遺伝子検査

先に、今現在、あと370の未読コメントがあります。コメントを書いてくださっている皆さん、ありがとうございます。

 

2014年4月11日日本経済新聞にて、遺伝子検査についての記事が載っていました。

いろいろと気になることがあったのですが、抽出してメモに。

 

人間の体は約60兆個の細胞からできている。細胞1個1個に同じDNAが存在する。アデニン(A),グアニン(G),シトシン(C) ,チミン(T)の4種類の化学物質(塩基)からなるDNAは、長い紐のような形で、細胞核の中に折りたたんでしまわれている。

遺伝子はこのDNAのところどころに点在し、生命活動にとって大切な約10万種類のたんぱく質を作り出す。人間だとDNAの約2%が遺伝子に当たる。約30億の塩基のペアからなるDNA全体が「生命の設計図」でゲノム(全遺伝情報)と呼ぶ。

 

病院の遺伝子検査

ある遺伝子の変化が特定の病気の原因となることが科学的にはっきりしている場合にのみ実施する。代表例は、神経難病や遺伝性の乳がん、家族性アルツハイマー病など。昨年、ハリウッド女優が遺伝子検査を受けた結果、ガンを予防するため乳房を切り取り、大きな話題になった。

最近は効果的なガンの治療薬を選ぶために遺伝子検査をすることもある。健康保険が適用されるケースが多い。

遺伝子検査を病院で実施するには、原因と結果の因果関係をはっきりさせ、検査方法も確立し、効果的な治療法があると言ったいくつものハードルを越えなくてはならない。

 

遺伝子研究の歴史

1865年 オーストリアの植物学者メンデルが遺伝子の存在を提唱し、親から子に受け継がれると発表

1910年 米の遺伝学者モーガンが遺伝子が細胞の核の中にあると証明。

1944年 米の細菌学者エーヴリーが遺伝子の正体がDNAであることを証明。

1953年 ワトソンとクリックがDNAの二重らせん構造を発見。

2000年 国際チームがヒトゲノムの解読をほぼ終えたと発表。

2003年 ヒトゲノムの完全解読

2005年 校則に遺伝子を解読する新しい装置(シーケンサー)が登場

2008年 日本人を含む1000人のゲノムを解読する1000人

プロジェクト」がスタートする。

 

藤右エ門

金銀富士02金銀富士03

藤右エ門表

藤右エ門裏

本日、ひさしぶりに…藤右エ門さんの器を購入しました。

感謝。

本当は、絵がきれい。

だけど、これは富士の金銀。

おめでたい~ということで、全く他とは違う作風かも。

 

小笠原藤右衛門さんという違う日ともいるのですね。

 

私の存じ上げている方は、昭和9年生まれだとか…1925+9=1934年生まれ。そっか…今年80歳になったということだったんだ~。

 

三右衛門と言われる柿右衛門,今右衛門などは別として…ともう一人は誰?

日本で初の赤絵付けの技法「柿右衛門様式」を開発し、一世風靡したことで有名な酒井田柿右衛門
今もなお、色鍋島の品格を守り続けている今泉今右衛門
そして、絵付けの柄をインテリアやアクセサリーなどにまでも展開させた源右衛門
この三つの窯元が「有田の三右衛門」です。

ただし「佐賀の三右衛門」といえば、有田の柿右衛門と今右衛門、そして唐津の中里太郎右衛門のことをいいます。

これは、このサイトから。

有田の三右衛門

 

 

有田陶磁器産業クラスター── 伝統技術の継承と革新の視点から ──

 

 

金銀富士01

自分の名前で作家として販売できるって…すごいことかもしれませんね。3代続くってこともすごいことかもなぁ…。

全く他と違う作風ですが、昨年拝見したときに、気になっていたもの。

 

藤の色がきれいな、絵を描かれる方でした…なんて、過去形にしてはいけないかな

あやめの絵を描いたお茶碗をお願いして作ってもらった…過去。本当に紫が綺麗~なんて、お元気で健在だったのでよかったです。

 

 

 

「ぞうさん」の贈り物

1998年6月1日の朝日新聞社説。衣替えについて

きょうから6月。衣替えである。

この変わりめに、こころの衣替えを考えてみたい。

まど・みちおさんに会った。

童謡「ぞうさん」の作詞家で知られる。

ぞうさん

ぞうさん

おはなが ながいのね

そうよ

かあさんも ながいのよ

大人も子どもも知らない人はいないだろう。作曲は團伊玖磨だ。

ぞうのこどもと母親の仲よしこよしの歌と思っていた。

「そうではないのです。ぞうの子が鼻が長いとけなされている歌なのです」

それでもぞうの子はしょげたりしない。むしろほめられたかのように、一番大好きな母さんも長いと、いばって答える。

「それはぞうが、ぞうに生まれたことはすらばしい思っているからです」

ぞうに限らない。ウサギもイワシもスズメも草や木も、地球に住む生き物たちすべてが自分であることを喜んでいる。人間だって、そのなかの一員である。これが、まどさんの「ぞうさん」哲学なのだ。

アイデンティティーとか「自分探し」といって、自分の存在証明に躍起になることもない。「あるがまま」でいいのだ、といっているように思われる。

人間も他の生き物も、それぞれにちがいがあるからこそ意味がある。違うもの立ちがその違いを生かして助け合うことが最善のみち。みんながみんな心ゆくまでに存在していい、共生の考え方だ。

まどさんは相手の傷や痛みを自分で引き受けてしまう。そんな詩を読むと、何か途方もなく大切なことをなおざりにしたままでいることを気づかせてくれる。

88歳。戦前、台湾にいた19歳から童謡や詩を書く。その数は千を越える。いまも書き続ける。

まどさんは繰り返し蚊の詩を書く。

刺しにくる蚊。おもわずたたいてしまうのだが、刺される側のまどさんは、血を吸わなければ生きていけない蚊の身の上にまで心を痛める。

きえいりそうに よってくる

きんいろの こえを

大げさに たたいたあとになって

ふと おもうことだってある

むかしむかしの

りょうかんさんだったらばなあ…と

たたいてしまった自分に傷つき、蚊のことが気にかかってしまうのだ。

こどもがしゃべった言葉を詩にした作品展で、まどさんの印象に残ったのは、教室でトイレに行きたいが紙がなく地団太を踏んでいる。それを見たほかのこどもが一緒足を踏み鳴らしたというものだった。

童謡「サッちゃん」の作詞家でまどさんの評伝を書いた坂田寛夫さんは「私たちがふだん見過ごしてる小さな、それゆえ大事なことを教えてくれます。いまでも新しい発見に向けて、散歩しています」。

ほかのだれでもない自分が、ほかのどこでもない「ここに」いる。そのことこそが、すばらしいのだと「ぼくが ここに」という詩でまどさんはうたう。

衣替えには「季節を着る」意味があった。袷から単になることで、こころまで軽くなる。

あなたも「お仕着せ」を縫いで、衣替えしてみませんか。

 

 

ちょっと強引な感じも何度読んでもしますが、「ぞうさん」ってそんな意味だったの…。驚きをもって読ませていただき、切り抜いていたのでした。

1948年に書かれたもので、1953年に團伊玖磨が曲をつけてNHKラジオ放送された。その歌詞は自らのもつ差異を肯定し、誇りとするものとされている[。周南市徳山動物園には「ぞうさん」の歌碑がある。

みちおは「ぞうさん」について次のように語っている。

「『鼻が長い』と言われれば からかわれたと思うのが普通ですが、子ゾウは『お母さんだってそうよ』『お母さん大好き』と言える。素晴らしい」

この文章はウィキペディアに載っている説明から。

本年、2014年2月28日、104歳で、老衰のため病院で亡くなられた。こうみると、88歳のときとあるので、それから16年。

〈ぞうさん〉とまど・みちおの思い

法政大学のレポートのようです。

ぞうさんの解釈などを丹念に調べられている。そして、どこの国の方だろう?韓国かな?日本人の思考という視点での考察など面白いなぁ…と思いました。

このレポートで知りえたことで気になったことを2つ。

1)「ぞうさん」の作られた背景を勝手に創作した朝日新聞記事があったということ。

1968 年4 月21 日の朝日新聞「東京のうた」欄に載った記事。

2)「ぞうさん」の。おはながながいのね」は、原文は「おはながながいね」だったということ。

「佐藤通雅『詩人まど・みちお』北冬舎、1998 年10 月、227 頁

「 佐藤義美さんのこと―まど・みちおさんに聞く―」『季刊どうよう』、チャイルド本社、平成2 年7 月、27 頁。

 

 

驚くべき事実。知らなかったわ…。

「の」がないと、確かに非難めいて聞こえる率が高くなる気がします。

 

朝日新聞の社説として、この「ぞうさん」のことを取り上げるってどういう意味があったんだろう?なんて気になりますね。

 

今までのスクラップなどを整理して捨てていく中で、記録したから捨てようかなぁ…と思っていたのですが、違う意味で気になりました。

 

 

2013あけましておめでとうございます

ようやく、昨年いただいたコメントを読み終わりました。そこで、コメントを下さったみなさまへ。まずは、ありがとうございました。感謝申し上げます。本年分だ!とようやく今年いただいたコメントを拝見したので、書き始めします。

 

今年は、いつものように…よりがんばったのは、初日の出を見に行きました。


初日の出を見に行くのは久しぶりでした。

日本では一年に一度の最初の夜明けとしてめでたいとされ、初日の出参りを行う人は数多くいる。この習慣は明治以降に盛んになったと言われている。

これは、ウィキペディアにある一文です。

 

とりあえず…、本のタイトルは思い出せないけど、明治に入り政府主導でとにかく神社と寺と分けて、天皇を神として崇めることで国をまとめようとしたところに、ご来光って初日の出を見に行く習慣を奨励したようなことが書いてありました。

 

たぶん、山頂に上がったりして見たら日の出の時刻として発表されている時間に日の出を見ることができるのかもしれません。しかし、私が見た初日の出はそれから約10分過ぎてから。

 

「正月」という言葉は、中国から伝わった言葉。中国、周の時代に11月を正月と言っていたのだそうです。そして、王朝が交代すると暦も一変。時代が下って1月を正月というようになったのだとか。

調べてみないといけないと思っているのは、旧暦では必ず冬至を11月におくようにしていた理由。

冬至は日照時間が一番短い日。その翌日から日照時間が長くなりますので、万物を育む太陽が再生する日として、多くの文明で一年の終点(起点)として使用されています。それなのに、旧暦の一年の長さを単純に365.25日とするユリウス暦精度の暦と、歳差運動を考慮に入れた太陽太陰暦では、400年で約10日のズレが生じます。

ある年にユリウス暦精度の暦と太陰太陽暦が日付合わせをしたとします。常識的に考えて、ユリウス暦が冬至を大晦日とすることになるでしょう。1200年後にはユリウス暦の冬至は11月になります。太陽太陰暦は、太陽に合わせて月を決めるので、冬至がある月が12月でかわりありません。この冬至が11月になってしまったユリウス暦精度の暦が、ある年から精確な太陰太陽暦に移行すると、11月に冬至が来る太陰太陽暦ができあがります。東洋の暦、すなわち古代中国の暦が冬至を11月に置いていることは、千年以上の歴史があったユリウス暦精度の暦が、あるときから太陰太陽暦へ移行したことを物語っています。

  ここで気になるのは前漢の武帝が10月を翌年の1月にする改暦を行っていることです。前漢は秦暦を使っていました。秦暦は中原の暦と2ヶ月のズレがあり、秦暦の10月が中原の1月でした。前漢は武帝の時代に、秦暦を中原の暦に合わせたのです。中原の暦が太陰暦だったことは明らかなので、後ズレしていた秦暦がグレゴリウス暦精度太陽暦だった可能性が高いです。

 順番に言うと、おそらく商(殷)はどこかで千年以上の伝統がある太陰太陽暦を手に入れました。その時点で既に太陽暦と太陰暦の間には1ヶ月のズレがあり、商は11月を冬至とする太陰太陽暦を使うことになりました。西周と中原諸国はこれを継承しました。これに対し、西周を滅ぼした秦は、太陽の観測によって日付を補正しない固定太陽暦を使用しました。それは秦が文明的に後れていたためか、あるいは中原とは違う思想を持っていたためかどちらであるかは不明です。

と、書いてあるサイトから。

冬至を11月に置くように旧暦はできている。そんなルールと月の満ち欠け周期と太陽の周期。

新月から新月までの月の満ち欠けひとめぐりのサイクルは29.5日(正確には29.530589日)

冬至から冬至までのサイクルは365日(正確には365.24219日)

 

実はこの両者が重なることは非常に少なく、19年に一度。それが、今年起こる。これも貴重な年かも。

そんな日を「朔旦冬至」といい、今年はその年。めったに訪れることのない大変おめでたい日とされていたといいます。

冬至はかつて1年のはじまり。その後の紆余曲折をへて、いまでは旧暦の11月だけど…「朔旦冬至」は旧暦11月1日と冬至が重なる日って思うとびっくりでした。

 

天保暦では,冬至を含む月は11月,春分を含む月は2月,夏至を含む月は5月,秋分を含む月は8月となるように調整するというルールが加えられた

と、こちらは『新法暦書続録 巻四』にあるそうです。

 

旧暦2033年問題

なるものがあるそうで…こんなことを知るきっかけになりました。

 

 

正月の日本古来の呼び名は「ムツキ」。『日本書紀』にすでに一月は睦月と表記されているそうです。

「睦月」は「睦み月」仲良くする月の意。

「正月をむつきと申侍るは、しる人なrは、たかひに行かよひて、いよいよしたしみむつぶるわざを、しけるによりて、此月をむつびづきと名づけ、それを略してむつきと云也」と古書にあるそうです。

 

正月は、本来は歳神様を祭り、新たな年の豊作を祈るものだったところに、楽しみを求める人々の心が加わって現在の正月行事に発展したそうです。

 

小笠原惣領家の伝書に「正月朔日一日を元三ということは、年の初め、月の初め、日の初め、かくのごとき儀を持って三つの元というなり」とあるそうです。そこから、三が日と称したそうです。そして、正月の期間は「五カ日ということは、一日、二日、三日、七日、十五日なり」とあるそうです。

 

七日は、人日の節供あるいは七草の節供といって、一年の節供の始まりの日。男正月ともいう。

十五日は、小正月といい。また、地方名?女正月という。

 

 

古くは1月15日(小正月)までが松の内といい、この日まで門松を飾っていた。結構、成人式がずれるまではそうだった気がします。門松飾る期間を、江戸時代に徳川幕府の命により1月7日の大正月までとしたそうですが、関東地方以外には広まらなかった過去があるようですが…今は7日までみたいな雰囲気は広がっている気もしますね。

1月15日の朝には小豆粥を食べる習慣があったと過去では普通だったようです。古くは『土佐日記』や『枕草子』などにも、小正月に小豆粥を食べたことが記されているそうです。平安時代、宇多天皇のころから始められたそうです。「この粥は小豆粥といって、小豆、ささげ、きび、あわ、みのごめ、とろろいも、米を混ぜて粥とする」と7種のものを混ぜていたそうです。現在では、小豆と米と餅をいれたもの。ただ、現在でも東北地方の農村などに、左義長の前に小豆粥を食べる習慣が残っている地域があると東北だけのように書かれている文章を発見しました。ただ、「だんだら粥」ってものを食べていることを働き始めてすぐくらいに教えてもらったことがこのことにつながったときは感動しました。食べている子は意味わからないで食べているけど、この昔普通にあったらしい習慣って、方言と同じで伝わっていって残っているのですね。ちなみに、これらの地域では、元日から小正月の期間中に小豆(あるいは、獣肉を含む赤い色をした食品全般)を食することが禁忌とされている場合が多いのだそうです。こちらは本当なのかな?小豆粥を食べる習慣はなかった私ですが、確かに鏡開きをしてぜんざいは食べさせられていたのは覚えてます。

本を開くと載っている情報でも、サイトでは見つけることができませんでした。

 

歳神様は日の出とともにやってくると、明治時代山へ登り迎えに行くって広まったとのこと。

 

先日、鏡餅の説明をしていたら、「あのプラスチックの中に餅が入っているやつでしょ」という反応を受けて、「餅を丸めて重ねる」と話したら、「それは食べられないでしょ」ともったいないと言われてしまった。鏡開きというのがあって…と説明しても伝わらず…

 

 

歳寒三友

約300件、コメントありがとうございます。
今、久しぶりに開いたら、ありました。
本当に感謝です。

正直、「歳寒三友」という言葉を、これまでの人生で使ったことなんかありません。ただ、これって、松竹梅のこと。
松竹梅はよく耳にします。

この「歳寒三友」という言葉は、奈良時代に中国から伝わった言葉。

論語からの言葉だそうです。

これは古い本みたい…と思うのですが、本のタイトルがわかりません。
そちらに書いてあることには…

中国で画題として登場したのがいつか…
松は、唐の時代の中ごろ
墨竹画は、唐の終わり~5代
梅は、北宋~南宋の時代

日本に伝わったのは、明の中期といわれているそうです。

と、こう書いてある文献を見つけながら、私の読んだ本は「歳寒三友」が日本に伝わったのは奈良時代と書いてありましたので、時代が違うなぁ…。

明時代は、1368年 – 1644年

奈良時代は、710 – 794年

言葉として、「歳寒三友」と松竹梅がつながるのは後ということでしょうね。

中国では、「岁寒三友」と書くのだそうです。

論語の 「子曰、歳寒然後知松柏之後凋也」 「益者三友

から生まれた言葉だそうです。

歳寒三友とは、厳しい時の三人の友を指すとのことなんだとも。

三番目の友が「直なる友」=「物くれる友」

二番目の友が「諒なる友」=「義侠心の強い友」

困った時に自分のことのように親身になって相談に乗りかつ動いてくれる友のこと。

一番大切な友は「多聞の友」=「知識が豊かで冷静に判断をしてくれる友」、「原理原則を教えてくれる友」ということ。

なのだそうです。

歳寒三友という呼称は、風雪や厳寒に耐えながら、一年中みどりをたもつ松の持久力(マツは“持つ”に通じ、長寿命につながるとも言われている)、屈することなくすくすく伸びる竹の成長力、春、百花にさきがけて花を開き、ふくよかに香る梅の生命力に捧げる賛辞でもあります。そして、このことばをいかなる困難にも耐えしのぶ志操堅固な人をあらわしたりもするそうです。

 

「厳寒三友」とも。

松や竹は厳冬の霜雪に耐えて千年の常緑を保つことから、梅は霜雪を凌ぎ百貨に先駆けて馥郁と香るところから、高潔・節操・清純などの象徴と賞されて「厳寒三友図」が日本へ室町時代に中国から伝わってきたそうです。

 

ではなぜ、これが日本に取り入れられたか?

もともと日本では、

松は神霊が宿る木という信仰が古来からあり、神聖な気とされていて、平安時代には長寿につながる樹木としてめでたいもの。

竹も、古来より神聖なものとして扱われており、天に向かってまっすぐ伸びる「猛々しい」という意味が付け加えられて演技のよいもの。

そうやって、縁起のよいものとして、室町時代に松と竹を新年に門口に飾り延年を祝うようになったそうです。

江戸時代に、春に先駆けて花を咲かすというところから梅も門松に加わりました。

 

中国では

後期・高潔な植物とされていた松竹梅。

 

日本は

古来からの松や竹への信仰、

そして、吉祥・瑞祥の象徴としての性格が

強調されたのだそうです。

 

江戸時代になって、地歌、長唄などに松竹梅が取り入れられた祝儀曲が数多く作曲されて、唄われたことも広くもてはやされるようになった要因とも。

 

中国の絵画では、厳寒に耐えている中に梅。雪と梅の春の兆しとして扱われることが多いのだとか。

 

日本では、梅に鶯の方が今では多いかも…。だけど、着物柄に、氷梅もありますよね。

 

門松も、もともとは3メートルもある松に竹が添えられていたそうです。

 

日本の文化は、中国の文化の影響を受けているけれども、面白いことか、他国の文化をどのように取り入れているか…という点ではどの国も不思議なかんじですね。

紙本墨画 歳寒三友之図

 

特にめでたく縁起がよいという組み合わせ

「松に鶴」

「竹に雀」

「梅に鴬」

よくある組み合わせ…かな

 

もともとは「松竹梅」に優劣はないのですが、この順番に言うことが多いから、この順番に優劣の順位があるように商売で扱われているからイメージとし優劣ありそうに伝わってしまっているのは本当は残念なことかな。

 

なんと…

「梅ちゃん先生 第23週 名前の秘密 歳寒三友」

ということも。