キリスト教徒だった?千利休

2014年2月3日朝日新聞朝刊だと思います。お墓参りに行くために購入したお花を包んでくれた新聞。いつも家ではとっていない新聞なので、思わず持ち帰り読みました。

記録しておかないとビリビリと裂けた新聞紙なので、記録。

 

キリスト教徒だった?千利休

「侘び茶」の大成者と言われる伝説の茶聖・千利休。彼が創始した茶の湯の作法に、キリスト教の影響が色濃く投影されているとの説があるのをご存じだろうか。その可能性は?

千利休は1522年、現在の大阪府堺で魚問屋や倉庫業などを営む田中与兵衛の子として生まれた。

幼名は与四郎。武野紹鴎に茶の湯を学び、のちに戦国武将・織田信長や豊臣秀吉の茶頭として、数々の茶会を主宰。1585年には秀吉が開いた禁裏茶会で正親町天皇に献茶し、「利休」の号を勅賜された。

しかし、大徳寺山門に掲げた自らの木像が不敬とされて秀吉から追放処分を受け、70歳で切腹する。

竹製の茶杓や黒楽茶碗を好み、2畳という限られた空間の茶室をつくるなど、日本文化の粋ともいえる「侘び茶」の大成者としてその名が残っている。

だが、その利休の茶が、実は当時の最先端文化だったキリスト教の影響を受けていたとする説がある。

利休の孫・宗旦の次男だった一翁宗守を祖とする武者小路千家の14代家元である千宗守さんは約20年前から、「一つの茶碗の同じ飲み口から同じ茶を飲む『濃茶』の作法は、カトリックの聖体拝領の儀式からヒントを得たのではないか」と主張してきた。

宗守さんによると、飲み回しの作法が文献に初めて登場するのは1586年〈天正14)年。翌年には大阪城で開かれた茶会で、秀吉が「一服ヲ三人ツツニテノメヤ」と言うほどまで普及した。「それ以前には行われた記録がない。どこかからヒントを得て、利休が創案したと考えるのが自然」

当時、日本でも有数の貿易都市だった堺では、キリスト教が盛んで、のちに七哲と言われた利休の高弟の中にも、高山右近や蒲生氏郷など、多くの信者がいた。

「ミサの際、イエスの血の象徴であるワインを杯に入れて回し飲みする様子を見た利休が、場の一体感を高める目的から、日本人にはなじみが薄かった飲み回しを茶の湯に取り込んだのではないか。茶入れを拭く際の袱紗捌きや茶巾の扱い方なども、聖杯を拭くしぐさと酷似している。偶然とは考えにくい」

宗守さんは1994年、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世にバチカンで謁見した際、この説を披露した。するとバチカンの関係者から「法王庁の未公開史料の中に、茶の湯とキリスト教のミサの関連を記した文書がある。いずれ公になると思うので、待ってほしい」と言われたという。

とはいえ、今のところ、国内には茶の湯とキリスト教の関係を証明する史料は存在しない。

文教大学教授の中村修也さん(日本茶道史}は「日本を訪れたイエズス会の宣教師ルイス・フロスは、千利休はキリスト教徒ではない旨、はっきりと記している。回し飲みも、心を一つにする際に行われる一味同心の時の盃の回し飲みと共通しているし、その他の作法の類似も、一般的な動作における普遍的な一致と言えるのではないか」と話す。

中村さんによれば、利休のもっとも大きな功績は、一般の人にも親しめる形で茶の湯をプロデュースしたことにあるという。

「新たに登場したいわゆる国焼の楽茶碗や竹製の茶杓は、貴族たちが使っていた中国の茶碗や象牙などの茶杓に比べれば、安価で入手しやすい。それがあって初めて茶の湯に親しむ人が増えた。もし、利休がいなければ、他の湯の現在のような隆盛はなかったと思います」

利休は「恬淡とした茶人」ではなく、茶杓の工房を運営し、良質な茶の葉を手に入れて販売するなど、茶の湯にかかわる産業を総合的に運営した「承認」でもあったと中村さんは指摘する。晩年「売僧」(商売をする僧)と悪口を言われたのは、それゆえだったのではないか。

 利休の周りにはキリスト教徒が多い

いわゆる「利休七哲」(7人の高弟)、蒲生氏郷、細川忠興(三斎)、古田織部、芝山監物、瀬田掃部、高山右近、牧村兵部のうち、蒲生、高山、牧村はキリスト教徒。細川と古田もそうだったとの説がある

 

捨てようと思ったのです。お墓にお花を生けて、お花を包んでくれていた紙をふと見ると「千利休」という文字と「キリスト教徒」という文字が見えるというビックリ。

「濃茶」ミサ儀式に酷似など、ビックリの表記に捨てるごみを包むのに使いかけていたけど、切り取って持ち帰った。

 

茶の湯にキリスト教の影響がなかったか全くなかったとは言えないかもしれないと時代を思うと考えるのもアリだと思うのです。

ただ、袱紗捌き、濃茶の作法、茶室の躙り口について図でも書かれている記事を読みながら、本当のところはどうなんだろうなぁ~って思いました。

武者小路千家と言えば、三千家の一つなので、そんな家元さんが言うことを全く否定するほど私は詳しくない。だから、そんな意見に実際どうだったのだろう?とは関心あり。

ただ、読んでいた場所がお墓で、読みながら、大徳寺にはキリスト教徒だった方のお墓がいっぱいあるのかもなぁ…なんて思いました。利休七哲のうちそんなにキリスト教徒がいたんだ…と驚きながら、黒田官兵衛もキリスト教徒と思えば、ある意味時代の流れがそんな感じであったのかなぁ…?とも思わされます。

 

『利休にたずねよ』という映画の中で、そんなこともあったのかなぁ…と、正直事実がどこにあるのかなんて知らない話がいっぱいありました。この新聞を見ても…知らないことがいっぱいだなぁ…と思わされます。

 

織田信長の家来として、寺を焼く…などしていた人たちと思えば、仏教以外を信仰していたのかもしれないと考えるのも一つかもなぁ…とも思いますね。

竹製の茶杓など、確かに多くの人がお茶を楽しみやすい状況を作っていったかも…って思ってみると、違う側面が見えてくるかもしれませんね。

 

本当のところは今となっては正しく理解するのは難しいこと。そう思えば、また違ったところから本当のところは?って情報が入るかもしれないと思える意味で、新聞の日付と新聞記事の記録を残して…本当のところどうって思いながら記録まで。

毬杖 ぶりぶり香合

毬杖(ぎっちょう)について以前知りえたときに書いていました。でもって、一度ブログデータを全て消してからもういっか…って思っていました。

だけど、「ぶりぶり香合」のためというよりは「ぎっちょう」という言葉自体を知りたくて…と、何度も調べまくるのはやっぱり面倒。もう一度書いた文章データを引っ張ってくるよりは、いろいろ違うものを見つけることが今度はまたできるかもしれない~って調べます。

 

なぜ「ぎっちょう」が気になるかというと、私自身左利き。左利きのことを「ぎっちょ」と言われたりしてきました。でも、なんか差別用語らしいということで使ったらいけないらしい…くらいの認識でした。ただ、「毬杖」のことについてお話を伺い、これについて調べたとき、お茶道具として「ぶりぶり香合」の由来を知りたいと知る程度には出てこなかった。

 

ただ、こないだ母から「なんで左利きをぎっちょと言わないようになったのだろう?」と素朴に聞かれた。ん…母も軽く左利きというのか、成長する中できっと右利きの人は耳にする機会は少ない言葉かもしれないけど、左利きの場合結構耳にする言葉だよねぇ…。今度は言葉のほうで気になりました。

データ消した…ついでにもう一度以前のものをアップしなおすのもひとつだけど、素朴な疑問もついでに…新たに調べてみようかな…と思わされました。

 

まず、「ぎっちょ」って使ったらいけない言葉なのかなぁ…?

結構同様の質問をしているのを発見。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/2575112.html

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1200185.html

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1122976736

など。

それから…

左毬杖と左義長にも書いてありました。

 

毬杖(ぎっちょう)は、木製の槌(つち)をつけた木製の杖を振るい、木製の毬を相手陣に打ち込む遊び、またはその杖。振々毬杖(ぶりぶりぎっちょう)、玉ぶりぶりとも。杖には色糸をまとう。

平安時代に童子の遊びとして始まり、後に庶民の間に広まった。その後は形骸化し、江戸時代頃まで正月儀式として残った。現在では、地域における文化体験の一環として時たま楽しまれる。左利きの人が毬杖を左手に持ったことから、ひだりぎっちょうの語源とする説もある。『本朝俚諺』には、「俗間に、左の手の利きたる人をぎっちょといへるは、左義長といふ意、左専(もっぱ)らききたるに準(なら)ふ」とある。

これは、ウィキペディアにある説明でした。

 出土した毬杖の先端部と毬」ということで、写真が紹介されているサイトもありました。

 

左義長・三毬杖(さぎちょう)

(もと、毬打(ぎっちょう)を三つ立てたからという)小正月の火祭りの行 事。宮中では正月15日と18日に吉書を焼く儀式。

清涼殿の東庭で、青竹を束ね立て、毬打3個を結び、これに扇子・短冊・吉 書などを添え、謡いはやしつつ焼いた。民間では正月14日または15日(九州では6~7日)長い竹数本を円錐形などに組み立て、正月の門松・七五三飾(しめかざり)・書ぞめなどを持ち寄って焼く。

その火で焼いた餅を食えば、年中の病を除くという。子供組などにより今も行われる。どんど焼。さいとやき。ほっけんぎょう。ほちょじ。おにび。三毬打。新年の季語。徒然草「三毬杖は、正月に打ちたる毬杖を真言院より神泉苑へ出して焼きあぐるなり」

 

 

さて、この毬杖は打毬に使われるラケットのようなものをいうそうです。この打毬は、中央アジアの一角で発生したそうです。西に流れたものがヨーロッパに伝えられて「ポロ」となったんだそうです。そして、東にながれたものが中国で打毬となり,やがて朝鮮半島を経て8~9世紀頃に日本へ伝わってきたみたいですね。

 

奈良・平安時代には、端午の節会の際に行われる宮中の年中行事だったそうです。

この打毬について、宮内庁のHPにも書いてありました。

 

朝鮮半島では、撃毬(きょっく)と呼ばれ、武官の登用試験の必修科目だったそうです。朝鮮王朝時代に入って、ますます盛んになり、第4代王世宗が「撃毬がうまい人は、乗馬と弓術も上手で、槍と剣術も上手になる」とその重要性を強調していたんだそうです。

日本に残る舞楽の中に、この撃毬の様子を舞いにした「打毬楽」があるそうです。

中国の伝説の皇帝と呼ばれる黄帝の作とされているそうで、日本へは仁明天皇の頃に伝えられたといわれているんだって。

img-4

その昔、この舞を舞うときに毬杖を右手に持つところを左手に持って舞った貴族がいらしたそうです。その様子を周囲の人達が見て、

「左手で毬杖を持っている=左毬杖」

と呼んだことから、左利きを「ぎっちょ」と呼ぶようになったという説もあるのだそうです。

 

 

 

 

日本のポロ・打毬,ぶりぶり,打毬楽 ~イスラム文化と古代日本ということで、詳しく書かれているブログ?を見つけました。

 

さて、お茶の席で見る「ぶりぶり香合」のことはすっかり無視して調べていましたが、いろんな国のつながりもさらに知る機会になりました。

また、動画も見つけることができました。感謝。

 

 

 

 

 

 

 

 

黒文字 爪楊枝

黒文字について知りたいなぁ…と調べてわかったこと。

黒文字は、爪楊枝の一つに扱うんだ…。

そして、爪楊枝のイメージが少し変わったのでした。

 

黒文字というのは、木の名前に由来する…って、写真を持っているはず…と探し出せたらこの文章と一緒にくっつけておきたいなぁ…と思うのです。クスノキ科の落葉低木。

若枝は毛があるのだそうですが次第になくなり、緑色のすべすべした肌になって、黒い斑点が出てくることが多いんだそうです。そして、古くなると次第にざらついた灰色の樹皮に覆われるんだとか。年間を通して見たことは私はなく、たまたま、これが黒文字よ…って、教えてもらって見たくらいしか知りません。

黒文字の名は、若枝の表面に出る斑紋を文字に見立てて着いたと言われているそうです。古くから、この木を削って楊枝を作っていて、特に根元に皮を残すことが上品とされていたんだとか。和菓子で使われている黒文字って、市販されていますが切りたてが最上とのこと。先日、宗匠さんが講習会で黒文字をどのように削るかと少し話題それてお話されていることを聞きました。

切りたてが最上…と言ってもできないけど、使う前に水に浸して、色と香りを引き立てることも大切。水でぬらすことは、お菓子などが黒文字にひっつかないようにするためでもありますが、濡らすことで香りも色もよくなる…。

さて、黒文字の歴史は…?なんて思って調べていたのですが、まだよく分かりません。古田織部が用いたのが始まりと書いているサイトもありました。ちゃんともっと調べてみないといけないなぁ…と思いながらここに記録代わりに書きます。

 

黒文字もいろんな長さがあり、どう使うのかなぁ…というのはバランスの問題みたいですね。

4寸がお菓子切れもいいと書いてある物を見かけました。多分これは茶菓子を食べるときに添えるのによくつかわれているものの長さかなぁ…?

ただ、銘々皿や縁高に添えるときは、5寸、6寸がいいみたい?要するにお皿やお菓子とのバランスなのでしょう。

また、食籠・盛込鉢の菓子器に添える黒文字としては8寸…なんて書いてあった。

目安に記録しておけばいいかな…?

 

【爪楊枝の歴史】多分、私がみたのはこのサイトではないと思います。だけど、写真がついているのでリンク。

私が知り得たお話を記録まで…あっているのか?わかりません。取りあえずのメモ。

爪楊枝の誕生は、およそ10万年前だとか。ネアンデルタール人が、楊枝を初めて使ったそうです。ネアンデルタール人の歯の化石に、縦の筋が見られて、堅い楊枝で歯をこすった跡だろうと推測されているんだそうです。

ちなみに、チンパンジーの中にも、木の枝で歯を磨くものがいるとか。並べて記載すると変かなぁ…?

 

爪楊枝って実は伝来モノで…という確かに何でも起源はあるでしょうけど、ネアンデルタール人まで遡られると絶句です。

ただ、日本にどうやって伝わってきたか?それは、奈良時代(西暦630年頃と書いてあるサイトもありました)に仏教と共に伝来したとか言われているそうです。

紀元前500年ごろに、お釈迦さまが木の枝で歯を磨くことを弟子たちに教えたんだそうです。それで、仏教では、僧侶たちが常に身につけておくべき第一に楊枝が出てくるんだとか。

一応…ホントか?わかりません。

面白い記事だなぁ…と歯科に関する新聞記事みたいなものをサイトで発見したのでした。

東洋医学における薬木の歯ブラシ「楊枝」

歯磨きに使用する木を、サンスクリット語でダンタカーシュタ(歯の木)といい、中国では、歯木・楊枝と訳するそうです。

ということで、日本に仏教と共に伝来も理解できる話になりました。

 

ちなみに、「ダンタ」は英語の「デンタル」の語源だそうです。現在、インド数字でダンタは「32」、歯の本数!

全く関係ない話かもしれないけど、雑学はくっつけて記録しておいた方が役立ちそう。

 

ようやく発見…、恐らくこの(株)広栄社の爪楊枝資料室のサイトを私は見たのだと思います。メモの状態になっていると、大元がわからなくなってしまいますね…。

 

僧侶→誰?

仏教とともに伝わってきたのなら、日本でどのように広まったのだろう…?

僧侶から貴族へと広まったみたいです。右大臣 藤原師輔(908~960)が、『九条殿遺誡』という書物の中で、作法として子孫に伝えているんだそうです。

「九条殿遺誡(くじょうどのゆいかい)」
先ず起きて属星(ぞくしょう)の名字を称すること七偏(まず起きたら、陰陽道の属星の名前を七回唱えなさい)

<微音(ちいさな声で)、その七星は、貪狼(どんろう・とんろう)は子の年、巨門(きょもん)は丑亥の年、禄存(ろくぞん・ろくそん)は寅戌の年、文曲(ぶんきょく・もんこく)は卯酉の年、廉貞(れんてい・れんじょう)は辰申の年、武曲(ぶきょく・むこく)は巳未の年、破軍(はぐん)は午の年なり>

次に鏡を取りて面(おもて)を見、暦を見て日の吉凶を知る。(鏡を取って顔の様子を確認して、暦を見て、その日の吉凶などを確認する)
次に楊枝を取りて西に向かひ手を洗へ。(次ぎに楊枝で歯を磨いて、西側を向いて手を洗え)
次に仏名を誦して尋常に尊重するするところの神社を念ずべし。
次に昨日のことを記せ<事多きときは日々の中に記すべし>。

ちなみに、『九条殿遺誡』は 国立歴史民俗博物館蔵だそうです。藤原の師輔は藤原道長の祖父と覚えた方が、記憶に残しやすいかなぁ…。

 

仏教伝来はもっと昔の話だから、記録として残っているモノがない…としても、もっと以前から楊枝は生活に入っていたのでしょうね。

 

楊枝が庶民に伝わったのは平安末期?

室町時代の田植え唄に「けふの田主はかねのようじをくわえた」や「楊枝木には南天竺のびわの木」などの言葉が出てくるそうです。

ある意味凄い…。こんな生活の些細なことも知りえることができるって、文字のお陰ですね。

 

日本では楊枝とは丸いものだ~と思っているのですが、世界では丸い楊枝よりも平楊枝が主流?世界中では平楊枝を使わないのは日本だけと書いてあるサイトを見つけました。

 

『小笠原流躾方百箇條』という中に、楊枝のことが取り上げられているのだそうです。

また、『都風俗化粧伝』の身嗜の部分にも記されているそうです。

『三礼口訣』の食礼の項に、房楊枝と楊枝の使い方が示されているとか。

『婚礼道具諸器形寸法書』にも楊枝についての記述があるそうです。

 

黒文字楊枝広める

『楊枝から世界が見える』(全4回シリ-ズ)の一部を紹介しますと株式会社・広栄社 社長 稲葉  修 氏の講演が紹介されていました。

 

語源由来辞典の爪楊枝のページサイトには、次のように書かれていました。

「楊枝」は、元は歯の垢を取り除き、清潔にするために用いられた仏家の具で、「総楊枝・房楊枝」と呼ばれた。

「楊枝」の名は主に「楊柳」が素材として用いられたためで、総楊枝は先を叩いて「ふさ」のようにしたためである。

爪楊枝の「爪」は「爪先の代わりに使うもの」の意味。

「爪先」、着物の「褄」、動詞「つまむ」などと同源で「物の先端」が原義である。

爪楊枝を「黒文字」と呼ぶのは、黒文字の木で作られた楊枝を指して言ったことから。

日本には、奈良時代に仏教が伝わった際に楊枝も伝来したと言われるほど、仏教と楊枝との関係は深く、お釈迦さまも木の枝で歯を磨くことを弟子たちに教えたという。鎮痛解熱薬として用いられる「アスピリン」という物質がヤナギ科の植物に含まれていることから、噛むことは虫歯の痛み止めに聞くと言われるが、現在は樺の木が使用されているため、その効果はないと思われる。

また、爪楊枝の先端の反対側にある溝は、製造過程で焦げて黒くなってしまうことから、こけしに似せてごまかすために入れられたものである。

と、書かれていました。

昔、千利休が庭のクロモジ(黒文字)をおもむろに小刀で切り削り、茶室にてお茶菓子のための楊枝に用いた!って本当?詳しい方教えてくださいませ。というツイッタ―でのつぶやきを発見。私も教えてほしい…。

少なくとも、黒文字を削ってお出しするという話は今でもされていることを先日お聞きしたのでした。

 

実は黒文字には、殺菌効果があるのだそうです。

最初に黒文字をそのような用途に使ったのは千利休だと言われているのですが、

千利休は、殺菌効果があることを知っていたのでしょうか。

そのようなことが、近頃話題になったそうです。

先生は、千利休は黒文字に殺菌効果があることを知っていたと思うとおっしゃられました。

これは、ブログで書かれていた文章です。

和菓子の「機能美」に注目する。黒文字を入れたときの固さ、口に運んだときのやわらかさ…。一方で、四季感漂う優美な容姿も、京菓子には欠かせない。「千利休は渡り六分に景気四分、古田織部は渡り四分に景気六分」。庭の飛び石について、機能と見栄えのどちらを重要視するか、バランスの大切さを説く言葉だが、和菓子も同じではないかという。

これは建築家の方の文書です。機能美と容姿、絶妙のバランス建築家・中村義明さんが書かれているサイトにあった文章。

 

黒文字は豊臣秀吉の時代に茶人である千利休が御茶事の菓子用にこの材料を用いたのが始まりとされる。木の皮を残したようじであり、香りのよさ、緑色の木の皮と削り口の白さの美しいコントラスト、また手作りによる歯あたりの良さで人気のものとなった。

このように書いてあるブログもありました。

 

今年の、夏号に載っていた記事です。「KUROMOJI」(黒文字)って知ってますか??これ、日本原産の木です。とても、しなやかで折れにくいことから、江戸時代から楊枝として、愛用されていたそうです。

千利休も、この黒文字の楊枝をお茶会で好んで使ったそう。今でも、和菓子屋さんでは使っているところもあるようですが、この楊枝職人がだいぶ少なくなっているみたいです。

これは、アロハセラピーというブログの2009年10月の記事です。こんな風に書いてあった。

 

検索している中で見つけた資料。これはもしかしたらここには関係ないけど、見つけたついでに…。

食文化ツーリズム論

 

外務省が茶の湯について紹介している文章を見つけました。日本語だけど、英語バージョンもあるはずでしょう…。

外務省茶の湯

 

黒文字のことで千利休がどうのこうの…って文献をさがす…ってインターネット上では難しそうですね。探せば見つかるだろうなぁ…とは思いますが、取りあえず知りたい情報は発信しておくとどこからともなく知る機会を得ることができるとか。

 

貴人のお茶という普通の人のお茶ではないお茶の話があるのですが、その貴人のお茶では茶碗も確か新しい初おろしの茶碗を出す。ということで、どんなに名物の茶碗をそのお茶席で使用したとしても、貴人に対しては初おろしの茶碗だったと(過去形でなく今でもそうだろうとは思いますが…)。その人だけのために用意する…一期一会の心で言うのなら、黒文字もその日その人のために用意する一つの道具としては、削って用意しその日だけ使用は想像の範囲ですが当然なのかも…。

そんなことを何かに記されているかなぁ…って探そうと思うと、苦労するのでした。

 

あるサイトに書いてありました。その日に使われた黒文字を持って帰り、黒文字に日付を記録して保管していたと。その人のしていたことか、昔されていたことか…イマイチよく読まずに閉じちゃった…ともう一度と探し見つけることができていません。だけど、一期一会のおもてなし…っていう意味では、そうなのかもねぇ…。

 

どこかできちんと書いてある文章をさがそう…としたら、書物で探すしかないのでしょうね…それも書物にあるのかなぁ…?

 

黒文字が日本原木の木ということを書いてあるサイトを見て、そりゃ…中国から伝わるわけないか…と思わされましたね。また、黒文字の香りの話などを思うに、千利休が用いたという話も想像の域でも納得…って感じです。

 

そのうち、ちゃんとどこかで書いてあるものを見つけて続きを書こうって記録でした。

 

 

 

 

茶碗とは

福岡市美術館古美術室 田中丸コレクション 解説第2号 より

茶碗とはということで書いてあったものです。

 現在、茶碗と言えば天目茶碗も含む“茶を飲むための陶磁器の器”のことを意味しますが、室町時代から桃山時代にかけて「天目」と「茶碗」には明確な区別があったようです。

 例えば、室町時代に書かれた『君台観左右帳記』陶磁器の項目では、「茶垸物之事」と「土之物」という二項が設けられ、「茶垸物之事」では青磁や白磁などの磁器類、「土之物」では天目や茶壺、茶入れなどの陶器類を区別して書いています。

 「茶垸物之事」では、青磁を「あをきちゃわんの物名也」、白磁を「しろきちゃわんの物名也」と説明しています。

また桃山時代に書かれた『山上宗二記』でも青磁蕪無花入を「茶碗ノ手ナリ」と説明していますので、当時の「茶碗」とは中国製の青磁や白磁の「磁器」を意味していたと考えられています。

 現在では「天目茶碗」という言い方が一般的ですが、どうも明治から大正時代にかけて使われだした用語のようで、それまでは「天目茶碗」と言わず「天目」とのみ呼称していたようです。

 「茶碗=磁器」。“茶を飲むための碗”ではないのに「ご飯茶碗」というのも、この「茶碗=磁器」という言葉の名残でしょう。

 それまで御飯を食べる器は漆の椀か木椀を使用していましたが、江戸時代後半から波佐見焼の「くらわんか碗」などの磁器の碗で御飯が食べられるようになります。

 全国的に普及するのは、鉄道が開通した明治時代になってからだと言われていますので、このころから“御飯をよそう磁器の碗”という意味で「御飯茶碗」という言葉が定着していったようです。

 ■茶碗の三条件

 ここで「茶碗」には、もともと前提となる条件があったという説を紹介しましょう。

 前述したように室町時代から桃山時代の「茶碗」が意味するモノは、青磁や白磁の時期でした。そして中国製の青磁茶碗をも指しました。これは中国宋時代の喫茶の風習が鎌倉から室町時代にかけて流行していく中で、唐物(中国製の美術工芸品)が輸入され、“茶を飲むための碗”は「天目」、「茶碗(磁器)」では青磁茶碗が主流となっていたからでしょう。

 磁器にも当てはまりますが、この青磁茶碗の基本的な特徴を整理すると次の3つです。

一 「総釉掛け」内側(内面、見込み)、外側(側面、胴部)、底部(高台内も)の全面に釉薬が掛るもの。

二 「無地無文」絵付け(筆描きの文様)や掻き落としなどによる施文がないものであって、釉状の微妙な変化や貫入は無文の範疇に属する。

 また、茶碗の口縁部の切り込み(輪花碗など)や茶碗の内・外面への篦描き(櫛目・櫛描き・猫描きなど)や削りあるいは型押し(鎬文など)は、器体部そのものの成形結果と解釈して施文とはみなさない。

三 「左右対称」丸碗ないし平碗を祖形とした左右対称(シンメトリー)

 【茶碗】項目執筆者/竹内順一 『角川日本陶芸大辞典』角川書店刊 2002

 

 つまり「茶碗」とは“この三条件を備えるもの”という認識が当時の茶人にはあったという説です。

 侘茶が流行するにつれ、唐物茶碗以外に高麗茶碗も取り上げられるようになりますが、例えば侘茶の茶碗の最高位とされてきた「井戸」や「粉引」、「三島」など古いタイプの高麗茶碗も基本的にこの三条件を満たしています。

 また桃山時代に前半の天正年間(1573-92)に千利休(1522-91)の創意でつくられたとされる長次郎(?-1589)の茶碗が「総釉掛け」、「無地無文」、「左右対称」という三条件を守っているのも、当時の「茶碗」の定義だったからなのでは、と考えられています。

 ところが桃山時代後半の慶長年間(1596-1614)になると、それまでの「茶碗」の定義からすれば新しいタイプの茶碗が登場します。

 それが美濃焼の瀬戸黒、志野、織部です。いずれの茶碗も高台に釉薬を書けない土見せとし、「総釉掛け」という条件を否定します。また日本製の焼き物で初めて筆による文様が施された「志野」では「無地無文」を否定し、「織部」に至ってはさらに沓形に歪め「左右対称」をも否定していきます。こうした流れは、慶長年間に開窯した九州初窯にも波及していきます。

 天正年間に開窯し、慶長年間に生産が盛んになった唐津焼も高台を土見せにしています。また絵付けを施した絵唐津。織部の影響を受けた歪みのある茶碗をつくるなど、流行にあわせた新しいタイプの茶碗を生産していきました。

 これ以降、“茶を飲むための碗”の定義が広がっていき、さまざまなタイプの茶碗がつくられます。江戸時代になると、新たに中国製の赤絵や染付茶碗も取り上げられ、また京では仁清による色絵付けを施した多彩な茶碗がつくられるなど、前時代にはみられなかった華やぎのある茶碗も登場してきます。[財団法人田中丸コレクション 学芸員 久保山 炎】

 

茶碗の歴史をこのような形で知りえるとは思いもよりませんでした。ただ、展示されているものを説明しているリーフレットをもらっただけのつもりでした。だけど、本当に勉強になるなぁ…と持って帰って読んで思いました。

なぜ、茶碗という風に御飯を食べるために用いる器を言うのだろう?という疑問もあったので、そんな疑問も消えた!と消していってくれました。感謝。