浴衣 帯結び

2つの半巾帯の結び方を習いました。

途中から撮影してもよいよ…という話で、ブログにアップしてよかったか?

ん…わからないけど、記録。こうやって結ぶ方法もあるんだ…と思わされました。

 

帯結び1

帯結び2

 

帯結び3

 

色違いのリバーシブルの帯。博多織で、正絹。だから、しまって止まるのかなぁ…?

 

実は、自分のためは女性の帯結びの仕方を習えて終り。でも、実は男物の結び方を何度か教えたりして、ずっと疑問になっていたこと…伺って、さらに調べて…余計に疑問が増えたけど…記録して置こうって思いました。

男の着物2

男の着物4

男の着物3

男の着物1

 

まず、男女混ぜて…教えたから、プリントには正しく書かれているけど…うそ教えたかも…?3回巻くって、2回って言ってしまっている気がする…。

 

男の角帯は、昔、武士が刀の大刀と小刀を帯の巻き目の各あいだに挟んだことに由来して、3回巻くそうで…

でも、こないだ聞いたとき2回しか巻いていないと聞いた気も…

 

男性の貝の口結びは、江戸時代に商人、町人等一般人が締めた結び方と書いてあるブログを発見。

ホント…?とさらに検索してみて、見つけたことたち。

 

『関東巻き』と『関西巻き』

巻き方の違いは、天皇が京都御所で北側を背にして南に向う『天子南面』という古代からの定めで、『玉座』に座られて”太陽が昇る東方向(陽)の左手を上位”と定めたことから全てが決められた。

女性の帯も同じ考え方で、関西で仕立てた帯は関東式に巻くと帯前に柄があると上下が逆になることアリ。

 

 

男性の帯の結び方についての本を見たい

このレファレンスサービスの結果を見て、いろいろと本を紹介してくれるサービスがあることを知りました。











こうやって紹介された本を検索していて思ったのです。

いろいろ本を探しても、なかなか男性の帯結びのことを書いてある本って見かけない…。

「きもの」と単に書いてある本はたいてい…女性のキモノのことしか買い手ないことが多いです。

 

見つけた本

に書いてあった博多織の部分。疑問がいっぱい…でした。

 

とりあえず…帯結びの仕方2つわかってよかった~と一緒に男の帯結びが気になりました。

浴衣の着方女浴衣の着方男

日本の藍

先日、藍染めのいろいろな作品?商品?を拝見させていただきました。そして、いろいろ説明をしていただきました。

それを元に、調べたこと…。

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スキャナを使わずに写真を撮ったのが間違い…後日改めてスキャンしてみようと思います。

日本の藍染めということで紹介している展示会でもらってきました。

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この左下の部分が下図。

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番号を打ってみました。

多分、1と2は同じものを拝見。4は違う図柄のものを拝見できたと思います。

あと、こちらは本から…

絞り染め

 

絞った染色前のものを拝見させていただき、触らせていただきました。3種類の絞りがされているもの…と。

絞りの技法には4種類があるとのことだったと…記憶のかなたに行く前に記録。昔は一人1つの絞りの技法しかしなかった。今現在は、複数の絞りを一人が行ったりしている。それによって、ひとつの技法に修練された人というのがいなくなっていて、年齢が高い人たちのものと、現役でされている人たちのものにはその違いがあるとおっしゃっていた。

実際に、絞ったものを触って、反物がきゅっとこじんまりとまとまっていた。

様々な絞りの種類があることよりも、その緻密さを拝見して大変だろうなぁ…と驚いた。

 

 

教えていただいた阿波の藍について、話を伺うのは2度目だけど、記録をしていないと忘れる…。と、本を借りてきて文献から見つけた文章も書いて、まとめる。ごっちゃに書くと、どれが聞いた話かなどわからなくなるので、先に本から…

 

『日本の藍 染織の美と伝統』日本藍染文化協会編  平成6年3月20日発行  日本放送出版協会より文章はまとめたりしている。

藍生産の進展

古くから日本における代表的な染料だった藍と藍作りについては、職員令織部司の規定に「藍染卅三戸、倭国(大和)廿九戸、近江国四戸。三戸出女三人役、余戸毎丁令採薪」と『令集解』にあって、すでに奈良時代から朝廷の一機関として組織されていた。

など、歴史的なことから書いてあった。

 

阿波の藍

青藍色染料としての藍は、古代から使用されてきた。奈良時代は令制で位階相応の衣料の地質、色、文様が細かく定められた。下級官人や庶民はもっぱら紺色・浅黄色などを矯正された。庶民たちは楮、麻、木綿地や紺系統の地味っぽい色と料を使用させられた。山野に自生する山藍や青藍色を含有する植物・鉱物から染料を得たものと思われる。

天保8年(1837年)に『阿洲藍草貢々記』が刊行。そちらに、「元明天皇和銅7年(714年)染殿を造らせ給ひて、花田の色を染らる、是藍草を以って衣服の色を変たる始なり」「村上天皇の御時〔946~967年〕、諸国の藍を貢に、阿波の国の藍を以て最勝とす」とある。

 

本を借りてせっせとかいていたけど、本を返却しました。

また改めて…

 

 

 

 

カレンブロッソ

カレンブロッソは老舗履物メーカー菱屋のプライベートブランドです。大正15年の創業以来、培った「和」の感性・技術に、「洋」の機能性・ファッション性をミックスした<洋風和装>雑貨つくりを目指しています。

と、菱屋のHPから。「花ごよみ」という和装品のシリーズを展開し、花ごよみをCalender of blossomと訳し、「Calen Blosso」と名づけたんだそうです

こちらのバッグを2006年オープンらしいので…2006年か2007年頃購入しました。お茶のときなど、着物のときにも使えて、普段も使えるバッグが欲しいなぁ…って。いちご錦。

だけど、サイズがイマイチ…と、少し小さかったのでした。

それで、やはり同様の目的でいろいろずっと探していました。

 

別にメーカーなども気にしない。そんな私にとって、いろんなところで拝見する…としていたのですが、やはりカレンブロッソで購入しました。

 

理由は簡単。探していたものというのは、和でも洋でも使えること。そして、お茶道具等いっぱい入ること。

そして、博多織のもの。

 

実は、いちご模様のものを購入したのですが、記事がキャンパス生地。やはり着物と同様な感じがいいなぁ…とも。

 

結構探して…と、いろいろみてまわっていました。

そんな途中に見つけて購入したものは矢羽模様のバッグは…大阪の会社名が思い出せない…

こうやって検索すらできなくなっていく…。

博多織バッグ

 

ん…検索してもでてこないってことは、もうない廃盤品?

 

撤退される店舗で、注文させていただいたもの。

対応してくださった店員さんに感謝。素敵な色で仕上がったものをいただきました。

献上柄の色から革の色まで…全部自分で選べるなんてホントビックリ。

 

実は、これをお願いした後に、この博多織の織元さんのお店で違う博多織地のバッグを拝見。そんなのなかった…と、そちらのバッグは織元さん店舗のみのものなんだって。ちょっと…こっちがよかった…なんて、思いを持ったのでしたが、実際に出来上がってきたものを拝見して大満足。

ご対応くださった店員さんも、店舗が閉まっちゃうとありがとうございますも言えませんね。

 

アポロを目指す!と楽しんで色を選択させていただきましたが、アポロというよりはラズベリームースって感じになりました。

 

いろんなところで、和の柄のバッグを拝見して歩いて…、いろいろ見たのです。でも、ホント、これがよかった…としみじみ感謝。

お茶道具も入るし、B5まで入る。いっぱいモノが入って嬉しいです。

大丸にあった店舗を見なくなったなぁ…と思ったら、三越で拝見したのが最初でした。

 

博多献上柄の色使いも、献上柄だけど、色使いのお陰か、すっきり見えます。

最初に博多織のバッグいいなぁ~って思ったのは、HAKATAJAPANさんのバッグを見て。シーホークで隅っこの方で営業されていた頃。

百貨店においてあるバッグも見て回っていたし、本当に10年くらい?探していました。

完全に和装のみはいやだなぁ…というのと、正装ではなくて…という願い。

お茶会にも持っていける感じで、普段にも使えるものがいいなぁ…とわがままに探して出会ったものでした。

 

全て革というものは持っていたし、本当は博多織にこだわっているわけではなかったのですが、博多織の帯地は本当に強いし、光沢があって嬉しい。

バッグの皮の部分や内側のつくりなどもきれい…というのは以前覚えていたから、しっかりしたものができてくるということは信じてました。ただ、以前は柄を間違えられた…ので、もうイヤだなぁ…と他のお店でないかなぁ…と探してました。

オーダーにしても、既存品の価格から大きく値段が上がらないところはとっても魅力でした。感謝。

 

既存の形の色・素材を選べるなんて凄い。

もう、地元には店舗が無くなったので拝見する機会が減るなぁ…って感じですね。

Calen Blosso 箱バッグ

こちらのページに載っている色もいいなぁ~って思いました。茶色。

 

今日、喜寿表彰というお話を伺いながら、隣にお座りになっていた先生はお元気そう…って85歳。ん…「私の半分も…若いわねぇ…」と言われると、そうですねぇ…。喜寿表彰される方の多さと、全然高齢者という感じではなく、皆さんバリバリの現役茶人。ホント…まだまだこのバッグは活躍する時を有しているわ…と思わされました。

菱屋-Calen Blosso- ( ヒシヤ カレンブロッソ) から「カフェバッグ(ポスト3)」

IZAって?

Bag(Calen Blosso for IZA)

 

へぇ~

こうもり柄とかのモノと同じかな?

 

実は、改めてシンプルだけど懐の深い献上柄の凄さを思わされたバッグでした。

 

そして、本当に感謝~。

職人さんがいて、縫製も日本とおっしゃってはいましたが、こんなにデタラメにいろんな色を使ったバッグですが、縫い糸も合わせて変えてくださっているのです。ホント、嬉しい~。

 

選ぶときにすでに明るい色の帯地はなくなっていたので、この色か白っぽいものか茶色か…と選択肢狭くて残念…って思っていたのですが、織元さんのお店にはもっと素敵な帯地で作られたものが並んでいたし…ってショックもあったのですが、大満足なバッグを本当にありがとうございます。

縫ってくださっている職人の皆様にも感謝。

 

 

 

日本人が最初に洋服に接したのは?

過去書いたブログから引っ張ってきてます。

日本人が最初に洋服に接したという表現がとっても微妙。まず、『洋服』って何?というところから考えてみると、本当にそうなのだろうかってんと思わされます。どこまで遡っていけるか、記録がないところでいろいろあったかもしれないと思うと浪漫ですね。

その1
今昔物語、に出てきている表記に、シベリアに漂流した農民が、馬を駆って疾走していく赤毛の巨大な人間達を見て、後にその人たちを胡人と記しているそうです。それが洋服と接した最初?当時のシベリアではどんな服を着ていたのでしょうね。宇治拾遺物語にも「胡人」が出てくるそうです。

その2
天正3年に、鑑真和上来朝の際、同行した多くの弟子達の中にペルシヤ人がいたそうです。このペルシヤ人はどんな服装だったのでしょう…。中国仏教では服装の規定はあったのでしょうか?

その3
天文12年に、ポルトガル商船「アバイス号」が種子島に漂流したそうです。これは、結構歴史で習いますね。その際に、乗組員の救助にあたった日本の漁夫たちは、今まで検分していた唐人服とは違った異装の姿を見て驚いたのだそうです。助けられたお礼として、乗組員達は着用していた上着、チョッキ、ズボンなどを漁夫達に贈呈していたそうです。それが、鹿児島の郷土伊集院兼房に謙譲されて…、この服がわが国に渡来した最初の西洋服だといわれているそうです。
時の領主島津貴久の臣で、薩摩藩士新納喜右衛門が次のように報告したと残っています。
「未知夷狄風情。於衣袖無之。分乎上着下穿矣。羽織長大。不恰好。猶不結紐。其奇體何不審也。」
この衣服はどこかにまだ現存しているかもしれませんね。船乗りの何気ない服だったかもしれないのに、それが献上品になったというのはおもしろい感じです。お茶道具にある抹茶茶碗にもそんなかんじの由来のものがたくさんありますね。

その後、天文18年に、スペイン人フランシスコ・ザビエルがキリシタン伝道の目的で鹿児島に上陸しました。南蛮貿易については、学校で学ぶところですね。
いろんなものが輸入されていったそうです。輸出するものが、銀、刀剣、漆器…すごいですね。それに対して、生糸・絹織物などが輸入されたそうです。中でも喜ばれた衣料は、羅紗・ビロウドなどだそうです。羅紗には、いろんな色があったそうです。その中でも、猩々緋(しょうじょうひ)と呼ばれる緋羅紗が最高級品だったそうです。そう思って、この時代の武将等の肖像画などを見ていくと、陣羽織、胴服の衿などにつかわれていたとか、肖像画もファッションの記録として見ることができそうですね。
猩々緋は、日本では得られない鮮やかな色だったため、織田信長や豊臣秀吉が格別に愛好したそうです。

天正の頃には、諸大名の間で南蛮服を真似ることが流行したとか。多くの大名達は、合羽、頭巾、短い軽袗・無縁帽子などを持っていて、武将間の贈答に利用されていたそうです。着物の上に衿輪や南蛮式の長袴を用いるものもいたというのは、織田信長の肖像画などを見てもわかるところでしょう。

しかし、天正15年に布教の禁止と宣教師の追放を豊臣秀吉が行いました。そして、寛永12年鎖国令…
天正の頃の南蛮文化の流行によって、和洋折衷をよしとする風潮が、大名から武士・町人にまで浸透しつつあったそうです。しかし、鎖国政策の強化に伴い、西洋の文物が自由に輸入されることはなくなり、庶民の生活には渡来品が縁遠いものとなっていきました。
さらに、寛永14年の島原の乱以後、洋服姿の日本人はキリシタンとみなされて、処罰される対象に。民衆にとって、洋服=忌むべきもの、恐ろしきものと受け取られるようになったそうです。

それでも、特権階級にとっては別。鎖国前と変わらずオランダから猩々緋をはじめ様々な布地が、将軍に献納されていたようです。これは政策の一環…ちょっとだけ、ある国で、鎖国のやり方で国民を支配する権力の持ち方に参考にされたのでは?と危惧します。でも、開国後の大変さも一緒に学んでほしいですよね。

享保5年洋書の禁が解かれ、キリスト教の書籍以外が輸入されるようになり、蘭学を学ぶものが多くなりました。オランダ人より蘭学を学ぶ日本人達にも、戎流または唐人仕立てという異名を持つ装束を身にまとい始めたそうです。オランダ人の服装のことを、戎模様、戎衣装もしくは戎の袖なしと呼んでいたようです。

いろんな変遷がありながら、日本に洋服が定着していったのですね。

参考文献:『日本洋服史―一世紀の歩みと未来展望 (1977年)』発行者 出口稔
総合服飾史事典 (1980年)』丹野郁編者

汕頭(スワトウ)刺繍

以前、気になって調べた時には出ていなかった?気付かなかった資料も改めて検索すると見つけることができるものですね。

もしかしたら、調べる人がいたら情報を提供してくれる人が出てくる?そんな気がしてくるくらいです。

 

中国の広東省東部にある汕頭地方で受け継がれる手刺繍。

汕頭刺繍の発祥は、広東州東部の町「汕頭」。
1858年の天津条約を機に、宣教師たちがヨーロッパの刺繍技法を伝えたのが始まり。

 

ヨーロッパの感性と中国古来の技法とが融合。

 

オープン・ワーク(切り抜き刺繍)の一種で、生地を切り抜いたり、糸をかがったり束ねたりして透かし模様を表現する、ドローンワークという技法を使っており、とても手が込んでいるもの。

 

ヨーロッパでは多くの女性たちがスワトー刺繍に魅了されたそうです。舞踏会やパーティで使うための最高に上品とされている白い刺繍と白いレースのハンカチ!というように広まり…。正式の場所でこのハンカチを持つことが、貴婦人の誇りとなり、これをきっかけにヨーロッパ全土にまた世界へと広まっていったのだそうです。

 

と、ここまでは以前調べていて知り得た情報でした。

 

スワトウ刺繍の伝承ができていない結果です。農家のおばちゃんが親から子へ、子から孫へと受け継いだ技法が工業化・都市化の波でみんな割のいい仕事につくのでこんな手間のかかる刺繍などやりたがらなくなっているのです。今のスワトウギャルはボタンも付けられないと思います(ちなみに中国の小中学校には家庭科がありません。料理洗濯 家事全般できません。オフクロの味は中国ではすでに絶滅品種です。ちなみに書道もありません)。

 このように書いてあるブログを発見しました。そちらのブログでは、元々スワトウ刺繍と売っていたものは、安価なものだったと書いてあります。そして、現在は機械で作られているものが主流となっており値段が下がっていると。絶滅危惧種とも書いてありました。
以前調べた時はこんな話も見つかりませんでした。実際はどうなのかは置いておいて、中国の小中学校には家庭科がないというところにへぇ~って思わされました。
中国汕頭(スワトウ)地方に息づく汕頭刺繍は母から娘に受け継がれる手仕事の妙技。
18世紀、イタリアの宣教師によってもたらされたヨーロッパの刺繍の粋は、中国の美意識と少女たちの細やかな手を得て究極の手仕事として大きな花を咲かせ、現在に至っています。
1858年の天津条約を機に、宣教師たちがヨーロッパの刺繍技法を伝えたのが始まりといわれています。
と、具体的に書いてあるサイトも見つけました。1858年となると、18世紀?
スワトウ刺繍の特徴は、吸水性の良い綿と麻の生地に刺繍をしたものです。上品さとデザインの美しさとを合わせて、飾りにも実用にも合わせる、これがスワトウです。
こちらに文章は、中国の販売サイトの紹介文から。
 汕頭刺繍には大きく分けて2種類有り1つは抽綉「ツオシュウ」で織り上がった生地の縦糸、横糸を数本引抜き空間をあけ飾り糸を通す方法です。もう一つは拉綉「ラシュウ」で生地に糸を通し引きながら広げて空間をあけてゆく2つの技法があります。
この詳しさと写真は嬉しいなぁ…って思わされました。
 
スワトウ(汕頭)といえば『刺繍』で我々には有名です。ところが町にはそのかけらもありません。中国人には、『汕頭』=『刺繍』のリンクはまったくありません。得た仮の結論は、外貨稼ぎの為に汕頭のごく一部の地域で刺繍が産業として存在しているのであろう、ということです。
と、書いてあるサイトを発見。日本で着物売り場で見るような扱いの刺繍ではないのですね。
検索し回って発見するのは着物の話とハンカチの話…と、日本のものばかり…。
あと、中国の工場?機械で作られているんだ…と、手作りではないのですね。
そう思わされました。