言うとおりより、するとおり

コメントをいただいて嬉しいけど、読み終わるのを待っていたら書けない…と先に100投稿目。

消えたとはいえ、ようやく100です。

 

いろいろと資料だけはたまっていきます。

 

だけど、100回目で見つけた順番より、今、この本に出会えてよかった…と今日出会えた本を。

 

感謝です。

 

その本のタイトルは、『置かれた場所で咲きなさい』。

以前発見したときは、手に取りませんでした。

でも、今日発見したとき、手に取ってみました。今日手に取った本は、売れているという棚から2冊。

そのうちの1冊。

 

この本との出会いに感謝です。

 

こんな事例いっぱい…と他人事のように…書きながら、本当にこの本に出会えてよかった…と思えることと仕事のために書くことは違うかなぁ…。

 

子どもは親や教師の

「いう通り」にならないが、

「する通り」になる。

子どもに何かを伝えるのに言葉は要らない。

ただ、誠実に努力して生きていくだけでいい。

 

価値観は言葉以上に、

実行している人の

姿によって伝えられる。

同じ事柄でも価値観によって受け取り方が変わる。

子どもには、愛と思いやりのある価値観を伝えたい。

 

1,2ページの出来事を交えたお話を、こんな感じでまとめてある。

いろんな同じことを書いている本を見ます。そして、本当にそうだよねぇ…と思うことなのですが、こんなにわかりやすく端的にまとめてある。そう思わされる優しい語り口。

いろんな同じことを言う文章よりも、伝わる気がします。

 

親の価値観が子どもの価値観を作る

 3歳ぐらいの子どもを連れた母親が、水道工事をしている人たちのそばを通りながら語って聞かせています。「おじさんたちが、こうして働いていてくださるおかげで、坊やはおいしいお水が飲めるのよ。ありがとうといって通りましょうね」

 同じところを、これまた幼い子を連れた別の母親が通りかかります。子どもに向かっていいました。「坊やも勉強しないと、こういうお仕事をしないといけなくなるのよ」

 価値観はこのようにして、親から子どもに伝えられることがあるのです。最初の母親は、人間はお互い同士、支え合って生きていること、労働への感謝の念を子どもの心に植えつけたのに対し、2番目の母親は、職業に対する偏見と、人間を学歴などで差別する価値観を植え付けたのではないでしょうか。…

 

なんて書いてある最後に

価値観は言葉以上に、

実行している人の

姿によって伝えられる。

同じ事柄でも価値観によって受け取り方が変わる。

子どもには、愛と思いやりのある価値観を伝えたい。

といった感じでまとめてあるのです。

 

53万部突破と書いてありました。

最初に見た時は、手を伸ばしませんでした。

だけど、知らずに語るなかれ。ちゃんと勝手に判断ではなく、読んで…と手に取りました。

 

いたるところ、本当に心洗われる思いがします。そして、年を重ねる凄さを思わされます。

 

日本で、いじめがなくならない理由。

その一番大きな原因は…?と尋ねられたら、私は大人の弱さだと思います。

ここにあげた母親。前者と後者のどちらが多いか?

学校の教員で後者に出会える確率は低いです。聞いていて気持ちが悪くなるくらいに後者の言葉を使う人が多いです。

あ~日本がよくならないなぁ…ではなく、しみじみと、伝えていることが違って、何を伝えたいのかという意識しているところがないから発言している言葉たちかもしれない。子どもを思って…の後者の発言と言いたいお母様方が多いんだろうなぁ…と思っても、この著者と同じように私も思います。というより、この文章を読んで安堵しました。母より年上のこの著者だから、時代が違うと価値観も違うの典型的な話でしょうか?

 

昨日、大雨、落雷。

櫓から下りるように…など、注意し避難。そんな中、まだ上がっている…。誰?と見たら、教員でした。

保護者や生徒にしめしがつかないね…。注意している立場はどっち…?

保護者だと危険を伝えに行こうって、動いたら言っている側。管理職に報告しても、わかっているでしょうから…と放置判断。

これじゃあ伝えているのは、何?

 

そう思っている矢先に読んだ文章。

 

いろんなことがありますが、言うことよりしていることの方が強いんですよね。

「これは禁止です」と言いながら、実際にそのことをしている人が何も言われずに過ごすことを見ていると、恐らく多くの人達は禁止を咎めることのできない組織と見るでしょうね。そして、一部の人たちは、咎められないのならしていい…そう判断するでしょうね。

 

雪山で遭難など、いろんなニュースが流れます。母が山登りを昔していて、見ていて言うのです。こんなこと絶対したらいけないのでは?と。時代が変わって、昔より便利になり、昔よりもしかしたら雪山でも何でも危険が減っているのかもしれないなど思いながら母の言っていることを聞きます。だけど、同じだよね…。禁止だったり、しなければいけないことには理由があったりする。その理由をわかっている人には、何をやっているんだ…と、実行している人たちを注意したり警告したり…しない人達に対して何をしているんだ…と思います。だけど、咎められない=していいという雰囲気が万延している感じがします。注意している矢先から、注意している組織から違うことをしている人の姿を見せる…。警察の飲酒運転みたいなものでしょうか?

 

そうしたい気持ちを理解するという側面もあると思うのですが、その行為によって他者へ与える言っていることに対する重みのなさを伝える行為としての側面を見るということはないのかなぁ…?

「こうやりたい」が規範よりも先立ち動く…何年も教員をしている人間の行為としてどうか?なんて思いながら、管理職が言いというのなら…と不快に思うけど、気づかれた方偉い!くらいでちっとも気づかなかった私としては、第3者へ与える影響って考慮するのは普通ではないということを学びました。

 

 

 

認知的不協和

認知的不協和とは cognitive dissonance

人が自身の中で矛盾する認知を同時に抱えた状態、またそのときに覚える不快感を表す社会心理学用語。アメリカの心理学者レオン・フェスティンガーによって提唱された。 人はこれを解消するために、自身の態度や行動を変更すると考えられている。有名な例として、イソップ物語のキツネとすっぱい葡萄の逸話が知られる。  これは、ウィキペディアから。

 

この言葉を調べてみようと思ったのは、『新しい学習指導要領の理念と課題』という本に出てくるから。

 

現行の学習指導要領に置いて…?多分、私が思うのは、ちゃんとどんなものかを知らずに表面だけをさらった人達が行った指導の中で、「自ら学び自ら考える」という面ばかりを強調されすぎたということについて書いてあるのです。

…そのために、保護者や教師、自分と違う友達の意見や感じ方の違いなどを虚心坦懐に受け止めることがおろそかになりました。また

自分と異なる感じ方や考えを内面で自分のものと照らし合わせて吟味・検討するといった面が弱かったように思います。

と書いてあります。

正直、「自ら学び自ら考える」と言って野放図にした人達から非難されまくったのは、展開等に対して系統だってさせようと課題を与えることなど。はぁ~?ってバッカみたい…と無視してました。だって、「自ら学び自ら考える」ためにはいきなりは難しいから、ステップバイステップと指導準備が大切。それをしないで、いきなり言われる生徒の方が混乱して当たり前でしょ…それを「なんだそれは…」みたいな言葉かけをする先生気取りの人達と働きながら、「そんなに口出しするな」とか言われるけど、それはそういうふうに考えてやるという風土をつくりだして、そんな形が定着したところからしかできないのにね…と無視してたのでした。だから、拍手!ってくらいに思います。

まぁ、徹底的に与えて…という人達もいますが、この余地のなさも嫌い。そんな思いの私には読んでいて、スーッとした「でしょ、でしょ」と思うところ。

 例えば、これまでの授業では、自分で課題を見つけ、自分で取組むことが強調されてきました。しかし、それだけではなく、教師から与えられる課題も、時には必要です。その時には関心が薄くても、大事な課題を与えられて取り組む中でその大切さがわかってくる、あるいはそれができるようになって達成感、有能感を味わう、という学習経験も必要だからです。

と、ホント、スーッとしました。課題を見付けさせるって結構難しい。枠を設定してあげて、その中で…など段階を経ていくと、全体的な漠然としたものも多くの生徒達が取り組めるなぁ…と思わされることはあります。だけど、初回からそれをするのは違うでしょ…という思いと、後はできる子もいるけど、そうできない子にとっては伸びずに終わるんだよねぇ…と思うのです。どちらかというと、伸びずに終わるのが問題と思っています。今の学校でも、与え方まずいよねぇ…って思うことばかりあっていて、意見する機会がない!ともう形が大まかにできてからしか話を出してこないしくみが「例年通り」の一番問題と思いますね。そして、問題にやらないと気づかないの…?とビックリするようなことでも、スーッと通っていたりしてます。「形をつくる担当になった人がこんなに頑張ったんだから…」の一辺倒で済まされるので、これってまずいよ!と知っていて言っても通らない…理由は3つ思ってます。1つは、これではまずいと言ってすでに変える話をやった経験がない。もう1つは、年齢でしか人を見ない。ラストは、勉強不足・視野が狭い・知識不足…で言っていることを理解してもらえない。最低最悪パターンを体験して思うのは、だから日本はよくならない…。そんな失敗談なんてとうの昔に過ぎている学校とかを体験して、言っていても、「なんでそんなことを言うんだ、やってもいないのに」という言葉を吐く年配者たちに出くわす度に勉強していないから何でも年数で経験したことしか…と言っていたら腐るでしょ?と思います。ホント…まぁ古いやり方から重い腰を上げるのが遅い対応の学校で思うことは、後追いする学校は嫌い!何でも最先端で取り入れてみて検討を重ねよくしていくということをしないと、法規法令が改正されて不都合にも対処できないと最初の職場で学んでいる私には受け入れがたいスタンス。どっぷり昔流…その昔流が大っきらいな私には頭古い…が何十年前の指導要領を見た話をしていますか?って思う度に嫌悪感しか感じません…と違うことを書きたいのに…。

 

書いてある所には、

教師から与えられる課題も、ときには必要です。そのときには関心が薄くても、大事な課題を与えられて取り組む中でその大切さがわかってくる、あるいはそれができるようになって達成感、有能感を味わう、という学習経験も必要だからです。

 先生から注意される、友達から違う意見をぶつけられるというのは嫌なものです。心理学的には「認知的不協和」というのですが、先生や友達から思わぬことを言われたら、それ自体が不快ですから避けようとします。しかし、それでは、世の中を生きていくことはできません。安易な上滑りの人生になってしまいます。

ということ。

実は、このところの課題を不快に受け入れない…。違う意見を出しても耳にしない自分を通す…ってやり方をする自己流の人と話すときに、こんな風に書いてある本を片手にでも話さない限り耳を貸さない年配者たちって学校教員は多いなぁ…って思います。本当にやっていたりしている人と話すときは、違いを理解して取り組むときに役立つって思いますが、もう「こう!」と決めているそのものがおかしい!と言っている言葉が通じない…。無知無学で教えようとしている人たちと接して共有するって本当に難しいです。こんな指導要領とか頭に入っている人達と働けていたことを本当に過去のこと…ですが、あのころがよかったって思います。全く通じない人達と働いて思うのは、だから生徒が伸びない!理由は簡単ですね。自己流以外知らない人たち…。実は先生の方がこんな「認知的不協和」を避けるから、生徒にそんな体験をさせないのかも?させているつもりになっているかも。

 

…「自ら」や「自主性」は最後に目指すものであり、プロセスでは教師の指導をもっと大切にしよう、ということをきょうちょうしているわけです。

 

とあります。そうだよね…と納得です。

 

 

例えばおいしいと評判のラーメン屋に行って行列に並んで食べたがあまりおいしいと思えなかった経験はあるでしょうか?

このとき人は「おいしいと評判の店。行列に長時間並んだ。」なのに「ラーメンが美味しくなかった。」という事に矛盾を感じ認知的不協和に陥ります。そして以下のように考えます。

「このラーメンは美味しいけど自分には味が分からなかっただけ。なのでこのラーメンはやはり世間一般的には美味しい。」

このように人は認知的不協和を解消するためにこのように感情を理論的にコントロールしようとします。この現象が大きく影響するのはプライシングです。

こう書いてある「認知的不協和」の説明サイト。こんなのも「認知的不協和」なのですね。

 

自分の状態(気持ち、経験)にそぐわない状況に置かれた場合、居心地の悪さ:認知的不協和が生じる。

  その居心地の悪さ:認知的不協和を避けようとして、自分を納得させられるような、自分の状態(現状・過去・欲望…)を正当化(合理化)するような、理屈や態度をこしらえて
 ・安心が得られるように
 ・自分自身の内部に矛盾がないように
 ・自分をほめることができるように
人は自分の考え方を変えてしまう

 

自分自身にもあることかなぁ…とは思いますが、教育の場でこれを体験させながら学ぶ機会を得る意義について書いてある文章を読む機会を得てよかったです。

 

 

 

出雲大社 in 京都国立博物館

部分的に撮影可能でした。

神々の国しまね

高さ48メートルあったといわれる古代出雲大社本殿を再現

という、このイベント?だから写真撮影可能みたいでした。

 

日本神話においてスサノオが詠んだ

八雲立つ 出雲八重垣妻ごみに 八重垣作るその 八重垣を」

という和歌。日本最初の和歌らしい。

そんな古文の知識?日本史の知識?も全くなく、行きました。

 

私は知らなくても、小泉八雲は知っていて、凄いなぁ…。

パトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn) さん。

この方、出雲にいたことがあったらしい。そして、その出雲で神事を最初に見た外国人だとか。

さて、このスサノオの詠んだ和歌から、小泉八雲という名前をつけたんだそうです。

 

神々の国の首都「出雲」 神在月神事【神迎祭と神等去出祭】

ネット上でたくさんの写真と共に紹介して下さってました。

 

私にとっては、小泉八雲 といえば… 耳なし法一。

小学校にあがるまえに、読み聞かされたお話。そう思えば、こんな話を聞かせることもすごいなぁ…。

耳なし法一と紀伊国屋のブックカバーと小泉八雲はセットの思い出です。

「神社と神さま」がよくわかる本: 境内の見どころ・参拝マナーからご利益までを完全ガイド

この本を部分的にみることができるようになっている…ってこの本も、こうやって博物館で拝見した後なら、書いてあることも理解…。

 

相撲が神事なのは昔からなんだ…って、埴輪として相撲取りが…ウソでしょ?っておもったけど、確かに力士姿。

 

神事もよく知りませんでしたが、海から蛇がやってきて…という話だったり、博物館でお聞きしながら、へぇ…って不思議に、そんな神事が根付いている様子を拝見させていただいて、小泉八雲の感じた出雲体験は、確かに海外ではなくても、日本国内でもその地域以外から行くと神聖な感じなのかも…って思わされました。

 

『古事記』『日本書紀』なんて、名称だけは日本史で聞いて覚えているかなぁ…くらいのものでしたが、本居宣長と『古事記』との関係も習ったのかもしれないけど…ちっとも記憶になかったです。

ただ、この本居宣長が『古事記』に注目して調べる…ってことをするまでは、長らく無視されていた書物?みたいですね。

それを機に、再注目されて…それまでは、『日本書紀』優位の神話が一変して、『古事記』優位の神話が主体となり、現在にいたっているのだとか。

「古事記伝(こじきでん)」 これは国会図書館のサイトをリンクしています。

京都博物館で、直筆というものを拝見しました。きれいな字。読みやすい字でした。付箋は当時なかったものですが、紙を貼って、それにいろいろと書きこんで…という作業は、簡便化されて今はポストイットなどいろいろありますが、なくてもやっていたんだなぁ…と違う学びも。

 

生きている間には全て発刊されていないことなども知りました。

 

古事記は、その序によると、712年(和銅5年)太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ)によって献上された、現在、確認できる日本最古の歴史書なんだそうです。歴史書という認識ではなく、神話などが載っているモノと思ってましたね。

上・中・下の全3巻に分かれており、原本は存在していない。

後世の写本として残っている古事記の序文に書かれた和同年及び月日などによって年代が確認されているのだそうです。

 

あまてらすおおみかみ

おおくにぬしのかみ

などなど…

 

神社で見かけるお名前がずらっと出てきます。

本居宣長が『古事記』を注目させたから、それ以降に、そんな『古事記』に出てきているお話の絵が描かれたり…してきて今に至っているそうです。ですから、あるときから…江戸時代の本居宣長が『古事記伝』を発刊するまで、その中に出てくる物語の絵などは描かれていないとか。

 

古事記 上 太安万侶 著 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772088/1

こんな書き方すると、今時の本みたいですが、近代デジタルライブラリーで見ることができるんですよね。

まぁ…江戸時代の出版物。

本当に昔書かれていたのかなぁ…?という疑問の声もあるのも確か。

 

出雲大社だったかの柱図が展示されていましたが、それも遺跡が出るまではまがい者扱いされていたそうです。でも、実際にそのように柱をつくっていた…って遺跡が出てから、信憑性が出て…と、昔のことはホントわからないですよね。

 

力士姿の埴輪が出てきてから、古墳に一緒に人を埋めるのではなく、埴輪を埋めませんか?と言ったというそんな記述に出てきている人の名前なども、神話じゃなくて事実かも?とか、注目されたのだそうです。

 

いろんな神様が…って、日本だけでなく世界中の神様に通じるものがある神様たちの話。

遠く離れていそうな…そんな感じでも、ギリシャ神話とかにも共通するような感じ…って、小さいころにギリシャ神話の分厚い本を読まされてから思ったのも、あながち間違いではなさそう?

 

京都国立博物館に初めて行ったのですが、建物自体古い?

外で雷がゴロゴロと鳴っている…って室内でも聞こえる。雨も感じる。

東京の国立博物館も古い…でも、そちらの方が手が加えられていて、近代的になっている感じも。

 

日本の政治の流れ…って、奈良時代平安時代…と、見えないものにも存在を認め意識していた時代の話があるのも、それよりも前にそんな話が当然のようにあったから?と思わされる日本の歴史でした。

 

屋久島で教えてもらったんだよね。

出雲なのか、伊勢なのか、私はよく覚えていないけど、建て替えるって伊勢かな?その時には、屋根材に屋久杉が使われていたんだそうです。そうやって切りだしていた跡などが、屋久島では見ることができる。
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食物アレルギー

日本経済新聞20102年8月17日

食物アレルギーに悩む親子らのために、食品メーカーなどが原因物質を使わない商品の開発や情報提供を強化している。ハウス食品は今月、アレルギー患者の多い乳や小麦を使用しないレトルトカレーを発売。小売り大手が専門売り場を増やすほか、外食も情報発信に力を入れる。消費者の要望に応じ、アレルギーを持つ人が食べられる食品を選びやすくする動きが広まっている。

すごい!

 

アレルギー対応のすすんだ商品として紹介されていたもの。

【ハウス食品】

温めずにおいしいカレー

製造後賞味期間3年と書いているのですが、なんか違うことも書いてある…。

賞味期限延長したって書いているブログを発見しました。

 

特定原材料7品目(卵・乳・小麦・そば・落花生・えび・かに)のアレルゲンフリーに対応。

「忙しい時」「災害時の非常食」「学校行事や行楽時のお弁当」「アウトドア」などさまざまなシーンで便利

 

【和光堂】

栄養マルシェ

アレルゲン不使用商品検索ができるフォームがありました。

ベビーフード。

 

【クラシェフーズ】

ねるねるねるね

使用の有無をパッケージ表示は今増えてない?

 

【山﨑醸造】

大豆を使わないおみそ調味料

みそ汁を飲めない子どものために大豆を一切使わず、玄米と米麹でうまみや風味を出した。

 

消費者庁によると人口の1~2%に何らかの食物アレルギーがあり、、特に乳児は1割程度がもつという。食生活や環境の変化で患者は増えているとされる。同庁は食品表示制度の見直しを進めており、アレルギー物質の表示の在り方についても関心が高まっている。

と書いてあった。

ディズニーランドの食物アレルギー対応を紹介しているサイト

他の施設もあるのかなぁ…?

ユニバーサルスタジオの食物アレルギーについての対応

キッザニアは見つけることができませんでした…。

 

 

 

 

 

年々変わっているけど…って、2011年のモノをリンク。

食物アレルギーの診療の手引き2011

食物アレルギーの栄養指導の手引き2011

保育所におけるアレルギー対応ガイドライン 平成23年3月 厚生労働省 保育所アレルギー対応H2303

保育所におけるアレルギー対応ガイドラインQ&A

 

「アレルギー疾患に関する調査研究報告書」 によると…

 

アレルギー疾患に関する調査研究報告書 アレルギー疾患に関する調査研究委員会(平成 19 年3月)

全国の公立の小学校・中学校・高等学校・中等教育学校
対象学校総数:36,830 校
(平成 16 年 5 月 1 日現在、本校のみとし、高等学校においては定時制及び通信制は除く)
うち、有効回答が得られた学校数 36,061 校(有効回答率 97.9%)
有効回答が得られた学校に在籍する児童生徒数:12,773,554 人 (平成 16 年 5 月 1 日現在)

 概要

 

日本アレルギー協会

よくわかる食物アレルギー 2010年2月10日 改訂版発行

セルフケアナビ 食物アレルギー お家でできること 発行:厚生労働科学研究 2011年3月 改訂版発行

 

 

 

食物アレルギー研究会

食物アレルギーと言われたら

 

食物アレルギーによるアナフィラキシー学校対応マニュアル 2005年 小中学校編

 

学校給食における食物アレルギー対応の手引き

愛知県

糸島市

三重県

札幌市

 千葉市

 

 日本アレルギー学会

 

日本小児アレルギー学会

災害時のこどものアレルギー疾患対応パンフレット 2011年5月

 

 

 

アピタル アレルギー夜間学校

 

 

よくわかる食物アレルギーの基礎知識  独立行政法人 環境再生保全機構

交差抗原性

 

 

アレルギー疾患対策現状、評価、課題
平成22年12月9日
(独)国立病院機構相模原病院 統括診療部外来部長 谷口 正実

 

 World Allergy Organization 食物アレルギー

The Food Allergy & Anaphylaxis Network 

 The Food Allergy & Anaphylaxis Alliance 

 

食物アレルギーによる発症予防事業

 

小学生における食物アレルギーの推移

 

世界中で食物アレルギーは生じているのかしら?

日本では、増えている…らしいけど、実際のところの数値的データを見つけることができなかった。

 

 

 

高校時代の勉強時間 大学・就職満足度に影響

日経新聞2012年8月14日朝刊より

上記タイトルの記事。

はぁ…?

高校時代に家で勉強する時間が少ないと、大学での達成感や就職内定先の企業への満足度が低い。

だそうです。

それを調べていて見つけた資料

 

なぜ日本の大学生は欧米の大学生に比べて勉強しないのか

こちらの方が面白そう…。

資料1 鈴木委員提出資料:文部科学省

 大学で育成する人材像と大学政策

大学で育成する人材像と大学政策

 

高校時代の勉強時間でその後が違う…。

同じ大学の人で比べたのかなぁ…?と疑問を持ちましたが、この文章は納得!と思ったのでした。

同センター元教授で、調査を担当した金子元久・筑波大教授は「高校時代に自分で勉強する習慣を身に付けていない学生は、自主的な学習が中心となる大学での成長の機会を積極的に活用できない傾向があり、キャリア形成にも影響しているようだ」と分析。

そうでしょうねぇ…というのと、これはなんかそうか…っと納得データは

高校生の授業外の勉強時間は、学力注意そうで減少傾向にあり、ベネッセ教育研究開発センターによると、1990年の112分(平日1日当たり)から2006年には60分(同)にほぼ半減した。

この文章を見ると、このデータはきっと正しいだろうなぁ…なんて納得しながらも、正直1時間以下か1時間越かで話を展開していることに「はぁ~?」って思う感覚も世代間ギャップで正しいってことですね。

1時間しか勉強していないで大学へ行こうって考えること自体、大学要らないんじゃない?とか言ったらダメなのでしょうか…私にとって一番わからないところですね。

 

たかが1時間勉強しているかしていないか…って思うけど、その1時間もしていない人たちが増えている…というお話の方が問題なんじゃない?それで大学行って…ホント変!と言ったらダメでしょうけど、