能 野守

昨日、ウィークエンド夜能というイベントで能を見に行きました。

 

正直、ちゃんと起きていられなかった…と、同じ姿勢を長時間していて体がきつかった…眠いというより、体が痛かった…。

でも、見ていたくて…と見る気は満々なのに…と、腰が痛くなったり肩が凝ったり…はちゃんと休憩中に体動かしておけば問題なかったはず…と次回はどうにかしたい…って思うのでした。

 

「野守」という能。ある意味なんか不思議で、なんとなくイメージはSFでした。

 

能・狂言ということで、狂言「柿山伏」と能「野守」の2つでした。

狂言「柿山伏」

修行を終えた山伏は、本国に帰る途中のどの渇きを癒そうと柿の木を見つけたたくさんの柿を食べる。そこへ、畑主が見回りにやって来て、山伏を見つける。

大事な柿を食べ散らかされて怒った畑主は、しばらくの間からかってやろうと、犬だサルだと山伏に動物の鳴きまねをさせ……

能「野守」

大和の国・春日野に来た山伏は、野守から「野守の鏡」についての故事を聞き、本当の「野守の鏡」とは昼には人となり、夜は鬼となってこの地を守っていた鬼神の持つ鏡のことだと知る。まことの「野守の鏡」を見たいものだと山伏が祈ると、鬼神が鏡を持って現れ、天界から地獄の底摩どぉ写して見せた後、大地を踏み破って地獄へ入っていく。

 

次のように書かれているブログがありました。

能「野守」は、大和国春日野に伝わる伝承をもとに、世阿弥が書いたものと思われている。鬼の能であるが、和歌をテーマにして上品な体裁になっている。

平安末期の歌論書「奥儀抄」(藤原清輔撰)によれば、雄略天皇が春日野に狩をした際、鷹が逃げたので、その行方を野守に追わせたところ、鷹の姿が池の水に映っているのを見て探し当てた。それ以来、この池は野守の鏡と呼ばれるようになった。新古今集に読み人知らずとある歌「箸鷹の野守の鏡得てしがな思ひ思はずよそながら見ん」は、この池を詠んだのであると。

世阿弥はこの野守を鬼に見立てた。古来日本人にとって鬼とは、死者の怨念が亡霊となった者をさしたが、世阿弥はそれを仏教的な荒ぶる鬼とした。ただその鬼は人間に危害を加える者としてではなく、池を守る精霊のような者として解釈し直されている。

 

「ウィークエンド夜能~yanoh~ 能 野守」自由席ペア1組

能面を博物館で見ていました。

ですから、今回、能面を結構必死に見ていました。不思議…。

本当に、角度によって表情が違うってわかったんです。また、色も違う…。ビックリでした。

老人の面。

そこから…着替えがあっている間の「では?」という情景音楽と説明された囃子。

つぎにでてきた鬼神はなんか凄く不思議な感じでした。

 

と、わからないなりにもちょっとだけ、能。

 

狂言でも山伏が出てきて、能にも山伏が出てきて、能楽の話を昔調べたことを思い出しました。

 

この世のものではないものの力などの力を信じている…そんな世界が、能。

この世のものではないものなどの力なんてない!という…そんな世界が、狂言。

覚え方正しいかはわかりませんが、そんな感じかなぁ?と。

 

「狂言」という言葉は、元々古代中国語で、日本では『万葉集』に見られる。
タワゴトと読まれていて、デタラメな言葉とか冗談という意味でつかわれていた。

キョウゲンと音読みされて普及するのは、白氏文集の中の「狂言綺語」の語が『和漢朗詠集』に引用されて以来と言われているそうです。

「狂言綺語」というのは、もっぱら仏教の立場から、物語などを偽りに飾ったものと否定的に言う場合に使われていた。しかし、次第に「狂言」という語も単独で、常軌を逸した言説や戯れの言葉を指すようになっていったそうです。
この「狂言」が滑稽な芸能を指すようになったのは南北朝時代のこと。

室町時代、「狂言」は能とともに演じられる舞台芸術として確立したが、江戸時代に入ると、それがあやしくなる。なぜなら、江戸幕府の式楽となった能楽四座(のち五座)体制の中に組み込まれなかった狂言師が、近世初期の歌舞伎の成立に参画。歌舞伎の出し物も「狂言」と呼ぶようになったから。
本来の狂言は、武士の専有物になったのに対し、歌舞伎は近年まで民衆演劇の王座を占めていた。「狂言」はむしろ歌舞伎の外題を指す呼称として一般化…。そのため、「歌舞伎の狂言」ではなく「能楽の狂言」という意味で、「能狂言」という名称も生じたとか。

1955年(昭和30年)ごろから狂言の評価の高まりにより、歌舞伎界でもなお狂言という言葉が使われているものの、ただ「狂言」というと能楽の狂言を指すようになった。

狂言という言葉の由来を知るきっかけとなり、「狂言綺語」なる言葉も知らなかったので、学ぶきっかけになりました。
確かに、同じ演目が歌舞伎でもあるな…となぜかわかってなかったけど、こうやって知ることで理解。
本を読んで出てきた情報だけど、インターネット上では見つけることができなかったなー。

現在は、能と狂言の総称を「能楽」と言っているけど、明治維新直後までは「猿楽」と呼ばれていた。
猿楽が能楽と改称されたのは、1881年(明治14年)に家族を中心に財閥や学者も加わって能楽社が設立されたとき、『能楽社設立之手続』に改称の理由として「猿楽の名称字面穏当ならざるをもって能楽と改称し…」とあるそうです。
明治新政府が外国からの使節に見せる日本を代表する舞台芸術として猿楽を指定した時、猿からモンキーを連想することが具合悪いと考えたのだろうと書いてあります。

能だけでも半人前、狂言だけでも半人前、両社でいわば一人格を形成している。

そんな表現を読みながら、不思議だな…全然違うようなのに…と思いました。

能も狂言も平安中期に成立した猿楽の流れを受けている。雑多な芸を包含したものでした。
室町時代初期、能が荘重な歌舞劇として姿を整えたとき、狂言は猿楽に見られた滑稽な寸劇からまだそれほど本質的な成長を遂げていなかったらしい。それが喜劇と呼ばれる舞台芸術にまで成長するにはそれから200年近い年月がかかっている。
その間、狂言ではほとんど舞台装置を飾らないガランドウの殺風景な能舞台で、能と交互に上演されて歴史を歩んできた。だから、純粋な写実的な対話劇として発展することはなく、能の劇形態の影響下で成長した?

元々は、今の漫才などのルーツと辿ると一緒なのでしょうけど、能の影響が色濃く変化してきたのでしょうね。

狂言は対話によって筋を進める曲が大多数。だけど、劇の発端は、登場人物が名のりをして、途中歩いて、相手の家に付くなど、能と同じようなパターン化されているとか。これは、今のコントとも似ているよね…と思います。
中には、次第の囃子で出て次第を謡い、名のりの後に道行を謡って目的地に到着する能をまねた曲もあるそうです。詳しくないから、何という曲かはわからない。

恋慕の狂乱などにカケリを、唐人の異国性の表現に楽を舞うのも能と類似する。

これは、ノートに写したけど、意味が全くわかりませんでしたね。多分、たくさん見ているとわかるんでしょうね。

全体の構成が能のパロディーである『通円』などの舞狂言のほか、能の一部をパロディーとして用いている曲となると数多いとか。その一つに、棒縛りもあると書いてあった。

どこがパロディーなのかも全くわかりませんが、能をそうやって笑いにしているものと能が一緒の道を歩んでいるって凄い。

能と同じ要素は、腰を入れたカマエ(重心を低くした姿勢)と擦り足のハコビ(歩き方)という演技の基本が一緒だそうです。

違うところは、
(道行)
能では、数歩前後するだけの動き
狂言では、本舞台内を名乗座から目付と脇座を通って再び名乗座へ三角形に動く
(泣く動作)
能 手のひらを目の前へ静かに上げるだけ
狂言は…? 写し間違えたかな?

演出・演技が、能は求心的・象徴的で重厚なのに対し、狂言は開放的・具象的で軽妙だとか。

能と狂言が別の演劇のように感じるのは、扱う世界や込められた感情・思想の違いによるところが大きいとか。

世阿弥は本説(出典・典拠)を重視したんだとか。
能は、『源氏物語』や『平家物語』他の古典文学や有名な伝説などを題材としたらしい。
多くは貴族的社会を描いているんだそうで…と1度しか見たことがない。

これに対して、狂言は当代社会の笑うべき断面を舞台化しているんだとか。
登場人物の中で、最高の階級である大名も、江戸時代の大名とは違い、たとえば「隠れもない大名です」と威張って名乗っても、「召し使うものはただ一人」という弱小の地侍にすぎないんだとか。鎌倉時代のことだからな…って思って見てみると、確かに平安時代の後、平家と源氏と…というところで、武家の社会になっていく。元々、自分で土地を耕し、自分の土地として認められて…といった武家が登場する過程を歴史で学ぶと納得!なんてこともあり。あまり歴史は得意じゃないけど、大名イメージも江戸時代のイメージではないというところを踏まえて理解していくと、少しわかる気がすることもある。
そんな大名の召使で下人階級である太郎冠者が最も活躍するところが、庶民的と本に書いてあった。下人階級は売買質入れされるような隷属民なんだとか。そっか…清水を見たときにはわからなかったけど、そうやって少し立場的なことなども知ってみると、かなりおもしろいだろうな…。昔の人達はそんなことも知っていたんだろうから、太郎冠者おもしろいことをしているな…だけではなかった楽しみ方があったんだろうな…。

能は悲劇的、狂言は喜劇的と言われるらしいけど、能は必ずしも悲劇ではないらしい。これもわからない。
途中まで悲劇であっても、ハッピーエンドになっている曲は多いんだとか、だけど、能は笑わないらしい。
それでも、約250曲ある能の現行曲のうち、笑いの表現は二曲『三笑』『景清』があるそうです。
それに対して、狂言は現行曲中、笑いの要素のない曲は、14,15曲なんだとか。

能と狂言において、現実認識や仏教感にも、甚だしい差異があるそうです。

能では、亡霊や怪異を登場させないと、なり立たなくなってしまうんだとか。
でも、狂言では例えば『武悪』では、幽霊になって主人の前に出よと言われた武悪が「身どもはついに幽霊になったことがない」と言って、太郎冠者から「いや、ここな奴が。誰あって幽霊になったものがあろう。きいたこともあろうによって、取り繕うておいでやれ」とたしなめられるんだとか。日本語は古典的だけど、要するに幽霊なんか見たことがないという人に、誰も幽霊になったことがある人もいないだろうし、幽霊の話は聞いたことはあるだろうから適当に幽霊になりきったらいいと言われているってことだよね…。ちっとも幽霊の存在は信じていない世界観。
狂言の『節分』や『博変十王』の鬼や閻魔大王も人間や亡者に手玉に取られて憂き目を見るんだとか。これは、絵本で見たことがある…なんて思うと、狂言そのものはあまり知らないけど、いろんな形で考えは日本では広まっているのかもって思いました。

能では、僧侶の祈祷は常に威力を発揮するのだとか。狂言では、『無布施経』『寝替』『宗論』など住持の物欲・色欲や権勢欲が風刺の対象として笑い飛ばされているんだとか。

そうやって見て行くと、なぜ、能と狂言が一緒にあっているのだろう…?と疑問。正反対に聞こえてびっくりしました。

そのことについて、室町時代という時代背景のことが書いてありました。
土一揆があったり物情騒然な中で、一方、東山には銀閣が造営される…なんて戦乱の中でも、雅もあり?
茶道や華道も成立している時代…と書かれるとほんとうに不思議。

カオス的な上下の観客に対応するために、能楽も能と狂言の役割分担を明確にしなければならなかったのだろう。

この一文は、なるほど…と理解。
そっか…、武士は命はって戦っている人達。幽霊とか信じていられる?そんなことを気にしていたら、人を斬るとかできないでしょうね。でも、その一方で、平安時代から?ずっと陰陽師や祈祷など目に見えない世界を信じてきた貴族たちもいる。いろんな価値観の中で、受け入れられていく必要ありとか言うのはわかるような気がする表現。
観阿弥・世阿弥の親子って凄い!なんて、能狂言そのものよりもそんな処世術に感動してみました。

源氏物語絵巻も、武家中心の社会になって、古典を知るとか、荒っぽくて野蛮なだけではないというところで、絵師に武士が描かせたものが海外に流出している…そんな話をテレビ番組で見たことを思い出しました。

狂言の歴史?
多分、本を変えて記録して行っているから、ノート途中から再度歴史とか書いてある…。
話すための記録だったからまとめてない…それをまとめずに書いて…と、自分のための記録としては大丈夫かな…。

奈良時代、中国から散楽といわれる芸能が渡ってきた。
この「散」という文字には「卑」という意味があるそうです。これは、宮廷で行われていた雅正な芸能であった雅楽に対し、曲芸・奇術・歌舞などを主体とする種種の卑俗な大衆芸能の総称だったんだとか。
後進国だった日本。この散楽も、国立養成組織といえる楽戸(がくこ)で教習。782年に楽戸は廃止されたそうです。

平安時代に入ると、散楽は滑稽さを強めると同時に、「散」の音から「猿」と呼ばれるようになった。
平安中期、『源氏物語』が完成してほどなく、宮廷学者だった藤原明衡によって書かれた『新猿楽記』には当時の猿楽の演目が記されている。

世阿弥は、狂言役者を「ヲカシ」と称しているとか。

室町時代
1349年2月10日春日若宮臨時祭の記録は、前代以降成長を続けてきた歌舞主体の劇のことを、「能」とよんで記された最古のもの。

田楽…もともと豊作を祈る農村の行事から発展した芸能。散楽系の曲芸を吸収していたが、この頃には能も演じていたと書いてある。これはよくわからないけど他の記述の本も読ませていただいた。何が正しいとかイマイチわからない。

1352年3月16日の『周防国仁平寺本堂供養日記』に芸能として「狂言」という語が初めて検出される。

観阿弥・世阿弥の父子は、足利三代将軍義満に認められ、その絶大な支援を得て、猿楽を帰属にも愛好される芸能に引き上げることに成功する。

観阿弥作の能は約10曲、世阿弥作の能に至っては、約50曲が、今日のレパートリーとして残っているとか。

狂言は、舞的な動きも含んでいたとしても、滑稽なしぐさや秀句(洒落)などの言葉遊びを主体とする笑劇のつねとしてアドリブで演じられており、能とともに芸術的に昇華されることは無かったと考えられる。
その上、死と背中合わせの日常だった武士が政権を掌握し、仏教思想が瀰漫していた社会では、軽妙な笑うべきものより深刻で荘重なものの方が高く評価されていただろうと書いてある。

世阿弥の『習道書』に出てくる「笑みのうちに楽しみを含む」
和楽の精神を一番よくあらわしているかもしれないと、狂言師の方が書いている本にありました。

ほのぼのとした楽しさみたいなものが雰囲気的に伝わっていくことが脇狂言の命だと思います。

だそうです。

太郎冠者の性格を大別していくと
愚直と才覚
なんだそうです。

狂言に付いて、調べてみて思ったことは、歴史について日本史を勉強して知ったことを違う角度から見ることができた。あと、お茶との関係やいろんな、今、別物と思って知っていたことたちがつながっていくことが凄い。

どれだけ、能や狂言が広く知られているのかということを学ばされました。

ルーズリーフに書いていったノート。もう一枚が行方不明…。

脇狂言という言葉がふつうにつかわれている文章を読みながら、脇狂言が何か?イマイチわからないまま読んでやっぱりわからないで…専門書はよく知らない人間には厳しい。

昔、「翁」「高砂」「末広かり」が番組のパターンになっていたと書いてある文章も意味がよくわからない。これは、能楽詳しい人にとっては当たり前なんだろうな…。そう思いながらも、この3つは人形などいろんなところで聞いたことがある名称で、こんなつながりがあるんだ…と感動しました。

 

 

狂言の山伏はとっても人間的でした。へんな言い方ですが、柿泥棒してごまかそうとして…呪術を使った…つもりだけど、ちっともかかっていない。完全に念仏を唱えることに意味を見出していない感じでした。

 

能では、山伏は不思議な力を持ってました。

 

衣装の違いやいろいろあるのかなぁ…?なんて疑問を持ちながらもわかりませんでした。

足袋の色が違うくらいはわかるけど…って感じ。

 

 

投稿者:

nova

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