博多織

【博多織の誕生】

博多織の始まりについては諸説あるそうです。

だけど、博多織の組合では、満田彌三右衛門を始祖としている。この人は、博多の承認で、33歳のとき(1235年)、僧侶 圓爾辯圓(聖一国師)の随行者として博多綱主 謝国明の船で南宋に渡り、5つの製法を習得して6年後、辯圓とともに博多に帰ったそうです。

この5つの製法とは、織物・朱・箔・素麺・麝香丸だそうです。

そして、これらの技術の中で織物と朱を家業と定め、子孫に伝えたんだそうです。

広東織の高度な技術を修得していたから、家業としたんだとか。広東織というのは南方物資の集散地として広東に集まっていた織物全般のことかもしれないそうです。宋から直輸入の意匠や織り方も日本化していき、改良されていく中で、独創的な意匠を考えたいと辯圓に相談したところ、真言宗の仏具(独鈷)と華皿をデザインしてみることをヒントに組み合わせて図案化したのが、今に伝わる独鈷華皿の柄といわれているそうです。

 

天文年間(1532~1554年)、満田彦三郎がさらに入宋して広東の織物を研究して帰り、博多の竹若伊右衛門に秘技を与えてともに工夫し、地質は厚く、浮線紋も柳條もあるモダンでシックな文様を織り出し、覇家台織(博多織)と名づけたといわれているそうです。そして、さらに伊右衛門は改良して「織り耳」をつけ、天正年間(1573~1591年)に帯地として売り出したそうです。

ちなみに、 「覇家台」とは中国における博多の呼称の1つだそうです。

浮線紋って?浮線綾は、織り糸を浮かせて模様を織った綾織物のことだそうで、このことかしら…?

柳條は縞のことみたい…って調べるのが大変。

織耳とは、織物の左右の端のことで書いているのかなぁ…?

 

【献上博多と黒田藩】

関が原の戦い後、1600年に筑前に封ぜられた黒田長政は、博多の西に城を築き、那珂川を外郭の東の境とし、自らの出身地 備前福岡にちなんで、この地を福岡と名づけたそうです。その後、那珂川を境として西の福岡は武士の城下町、東の博多は町人の町になったんだとか。

黒田藩は毎年、独鈷華皿が一幅に二本以上入っている紫・紺・赤・黄・青の5色の男帯を幕府に献上したので、これを献上博多というようになった。毎年3月に帯地十筋と生絹三疋を献上していたそうです。この5色は、もとは隋の思想で、森羅万象のあらゆる現象の基となるものは「木・火・土・金・水」の五つとした五行説を、色と結び付けたものだそうです。

藩は献上博多帯の希少価値を維持するために、保護の名目で生産と販売の両面にわたって厳しい統制を行い、織屋株を持った12戸だけにしか博多帯を織らせなかった。江戸時代の初めは高級絹織物の原料である生糸はすべて中国からの輸入品。幕府は糸割符制度といって、一括購入して割り当てる政策を取っていたが、博多への割当を制限し、境や京に優先的に割り当てたことも博多織を停滞させた。そのため江戸後期まで江戸や京・大坂でも博多帯は貴重品扱いであった。そのことが西陣・桐生・米沢などの企業地から模造博多織を出回らせたんだそうです。

刈安染の青は「仁」を、茜染の赤は「礼」を、藍染の紺は「智」を、鬱金染ないし楊梅皮染の黄は「信」を、そして紫根染の紫は「徳」を表している。とウィキペディアにありました。

1655年には糸割符制度は廃止。国内での養蚕が奨励されるようになったそうです。各地で養蚕が盛んになり、享保から文化までの百年足らずの間に生糸の生産量は4倍。西陣では600戸の機屋が2000戸になったそうです。

博多では、織屋株を持つ織元の中にその権利を売り渡す人が出てきたり、隠織といって藩に内緒で博多織を織る人も出てきたそうです。

黒田藩の博多帯の統制は少しずつ緩んでいったが、黒田藩の施政方針が、企業地としての立ち遅れにつながったことは否めないと書いてありました。

また、模造博多織の普及は、博多織の価格を下落させたそうです。

 

【明治以降】12戸 → 49戸 → 107戸 → 240戸

江戸時代が終って…幕府がなくなって…。

制限が解かれたら、織元から独立して開業する人も増え、明治10年には織元が49戸になったそうです。

明治18年には博多にもフランスの新しい紋織装置やドビー機が入ってきたそうです。

博多織の織元も増え、明治20年には107戸、30年には240戸にも…。

博多では平地献上だけでなく、紋博多や紗の帯なども織られるようになっていった…。

江戸時代に博多織は主に男帯だったそうですが、明治の中ごろから女帯が増えて、女物が主力になって行ったそうです。

第二次世界大戦が始まると徐々に統制も強くなり、昭和17年には企業整理により博多織企業者は31名に。第二次大戦中、博多の布地は、特攻隊の軍服や落下傘ベルトなどにも使われた。

第二次大戦後の復興と経済成長とともに博多織の生産も徐々に増え、昭和47年に最盛期。しかし、昭和48年、昭和54年の石油ショックで業界全体に大打撃を受けた。

昭和51年には博多織は、通産大臣から伝統的工芸品の指定を受けた。

当初の指定は、博多帯のみだったが、博多での着物地の歴史も古いことが証明され、平成23年にはきもの地も指定された。

『日本のきもの+』第49号 等参考

伝統七品目|博多織工業組合

 

【博多織の特長】

博多織の帯をしめていると、キュッキュッと絹鳴りがする…って、ホント、ちょっと動くだけで音がしますよねぇ…。と読みながら思っちゃいました。

この地合は、経糸を細く密に、緯糸を太くし、経糸で緯糸の張りを強くし緯糸を力いっぱい打ち込む織法から生まれたもの。

○絵緯博多

紋の織り出し方。通常の紋織物の場合は、「絵緯」といって地を組織する緯糸とは別に文様表現だけに関わるいろいろな色の緯糸で織り出される。博多織は、紋経糸と呼ばれる地経とは別の経糸によって文様は浮織りにされる。これを「浮けたて」と言っている。

 

博多織の献上帯は、三原組織の平織が変化した「たてうね織」という組織で織られている。

 

実際に体験させていただきました。

足の筋肉を使ったなぁ…って終って足がブルブルしている…そんな感じになりました。体験できてよかったです。感謝。

 

2013.11.13追記

 

 

投稿者:

nova

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