大切なのは、親が黙って見守ること

暮しの手帳67月号 64 2013

母子の手帳

第21回

大切なのは、親が黙って見守ること

―親は教育者ではなく、保護者に―

佐々木正美(児童精神科医)

 横浜で二十年くらい前のことでした。青少年の健全育成を目指す活動をしている人たちの依頼で、援助交際という売春をしている少女たちの相談にのったことがありました。

 そのとき私の心をよぎったのは、精神科医として東京やバンクーバーで、研修や訓練を受けていた時代に先生や先輩たちから、よく言われていたことでした。「相手の話をよく聞くこと、上手に聞くこと、そうすれば必ず道は開ける」。

 少女たちの話を、一人ひとりよく聞きました。

 はじめは私をとても警戒しています。彼女たちは親やまわりの大人をまったく信じていませんし、親を好きだと思っている子もだぶんいない。言葉の端々から、否定と軽蔑の気持ちが伝わってきます。私に対しても、こんな人と会っても何も代わらない、という猜疑心が表情ににじみ出ています。そんな少女たちと向き合って30~40分、話を聞くのです。

 話題は相手の好みに合わせることに徹しました。音楽にしろファッションにしろ、とにかく彼女たちが喜んで話してくれることに気遣い、心を配りました。実際、こちらが知らないことですから「それはどんなこと?」などと教えてもらいながら聞いていくと、みんなイキイキと語ってくれます。

 同時に、私も彼女たちの話を、心から楽しみながら聞くように努力をしました。若者の感情や文化を勉強しました。ちょうど同世代の息子が三人いましたので、彼らに教えを請いながら、彼女たちの話をよく聞きました。

 興味、関心、感動、共感といった感情を抱くよう心がけながら聞いていれば、どんなに口の重い人たちも、そのうち話にのってくるんだと実感しながら、何ヶ月、ときには年余にわたって話を聞き続けました。

 そうして話に本気で耳を傾けている限り、必ず少女たちのほうから、「売春」という行為について、私の意見を聞きたいという意味の問いかけをしてきました。

「私がしていること、先生、知っていますか」

 彼女たちは、自分の行為について、決して褒められたものではないことを承知していながら、簡単には非難されたくないと思っているのです。しかし、この人からは、思いきり叱られてもいいと思えたときには、しっかり叱責されたいという気持ちになるのでしょう。悪いことは悪いのだと、批判され叱責されることを、むしろ求めてくるものなのです。

「先生、どう思う?」

「あなたのやっていることはわるいことだと、僕は思う。親だったら耐え難く悲しいし、親でなくたって、僕は悲しい」そう、本気で答えたものでした。

 忘れられない経験でした。こちらから意見がましいことは言わず、ただ相手の話を聞くことに徹する意味を教えられたと同時に、彼女たちはそういう人に出会えることを待っていたように、私には思えました。

 

 思春期の若者たちは、自分の話すことをしっかり聞いてくれる、そして心をこめて見守ってくれている親や大人たちを、ひたすら求めながら、日々迷い、苦悩しながら生きているのだということを、よく知らなければならないと思います。

 大切なことは、彼らがほんとうに求めてくるまで、こちらの意見、とくに批判や叱責をするようなことは、できるだけ控えること。そうでなけrば、たいていの場合、怒りの感情を持って反発してくるからです。

 最近の親子関係でもっともかけているのが、その子が何をしたがっているかを聞いてあげよう、わかってあげようという、親の姿勢です。子どもが自ら話し出すまでじっと見守り、話をしだしたら、気が済むまで本気でじっくり聞いてあげること。そうすることで、子供は「自分のことを大切に思ってくれているんだ」と安心します。話を聞くことが、子どもの依存欲求を満たすことになるのです。

 ちょうど今、今で原稿を書いている私のわきで、テレビの番組が流れているのですが、居場所を失って深夜の繁華街をさまよう少女の話です。つづいて、母親を足蹴りにして骨折させてしまった少年の話です。

 ここの背景や内容はわかりません。

 子どもの幸せを望まない親はいません。しかし、そのとき「子供は何を望んでいるのか」という問いを忘れないようにしたいと思います。

 そして、幼少期から、子どもの話しをよく聞く、意見を言うよりも見守る、受け入れる。親は教育者になるよりも保護者に徹する、ということの意味と重要性を、私たちはもっとかみ締めることが大切なのです。

 

親が教育者であることも必要なことはあると思うけど…、保護者に徹するという意味が伝わりにくいだろうなぁ…とは思わされました。

今、親が学校の先生、塾の先生とおんなじ目線で、同じように対応している…それが問題だってことだろうと思ったのでした。

残念無念

今日、お彼岸の法要に参加しました。

そこで、講話がありました。

福井県のお寺の住職さんのお話

 

タイトルをつけるとしたら…「因縁」かも…なんて、「残念無念」について話されました。

 

残念無念って、続けて言うといわれてました.

確かに…言わないけど効くそう聞いたことがあるなぁ…。

 

残念とは、念が残ること

無念とは、念が無いこと

実は反対の言葉と言われました。

 

ん…確かに。

 

そこで、インターネット上で調べてみました。普通に言う言い方なら出てくるはず…

無念 ・ 後悔 ・ 残念 ・ 嘆く ・ 痛恨

同義語として、出てきた言葉たちがこれら。

 

質問サイトにも、出ていてベストアンサーになっていたものには

無念とは、

「(正念を失って)口惜しく思うこと」であり、ここでいう正念とは、「正気・本心」とか、「心から仏を信じ、一心に念仏すること」です。

とありました。ただ、ベストアンサーとして選ばれていないところに辞書を引いて…

「無念」
(1)仏教語
1.想念を離れた無我の境地にはいって何事も思わないこと。正念。無想。
2.とらわれを去った思い。執着のない正しい思い。
3.心の動揺をしずめて行う念仏のこと。
(2)正念を失ってくやしいこと。口惜しいこと。残念。
以上国語大辞典等から引き出しましたが、
無念の「無」については①─1.を参考になさってください。
そして②を見てください。無念=残念になっていますね。

漢和辞典を調べてみました。
すると、「無念」の意味のなかの「くやしいこと。残念」に【国訓】(わが国だけに用いられる意味)
とありました。

 

とありました。だから、仏教語というキーワードをたして調べてみると出てきたのは

よんで字のごとく「念がない」のですが、何の念が無いのかと申しますと、「妄念」という念が無いのだそうです。

と、こちらはお寺のサイトから。

 

仏教語大辞典(中村元著、東京書籍)によりますと、
①有念の対。妄念のないこと。とらわれのない正しい念慮。
②・・・省略(禅宗の派による解釈の違いなので省略しました)
③正念を失ったさま。残念。

仏教後大辞典なるものがあるのですねぇ…省略されているところも知りたいなぁ…と拝見したサイトにあった説明の一部

有念、念についても、辞書で調べて書かれていました。

 

 

 『無文老師の三分間法話』この本のことかなぁ…?

山田老師という人が書いた…と、お話の中に出てきた本。多分これだろうなぁ…。そこに出てくる話しなのか、講師が作られた話なのか?わかりません。

ただ、残念無念の説明として話されたこと。

 

朝、10のことをやろうと決めて仕事に出る。

1日を終えて、朝決めた10ができたかを考えるとき、6できたのなら、4が残念。

念が残るというもの。

だけど、4ではなく6を見たとき、6できるということは、周りの助けあって6ができている。

だから、「ありがとう」と受け止める。これが無念?

 

残念無念という

残念ならんことを無念にならんことを本意でありますことを

 

残念であったけれど無念

 

なんとなく、わかったようなわからない話でした。過去の一連の苦い話とともに、くっついてきた説明の話だから、一連の話をもってして理解させようとしている…から抜き出すと変な感じ。

 

退職してすぐに夫が亡くなられた妻に対して、どのような言葉を書けたらよいのか思案されて、本を読んでいたところにこのことならば自分の言葉として伝えることができると講師の方が思われて、妻に対してお手紙したという趣旨。その手紙に書いたことが残念無念ということ。

 

これから楽しく夫婦で旅行をしたり…と考えていたのに、残念…だけど、それまでの人生を見た時にその人の人生残念か?

 

そんな風に聞こえました。

ただ、おっしゃっていたことは、恐らく、そんなことを若僧に…といっても住職をはじめて10年経ったときのことだそうですが、確かに定年退職した夫を持った方はそれ相応の年齢…住職と悟りを開いている方とはいえ言われて、心情いかに…というところで、苦い話なのでしょうね。

お返事待っていたと10日して返事が来て…とおっしゃっていました。

 

うかがっていて、10日で来ただけ凄くない?なんてね。

相手の凄さ…夫を亡くした妻の凄さに助かった話…って苦い話?とも思わされました。

 

連れ添ってきた夫を失った老女に対して、それは「残念無念」という言葉が一番適当だろうと送った僧としての心はわかる気もするけど、そんな言葉をもらった老女の気持ちもわかる気がします。

そんな、簡単に、天命だったね…と思えるか?

震災等で若くして亡くなった人たちを身近に持つ人たちに対しても「残念無念」なのだろうと思うのです。だけど、そんな「残念無念」と言ってありがとうと言えるか?心情を思ったときに、怒りで帰ってくる可能性ありのことばだなぁ…って思わされました。それと同時に、「残念無念」と言葉をかけられた人の心情とあいまうと、意味が「口惜しく、とても残念である」という転じていくさまが思い浮かべられました。

きっと、「残念無念」と僧侶に言われるような状況って、一般の人にとっては、「かじったりんごを見て、かじられたところに注目するな、全体の完全なるところに注目せよ…なんて、いい方を見て感謝せよ」なんて言われていると思わない思えないような状況のはず。そんな中で発せられる言葉だろうなぁ…って思って、「残念無念」といわれた方は、ホント…悔しいよ…残念だよ…って言葉の意味を知らなければ深く心に残念を刻みそうと思わされました。

だけど、意味を知っていて「残念無念」といわれたならば、ありがたいと思えることへの注目に視点を切り替えるための言葉に聞こえる。

 

残念だけど、無念にして感謝して気持ちを切り替えることができるか?というより、切り替えるということなのかなぁ…って思わされました。

 

さて、このお坊さんのお話をうかがったら、タイトルつけるとしたら「残念無念」のはず。

だけど、私はそれに伴って話された言葉

 

一片のご縁、その一片が大事

 

漢字で書くと、「いっぺん」とはどの字を当てるのだろう?耳にして、字を思いつけていないから、これかしら?と勝手に当てた。

違うかもなぁ…。

 

一片に一片が加わって、因が重なる。

一片を因といい、因に縁を加えて熟する。

一片にどのように縁を加えていくか

いい縁を加えていく

 

一片のご縁、その一片が大事

どのような大きな結果も、縁をたどっていくと一片から。

 

話された順番に書いているのではなく、意味を取りやすく感じた順に並べてみました。

「因」という言葉と「縁」という言葉の意味を考えさせられたのでした。

なんとなく…って、今調べていないから、調べていないままに書くと「因」というのは種みたいな感じがして、「縁」というのはその種をどう扱うかみたいに感じました。

 

時は今 ところこのまま 今ここよろこぶ人は

 

これって、何かの出典ある言葉かしら…?とうかがいながら、ただ、この「よろこぶ」という言葉の意味は、無条件でその事実一切文句言わず全て自らの責任と受け止めて生きることと。

「よろこぶ」という定義自体も、目からウロコ。

 

 

母が怪我をしたので、行くことになった法要ですが、貴重な学びの機会になりました。感謝。

 

 

書き始めたのは昨日で、今朝書き上げたから日付おかしい。最初の10行くらい昨日。

平成24年度 生涯学習受講

ずっと始まって毎年受けているのですが、受講している内容等増えていくと、いつ受講したのか…って忘れてしまったり、どなたが講義してくださったのかもわからなくなったり…。

とりあえず貼り付けておけば、探せるかなぁ…。

 

今日も、チラッとむっとしました。たかが家庭科教員!栄養士の免許は持っているらしいけど、卒業後全く研修も何も受けていないし、管理栄養士の国家試験も受けたことがない。ただ、家庭科の教員をしていて教えているだけ…。あんたが習ったときから翌年から内容大幅に栄養学変わっていってるよ~と教えてあげたい…フードデザイン担当者。かつら剥きもできない。ねじ梅もできない。献立作成能力も…低い…ホント…それありえないでしょ…と組み合わせ聞きながら、それでは技術検定受からないよ…と思うけど、私のやっていることではない。とにかく、少しはできるようになってよ…って思うくらいですが、検定指導もしたことがないから…今回3級担当。3人だけだし…で、2級指導して…とりあえず検定委員として外部見てきたら~?って、ホント…できないけど生徒にはいい顔して言う…。やって見せることもできないのにねぇ…残念な人。

 

栄養学も残念…ってくらいに、2005年に変わったでしょ?2010年にも…って多分、根底の基礎栄養学も変わって行っていて代謝についての考え方も変わって行ってるけど、知らないみたいだし…。

「食物」から「フードデザイン」に変わったことで教える中身のポイントも代わっていることすら知らない人。

ホント…残念な…と、それでも栄養士持っているんだよねぇ…。そうやって50過ぎているおばちゃんも…嘘八百教えている…って私が栄養を教えていた後を教えた先生の教えている内容を聞いた瞬間にそれ嘘じゃん…と思ったけど、その学校に自分はいなくなったんだし…否定しても仕方ないのは、それ以上に勉強していないから時代が変わっても20年前の栄養学…を目の前で私より若いはず…でも教えているのを耳にして絶句。

 

そうそう…こうなりたくないから、管理栄養士の研修会にずっと参加しているし、ずっと栄養士会にも所属し続けている。学ぶ機会は、マスコミからではなく、ちゃんと専門性を保てるように…。

そして、調理も…主婦として頑張っている以上の努力していなくて、専門知識を身につけ続ける努力していない…でも、高校生には威張って話すことができる…。そうやって嘘を教えられた人が親になって、くってかかられたから教員に転職したんだよねぇ…私。

酷いなぁ…ってね。でも、教育大学で学んできた人の栄養知識はもっと酷い。栄養教諭の必要性…ホントは学び続けているのならいいんじゃない…って思うけど、学んでいる中身がまず持ってずれている話が教育大学出ている人たちは通そうとする…って絶句…だけど、栄養士持っているなら勉強しておけ!と絶句…とはいえないなぁ…。きっと変わって行ってるのを知らないなら、教育大学出てわけわからない栄養学を正しいと押し通す人と一緒…。

 

そうなりたくないなぁ…って学ぶのも、時間かかって大変。ただ、最先端を学ぶ機会を持ち続ける…卒業して翌年にはいろいろ変わった利した体験を持っている。また、栄養を教えているときに、根底から基準などの考え方も変わったりして…、それなのにそういうのも昔の知識ままで話している…のを目にするとイタイ。

家庭科の技術検定の問題集とか自体が、栄養学の変わっていっているのについていけてない…確かにそんな中身だったりするからなぁ…。

 

 

淡々と…受講して学んでいるんだけど、この研修会の方が専門性高いはずなのに、家庭科の先生たち対象で中途半端なかんじだけど研修会を私立の大学がやって説明した研修会を県は勉強していると評価するの。まぁ…生涯学習研修会は一般の人参加できないしねぇ…。

 

そんな知っていたら言ってはいけないでしょ…ってことが平然とまだまだ家庭科の世界では言われて、「おかしい」という話が通用しない。昔取った杵柄でそこから勉強していなくても、栄養関係の雑誌かじって読んだくらいでもシッタカブッタできるから…。

とにかく学ぶ機会…と受講していて思うことは、栄養の話が食から遠ざかっている…ようにも思えるほど、医療行為の一環だなぁ…という話がいっぱい。

そして、ドンドン変わっていっているなぁ…と毎年のように変わっている…って思う話と、大学のときに基礎的に学んだ…といえども当時では最先端的話のようなことだったものが今や当然のこと…というかんじ。本当に変化に富んでいるなぁ…と思わされますね。

 

シッタカブッタでお話されている基礎の栄養講義をチラッと耳にして、いつの時代から勉強をストップされていたのか、また大学でどの程度勉強していたのかはすぐわかる…くらいに、大学でも勉強していたけど、教えないといけなかったから『栄養』とつく教科書片っ端から買いあさって読んだ甲斐があるくらいに話している人がどのくらいにしか学んでいなくて話しているかはよくわかる。大学での講義で学んだだけで、それ以上に学ぶ努力していなかったら一緒だったなぁ…と、教えるために栄養学徹底的に勉強する機会を持てたことに感謝。

いろいろ受講したものを今思い出したなぁ…。

昔よりいただいた資料等に対して出してはいけない!など、規制ちゃんと言われるようになったりしているのでした。

でも、ホントは、ちゃんと探しやすいように…という意味ではそちらの資料を貼り付けたいくらい。

ただ、インターネット上では誰が読んでいるかわからない。医学や栄養学について知識が乏しい人が勘違いして読んだりしてしまうと、真面目にやっている人にとっては邪魔することになったりするんだよねぇ…。

理解していなくても、一緒に働いているシッタカブッタさんと同じようなことしてくれる人はいっぱいですから…。知る努力はしない。自分が知っている範疇で教えようとする…そうやって、それ違うやろ…と突っ込みたくなる話を耳にして…でも、言っても勉強していないから、その人には通じないんだよね…おかしいってことが。そうならないように…って勉強していても、多岐にわたる栄養学。

 

今日もチラッと耳にして、ん……………と思っても、昔そうだったよねぇ…という点では正しいけど、どんだけ勉強していないんだ…

 

わたしも受講したことをちゃんと覚えるために…って以前は書いていた。ただ、書くのは簡単だけど、読む人が適切に解釈してくれないとき、私が栄養士のときに体験したように…わけわからない「家庭科の先生が教えたというのに違うというのですか」という言いがかりを産む原因になるかもしれない…。今日は、それを思い出させられました。

 

 

五美四悪

「どういうことが身についたら政治家となっていいか」と弟子から孔子が尋ねられて答えたのが、「五美を尊び、四悪を退けることだ」。

五美(5つのやるべきよいこと)とは、
恵して費やさず(人々に利益を与えるが浪費はしない)、
労して恨まれず(人々の望む仕事や働きをさせ、過酷だなどと恨まれることはない)、
欲して貪らず(このようにしたいと欲するが、むさぼるように求めない)、
泰にして驕らず(貫禄があるが、決して相手を侮らず、傲慢ではない)、
威あって猛からず(威厳があるが、たけだけしくない)

四悪(4つのやってはいけないこと)とは、
教えずして殺す、
戒めずして成るを視る、
令を慢にして期を致す、
出納の吝かなる

なのだそうです。
これは、人を使う経営者・管理者にも当てはまる言葉で、特に、四悪は常に戒めなければならない内容…って、テキストに書いてあるのです。

このテキストの筆者が読みとる四悪とは
①教えないでおいて「何だ、こんなこともわからないのか」と傲慢に威張り散らかし、部下の面子を丸つぶしにする。
②指導もろくにせず、放りっぱなしにしておいて「こんな程度しかできないのか」と意地悪く罵る。
③命令内容や起源を疎かにしておいて「まだできないのか、なにをしていたのか」と、いびり散らかす。
④どっちみち部下に与える報酬なのにけちけちしていつまでも出し渋る。

こんな上司を持った部下は最大の不幸なのだそうです。権力にしがみつき、「この組織は俺がいるから保っている」という思い上がりの小人だから、ポストにしがみつき、執着して話さない。辞めさせようとすると恨みごとを喚く。
部下にとっても会社にとっても多いなる損失。

こんな人しか見たことなかったら?って思うのです。少なくとも現職でね。

五美のような経営者・管理者は部下に愛を持って臨むから、部下は敬を持って慕う。事を処する実力を内に潜めて人の能力を引き出す。功は部下に譲り、責は自分にありとする。…

やっぱり見たことないな…ってね。

細川藤孝という武将のことを書いてある所に書いてある文章であるのです。ただ、最近日経新聞で連載が終わったけど、元総理大臣の祖先なのでは?なんてうる覚え。ただ、新聞で読んでいた文意にこの細川藤孝さんの話も似ているなーってね。

でも、孔子は経営者・管理者ではなく「政治家になっていいか」と尋ねられての返答なんだよね…って。

子張問政於孔子、曰、何如斯可以從政矣、子曰、尊五美屏四惡、斯可以從政矣、子張曰、何謂五美、子曰、君子惠而不費、勞而不怨、欲而不食、泰而不驕、威而 不猛、子張曰、何謂惠而不費、子曰、因民之所利而利之、斯不亦恵而不費乎、擇其可勞而勞之、又誰怨、欲仁而得仁、又焉貧、君子無衆寡、無小大、無敢慢、斯 不亦泰而不驕乎、君子正其衣冠、尊其瞻視儼然、人望而畏之、斯不亦威而不猛乎、子張曰、何謂四惡、子曰、不教而殺、謂之虐、不戒視成、謂之暴、慢令致期、 謂之賊、猶之與人也、出内之吝、謂之有司。

このことに触れたブログ発見。
KUSHIDAさんって誰?有名なのかな…?まさしく、政治家のことについて触れて書いてある。

難しい内容だけど、これができた政治家の例を誰かを教えてくれるサイトってないのかな…?

 

これは、以前書いたブログの記事です。久しぶりに何が他の人の関心を持たせているのだろう?と調べていて気付いたことをお話します。

 

このキーワード検索すると、私のブログ(他のもの)がトップで出てきました。ビックリです。

 

 

書いていても自分でうまく理解できていなかったのかもしれません。「五美四悪」のお話を改めて読みながら、政治の話だけではないと思わされました。

孔子の言葉と言われている…と、どんな方だったのでしょうね。本当にいろんな言葉を残されていてすごいと思います。改めて読み直すきっかけを持ち、データを残せるように…と思いました。

 

The Goal ザ・ゴール

エリヤフ・ゴールドラット氏の書いた本『ザ・ゴール』を知ったのは2週間前。実は、手にとって読むのをためらいました。なぜか?関係ない…そんな思いがよぎったからです。

それでも、実はいろんな人がこの本を勧めた言葉を書いていること、そして、買わずに図書館で発見したこと…。めんどくさいけど借りてみたのでした。読むには分厚い…という持ち歩きにくさが気になりましたが、すぐに読める本でした。

 

企業の究極の目的とは何か

 

この本は、アメリカ製造業の競争力を復活させた、TOC(制約条件の理論)の原典と紹介されていました。そして、日本で出版される許可が出なかった…そんな感じの本だったそうです。

 

日本語版初版は2001年ですから、その当時ですでに空前のベストセラーから15年以上の間日本で翻訳されていなかったということ。

 

本の内容は本を読んだほうが良いんじゃない?と思いますが、この本を書いた人はイスラエルの物理学者。

この本に出てくるジョナに当たる人なのかなぁ…?

 

TOC Theory of Constraints 制約条件の理論

きっと、その世界では有名なんだろうと思います。

 

この本で企業の究極の目的が「現在から将来にかけて金をもうけ続けること」と定義されて考えられています。そして、そんなことは当たり前では…?なんて思っている人が大勢いて、そしてわざわざ読まなくていい…って判断しそうな本だろうとも。

ただ、日本語版でも552ページもあるよ…という私が読むのを辞めようかなぁ…という一番の理由でしたが読んでよかった。

 

工場だけではないし、ここに書いてある手法というのか、TOCというのか、ここにある5つのステップを広めるためにどうしたらよいか?というアイデアは教育にとっても重要だろうし、今社会で求められているものだろうなぁ…と思います。

 

ちょっと日本は、過保護に与えすぎて、考える力をだめにした…と反省するのは上手だけど、では?どうしたらいいかを考えて決断していくことをためらう…ゆで蛙とか言ったりしてますが、そんなこの本で書いてある表現を借りたら「古いモデルを続けよう…新型モデルの導入を拒否する…」そんな人たちをどうしたら変えることができるか?という点に注目しているところは、世界中で課題は共通しているのでは?と考えさせられるものでした。

そして、工場だけの話としてみるのではなく、大きく見ることができる本だなぁ…と、分厚さと関係なさを気にせずに読んでよかったと思いました。