど、学んでいない年をとって指示している言葉たちを横で聞きながら、こうしたらいいのに…と何で知らないのだろう?とずっと思っていましたが、理解したのは学習量が絶対的に少ないということ。それは…と口出しすると人権侵害しかしない…そんな人達と働いて思うのは、勉強していない人が教育するほど社会をダメにすることはないということ。

なんで、こんなに言われていることを知らないで指示できるか?金曜日にも思ったのですが、反目。時間の無駄です。指摘しても、そしてこうしたら…?も無視するしかしない人たち。そんな人たちがいっぱい。勉強してから給料もらえば…?若いうちに読書量が圧倒的に足りないのに教えることをしていて、受験指導なんて大学生でも高校生にできる行為。それで満足して学び足りない…それが日本の経済失墜につながっているのでしょうね。でもしか先生たちの教えに追随した日本教育ってかんじ。

能楽

「能楽」パフォーマンスに偶然遭遇しました。

なんと…ビックリ。

能のかたち NIPPON 美の玉手箱」という特別企画展を見に行ったのです。

そうしたら、入ろうとした器楽の音色…って何かあってる…。

そちらを拝見させていただき、展示を見に行きました。

 

the 能.com

詳しく知りたいなら、このサイトを見るが一番でしょう…きっと。

 

能楽体験…って数少ないのですが、拝見する機会を持つようになった近年。少しずつでも、理解を深めることができたら…って思って、展示を見に行こうと思ったのでした。だけど、思いがけず能自体も拝見できて…感謝です。

展示されているものは、能面・装束。出典資料262点だそうです。うち、能面172点とのこと。規模としては過去に例のない規模で紹介されているそうです。

確かに…こんなにいろんな種類の能面があるんだ…とある意味驚きました。

説明いただいたのですが、能楽に使用されている面は200種くらいなんだそうです。

 

襟の色が赤→赤+白→白+白

そんな襟で身分立場の上下を表すそうです。

また、そんな違いを器楽をされている方々は声の高さを変えて表すのだそうです。

すごいなぁ…とそんなお話までうかがえて本当に感謝です。

 

こんな風に説明をいただけて、本当にうれしい…とアイフォンで撮影。ん…ダメだったかしら?でも、こうやって動画が一番わかりやすい…。

衣装装束についての説明も…。

 

ホント感謝!は、なんとこの衣装を着せていただいたのです。

こんなチャンス絶対ない!と、手を挙げたのでした。

本当に感謝です。

 

下着などの説明、そしてこの素敵な衣装を着せていただいたのです。本当にすごい…。

普通に着る着物よりも厚手でしっかりしていました。そして、着方が普通の着物と違うんだ…と着せていただいているのを見るとダメ…とのこと。

頭が下を向いてはいけないのだそうです。

身につけさせていただいて、着物は着なれている方かも…って思いましたが、重い。ビックリしました。手を上げることだけでも本当に大変でした。

そしてさらに、面をつけさせていただいたのです。

面をつけるとほとんど見えなくなって、柱を頼りに歩くということを以前伺っていました。実際につけさせていただいて、視力も悪いのですが、本当に足元も見えない…。前後の距離感覚がない…。これで舞うって凄いなぁ…と思いました。

すり足で歩く…それによって足の裏で板の境目などを感じ、どれほど歩いているかなど判断していくということが本当によく分かりました。また、柱がないと本当に立ち位置わかるの無理…。

あと、普段の立ち方をしていると、面の顔は上むきになるんだそうで、これは自分が身につけているとわかりませんでしたが姿勢を指示されながら歩いたときこの姿勢辛い…そう思いました。

思いだしたのですが、腰の高さなども変えずに歩いて行くことが求められるのですよね…確か。よくこれでいろんなことができるものだ…と感心させられたのです。

 

貴重な体験をさせていただき感謝です。

 

展示の方は、いろいろと説明していただいた上で拝見させていただいたので、とってもわかりやすかったです。

遅く行ったので閉館近くまでいましたが、貴重な体験と学びをありがとうございました。

 

展示されていた能面たちには、入ってすぐ思ったのは、こんなに種類があるんだ…と今まで見たことがあるもの自体数少ないこと、そして、重苦しい感じより生きているような感じのする面達に驚きでした。

 

豊臣秀吉と能との関係も紹介されていましたが、黒田家と能のお話も…。以前伺ったことがあったのですが、改めて展示を見ながら思ったことは能楽が現在に至るまで本当にいろいろとあったのでしょうけど、すごいことだなぁ…と思わされました。

 

以前いろいろと調べたりしたことも含めて、今回の展示を拝見することでさらに詳しくなることができて嬉しく思います。

今度はちゃんと楽しんで能を拝見できるような気がするぞ~と能楽堂へ足を運ぶことを決めました。

 

以前調べたことも含めて、まとめておきたいなぁ…って思わされました。