2013あけましておめでとうございます

ようやく、昨年いただいたコメントを読み終わりました。そこで、コメントを下さったみなさまへ。まずは、ありがとうございました。感謝申し上げます。本年分だ!とようやく今年いただいたコメントを拝見したので、書き始めします。

 

今年は、いつものように…よりがんばったのは、初日の出を見に行きました。


初日の出を見に行くのは久しぶりでした。

日本では一年に一度の最初の夜明けとしてめでたいとされ、初日の出参りを行う人は数多くいる。この習慣は明治以降に盛んになったと言われている。

これは、ウィキペディアにある一文です。

 

とりあえず…、本のタイトルは思い出せないけど、明治に入り政府主導でとにかく神社と寺と分けて、天皇を神として崇めることで国をまとめようとしたところに、ご来光って初日の出を見に行く習慣を奨励したようなことが書いてありました。

 

たぶん、山頂に上がったりして見たら日の出の時刻として発表されている時間に日の出を見ることができるのかもしれません。しかし、私が見た初日の出はそれから約10分過ぎてから。

 

「正月」という言葉は、中国から伝わった言葉。中国、周の時代に11月を正月と言っていたのだそうです。そして、王朝が交代すると暦も一変。時代が下って1月を正月というようになったのだとか。

調べてみないといけないと思っているのは、旧暦では必ず冬至を11月におくようにしていた理由。

冬至は日照時間が一番短い日。その翌日から日照時間が長くなりますので、万物を育む太陽が再生する日として、多くの文明で一年の終点(起点)として使用されています。それなのに、旧暦の一年の長さを単純に365.25日とするユリウス暦精度の暦と、歳差運動を考慮に入れた太陽太陰暦では、400年で約10日のズレが生じます。

ある年にユリウス暦精度の暦と太陰太陽暦が日付合わせをしたとします。常識的に考えて、ユリウス暦が冬至を大晦日とすることになるでしょう。1200年後にはユリウス暦の冬至は11月になります。太陽太陰暦は、太陽に合わせて月を決めるので、冬至がある月が12月でかわりありません。この冬至が11月になってしまったユリウス暦精度の暦が、ある年から精確な太陰太陽暦に移行すると、11月に冬至が来る太陰太陽暦ができあがります。東洋の暦、すなわち古代中国の暦が冬至を11月に置いていることは、千年以上の歴史があったユリウス暦精度の暦が、あるときから太陰太陽暦へ移行したことを物語っています。

  ここで気になるのは前漢の武帝が10月を翌年の1月にする改暦を行っていることです。前漢は秦暦を使っていました。秦暦は中原の暦と2ヶ月のズレがあり、秦暦の10月が中原の1月でした。前漢は武帝の時代に、秦暦を中原の暦に合わせたのです。中原の暦が太陰暦だったことは明らかなので、後ズレしていた秦暦がグレゴリウス暦精度太陽暦だった可能性が高いです。

 順番に言うと、おそらく商(殷)はどこかで千年以上の伝統がある太陰太陽暦を手に入れました。その時点で既に太陽暦と太陰暦の間には1ヶ月のズレがあり、商は11月を冬至とする太陰太陽暦を使うことになりました。西周と中原諸国はこれを継承しました。これに対し、西周を滅ぼした秦は、太陽の観測によって日付を補正しない固定太陽暦を使用しました。それは秦が文明的に後れていたためか、あるいは中原とは違う思想を持っていたためかどちらであるかは不明です。

と、書いてあるサイトから。

冬至を11月に置くように旧暦はできている。そんなルールと月の満ち欠け周期と太陽の周期。

新月から新月までの月の満ち欠けひとめぐりのサイクルは29.5日(正確には29.530589日)

冬至から冬至までのサイクルは365日(正確には365.24219日)

 

実はこの両者が重なることは非常に少なく、19年に一度。それが、今年起こる。これも貴重な年かも。

そんな日を「朔旦冬至」といい、今年はその年。めったに訪れることのない大変おめでたい日とされていたといいます。

冬至はかつて1年のはじまり。その後の紆余曲折をへて、いまでは旧暦の11月だけど…「朔旦冬至」は旧暦11月1日と冬至が重なる日って思うとびっくりでした。

 

天保暦では,冬至を含む月は11月,春分を含む月は2月,夏至を含む月は5月,秋分を含む月は8月となるように調整するというルールが加えられた

と、こちらは『新法暦書続録 巻四』にあるそうです。

 

旧暦2033年問題

なるものがあるそうで…こんなことを知るきっかけになりました。

 

 

正月の日本古来の呼び名は「ムツキ」。『日本書紀』にすでに一月は睦月と表記されているそうです。

「睦月」は「睦み月」仲良くする月の意。

「正月をむつきと申侍るは、しる人なrは、たかひに行かよひて、いよいよしたしみむつぶるわざを、しけるによりて、此月をむつびづきと名づけ、それを略してむつきと云也」と古書にあるそうです。

 

正月は、本来は歳神様を祭り、新たな年の豊作を祈るものだったところに、楽しみを求める人々の心が加わって現在の正月行事に発展したそうです。

 

小笠原惣領家の伝書に「正月朔日一日を元三ということは、年の初め、月の初め、日の初め、かくのごとき儀を持って三つの元というなり」とあるそうです。そこから、三が日と称したそうです。そして、正月の期間は「五カ日ということは、一日、二日、三日、七日、十五日なり」とあるそうです。

 

七日は、人日の節供あるいは七草の節供といって、一年の節供の始まりの日。男正月ともいう。

十五日は、小正月といい。また、地方名?女正月という。

 

 

古くは1月15日(小正月)までが松の内といい、この日まで門松を飾っていた。結構、成人式がずれるまではそうだった気がします。門松飾る期間を、江戸時代に徳川幕府の命により1月7日の大正月までとしたそうですが、関東地方以外には広まらなかった過去があるようですが…今は7日までみたいな雰囲気は広がっている気もしますね。

1月15日の朝には小豆粥を食べる習慣があったと過去では普通だったようです。古くは『土佐日記』や『枕草子』などにも、小正月に小豆粥を食べたことが記されているそうです。平安時代、宇多天皇のころから始められたそうです。「この粥は小豆粥といって、小豆、ささげ、きび、あわ、みのごめ、とろろいも、米を混ぜて粥とする」と7種のものを混ぜていたそうです。現在では、小豆と米と餅をいれたもの。ただ、現在でも東北地方の農村などに、左義長の前に小豆粥を食べる習慣が残っている地域があると東北だけのように書かれている文章を発見しました。ただ、「だんだら粥」ってものを食べていることを働き始めてすぐくらいに教えてもらったことがこのことにつながったときは感動しました。食べている子は意味わからないで食べているけど、この昔普通にあったらしい習慣って、方言と同じで伝わっていって残っているのですね。ちなみに、これらの地域では、元日から小正月の期間中に小豆(あるいは、獣肉を含む赤い色をした食品全般)を食することが禁忌とされている場合が多いのだそうです。こちらは本当なのかな?小豆粥を食べる習慣はなかった私ですが、確かに鏡開きをしてぜんざいは食べさせられていたのは覚えてます。

本を開くと載っている情報でも、サイトでは見つけることができませんでした。

 

歳神様は日の出とともにやってくると、明治時代山へ登り迎えに行くって広まったとのこと。

 

先日、鏡餅の説明をしていたら、「あのプラスチックの中に餅が入っているやつでしょ」という反応を受けて、「餅を丸めて重ねる」と話したら、「それは食べられないでしょ」ともったいないと言われてしまった。鏡開きというのがあって…と説明しても伝わらず…

 

 

歳寒三友

約300件、コメントありがとうございます。
今、久しぶりに開いたら、ありました。
本当に感謝です。

正直、「歳寒三友」という言葉を、これまでの人生で使ったことなんかありません。ただ、これって、松竹梅のこと。
松竹梅はよく耳にします。

この「歳寒三友」という言葉は、奈良時代に中国から伝わった言葉。

論語からの言葉だそうです。

これは古い本みたい…と思うのですが、本のタイトルがわかりません。
そちらに書いてあることには…

中国で画題として登場したのがいつか…
松は、唐の時代の中ごろ
墨竹画は、唐の終わり~5代
梅は、北宋~南宋の時代

日本に伝わったのは、明の中期といわれているそうです。

と、こう書いてある文献を見つけながら、私の読んだ本は「歳寒三友」が日本に伝わったのは奈良時代と書いてありましたので、時代が違うなぁ…。

明時代は、1368年 – 1644年

奈良時代は、710 – 794年

言葉として、「歳寒三友」と松竹梅がつながるのは後ということでしょうね。

中国では、「岁寒三友」と書くのだそうです。

論語の 「子曰、歳寒然後知松柏之後凋也」 「益者三友

から生まれた言葉だそうです。

歳寒三友とは、厳しい時の三人の友を指すとのことなんだとも。

三番目の友が「直なる友」=「物くれる友」

二番目の友が「諒なる友」=「義侠心の強い友」

困った時に自分のことのように親身になって相談に乗りかつ動いてくれる友のこと。

一番大切な友は「多聞の友」=「知識が豊かで冷静に判断をしてくれる友」、「原理原則を教えてくれる友」ということ。

なのだそうです。

歳寒三友という呼称は、風雪や厳寒に耐えながら、一年中みどりをたもつ松の持久力(マツは“持つ”に通じ、長寿命につながるとも言われている)、屈することなくすくすく伸びる竹の成長力、春、百花にさきがけて花を開き、ふくよかに香る梅の生命力に捧げる賛辞でもあります。そして、このことばをいかなる困難にも耐えしのぶ志操堅固な人をあらわしたりもするそうです。

 

「厳寒三友」とも。

松や竹は厳冬の霜雪に耐えて千年の常緑を保つことから、梅は霜雪を凌ぎ百貨に先駆けて馥郁と香るところから、高潔・節操・清純などの象徴と賞されて「厳寒三友図」が日本へ室町時代に中国から伝わってきたそうです。

 

ではなぜ、これが日本に取り入れられたか?

もともと日本では、

松は神霊が宿る木という信仰が古来からあり、神聖な気とされていて、平安時代には長寿につながる樹木としてめでたいもの。

竹も、古来より神聖なものとして扱われており、天に向かってまっすぐ伸びる「猛々しい」という意味が付け加えられて演技のよいもの。

そうやって、縁起のよいものとして、室町時代に松と竹を新年に門口に飾り延年を祝うようになったそうです。

江戸時代に、春に先駆けて花を咲かすというところから梅も門松に加わりました。

 

中国では

後期・高潔な植物とされていた松竹梅。

 

日本は

古来からの松や竹への信仰、

そして、吉祥・瑞祥の象徴としての性格が

強調されたのだそうです。

 

江戸時代になって、地歌、長唄などに松竹梅が取り入れられた祝儀曲が数多く作曲されて、唄われたことも広くもてはやされるようになった要因とも。

 

中国の絵画では、厳寒に耐えている中に梅。雪と梅の春の兆しとして扱われることが多いのだとか。

 

日本では、梅に鶯の方が今では多いかも…。だけど、着物柄に、氷梅もありますよね。

 

門松も、もともとは3メートルもある松に竹が添えられていたそうです。

 

日本の文化は、中国の文化の影響を受けているけれども、面白いことか、他国の文化をどのように取り入れているか…という点ではどの国も不思議なかんじですね。

紙本墨画 歳寒三友之図

 

特にめでたく縁起がよいという組み合わせ

「松に鶴」

「竹に雀」

「梅に鴬」

よくある組み合わせ…かな

 

もともとは「松竹梅」に優劣はないのですが、この順番に言うことが多いから、この順番に優劣の順位があるように商売で扱われているからイメージとし優劣ありそうに伝わってしまっているのは本当は残念なことかな。

 

なんと…

「梅ちゃん先生 第23週 名前の秘密 歳寒三友」

ということも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

福久清一 輪島塗 

ん…

 

不景気って、本当にどこもかしこも…と大変なんだろうって思います。

ただ、もしかしたら、今度…って写真を持って歩くことはしないだろうから、偶然にも見てこんな風に使わせていただいていますよ~とお礼代わりに。

屠蘇器と重箱の絵を描かれている方が廃業すると伺いました。

ん…。

私にとっては、驚きというよりも、本当にどこも大変だよねぇ…という意味では生活をしていくことが優先…仕方ないと思います。ただ、数年前から金が高騰しているから…と金彩ってドンドン材料費があがっているとおっしゃっていたり、漆器を使う人自体も減っていたり、本当にたいへんでしょうね…と生き残るための努力…どの世界の日本の工芸を作っている方も大変だろうって思います。

正直、写真にある磁器を作っている方々も、もしかしたら本当に大変なのかもしれません。

 

今、景気の悪さ…などなど、いろんな理由から安さを求められて…。

見た目にはわからない…かもしれないけど、漆器だって漆の割合が変わっていっていたり、下地が樹脂になっていったり…、中国など他国で作られていたり…いろいろ。

 

陶器だって、品質のよい原料を求めると高く…海外から集めたり…など、どの世界の人も同じだろうけど、どうしたら生き残ることができるか?苦心されていますね。

 

私は、そんな作品作り…ってある意味ではバカなことかもしれないけど、妥協せず愚直に?作られているものたちを…そんな高くとは購入できないけど、日本の伝統技術がなくなってほしくないなぁ…という思いで、作っている人売っている人達のお陰さまで手に入れて使っています。

少しでも多くの人が使うといいのに…と言いたいけど、重箱も使われるような食文化自体が衰退しているし…など考えると、何軒も漆器・陶器・ガラス細工・着物…などなど廃業されていく話を聞くこと本当に多い。

だから、それでもがんばり続けている…そんな方々のものが売れていくといいなぁ…って思いますが、100円ショップでも重箱あったり…など、価格の方が先行して同じものでなくても、手に入れることができる価格帯のもの…という選択。そして、きっと手に入れることができる人達の生活からは不必要なものになっていってるのかもなぁ…って思うところのものたち。

 

私にとって、初めて輪島塗のもの…多分、骨董品って自分の家のものを販売されていた専門学校でご一緒した方のお吸いもの碗を購入した時だろうって思います。輪島塗だとか、何塗りだとか、何が違うのかもイマイチわかっていないような…でも、そんな感じだけど、何が違うのか知りたくて…って感じで手にしました。

それを機に、陶器フェアみたいなところで塗り物を売っている…と何が違うのか?など、いろいろ教えていただいたりしていたのでした。

 

他のブログに書いていた文章です。

漆器の技法そのものは、縄文時代にまでさかのぼるんだとか…凄い。

輪島塗の最も古いものは、河井町にある「重蔵権現本殿の朱塗扉」だそうです。室町時代の大永4(1524)年の作といわれているのだそうで…約600年前のものですね。

輪島塗って…はてなマークなんて、よく聞くし、見たことがあるのに…そして作り方も聞いたりしたけど改めて何だろう?と調べてみました。

石川県輪島市で作られる漆器を輪島塗という?

輪島塗の発祥は諸説あるそうです。
天平年間に真言宗の行基により鳳至郡門前町に総持寺が創建された際に畿内より伝来したとか
た室町時代中期頃、紀州の根来寺の寺僧が輪島・重蓮寺に来て同寺の什器類を製造し伝来したとか
福蔵という者が根来に行き技術を伝習したとか…

輪島塗の特徴は、木地に生漆を塗付した後、縁など破損しやすいところに「着せもの漆」を塗った麻布や寒冷紗(綿布)などの布を張って補強する「布着せ」をし、生漆に米のり及び「地の粉」を混ぜ合わせたものを塗付しては研ぎをすることを繰り返し、上塗りは精製漆を用いて「花塗」または「ろいろ塗」、加飾は沈金または蒔絵によることにあるとこちらには書いてありました。

調べていて、へぇ~…
女の子が自分の髪の毛で刷毛を作り、お父さんがそれで仕事をする…?
そんなことで輪島塗を調べてみようと夏休みの課題研究みたいに調べてまとめたものがアップされていました。

近年の考古学的調査によって漆の歴史も約6800年前にさかのぼることが、明らかとなったんだそうです。その最古の漆塗り製品は、能登半島・田鶴浜町三引遺跡から出土した竪櫛なんだって。
凄いですよね~くさっていないって…

輪島塗について、輪島漆器商工業協同組合がサイトを出している…って読んでいて、輪島塗だけでなく漆器そのものについて知ることができる感じでよかったです。

この表は、作る工程がわかりやすい~って思いました。

$食べる喜び 食べる楽しさを 健康とともに!(change!change!change!を改めました)

輪島塗工房ということで、自分で選んで行きながら工程を学べるように作っているサイトがありました。

子ども向けに輪島塗のサイトも…凄いですね。

石川県って、こんなにいろんな伝統工芸などがあるんだ…って思わされるサイト。上手ですね~わかりやすい。どの県もこんな風に紹介されているのかしら?

漆器は英語でjaponというのは有名ですよね~。

インターネットオークションを以前見ていて、「柿右衛門」「九谷焼」「輪島塗」とにかくたくさん出てきますね。
輪島塗って書いてあって本物なのか…?とか、見分ける技術があるのなら塗りなおしてお手入れしてもらえると教えてもらいました。木地がいいとなおよいらしい。

私が初めて輪島塗って購入したのはお椀。これは古物。自分の家に伝わっていたものを…とお店を出された知人から何か一つ…と思って購入しました。それは、塗りなおしてもらいました音譜

ご縁ってつながるもんだなぁ~と思うのです。
手に入れて、少し色が日焼けしているなぁ~と思っていたのです。どうしたらいいかなぁ~と思っていたら、輪島塗の塗師の方とお会いでき、見てもらうことができました。デパートを通すとメチャクチャ高い…ってね。また、ギャラリーの方にも塗り直しを頼んであげますよ~とは言ってもらうなど、気になるとご縁ができていきますね。
直接に塗師の方にお願いしてキレイにしてもらったときに、塗る価値があるかないか…なんて判断もしてもらったり…。

 

そう、私が最初に手に入れたお吸いもの椀も見ていただいてホンモノ…と、疑っている申し訳ないのですが、伝来由緒正しくても確認って大事よねぇ~って、色が褪せていたのを塗っていただいたりしました。違いを見分ける…のも素人だと難しかったり…ってしますよね。

いろんな漆器の産地があって、どこのものを買おうか?とかも…?

でも、実際使用される頻度が減っているものでもあるから家にないというところも増えているでしょうね…。

 

そんな中でも、使わないとわからない…くらいに何でも試してみるって、それまで家にあったお重箱はもちろんあるのですが…使うことに意義ありのおせち作りでもあるし、無地でもいいから安いものないかなぁ…くらいに無理言いながら、作られているものを売っていただいたり…としているもの。

 

ホント、素敵なものたち…なのに、なんせ高い…のは仕方ない部分もあるよねぇ…とは思いますが売れないと仕方ないんですよね…。

 

今、ボストン美術館の日本美術の至宝展があっています。

東京まで見に行きたかったんだけど…って、地元まで回ってくるのを待って見に行きました。

東京 → 名古屋 → 福岡 → 大阪

 

もう一度行きたいなぁ…と思うくらいに素敵な作品たち。

 

漆器の展示を見に行く…って、『パリに咲いた古伊万里の華
また、マリーアントワネットを魅了した漆器、蒔絵って展示も見ました。

ホント、素敵な作品…と海外にいっぱい行っているねぇ…と思わされるのは、今回も一緒。

なぜ、こんなに素晴らしい作品たちが海外にあるのか?

 

 

今回のボストン美術館の件に至っては、江戸時代から明治時代に変わる中で、お金に困ったそれまで幕府の下に安泰に暮らしてきた人達が二束三文のように売ったものを、当時日本のものに価値を見いだされていなかったから国内で買い手がつかず、国外へ…。ボストン美術館に集められたお陰さまでたくさん残っている価値高い作品たち。本当に見に行って、こんなに素敵な作品たちを堪能できる機会に感謝と思うばかり…って、ゆったり展示を拝見できたのも幸いでしたが…。

 

同じだなぁ…って思いました。

 

水源地近くの土地を相続税を支払うために売りに出しても国内で売れないから、海外へ流出しているという話を聞いたこともやはり同じだなぁ…。

 

 

全部一緒。

 

 

何を大事だと思うか?

それって、個人の事情として現金が必要な…相続税を払うために日本の水源地帯の土地が無くなっていく以外にない。

 

日本の工芸品たちも…生活するために海外へ…。

 

いろんな日本の伝統文化たち…廃れていくばかり?

 

 

正直、ダンス必修化より、日本の文化を学べる機会を必修化したら?なんて思いますよね。

 

着物着ることのできない

お茶飲めない

お花無理…

いろんな分野があるけど、修得するまでしなくても、学ぶことができたらいいのに…。

 

ライオンキングもいいと思うけど、芸術鑑賞するなら日本の伝統芸能にしたら?とかね。

 

無くなっていくものは要らないもの?

 

 

海外へ出た日本文化が日本以外で根強く手許危うい~…って、他の国はそんなことはないのかなぁ?

 

元々輪島塗は、日用品。お手入れのために…と船にのって各地を回って塗り直しなどをしていた…と、各地を回って売ること塗り直し…ってされてました。作って売って…ホント大変だなぁ…って。

使い続けることができるように…って、古い物も使えるように対応して下さったり…って本当に使う人の立場に立って考えてくださっていた方でした。

 

プライドがない方かもしれない…っておっしゃってましたが、そんなことないと思います。二代目…って初代のものを大切にされていて、二代目ってご自身の作品も、細部までこだわり作られて…って凄いなぁ…と思ってみていました。というのも、高いからね。

 

同じような図案で、他の人の作品を百貨店で拝見することもありますが、松なども綿毛なども愛らしい感じで好きでしたのに…。まぁ、技術あること、始めることもできるだろう…って信じたいですよね。

 

サイトを作られていたんだ…って、ちょっと違う…と生活のためにいろいろ…とおっしゃっていた分みたいですねぇ…。また修繕の様子も紹介されていたのですね。オークションとかに出てるじゃん…海外向けを発見してしまいました。というか、ビックリ塗り物海外へたくさん出ていってる?

 

母に話したら、生活していくために仕方ないことだろうしね…と、自営業の浮き沈みをよくよく知っているところのこと。私も…少しだけわかるので、やむえないというのもわかるけど、技術ある…って本当に素敵な絵を描かれていることとこだわりを感じていたところ。続けていけるとか、技術を後世に伝える機会を持てるといいのになぁ…って思いますね。

 

人の面倒見がいい…

 

他人がやらないこだわりなど持って取り組まれていたのにね…。

この方が作られたもので、ほうずきの香合を持ってます。小さいほうずきの香合。だから…本当は大きい方が高い?なんてくらいの特価!と出されていたところをいただきました。

でも、小さい方が作るのは難しいんだとか。もう作らない~と手ばなすところにたまたま巡りあわせました。枝まで残っているところがいいんだとか、本物のほうずきに漆をかけていく話を教えていただきました。

 

他の作家さんの紹介したり…自分の商売の紹介をおしすすめる…という代わりに、先代からのお客様でもう整理していかないといけない…という方の古物を売ってみたり…ホント他人のことばっかりでしたねぇ…。

 

絵の細かくてきれいなことも好きでしたが、使う人の身に立って案じてくれたり、古物に対してもそれを作った人のことを考えてそのまま使った方がいいのか直した方がいいのか…って、そのまま使った方がいいとか結論出すとお金にならないでしょ…ってね。

作家さんとしてどうなんだろう~?って調べていたら、この方のことを書いている方が他にもいらっしゃいました。

 

調べてもお父様しか出てこない…というのは、美術展などに出していないと出てこない?

 

 

古典を題材にして作品を作る方はいっぱい。

そんな方々との違いって、ここをこだわっている…とか、いろいろ面白いお話聞かせていただいたりしていたのですが…。

購入された方が、自分が買ったものがどれくらいの価値があるかとかわかるために美術展等に出展してみている…とおっしゃっていた方もいらっしゃいますが、本当は見る人の目がよく気にいればそれでいい話…だと思うのですが、金額が金額だからやはりそういうものが必要となる世界なのでしょうね…。

 

金欄豪華じゃなくていいし、日常使いできるかもしれないけど長く使えるものが欲しい…とお重を探していました。そんなお重を重ね損ねて絵がずれるのも嫌だ…とかシンプルな方が好き…なんて金彩細工する方に無地がいいと言ったりして素敵なお重を手に入れさせてもらったのに…。いろんな人の作っているものを見る機会はあるけど、作品が出している気が優しいので好きでした。値段は他のところも考えてくれたりするけど、入っている心持が違う感じ…ってね。

 

ものは残る…確かにね。

 

技術を伝える…っていろんな方に対しても親切にされている…といえども、人の大変さをかぶって自分が辞める話になるのはなんとも聞いても仕方ないかなぁ…というのと母も私もそんな人の家族の気持ちは少しはわかるところあるかも…という感じと…。正直、父が覚悟決めて引き受ける…ってしていったりした気持ちを理解できる機会いただいた気分でした。

 

ネット上で履歴等見つけ出すことができなくて、ホントいろんな人の作品を拝見する機会持って見ることはします。うまい下手…よりものが発している温かさが好き。そんな基準で選ぶ私からすると、ホント残念…。どの工芸をされている方もご自身の生活をどうにかするのでやっと…という状況だと思うのです。特に、輪島は地震2度あったりして…本当に大変だろうなぁ…ってね。

材料にも妥協せず…という姿勢のところは、ホント大変ですね。だからこそ、その方々がうまくやっていけるといいなぁ…って思いますが、商売としてはちょっとずつでも妥協して一般に流通しやすい価格に…としているところのものの方が売れますね。

ご本人の絵より確かにお父様初代のものの方がきれいなのかもしれないけど、ご本人の絵もキレイだし絵から受ける感じが優しく温かい感じが好きなのになぁ…。

 

いずれにしても、まずは生きていくことが大事なのは確かでしょうし…。

もっと多くの方に見ていただく機会があるといいのにねぇ…とは思いますね。

どの分野も本当に作っている方々の作り続ける環境維持が大変でしょうね。

 

自分が大変でも、周りの業者さんのことなど心配して…ホント…いろいろときっとお客様には力ある方々いらっしゃるだろうに…って思いますが、それも頼りに行かず…プライドない?十分あるじゃんというか…お客さんに迷惑かけるのも…とかいろいろあるのでしょうね。

 

言えることって、ホントまた作り始められるように…って願うくらい。

 

あと、今度お見せしようって写真撮っていた器を使ったって写真。見ていただける機会あるかなぁ~?

 

いろんな漆器の技法を説明いただいたりして、本当に多芸…っていうのもですが、各地を回って…って作る暇あるのかなぁ~?なんて思ってました。

 

感謝。

 

河津桜

ノートにメモをしたことを見ながら思うのです。

ノートにあっても、私が忘れていると、結局、検索…と頭に残っているキーワードたちと一緒に探さないといけないんですよね。そういう意味では、私が覚えているキーワードとそのものがつながっている情報がインターネット上にある。それは、私にとって、覚えているキーワードとそのものの名前がつながるツールになるということ。せっせとネット上にアップする価値ありのことです。

 

静岡県賀茂郡河津町で毎年3月上旬に満開になるピンク色の桜。

本州一の早咲き桜。

河津桜の原木は、河津町田中の飯田勝美さん(故人)が1955年ごろの2月のある日河津川沿いの冬枯れ雑草の中で芽咲いているさくらの苗を見つけて、現在地に植えたものだそうです。

1966年から開花が見られ、1月下旬ごろから淡紅色の花が約1ヶ月にわたって咲き続けて、近隣の注目を集めたんだとか。

1974年にカワヅザクラと命名されて、1975年に河津町の木に指定されたのだそうです。

これは、たまたまの卒業式に使われていた桜。3月上旬に満開ってすぎなぁ…と思っていたら教えていただいた名称。

松の盆栽という卒業式を体験することが多かったのですが、壇上に花が活けてある学校でのこと。こんな時期に満開になる桜って何だろう…?と思っていたところに教えていただき、調べてノートにメモしていたものからでした。

 

カワヅザクラの原木は、伊豆急河津駅から天城山へ向かって1.2kmの地点、河津町田中の飯田氏宅の庭にあるんだそうです。

1999年(平成11年)現在の樹齢約50年、樹高約10m、樹巾約10m、幹周約115cmとのこと。

河津桜まつり公式サイトから。

河津桜の特徴
 河津桜は、寒緋桜と早咲き大島桜の自然交配種と言われており、樹形は広卵状で樹皮は紫褐色で光沢がある。花形は平開形で一重のやや下向きであり、花弁は5枚の円形で無毛である。

色は蕾の時は濃紅色だが、満開時は淡紅色になる。

こちらの文章は、河津町の観光情報から。