残念無念

今日、お彼岸の法要に参加しました。

そこで、講話がありました。

福井県のお寺の住職さんのお話

 

タイトルをつけるとしたら…「因縁」かも…なんて、「残念無念」について話されました。

 

残念無念って、続けて言うといわれてました.

確かに…言わないけど効くそう聞いたことがあるなぁ…。

 

残念とは、念が残ること

無念とは、念が無いこと

実は反対の言葉と言われました。

 

ん…確かに。

 

そこで、インターネット上で調べてみました。普通に言う言い方なら出てくるはず…

無念 ・ 後悔 ・ 残念 ・ 嘆く ・ 痛恨

同義語として、出てきた言葉たちがこれら。

 

質問サイトにも、出ていてベストアンサーになっていたものには

無念とは、

「(正念を失って)口惜しく思うこと」であり、ここでいう正念とは、「正気・本心」とか、「心から仏を信じ、一心に念仏すること」です。

とありました。ただ、ベストアンサーとして選ばれていないところに辞書を引いて…

「無念」
(1)仏教語
1.想念を離れた無我の境地にはいって何事も思わないこと。正念。無想。
2.とらわれを去った思い。執着のない正しい思い。
3.心の動揺をしずめて行う念仏のこと。
(2)正念を失ってくやしいこと。口惜しいこと。残念。
以上国語大辞典等から引き出しましたが、
無念の「無」については①─1.を参考になさってください。
そして②を見てください。無念=残念になっていますね。

漢和辞典を調べてみました。
すると、「無念」の意味のなかの「くやしいこと。残念」に【国訓】(わが国だけに用いられる意味)
とありました。

 

とありました。だから、仏教語というキーワードをたして調べてみると出てきたのは

よんで字のごとく「念がない」のですが、何の念が無いのかと申しますと、「妄念」という念が無いのだそうです。

と、こちらはお寺のサイトから。

 

仏教語大辞典(中村元著、東京書籍)によりますと、
①有念の対。妄念のないこと。とらわれのない正しい念慮。
②・・・省略(禅宗の派による解釈の違いなので省略しました)
③正念を失ったさま。残念。

仏教後大辞典なるものがあるのですねぇ…省略されているところも知りたいなぁ…と拝見したサイトにあった説明の一部

有念、念についても、辞書で調べて書かれていました。

 

 

 『無文老師の三分間法話』この本のことかなぁ…?

山田老師という人が書いた…と、お話の中に出てきた本。多分これだろうなぁ…。そこに出てくる話しなのか、講師が作られた話なのか?わかりません。

ただ、残念無念の説明として話されたこと。

 

朝、10のことをやろうと決めて仕事に出る。

1日を終えて、朝決めた10ができたかを考えるとき、6できたのなら、4が残念。

念が残るというもの。

だけど、4ではなく6を見たとき、6できるということは、周りの助けあって6ができている。

だから、「ありがとう」と受け止める。これが無念?

 

残念無念という

残念ならんことを無念にならんことを本意でありますことを

 

残念であったけれど無念

 

なんとなく、わかったようなわからない話でした。過去の一連の苦い話とともに、くっついてきた説明の話だから、一連の話をもってして理解させようとしている…から抜き出すと変な感じ。

 

退職してすぐに夫が亡くなられた妻に対して、どのような言葉を書けたらよいのか思案されて、本を読んでいたところにこのことならば自分の言葉として伝えることができると講師の方が思われて、妻に対してお手紙したという趣旨。その手紙に書いたことが残念無念ということ。

 

これから楽しく夫婦で旅行をしたり…と考えていたのに、残念…だけど、それまでの人生を見た時にその人の人生残念か?

 

そんな風に聞こえました。

ただ、おっしゃっていたことは、恐らく、そんなことを若僧に…といっても住職をはじめて10年経ったときのことだそうですが、確かに定年退職した夫を持った方はそれ相応の年齢…住職と悟りを開いている方とはいえ言われて、心情いかに…というところで、苦い話なのでしょうね。

お返事待っていたと10日して返事が来て…とおっしゃっていました。

 

うかがっていて、10日で来ただけ凄くない?なんてね。

相手の凄さ…夫を亡くした妻の凄さに助かった話…って苦い話?とも思わされました。

 

連れ添ってきた夫を失った老女に対して、それは「残念無念」という言葉が一番適当だろうと送った僧としての心はわかる気もするけど、そんな言葉をもらった老女の気持ちもわかる気がします。

そんな、簡単に、天命だったね…と思えるか?

震災等で若くして亡くなった人たちを身近に持つ人たちに対しても「残念無念」なのだろうと思うのです。だけど、そんな「残念無念」と言ってありがとうと言えるか?心情を思ったときに、怒りで帰ってくる可能性ありのことばだなぁ…って思わされました。それと同時に、「残念無念」と言葉をかけられた人の心情とあいまうと、意味が「口惜しく、とても残念である」という転じていくさまが思い浮かべられました。

きっと、「残念無念」と僧侶に言われるような状況って、一般の人にとっては、「かじったりんごを見て、かじられたところに注目するな、全体の完全なるところに注目せよ…なんて、いい方を見て感謝せよ」なんて言われていると思わない思えないような状況のはず。そんな中で発せられる言葉だろうなぁ…って思って、「残念無念」といわれた方は、ホント…悔しいよ…残念だよ…って言葉の意味を知らなければ深く心に残念を刻みそうと思わされました。

だけど、意味を知っていて「残念無念」といわれたならば、ありがたいと思えることへの注目に視点を切り替えるための言葉に聞こえる。

 

残念だけど、無念にして感謝して気持ちを切り替えることができるか?というより、切り替えるということなのかなぁ…って思わされました。

 

さて、このお坊さんのお話をうかがったら、タイトルつけるとしたら「残念無念」のはず。

だけど、私はそれに伴って話された言葉

 

一片のご縁、その一片が大事

 

漢字で書くと、「いっぺん」とはどの字を当てるのだろう?耳にして、字を思いつけていないから、これかしら?と勝手に当てた。

違うかもなぁ…。

 

一片に一片が加わって、因が重なる。

一片を因といい、因に縁を加えて熟する。

一片にどのように縁を加えていくか

いい縁を加えていく

 

一片のご縁、その一片が大事

どのような大きな結果も、縁をたどっていくと一片から。

 

話された順番に書いているのではなく、意味を取りやすく感じた順に並べてみました。

「因」という言葉と「縁」という言葉の意味を考えさせられたのでした。

なんとなく…って、今調べていないから、調べていないままに書くと「因」というのは種みたいな感じがして、「縁」というのはその種をどう扱うかみたいに感じました。

 

時は今 ところこのまま 今ここよろこぶ人は

 

これって、何かの出典ある言葉かしら…?とうかがいながら、ただ、この「よろこぶ」という言葉の意味は、無条件でその事実一切文句言わず全て自らの責任と受け止めて生きることと。

「よろこぶ」という定義自体も、目からウロコ。

 

 

母が怪我をしたので、行くことになった法要ですが、貴重な学びの機会になりました。感謝。

 

 

書き始めたのは昨日で、今朝書き上げたから日付おかしい。最初の10行くらい昨日。

おとき

今、おにぎりのことを調べていました。おむすび…。

そして、いろんな動画を拝見しました。

 


「おむすびを作るときは、お米の一粒一粒が息ができるようにと思って握ります」
佐藤 初女さんの言葉だそうです。

 

心がこもる…そんなことをおむすびおにぎりと調べていました。

 

ふと、父の葬儀にあたり最期の食事…と、いただいたおにぎり?ご飯を思い出しました。

「おとき」と言ってましたが、調べてみていると、私の知っている「おとき」とは違う話もあったので、素朴に「おとき」ってなんだ?

 

基本的に食べもののことをこちらに書いていないけど…さすがに葬儀にまつわる話を食べものの話だから…って書くのも気が引けたし、調べてみたかったのでこちらにノート代わり。

 

おときとは、仏事の後に頂く食事のことだと書いてあるサイトを発見しました。そちらには、いろいろと詳しく書かれていました。ただ、そういえば法事の後にお食事を一緒に…ってお坊さんと食べるなぁ…って思い出しても、「おとき」と言った覚えがありませんでした。

日本が貧しかった時代、仏事の御斎(おとき)は御馳走でした。

そう書いてあったのを読んでなるほど…とは思うこといっぱいでした。

亡き人を偲び、杯を献じ、亡き人と共に頂く食事であり宴会でない

そう書いてある文章もありました。

 

私は、葬儀が始まる前に親しい方々と「おとき」をいただく…という、故人と共にいただく最期の食事のことを「おとき」というと思ってましたが、全て仏事法事に関わる食事のことをさす言葉なのですね。

○ 決められた時間内に食べる斎食(さいじき)が由来

○ 食事をする時刻「時」(とき)に語源を発している

なんて書いてあるものもありました。どちらが正しいとかわからないなぁ…。

 

斎食儀(食事作法)

このサイトは天台宗の食事作法について書いてありました。

 

今、ウィキペディアで「を発見。そこで、へぇ~

この漢字の読み方が変わる話が載ってました。

  • 斎(いつき) -神道で、ものいみ(潔斎)をして神に仕えること。また、その人 
  • 斎(とき) -仏教寺院における食事。また、仏事の際に寺院で出される料理、斎食
  • 斎(ものいみ) -正教会における断食と食物品目の制限。食事のみならず行動も律し、祈りを増やす事が求められる

 

設斎供養という言葉も初めて知りました。

年回の供養において、法要の読経などがつとまった後に、一同に会して食事をいただく席を設けます。これを設斎といい、また当佛のみならず導師はじめ参列者に対する供養と称し、その一連の行いを法事とも呼び習わしています。

と書いてありました。こちらは曹洞宗のお寺のサイト。

 

『日本書紀』に、推古天皇時代(606年)に「この年より初めて寺ごとに4月8日、7月15日に設斎(おがみ)す」という言葉が出てきているそうです。

四月・七月斎会の史的意義

神戸大学の文献みたいです。お盆の話で載ってます。

 

設斎は、法会に食を供すること、「中を過ぎて食せず」、午後の断食であり、午前中の食事の意味と注される。ここでは”をがみす”と訓じており、香華灯塗(こうげとうず、お香をたき、香を塗り、お花を供え、お灯明をつけ)、供物をそえてお祀りすることではないのか。四月八日は、花御堂(美しい花で飾った小さなお堂:ルンビニー園)に、甘茶(竜が降らした甘露の雨)の入った水盤を置き、誕生仏の頭に甘茶をそそいでお祀りする潅仏会(かんぶつえ)。七月十五日は、餓鬼道に落ちて苦しんでいるお母さんを、釈迦の教えにより、修行を終えた多くの僧侶に供養をして救ったという故事、あるいは長い間子孫により供養されず逆さ吊りにされている死者の霊に飲食を与えて救うといふインド古来の祖先崇拝による盂蘭盆(うらぼんえ:ウッランバナ「さかさづり」を意味する言葉)とされた。

これは、日本書紀について解説しているサイトにあった文章です。

 

お葬式・豆知識vol.2【お斎(とき)について】

という記事があるブログを発見。

【斎(とき)とは・・・ 小乗仏教の僧侶は正午以前に食事をとり、それ以後は摂らないが

食事をしない時間を非時(ひじ)といい、食すべき時の食事を時食、斎食という。

そのことから、僧侶の食事や法事での食事を斎という。】

こう書いてあった。この人は誰だろう?なんて調べようと探してもわからなかった。まぁ調べるきっかけにはなるかなぁ…って言葉たち。

 

お斎というのは、本来、不殺生という戒律を守った寺院での食事のこと

書いているサイトには、ビルマのことなども触れて書いてあります。

 

お斎(とき)とは、今では広く仏事の際にいただく食事をさしています。しかし、斎という言葉には「つつしむ」という字義があり、本来は身を慎んで清浄な生活をおくることを意味します。また「斎戒」(さいかい)ともいいます。

これはQ&Aと天台宗のサイト?に書いてあります。もっと詳しく書いてありました。

もともとインドの仏教では、出家者は正午を過ぎてから食事をしないという戒律があり、食事をつつしむのが斎の由来

なるほど…とインド由来の話なのですね。

 

ただ、私の覚えている「おとき」って、父が亡くなって葬儀の前にドタバタとそこにいたみんなで食べたお別れの食事だった…って調べてみたら地方によるもの?

別れの杯なるものが出てきました。

出立ちの膳(ワカレメシ、タチメシ、ナキワカレとも)」って言葉を発見。

飲食は人間の交わりを象徴するものですから、死者と食事を共にすることによって、死者と最後の交わりをし、別れを行ったものと考えられます。したがって、こうした飲食の席では、しばしば死者用にもお膳が用意されます。神と食事をすることで神の力をわが身に取り込む神人共食の観念が影響しているとの考えもあります。 

なるほど…

出立ちの膳 出棺の際に,参会者に供する一膳飯。でたちめし。

この言葉はあるのですね。

 

三重県では、涙汁というものがあるって書いてありました。

 福岡では、出棺の前に遺族や親近者が集まって故人との最後の別れの食事として、簡単な精進料理を食べます。これは「出立ちの膳」と呼ばれています。柳川市では、この出立ちの膳に、冷酒を出すこともあるそうです。

葬儀屋さんがいっぱいあるなぁ…と思わされる検索ですが、とりあえず紹介されているものをメモしておかないと忘れる…。

佐賀県では、「出立ちの膳(でたちのぜん)」と呼ばれる通夜振舞いを、身内だけで食べます。

鹿児島県の一部地域では、出棺前に「別れ飯」を食べ、北部の一部地域では、参列者にもこの「別れ飯」を振舞うことがあります。最近では火葬場で食事を取るため、別れ飯を省略する傾向が強いそうですが、古い家などではいまだに行われています。

ほんとうにいろいろあるのだなぁ…って思わされます。

 

日本の伝統的食慣習のタブーの両横綱は、肉食と一膳飯でした。ご飯を一杯しか食べないのが好ましくないとされたのは、肉食同様に仏教との関わり合いです。 死んだ人の「枕飯(まくらめし)」が一杯盛り切り、出棺の前に近親者が食べる「出立飯(でだちのめし)」も一杯限りですから、普段は一膳飯は禁忌でした。 さらに波及して、お嫁入りで実家をたつときも一膳飯だったのです。

こんなことが書いてあったサイトは、「握り寿司はなぜ2個で出されるのか? なぜ1貫、2貫と数えるのか?」ということで、書いてありました。

一膳飯を調べていて、よそい方のことに触れている文章を発見。2杯食するという話が書いてある中、一度にご飯をよそわない…って書いてあることを読んで、そういえば…一度でよそうなって言われた気がする…と遠い記憶。

ご飯を一回でよそう
ご飯に箸を刺す。
何を以てマナー違反何ですか?教えてください。

質問サイトの質問で読んで、はっとさせられました。それは回答の方。

当たり前にしていることに疑問を持つことってほんとうに大事。そして、伝えるときにも、意味を知らずに伝えていくことにより偏見やタブーなど根拠不明な「ねばならない」がたくさんできることになる…ってね。

 

それはしてはいけないといわれて育つと、違和感がある質問。でも、確かに…仏教での死者を弔う対応の話。箸をご飯に立てるのを止めましょうと同じなんだよねぇ…。素朴な疑問は理由を知ると、極力しない方がいいことと、別にやってもいいことに別れていく…

 

「おとき」について知りたかったのですが、広がりを持って知ることができてよかった。

 

後は…サイトで検索しても出てきにくい…と、おときの形態。宗派によって違うのかなぁ…?なんて思いながら、一膳飯ではなく丸くなったおむすびというのか、それを食べたんだよね…。

 

作ってくれたおばちゃんが言ってたなぁ…遠く離れて子どもが住んでいると、いろんな人が亡くなったときにそんなもろもろの対応の仕方を覚える機会がないと。祖父母の死の際に見て学ばず、父母の代…一方が亡くなる際にもいなければ、実際に自分が喪主でするようになったとき、全くわからないだろうなぁ…って。確かに…。いろんな流儀があるとは思いますが、その家の慣わしって途絶え、一般化されていくのですよね。

 

先日といっても、もう2週間以上経ったのかなぁ…お通夜におまいりに行きました。そのとき、お坊さんがえらくホント、説教された。まぁ…お通夜の枕教の後に説教されるって体験することは多いけど、よく言う「説教」と普段耳にしている言葉通りのモードでの説教だったので、面食らった。声を荒げて…と、お焼香の仕方について言われていた。そんな喪主が若いから、最初に覚えるためにだろうなぁ…なんて思ったりもしながら、斎場の方の説明とは違うお話。斎場の方の言うとおりに真に受けてはいけないと学んだのではありますが、そんな所作についての説教を遺族をはじめ多くの方のいるところで…なんてそんなに細かいものかな…と思わされた。帰宅して、母に尋ねたら、さもありなん…なんて、母方の実家の宗派と同じだから聞いたらそう言われた。どう焼香するかなど、所作大切とのことだった。祖父祖母をはじめ葬儀や法事に行って、確かにお経を読むように…って冊子を回される体験などするけど、焼香の仕方を言われたことがなかったなぁ…。同じ禅宗のはずでは…なんて思うと違いを意識させられることは多いよなぁ…確かに。

 

焼香の仕方ひとつ…って、そういえばちゃんと教えてもらって…なんてしたことがない気もした。

 

あんまり仏教だ…なんて意識して育っていない気もする。父が亡くなってからいろいろと覚えたり…。母の実家にはお坊さんがよく遊びに来ている…ってお盆に行ったりするからか出会っていた。弟たちが木魚叩いてお経を読んでいても私自身は興味なかったから?お墓参りに行くとかは行ってもちゃんといろんな習慣ってわかっていないのかもしれないなぁ…。

お仏壇にご飯をよそうのも、まるくしないといけないと言われるけど…なぜだろう?とか、疑問を持ち始めるときりがないなぁ…。

 

疑問を持たずにやっていることも、実は違う立場から見るとふつうではないはず…という意味では、おむすびを調べていて、おときが気になって調べてみたけど、お寺で教えてもらうしかわかる方法はないのかも…?おんなじ宗派でも、総本山の流れが違うだけでもなんか微妙に違ったりする…ということを体験したりもして思うのです。ちゃんと細かく伝えられて…って普通しているものなのかなぁ…?なんてね。

きっと、弟たちは私より知らないはず…なんて思うし私も知らないなぁ…。

 

 

 

義経千本桜と

先日、歌舞伎を拝見しました。

そのときに、正直、あ~能も狂言も…歌舞伎も、いろんな日本の文化はつながっているから、どれかひとつだけを取り上げて知る努力をしても、ゆくゆくは全てを知ることに努めることになるんだなぁ…。そう思わされました。

 

義経千本桜」という演目の歌舞伎を拝見しながら、これどこかで見たことがある…。

 

見たことがあるということは、私の見た数少ない体験とつながるということ…って検索。

わかったのは、能だったのです。

船弁慶

多分、似ている…って、出てくる登場人物が重なるくらい?かも…

だけど、似ている…と感じた何か…って調べてみるとつながるものですね。

 

独立行政法人日本芸術文化振興会が運営する伝統芸能を調べる・見る・学ぶためのサイトに「義経千本桜」

これは歌舞伎の誰が演じたなどはなれて書いてありますね。

そちらに、影響を受けた作品ということで、3作品書かれていました。

人形浄瑠璃『天鼓』

能『船弁慶』

能『正尊』

 

能『船弁慶』の船の上で…という話が引っかかって思い出せたのですが、話は違う…印象はそんな感じでした。

私の母は、何度かこの『義経千本桜』を見ているそうで、何度か見ていると反応も違うのでしょうね…。そう思わされる感想を後日聞きました。しかし、私は初めてでしたので、感想は…とにかく見たことのある話があるぞ~って感じで少し気持ち悪いというか、ナンだろう?と探すきっかけになったのでした。

義経千本桜とは…

ウィキペディアの文章から…

源平合戦後の源義経の都落ちをきっかけに、じつは生き延びていた平家の武将たちとそれに巻き込まれた者たちの悲劇を描く。

 

なんて簡潔…という説明ですが、そうまとめている凄さを思わされました。

5幕にわたるお話。そりゃ…前後わからないと、理解難しい…ってところがあって当然かも知れません。ただ、前後のお話も見たことなくても、源義経という題材、きっと歌舞伎が起こった江戸時代の人々にとっては、なんとなくでも知りえている過去の歴史上の人物。そんな共通認識がある人だったのかなぁ…って推測させられました。こんなの5幕全てを…って見るのは大変だなぁ…って思ったのです。でも、ふとそういえば…銀座の歌舞伎座に昔フラッと行って一幕だけ見るってしたことを思い出して、ずっと朝からの続き…という流れの一幕を「歌舞伎」ってこんなものだ…って見たときのことを思い出させられました。

きっと、好きな人は朝からずっと…って江戸時代を思うと大掛かりな娯楽だなぁ…ということも思いました。

 

『船弁慶』では、平知盛って死んでいた…というのは記憶にあって、フィクションの世界はいかようにも…というのは思うのですが、歌舞伎と能狂言とのつながりや違いなどを意識させられるのでした。

 

ちょうど『平清盛』という大河ドラマがあった後、少しは平氏についても理解が広まっている?そんな時分なのかもしれないとも思わされました。

 

平家の落人たちがつくった村とか、八女の方では安徳天皇だったか、皇族が生き延びた話を地元の方に聞かせていただき、文書や手紙を見せていただいた気がするなぁ…。とにかく、史実というか、学校で学ぶことと違う話を聞く機会を持つのは、何事も本当のことは何か…?わからないなぁ…と、ものの見方考え方を操作するということは教育の仕方ひとつでも違うなぁ…としみじみ思うのでした。

 

『義経千本桜』を拝見させていただいて、こんな演目を見ながら江戸時代の人たちはどう義経のことを思っていたのだろう~?なんて考えました。歴史で習ったりするとき、私は「源頼朝は源義経が謀反を起こしたとし、殺した?」なんて感じで兄が弟を…という風に聞いた気がしてました。そんなときでも、モンゴルに逃げただの…そんな話を聞いたりして、実際は…?正直、こんな歌舞伎を見て育っていたとしたら、私自身も平泉まで逃げて…モンゴルまで行っちゃった?なんて信じて伝えていくかもなぁ…。こうあって欲しいという願望かもしれない話と、実際本当のところどうなったのか…わからないことはいっぱいだなぁと思わされる内容。

 

歌舞伎として、『義経千本桜』を拝見して、日本の文化がつながっている…ということを感じた要素を3つあげるとしたら…

一つ目は、幕が開くタイミング。能の囃子方をされている方のお話を伺ったとき、幕が開くタイミングはこのときと決まっているわけではなく、笛・太鼓の調子を聞いて幕を開けるタイミングをはかって開けると知りました。今回、歌舞伎もなのかなぁ…?幕の開き方は違うけど、疑問を持ちました。

 

二つ目は、衣装。山伏の衣装って出てきたかなぁ…テレビで団十郎さんの死去に伴ってやっていた追悼番組でかなぁ…それでも義経の平泉に逃げる話でした。武士の衣装というものを実際に着ている姿をその時代のものとして拝見するのは絵でしかない。能での衣装、狂言での衣装も違うとされて、江戸時代は歴史ある伝統のものとして、新興してきた歌舞伎との違いなどあるのだろうなぁ…。能と狂言と歌舞伎、違いを知りたいなって思わされました。

 

三つ目は、お茶道具の話や着物柄など、こんな舞台の話と全く違うところにちょこちょこと名称由来などなど…出てくるところ。静御前の話にしても…何事もか?昔の詩歌は歌うとき以前の詩歌をどれくらい知っているかで、教養等を見るという話で…と古典で古文を学ぶ…なんて学校レベルとは違う生きている昔の出来事たち?を踏まえてしか理解できない今のモノたち…。

 

自分の国の文化や歴史について誇りを持たせる…なんて国は言っているけど、本当に奥深いものだなぁ…と思わされます。

 

ただ、能楽も歌舞伎も拝見する機会をすすんで持つように努めるようになったなんて20歳過ぎてから…と振り返り思うのですが、この場面知っている気がする…とか、なんとなく似た話を見たことがある…と思い出されることは20歳前の記憶。宝塚歌劇団の公演を毎年のように見る機会持っていたからかなぁ…?なんて意味わからなくても見ていたりしたことも関係するのかもしれません。そんな中にドリフターズの番組を思うのです。テレビを見るのを制限されて育っていたけど、それでも『八時だよ全員集合』を馬鹿なことをしている…って大人たちが言う中でも見ていた…って小さい頃のこと。馬鹿なこと…って、バカ殿様のことやいろいろと…思い出されるのですが、バラエティ番組の内容ってある意味今とはかなり違っているのかもなぁ…なんて思わされました。狂言を拝見したときに、これってドリフターズのやっていたのにあった気がする…って思ったことをはじめ、いろいろそんな伝統芸能みたいなものが下敷きになっているお笑いってあった気がするのです。だけど、今は…?

ドリフターズのコントを踏まえて…って、それらを見て育った世代がバラエティ番組の中心に出ている今であっても、そんな古典を踏まえたようなバラエティ番組ってないなぁ…なんて思わされますね。なんちゃんの狂言を取り上げて取り組んだという番組があったそうですが…って感じでしょうか?

お笑いで下敷きにできるということは、その内容を知っている人が多いから、それを踏まえているって伝わるのですよねぇ…無知のものを下敷きに展開させて笑わせるって難しいだろうなぁ…なんて思うと、能楽狂言お茶お花…雅楽などなど…って、昔はそんなに広まっていたものだろうか?とも。

武士のたしなみとして…なんて内容が一般化されることはなかっただろうけど…雅楽→能楽と貴族文化から武家文化に移行していく中で文化の中心もいろいろと変わったことだろう…とは思いますが、今も昔も一部の人達しかちゃんとついていけていない…というのは一緒なのかも知れないとも思います。歌舞伎は庶民のもの…と広まっていったなんて思って、それでは今は?

 

ただただ、教養って言葉のもつ意味を考えさせられるなぁ…と思ったのでした。

 

 

菊人形で見たなぁ…とか、山笠で見たなぁ…なんてそんな感じも、全てつながっているのですよねぇ…

 

今で言うと、ウルトラマンや…なんてテレビの中のヒーローやアニメと一緒だろうなぁ…なんて思いも持たされました。

 

口上というものが元々はどんなところで、どんな風に言うものを大元として歌舞伎の口上が歴史的にどんなものか?そんなことも知らずに拝見しました。口上って何?って思っても関心がないときには、見たいとも思いませんでした。今回も、正直みたいと思っていたわけではありませんでしたが、拝見して口上ひとつもいろんなものがあるのかもしれないなぁ…って思わされました。

ちょうど、私が拝見した一年前に初めての襲名披露だったとか。それはお父様もいらした…みたいですね。ブロマイドが売ってありましたから。それを思うと、一年後の姿として…などいろいろとあるのだろうなぁ…。

 

芝翫奴というものを拝見して、ビックリしました。

なんであんな状態で、立ち上がったり…とリズムカルに…

 

ただただ、この世界で生きている歌舞伎俳優の方々の中にある日本文化が生きている在り様に、こんなに自分は日本文化を知っているのだろうか…?なんて、圧倒される体験になった観劇でした。

 

海外から日本へ…って日本の歌舞伎を見て、驚く姿と自分と違いがあるのだろうか?なんて思うこともあったりして、帰りがけに「今回の芝翫奴は…」なんて話し合っていらっしゃったご年配のご夫婦の会話が聞こえたとき、ホント…何度も見たりするから、精進されている姿も優劣を評せるのでしょうねぇ…って。オーケストラの演奏を聴いて…などとも一緒でしょうけど、その世界を楽しむって何事も奥が深いものだなぁ…。

 

何事もやってみたり…関心を持つから凄さも伝わる…

日本の文化などを次世代に…なんて言っているけど、私の好きな日本文化は…?なんて、それぞれが持つ背景は日本という単位でも違う。奥の深さを多方面へも理解しようとするというのは、自分が興味関心を持つ好きなものをマニアックに…ホント、オタクになるくらいの関心の示し方ができる人の方が、何でも無関心でスルーっと流しているより国際社会を知るにはいいのかもしれない?

 

周囲の大人が関心を示さないものを子どもが関心を示すわけがない…という意味では、日本文化を伝えないといけないから…って圧しつけようとしたら、きっとイヤになるかもなぁ…というのも同時に思いました。

 

 

 

汕頭(スワトウ)刺繍

以前、気になって調べた時には出ていなかった?気付かなかった資料も改めて検索すると見つけることができるものですね。

もしかしたら、調べる人がいたら情報を提供してくれる人が出てくる?そんな気がしてくるくらいです。

 

中国の広東省東部にある汕頭地方で受け継がれる手刺繍。

汕頭刺繍の発祥は、広東州東部の町「汕頭」。
1858年の天津条約を機に、宣教師たちがヨーロッパの刺繍技法を伝えたのが始まり。

 

ヨーロッパの感性と中国古来の技法とが融合。

 

オープン・ワーク(切り抜き刺繍)の一種で、生地を切り抜いたり、糸をかがったり束ねたりして透かし模様を表現する、ドローンワークという技法を使っており、とても手が込んでいるもの。

 

ヨーロッパでは多くの女性たちがスワトー刺繍に魅了されたそうです。舞踏会やパーティで使うための最高に上品とされている白い刺繍と白いレースのハンカチ!というように広まり…。正式の場所でこのハンカチを持つことが、貴婦人の誇りとなり、これをきっかけにヨーロッパ全土にまた世界へと広まっていったのだそうです。

 

と、ここまでは以前調べていて知り得た情報でした。

 

スワトウ刺繍の伝承ができていない結果です。農家のおばちゃんが親から子へ、子から孫へと受け継いだ技法が工業化・都市化の波でみんな割のいい仕事につくのでこんな手間のかかる刺繍などやりたがらなくなっているのです。今のスワトウギャルはボタンも付けられないと思います(ちなみに中国の小中学校には家庭科がありません。料理洗濯 家事全般できません。オフクロの味は中国ではすでに絶滅品種です。ちなみに書道もありません)。

 このように書いてあるブログを発見しました。そちらのブログでは、元々スワトウ刺繍と売っていたものは、安価なものだったと書いてあります。そして、現在は機械で作られているものが主流となっており値段が下がっていると。絶滅危惧種とも書いてありました。
以前調べた時はこんな話も見つかりませんでした。実際はどうなのかは置いておいて、中国の小中学校には家庭科がないというところにへぇ~って思わされました。
中国汕頭(スワトウ)地方に息づく汕頭刺繍は母から娘に受け継がれる手仕事の妙技。
18世紀、イタリアの宣教師によってもたらされたヨーロッパの刺繍の粋は、中国の美意識と少女たちの細やかな手を得て究極の手仕事として大きな花を咲かせ、現在に至っています。
1858年の天津条約を機に、宣教師たちがヨーロッパの刺繍技法を伝えたのが始まりといわれています。
と、具体的に書いてあるサイトも見つけました。1858年となると、18世紀?
スワトウ刺繍の特徴は、吸水性の良い綿と麻の生地に刺繍をしたものです。上品さとデザインの美しさとを合わせて、飾りにも実用にも合わせる、これがスワトウです。
こちらに文章は、中国の販売サイトの紹介文から。
 汕頭刺繍には大きく分けて2種類有り1つは抽綉「ツオシュウ」で織り上がった生地の縦糸、横糸を数本引抜き空間をあけ飾り糸を通す方法です。もう一つは拉綉「ラシュウ」で生地に糸を通し引きながら広げて空間をあけてゆく2つの技法があります。
この詳しさと写真は嬉しいなぁ…って思わされました。
 
スワトウ(汕頭)といえば『刺繍』で我々には有名です。ところが町にはそのかけらもありません。中国人には、『汕頭』=『刺繍』のリンクはまったくありません。得た仮の結論は、外貨稼ぎの為に汕頭のごく一部の地域で刺繍が産業として存在しているのであろう、ということです。
と、書いてあるサイトを発見。日本で着物売り場で見るような扱いの刺繍ではないのですね。
検索し回って発見するのは着物の話とハンカチの話…と、日本のものばかり…。
あと、中国の工場?機械で作られているんだ…と、手作りではないのですね。
そう思わされました。

毬杖 ぶりぶり香合

毬杖(ぎっちょう)について以前知りえたときに書いていました。でもって、一度ブログデータを全て消してからもういっか…って思っていました。

だけど、「ぶりぶり香合」のためというよりは「ぎっちょう」という言葉自体を知りたくて…と、何度も調べまくるのはやっぱり面倒。もう一度書いた文章データを引っ張ってくるよりは、いろいろ違うものを見つけることが今度はまたできるかもしれない~って調べます。

 

なぜ「ぎっちょう」が気になるかというと、私自身左利き。左利きのことを「ぎっちょ」と言われたりしてきました。でも、なんか差別用語らしいということで使ったらいけないらしい…くらいの認識でした。ただ、「毬杖」のことについてお話を伺い、これについて調べたとき、お茶道具として「ぶりぶり香合」の由来を知りたいと知る程度には出てこなかった。

 

ただ、こないだ母から「なんで左利きをぎっちょと言わないようになったのだろう?」と素朴に聞かれた。ん…母も軽く左利きというのか、成長する中できっと右利きの人は耳にする機会は少ない言葉かもしれないけど、左利きの場合結構耳にする言葉だよねぇ…。今度は言葉のほうで気になりました。

データ消した…ついでにもう一度以前のものをアップしなおすのもひとつだけど、素朴な疑問もついでに…新たに調べてみようかな…と思わされました。

 

まず、「ぎっちょ」って使ったらいけない言葉なのかなぁ…?

結構同様の質問をしているのを発見。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/2575112.html

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1200185.html

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1122976736

など。

それから…

左毬杖と左義長にも書いてありました。

 

毬杖(ぎっちょう)は、木製の槌(つち)をつけた木製の杖を振るい、木製の毬を相手陣に打ち込む遊び、またはその杖。振々毬杖(ぶりぶりぎっちょう)、玉ぶりぶりとも。杖には色糸をまとう。

平安時代に童子の遊びとして始まり、後に庶民の間に広まった。その後は形骸化し、江戸時代頃まで正月儀式として残った。現在では、地域における文化体験の一環として時たま楽しまれる。左利きの人が毬杖を左手に持ったことから、ひだりぎっちょうの語源とする説もある。『本朝俚諺』には、「俗間に、左の手の利きたる人をぎっちょといへるは、左義長といふ意、左専(もっぱ)らききたるに準(なら)ふ」とある。

これは、ウィキペディアにある説明でした。

 出土した毬杖の先端部と毬」ということで、写真が紹介されているサイトもありました。

 

左義長・三毬杖(さぎちょう)

(もと、毬打(ぎっちょう)を三つ立てたからという)小正月の火祭りの行 事。宮中では正月15日と18日に吉書を焼く儀式。

清涼殿の東庭で、青竹を束ね立て、毬打3個を結び、これに扇子・短冊・吉 書などを添え、謡いはやしつつ焼いた。民間では正月14日または15日(九州では6~7日)長い竹数本を円錐形などに組み立て、正月の門松・七五三飾(しめかざり)・書ぞめなどを持ち寄って焼く。

その火で焼いた餅を食えば、年中の病を除くという。子供組などにより今も行われる。どんど焼。さいとやき。ほっけんぎょう。ほちょじ。おにび。三毬打。新年の季語。徒然草「三毬杖は、正月に打ちたる毬杖を真言院より神泉苑へ出して焼きあぐるなり」

 

 

さて、この毬杖は打毬に使われるラケットのようなものをいうそうです。この打毬は、中央アジアの一角で発生したそうです。西に流れたものがヨーロッパに伝えられて「ポロ」となったんだそうです。そして、東にながれたものが中国で打毬となり,やがて朝鮮半島を経て8~9世紀頃に日本へ伝わってきたみたいですね。

 

奈良・平安時代には、端午の節会の際に行われる宮中の年中行事だったそうです。

この打毬について、宮内庁のHPにも書いてありました。

 

朝鮮半島では、撃毬(きょっく)と呼ばれ、武官の登用試験の必修科目だったそうです。朝鮮王朝時代に入って、ますます盛んになり、第4代王世宗が「撃毬がうまい人は、乗馬と弓術も上手で、槍と剣術も上手になる」とその重要性を強調していたんだそうです。

日本に残る舞楽の中に、この撃毬の様子を舞いにした「打毬楽」があるそうです。

中国の伝説の皇帝と呼ばれる黄帝の作とされているそうで、日本へは仁明天皇の頃に伝えられたといわれているんだって。

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その昔、この舞を舞うときに毬杖を右手に持つところを左手に持って舞った貴族がいらしたそうです。その様子を周囲の人達が見て、

「左手で毬杖を持っている=左毬杖」

と呼んだことから、左利きを「ぎっちょ」と呼ぶようになったという説もあるのだそうです。

 

 

 

 

日本のポロ・打毬,ぶりぶり,打毬楽 ~イスラム文化と古代日本ということで、詳しく書かれているブログ?を見つけました。

 

さて、お茶の席で見る「ぶりぶり香合」のことはすっかり無視して調べていましたが、いろんな国のつながりもさらに知る機会になりました。

また、動画も見つけることができました。感謝。