1998年6月1日の朝日新聞社説。衣替えについて
きょうから6月。衣替えである。
この変わりめに、こころの衣替えを考えてみたい。
まど・みちおさんに会った。
童謡「ぞうさん」の作詞家で知られる。
ぞうさん
ぞうさん
おはなが ながいのね
そうよ
かあさんも ながいのよ
大人も子どもも知らない人はいないだろう。作曲は團伊玖磨だ。
ぞうのこどもと母親の仲よしこよしの歌と思っていた。
「そうではないのです。ぞうの子が鼻が長いとけなされている歌なのです」
それでもぞうの子はしょげたりしない。むしろほめられたかのように、一番大好きな母さんも長いと、いばって答える。
「それはぞうが、ぞうに生まれたことはすらばしい思っているからです」
ぞうに限らない。ウサギもイワシもスズメも草や木も、地球に住む生き物たちすべてが自分であることを喜んでいる。人間だって、そのなかの一員である。これが、まどさんの「ぞうさん」哲学なのだ。
アイデンティティーとか「自分探し」といって、自分の存在証明に躍起になることもない。「あるがまま」でいいのだ、といっているように思われる。
人間も他の生き物も、それぞれにちがいがあるからこそ意味がある。違うもの立ちがその違いを生かして助け合うことが最善のみち。みんながみんな心ゆくまでに存在していい、共生の考え方だ。
まどさんは相手の傷や痛みを自分で引き受けてしまう。そんな詩を読むと、何か途方もなく大切なことをなおざりにしたままでいることを気づかせてくれる。
88歳。戦前、台湾にいた19歳から童謡や詩を書く。その数は千を越える。いまも書き続ける。
まどさんは繰り返し蚊の詩を書く。
刺しにくる蚊。おもわずたたいてしまうのだが、刺される側のまどさんは、血を吸わなければ生きていけない蚊の身の上にまで心を痛める。
きえいりそうに よってくる
きんいろの こえを
大げさに たたいたあとになって
ふと おもうことだってある
むかしむかしの
りょうかんさんだったらばなあ…と
たたいてしまった自分に傷つき、蚊のことが気にかかってしまうのだ。
こどもがしゃべった言葉を詩にした作品展で、まどさんの印象に残ったのは、教室でトイレに行きたいが紙がなく地団太を踏んでいる。それを見たほかのこどもが一緒足を踏み鳴らしたというものだった。
童謡「サッちゃん」の作詞家でまどさんの評伝を書いた坂田寛夫さんは「私たちがふだん見過ごしてる小さな、それゆえ大事なことを教えてくれます。いまでも新しい発見に向けて、散歩しています」。
ほかのだれでもない自分が、ほかのどこでもない「ここに」いる。そのことこそが、すばらしいのだと「ぼくが ここに」という詩でまどさんはうたう。
衣替えには「季節を着る」意味があった。袷から単になることで、こころまで軽くなる。
あなたも「お仕着せ」を縫いで、衣替えしてみませんか。
ちょっと強引な感じも何度読んでもしますが、「ぞうさん」ってそんな意味だったの…。驚きをもって読ませていただき、切り抜いていたのでした。
1948年に書かれたもので、1953年に團伊玖磨が曲をつけてNHKラジオ放送された。その歌詞は自らのもつ差異を肯定し、誇りとするものとされている[。周南市徳山動物園には「ぞうさん」の歌碑がある。
みちおは「ぞうさん」について次のように語っている。
「『鼻が長い』と言われれば からかわれたと思うのが普通ですが、子ゾウは『お母さんだってそうよ』『お母さん大好き』と言える。素晴らしい」
この文章はウィキペディアに載っている説明から。
本年、2014年2月28日、104歳で、老衰のため病院で亡くなられた。こうみると、88歳のときとあるので、それから16年。
法政大学のレポートのようです。
ぞうさんの解釈などを丹念に調べられている。そして、どこの国の方だろう?韓国かな?日本人の思考という視点での考察など面白いなぁ…と思いました。
このレポートで知りえたことで気になったことを2つ。
1)「ぞうさん」の作られた背景を勝手に創作した朝日新聞記事があったということ。
1968 年4 月21 日の朝日新聞「東京のうた」欄に載った記事。
2)「ぞうさん」の。おはながながいのね」は、原文は「おはながながいね」だったということ。
「佐藤通雅『詩人まど・みちお』北冬舎、1998 年10 月、227 頁
「 佐藤義美さんのこと―まど・みちおさんに聞く―」『季刊どうよう』、チャイルド本社、平成2 年7 月、27 頁。
驚くべき事実。知らなかったわ…。
「の」がないと、確かに非難めいて聞こえる率が高くなる気がします。
朝日新聞の社説として、この「ぞうさん」のことを取り上げるってどういう意味があったんだろう?なんて気になりますね。
今までのスクラップなどを整理して捨てていく中で、記録したから捨てようかなぁ…と思っていたのですが、違う意味で気になりました。