拈華微笑

ねんげみしょう 拈華微笑

この言葉も、ノートには書いているけど、ネット上に書いていない。だから、探すのにノートをひっくり返さないといけない…面倒。

意味は、言葉を使わずにお互いが理解しあうこと。心から心へ伝わる微妙な境地・感覚のたとえ。

【故事】

釈迦が霊鷲山(りょうじゅうざん)で弟子たちに仏法を説いたとき、黙って大梵天王から受けた金波羅華(こんぱらげ)をひねって見せると、摩訶迦葉(まかかしょう)だけがその意味を悟って微笑んだので、釈迦は彼だけに仏法の心理を授けたという故事による。

 

類義語いっぱい。

以心伝心

経華別伝

教外別伝

維摩一黙

笑拈梅花

拈華瞬目

感応道交

神会黙契

不立文字

黙契秘旨

 

さて、これをなぜメモっていたのか…というと、恐らくその後にメモしていることと関連しているのだろうって思います。

禅宗は、菩提達磨を始祖として、「教外別伝・不立文字」を掲げ、釈尊の説いた経論には寄らず、座禅によって悟りを得ようとする宗派という説明がありました。それを理解するにいたる過程で出てきた言葉。

禅宗は『大梵天王問仏決疑経』という経典をよりどころにしている。

その経典によると、

釈尊が涅槃のとき、聴衆の一人が一重だの睡蓮を釈尊にささげた。釈尊は黙って受け取り、ひねって大衆に示した。その場の大衆は釈尊の意図するところがわからなかったが、摩訶迦葉一人がそれを理解して破顔微笑した。そこで、釈尊は「正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門有り。不立文字、教外別伝にして、摩訶迦葉に附属す」と言って、仏の悟った深遠微妙(じんのんみみょう)の法門は経論・言辞によらず、ただちに以心伝心をもって法を摩訶迦葉に附属した

ということだそうです。この内容が正しいのか?とメモしているのを見ると、ホントかどうか、わかりません…。

 

不立文字、教外別伝」の主張は大梵天王問仏決疑経に見える言葉である。この経典には次のような話が述べてある。ある時大梵天王(ブラフマー神)が世尊(ブッダ)に説法を願い出て金婆羅華(こんぱらげ)という美しい花を世尊に奉った。

説法の座でブッダはその花を大衆に見せた。この時大衆はブッダが考えていることが分からずポカンと見ているのみであった。ただ一人摩訶迦葉(ブッダの高弟)が思わずニッコリ笑った。

これを見たブッダは「吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相微妙の法門あり。不立文字、教外別伝なり。摩訶迦葉に付嘱す。」 と言ったという。この経典に不立文字、教外別伝と言う言葉が出てくる。 いわば禅宗のルーツとも言える経典である。

しかし、このような事実は他の経典には一言も触れられたことはない。この「大梵天王問仏決疑経」は今では中国で作られた偽作経典とされている。不立文字、教外別伝を主張する中国人仏教徒(禅宗関係)が、西天28祖の伝法神話と同じく、自分達の主張をブッダ伝来の正統なものであると権威付けようとしてこの経典を偽作した可能性も考えられるだろう。

禅の公案を集めた「無門関」の第6則「世尊拈花」はこの話を元に作られたものである。著者である無門慧開禅師は大梵天王問仏決疑経が偽経であることは知らなかったらしい。またこの経典には正法眼蔵という言葉も出てくる。

大著「正法眼蔵」を表わした道元禅師も「正法眼蔵」という言葉の基となる経典が偽経であることは知らなかったようである。 日蓮は「蓮盛抄」という著作の中で大梵天王問仏決疑経について述べている。

この経典はいつの時代にインドから伝来し、誰によって翻訳されたかについて古い記録を調べても何も記録がない。従って偽経であると結論付けている。日蓮のこの指摘はなかなか鋭いと言える。

達磨は迫害され殺されかけたと伝えられる。恐らく普通の真面目な中国人仏教徒にとってどんな経典にも書いてない「不立文字、教外別伝」を主張する達磨の教えは経典に基づく仏教を否定する邪教だと考えられたのではないだろうか?

「不立文字、教外別伝」の言葉は圭峰宗密の「禅源諸詮集都序」に教禅一致の思想を歴史的に説明し、達磨の思想として出ている。

「祖庭事苑」という(1108年発刊の禅籍)本には「教外別伝不立文字、直指人心見性成仏」の言葉が出ているとのことである。

「碧巌録」の第一則「武帝問達磨」の評唱には「不立文字、直指人心見性成仏」の言葉が出ているのでこの言葉は有名であったことは確かであろう。

 この文章は、禅の思想というサイトから。

 

さて、この文章から見ても、確かに経典は無さそう…。

 

ただ、迫害されているものに対して、真実はどこにあるか?本当のところを図り知ることは難しいと思います。中国では、迫害するものを徹底的に痕跡を残させない。日本もそうでしょ?

そう思ったときに、本当か嘘か…という話よりも、そこから何を産み出したか?生み出されたものに価値があるかどうか?それでいいんじゃない?ってね。

 

正直、今だって中国は自分の国の考えに合わないものを徹底的になくそうとしていますよね。

 

日本も…そうやってきた過去あり。

 

座禅という一つの手法というのか、この方法はインドでは昔から座り方とかは別であっても、あったもの。

いろんな人が間に入ることにより神とのつながりにバイアスが入る可能性を排除する意味では有効だろうと思います。そして、どのような宗教名で伝えられているとしても、神は自分自身の中にある。つながるための理解を深めたり、そのような存在を肯定するための学びのために宗教はあったとしても、最後は自分の中にある。

 

禅宗というものをよく知らないし、正直、他の宗派も知りません。

ただ、葬式やら、説法やら…いろんな形で私が接している回数が多いのは禅宗。でも、ホント知らないことがいっぱい…。知ろうとすることが最初の一歩かも…くらいです。

 

私の名前自体、お坊さんがつけたということで、とにかく、自分の名前自体を知る意味でも、ちょっと調べて…と思うのです。

もう、詳しくいきさつ等を知っていそうな方々は他界。母もイマイチわかってないし…。

 

ただ、仏教をよく知るお坊さんがつけることはあまりしない字だよと、ある人から言われた漢字が使われている私の名前。その意味もわからないけど、いろいろと知ろうとすることによって知ることは増えていく…意味ではわからないからこそ面白いのかもしれません。

 

いろんな人の役割があると思いますから、私の役割も…と、自覚できているかいないか?以前よりはわかってきたかなぁ…と思うところもあります。

 

華をひねって微笑みあう。

そんなことがあるのか?といわれたら、私はあると思うのです。だから、そんなこともあるかもねぇ~と思います。ただ、伝わるということは、そこまで考えていることたち…ありとあらゆる知識経験等を同じ程度有しているということ。

iPS細胞を公的に発表するまで、黙っておくのに必死でした…という話を耳にしたとき、きっと同じようなことを必死に探求している人たちだったらわかるということがあるということ。私が聞いても、「あ!」って思って出し抜こうなんてできなかったと思うのです。

拈華微笑も、そんな感じかなぁ…って。ある程度まで達した学びを共有しているからこそ気づく。

 

座禅も悟りを得るまでに、無心に…という状態が共有できているのなら宗教宗派の形にとらわれないで通じていくものがありとあらゆる人たち共通していくのかなぁ…?と思います。

表面での違いで争う…それはお互いに学びが足りないということに過ぎないかなぁ…宗教での争いってそんなものではないのかなぁ…私自身悟っているわけではないし、様々な宗教宗派を知っているわけではありません。ただ、知らないで判断することだけは愚か…。知る努力をせずに自分のそれまでのバイアスで、相手の世界観を判断する愚かさは先人たちの反面教師。そうではない人たちから学び、自分自身を精進させたいと思います。年をとっているから自分立ちの方が優れている…と思っている年配者たちに出会う体験を多々持ちますが、偉人たちの文章をたくさん読んでいる読書量の多い若い人のほうが学びが深いのかもしれないと、しみじみ思います。それを強く思うのは、無知無学とは言いませんが、読書量が半端に少ないまた偏っている先生方と接し思うこと。私も知らないことが多い…けど、学んでいない年をとって指示している言葉たちを横で聞きながら、こうしたらいいのに…と何で知らないのだろう?とずっと思っていましたが、理解したのは学習量が絶対的に少ないということ。それは…と口出しすると人権侵害しかしない…そんな人達と働いて思うのは、勉強していない人が教育するほど社会をダメにすることはないということ。

なんで、こんなに言われていることを知らないで指示できるか?金曜日にも思ったのですが、反目。時間の無駄です。指摘しても、そしてこうしたら…?も無視するしかしない人たち。そんな人たちがいっぱい。勉強してから給料もらえば…?若いうちに読書量が圧倒的に足りないのに教えることをしていて、受験指導なんて大学生でも高校生にできる行為。それで満足して学び足りない…それが日本の経済失墜につながっているのでしょうね。でもしか先生たちの教えに追随した日本教育ってかんじ。

投稿者:

nova

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