大切なのは、親が黙って見守ること

暮しの手帳67月号 64 2013

母子の手帳

第21回

大切なのは、親が黙って見守ること

―親は教育者ではなく、保護者に―

佐々木正美(児童精神科医)

 横浜で二十年くらい前のことでした。青少年の健全育成を目指す活動をしている人たちの依頼で、援助交際という売春をしている少女たちの相談にのったことがありました。

 そのとき私の心をよぎったのは、精神科医として東京やバンクーバーで、研修や訓練を受けていた時代に先生や先輩たちから、よく言われていたことでした。「相手の話をよく聞くこと、上手に聞くこと、そうすれば必ず道は開ける」。

 少女たちの話を、一人ひとりよく聞きました。

 はじめは私をとても警戒しています。彼女たちは親やまわりの大人をまったく信じていませんし、親を好きだと思っている子もだぶんいない。言葉の端々から、否定と軽蔑の気持ちが伝わってきます。私に対しても、こんな人と会っても何も代わらない、という猜疑心が表情ににじみ出ています。そんな少女たちと向き合って30~40分、話を聞くのです。

 話題は相手の好みに合わせることに徹しました。音楽にしろファッションにしろ、とにかく彼女たちが喜んで話してくれることに気遣い、心を配りました。実際、こちらが知らないことですから「それはどんなこと?」などと教えてもらいながら聞いていくと、みんなイキイキと語ってくれます。

 同時に、私も彼女たちの話を、心から楽しみながら聞くように努力をしました。若者の感情や文化を勉強しました。ちょうど同世代の息子が三人いましたので、彼らに教えを請いながら、彼女たちの話をよく聞きました。

 興味、関心、感動、共感といった感情を抱くよう心がけながら聞いていれば、どんなに口の重い人たちも、そのうち話にのってくるんだと実感しながら、何ヶ月、ときには年余にわたって話を聞き続けました。

 そうして話に本気で耳を傾けている限り、必ず少女たちのほうから、「売春」という行為について、私の意見を聞きたいという意味の問いかけをしてきました。

「私がしていること、先生、知っていますか」

 彼女たちは、自分の行為について、決して褒められたものではないことを承知していながら、簡単には非難されたくないと思っているのです。しかし、この人からは、思いきり叱られてもいいと思えたときには、しっかり叱責されたいという気持ちになるのでしょう。悪いことは悪いのだと、批判され叱責されることを、むしろ求めてくるものなのです。

「先生、どう思う?」

「あなたのやっていることはわるいことだと、僕は思う。親だったら耐え難く悲しいし、親でなくたって、僕は悲しい」そう、本気で答えたものでした。

 忘れられない経験でした。こちらから意見がましいことは言わず、ただ相手の話を聞くことに徹する意味を教えられたと同時に、彼女たちはそういう人に出会えることを待っていたように、私には思えました。

 

 思春期の若者たちは、自分の話すことをしっかり聞いてくれる、そして心をこめて見守ってくれている親や大人たちを、ひたすら求めながら、日々迷い、苦悩しながら生きているのだということを、よく知らなければならないと思います。

 大切なことは、彼らがほんとうに求めてくるまで、こちらの意見、とくに批判や叱責をするようなことは、できるだけ控えること。そうでなけrば、たいていの場合、怒りの感情を持って反発してくるからです。

 最近の親子関係でもっともかけているのが、その子が何をしたがっているかを聞いてあげよう、わかってあげようという、親の姿勢です。子どもが自ら話し出すまでじっと見守り、話をしだしたら、気が済むまで本気でじっくり聞いてあげること。そうすることで、子供は「自分のことを大切に思ってくれているんだ」と安心します。話を聞くことが、子どもの依存欲求を満たすことになるのです。

 ちょうど今、今で原稿を書いている私のわきで、テレビの番組が流れているのですが、居場所を失って深夜の繁華街をさまよう少女の話です。つづいて、母親を足蹴りにして骨折させてしまった少年の話です。

 ここの背景や内容はわかりません。

 子どもの幸せを望まない親はいません。しかし、そのとき「子供は何を望んでいるのか」という問いを忘れないようにしたいと思います。

 そして、幼少期から、子どもの話しをよく聞く、意見を言うよりも見守る、受け入れる。親は教育者になるよりも保護者に徹する、ということの意味と重要性を、私たちはもっとかみ締めることが大切なのです。

 

親が教育者であることも必要なことはあると思うけど…、保護者に徹するという意味が伝わりにくいだろうなぁ…とは思わされました。

今、親が学校の先生、塾の先生とおんなじ目線で、同じように対応している…それが問題だってことだろうと思ったのでした。

子どもの健康と生活リズム

過去書いたブログをそのまま引っ張ってきてます。

本日、九州大谷短期大学 准教授 NPO子どもとメディア 原陽一郎先生の講義を受けてきました。
保育士から現在の職業に至っている方の言葉は強い!たくさんの現場事例を知っている方、そして今の若者も知っている方。とっても「ふつー」にあっていることを、わかりやすくまとめてくださいました。

「生活リズム」の問題は、「食文化」崩壊と関係が深い。食の専門家が集まっているところでの講義でしたので、そんな始まりから。

いろんな言葉がありましたが、そうそう!と思った言葉は、「朝ごはん文化がない人間に、朝ごはんを求めても無理」です。「朝ごはんを食べるように!」と子どもに言っても家で朝ごはんというものが存在しないと、概念もない。もっと言うなら、本当に親が朝ごはん食べないから、子どもも要らないって思っている人なんてたくさんいる。アンケート結果としてそれが一時期見えていたけど、今ちゃんと朝ごはんを食べているようなデータがでるようになって教育効果が見えている??私は、ひねくれものかもしれませんが、「朝ごはん食べさせていないと答えると、よくないみたい」…自分達の評価が下がることはしない、言わない、外面を作るのは得意。その結果、上がっているように見えているだけと思っています。好意的に見たら、取りあえず何か口に入れさせているのかな…。と、脱線。

お話の趣旨は、メディアの影響を考えようというもの。ショッキングな本当の話を、他人の口から耳にしたのは初めてだったので、本が警鈴慣らして久しいけど、現場の声が広まっていっていることをこの分野でも感じました。といっても、メディア批判はパッシングを受けているという話も耳にでき貴重でした。

「授乳」はコミュニケーション能力の基礎を作る時間。この話は、育児に関する本には載っていないのかな?わからないけど、子どもの心理学や発達論の本では当然。だけど、テレビ見ながら、携帯扱いながら…一度知り合いに「ちゃんと相手しなくていいの?」と言って、みんなこう…という話にそれ以上いえなくなった私。専門家の口から聞けて、ほっとしました。

いろんなことをあげていかれたので、全てを書くと大変な量。

その中でも、私にとってショッキングだったことランキング3だけをあげてみます。
1位 Grand Theft Auto イマイチちゃんとスライドの文言を写せていないのでこれなのか…でも、犯罪者になりきって犯罪を行っていくというゲームらしい。知らなかったけど、今正式名称を知りたくて調べていたら18歳以下禁止の画面表示。そうだろうな…。私が見せられた画面だけで嫌になったのは、車内で売春婦(表現適切でなかったらすみません)とのセックスをゲーム内でどうするか選んでお金払って…。その後、(コンピュータが判断して)売春婦は車を降りるんだけど、(ゲームをしている人が判断したら)その売春婦を追って撃ち殺すというシーンだった。どこを撃つかもゲームをする人が選ぶらしい。ゾッとしました。日本で発売されているんだーと思ったけど、似たような感じはゲームセンターにあるのかも?18歳以下禁止にならないね…。

2位 モンスターハンターというゲーム。15歳以下お断りというゲームに対する自主規制</a>すら知らなかったのですが、子ども達が行っているカードゲームやポケットモンスターの延長線上に最初思いながら見ていました。ただ、「たまごっち」などと同じに少し違和感。なぜなら、生き物の命への感覚麻痺しそう…。怖く思わされました。生命感が歪んでいるっていうのはもうずっと言われていることですが、ペットが死んだときに「パパ電池買って入れて」という話の恐ろしさ。それよりも怖く思わされたのは、小学校3年生がすでにやっているらしいことと、サンタさんの贈り物でもらった子もいるらしい。親が知らない…携帯電話にしてもそうですが、子どもの世界は昔と違ったき件がいっぱいと思いました。

3位 『ネトゲ廃人』という本があるらしい。読むと気持ち悪くなると言われていたけど、これを大人が読むとストッパーになる効果あるかも?子どもがいろいろおかしいという感覚がないのは、大人がないからだろうと思う。親が読んでいる漫画、親がやっている行為、親がやっているゲーム…。子どもの一番のお手本は身近な大人なんだよねー。

いろいろと書きたいほど、ショッキングでした。でも、因果関係をきちんと証明できるまで待たなければならない?『「メディア漬け」で壊れる子どもたち』を購入して読み始めて、次の言葉にそうだよねーって思わされました。「人体実験国ニッポン 人間の子どもを“メディア漬け”にして育てると、体や心、コミュニケーション能力の発達にどんな歪みや遅れが現れるのか。親子の愛着形成にどのような変化が起こるのか…」

伝える立場にいますが、本当のところどうなわけ??と、データがないところでお話しするのはとても難しいテーマですが、下記にあげた5つの提言は特殊な感じではありません。

たくさん書きたいくらいの思いを持ちながら、さまざまな取り組みをしている人がいますが、それぞれの思いは広げていくと重なっていくなーって思いました。

子どもとメディアに関する5つの提言

「NPO子どもとメディア」が3年間の実態調査と実践的研究の結果に基づいて2003年3月に発表した提言を下記にのせてみました。

1.子どもの生活時間の中で、メディアに費やす「総時間」をコントロールしましょう。

2.とくに危険可能性が懸念される乳幼児のメディア漬けを、やめる取り組みを広げましょう

3.主体性を持ってメディアを選択し、判断し、発信する力を養うメディア・リテラシーを、
子どもも大人も身につけましょう。

4.子どもとメディアの“新しい関係”を求めて、広くネットワークをつくり、
協働してさまざまな研究と実践活動を進めましょう。

5.メディア漬けから抜け出して、遊びや仲間関係づくり、自然体験や文化活動などの
生き生きした生活を広げましょう。

威圧しながらIメッセージ

自分のことを、「お母さん」「お父さん」と言ったり…して権威づけをしてお話をする。
自分のことを「先生」といって話をする。

これって、自分の言っていることに自信を持っていない心理の隠れた現れ方としてとっても有名。

「お母さんはね…」と言って、子どもに自分がしてほしいことを言うとか。

『親業』という本の中でも、また、他の心理学の本の中でも書いてあること。

簡単に言うと、自分では「私は…」と話す自信がないことが多いのです。ですから、「私は、○○をあなたにしてほしい」という代わりに、「お母さんは、○○をあなたにしてほしい」とか言うのです。
私ではなく、お母さんが言ってるのってね。

「お母さん」という仮面をかぶって、自分はそうしなくてもいいと思っていたり、それはどうでもいいと思っていることでも、「お母さんはね…」とか、お母さんだから言っているのだと伝えます。

でも、確実に子ども達には刷り込まれていくのです。「お母さん」「お父さん」「先生」…言ったことを聞いて守らないといけない…上下関係をつくる言葉達を小さいころから刷り込まれて育ちます。
だから、大人になってくるに従って、権威権力への反抗。思春期に素直に聞くことができなくなる…という現れ方が出るのです。

「先生は…」と語っている人は、自分としてはそれをしないといけないとは思っていなかったり、それを「私は…」と説明するだけ理解できなかったりします。だから、「先生は…」という敬称を自分に使って話をします。私の話は聞いてもらえないかもしれないけど、これは「先生」の言うことなんだからちゃんと聞きなさい!ってね。

アイメッセージの例:
「お父さんは、おまえが約束を守らなかったから、とてもがっかりしたよ。」
ユーメッセージの例:
「おまえは約束を守れない、出来の悪い子だ。」

あるブログで、このように書いてありました。実は、これも権威からのメッセージで「愛メッセージではない」という話なのです。

「お父さん」とか、自分のことを言う時点で、「お父さんという役割の存在が言っている…のであって、私ではないんだよ」という心理的働きがあるのです。ですから、約束を守らなかった行為をした子どもにとっては、上下のニュアンスが入って伝わります。だから、受け手には、拒否になるのです。という立場がトマス・ゴードンが書いている『親業』のIメッセージ。
同じく、Iメッセージを言いながらも、違う表現。

ですから、もし上記のことを伝えるとして、Iメッセージを使うとしたら…

アイメッセージの例:
「私は、おまえが約束を守らなかったから、とてもがっかりしたよ。」
ユーメッセージの例:
「おまえは約束を守れない、出来の悪い子だ。」

なのです。
読んだら違いは伝わると思います。
「私」になったとたん、「あなたがそう思っても別にいいよ…」というニュアンスが入ります。
これが、Iメッセージで一番大切なところなのです。

相手の人格や能力には言及せず、相手の行動にのみ言及することが大切である。上の例では「お前が約束を守らなかった」という行動に言及している。これをアクショントーク(行動についてのみ話すので)という。

日本では、この程度伝わっている方が多いのかもしれません。

Iメッセージとは、自分の気持ちを素直に「私」を主語に伝えることです。

その「私」を「お母さん」にしたり「お父さん」にしたり「先生」にしたり…して、いいのか?
実は、本人にとっては、違いがないように思っているかもしれません。だけど、奥の奥の…深層心理では違いがあるのです。

よく考えて、よく感じて、あなたは本当にそうおもっているの?

自分の言っていることを権威づけして伝えることで聞いてもらいやすくなります。だけど、主語を「私」にしたとたんに聞いてもらえる確率を下げる場合があります。特に、若くて…自分の言っていることに自信がない状態のときには有無を言わさず従わせたい…そういう思いが入るのですね。
そんな思いはない…というのなら、一度「私」でいつも言っていることを伝えてみてください。恐らく違和感を感じると思います。それは、「私はそう思っていない…」など、本音が出てきます。「先生は…」と話しているような内容、「お父さんは…」で話している内容、その立場だから言っていることなのですね。

「社長は…」と自分のことを言う人はいないと思うのです。書いていたのに消えました。でも、「校長先生は…」と自分のことを言われているのを見ることはあるなぁ…。書いていたのに…。

この一番の違いは、対象の違い。

大人に対して、自分の意見を一人称で言えないというのは、自信のなさの表れにもつながります。もしかしたら、役職にあるその立場だから言っている…そう思っている人は使うかも?ただ、無意識に大人は判別するのです。
「先生がそういうなら…」と、保護者の方たちも思います。でも、それは「先生」と言う権威があるから聞いている…けど、本当に正しいのか?
実は、上下のある言葉を使うと判断を鈍らせます。だから、本当ならおかしいことも通用させてしまう…。

パワハラまがいも横行します。
生徒に対して「先生の肩をもめ」と肩をもませている先生。
完全に生徒に対して圧力をかけています。やってくれている…ではないのです。生徒の心理状態には、生徒という立場で判断を迫られていてやりたくなくても先生が言っているからしなくてはいけないという判断が多少なりとも入ります。

「お母さんはこうして欲しいのよ…」
と伝えている内容を一度、「私はこうして欲しいのよ…」と言ってみてください。
違和感を感じるかもしれません。
その違和感が、自分ではどうでもいい…だったり、自分が伝えるとうまく伝わらなさそう…なんて思いが湧くと思います。その湧いた思いをうち消すために「お母さんはね…」「お父さんはね…」「先生は…」という言葉を使って、子ども達に話をする。

日本語に訳して入ってくるときに、「私は…」と「お母さんは…」に違いはないはずと、訳する人が違和感を感じて、混同したのだと思います。
日本発のものではない限り、訳を間違えると…というか、ニュアンスを間違えると違うものになる。

権威からの発言のつもりはない。
だけど、聞く側には効果絶大。

もう一つ、これは教育心理学の本などによく書いてあったりすることですが、小学生や小さい子対象の本の方がちゃんと書いてあること多いかもしれませんが…と断って書きます。
児童生徒を呼ぶときに名字を呼ぶことの重要性を言われている本は多いです。
学校という公的場での呼び方として、名字に敬称をつけて呼ぶ。これによって、ここはパブリックな場であるということを認識させることができます。
仲良く親しく…そう思わせて伝えようとする行為として、名字ではなくその子の名前を呼ぶ。これは子ども達に対して安心感を伝える効果はあります。それは、子ども達に対して下の名前で呼ばれることは家でのこと。つまり、私的なことなのです。ですから、お母さんやお父さんなど親しい関係性での呼称を用いて接されることによって、心理的に緩む効果を無意識に用いる大人がいます。しかし、これは同時に、お母さんやお父さんと自分との関係性も無意識に用いられます。私的なところでの親子関係の延長線上…子どもたちは幼少期の子どもの自分を引きずった判断をしてもよいとして、自分のプライベートでの顔でパブリックなところで過ごすようになっていきます。そして、判断もプライベートの顔でするようになっていくのです。そして、下の名前で呼んでいる人との関係に対しても親と同様に上下関係を無意識に入れられることがあります。呼び捨てなど、親しそうですが上下関係を入れ込んだそして公的な訴えかけ方ではなく、私的な訴えかけ方になり、相手にとっては幼い自分でありプライベートの自分の顔で判断を強いられて学校というところでの自分の顔を育てることがうまくいかなく、学年が上がるに従って大人としての判断ではなく、プライベートでの判断する自分を出していきます。公的な顔を逸させるには一番簡単な方法。ですから、名字で呼び、公的なところであることを意識させる効果を理解している学校では、生徒を下の名前で呼ぶことを禁止します。ですが、先生たちは、親しみをこめて呼んでいるのに…と思っている人もいるかもしれません。しかし、そういう人に限って下の名前で呼ぶことによって相手に子ども意識で自分の言うことを効かせるように操作している…無意識かもしれませんが…。
潜在意識で行っている行為を見て、その人の深層心理を理解し、その人の行っていることが何を表しているか…それを理解することができるのですね。

主語を「私」にして話してみると、相手は聞いてくれないのではないか?という不安。
しかし、その圧して聞かせていることによって失っているものは…どうしようもなく救われたかった自分の気持ちを認める機会。

「お父さんは、おまえが約束を守らなかったから、とてもがっかりしたよ。」

これは、ちゃんと認めているように伝わるかもしれません。
だけど、私に直してみて考えてみてください。
本当にあなたの子どもさんが約束を守らなかったから、あなたはがっかりしたのですか?約束をあなたなら守ると信じていた自分が裏切られてしまったことに、あなたは怒りを感じたのではないのでしょうか?あなたが信じていたかもしれませんが、それであなたのお子さんはその約束をしなければいけない義務は法的にもないことかもしれません。その約束を守ることは、その子どもにとって意味がないと判断されたことに傷ついているあなたがいるのではありませんか?
本当は、あなたは自分が伝えたことに対して意味がないと判断されたということに怒りを感じて、がっかりしているのではありませんか?
よく状況を聞いたりしたら、その子は守ろうと努力していたかもしれません。本当に忘れていたかもしれません。だけど、この伝え方ではIメッセージにはなっていないのです。
正確に子どもに伝わるように話すとしたら、「私はあなたは約束を守ると信じていたことを裏切られて、がっかりしている。」です。
がっかりしているのは、約束を守る子だと信じている自分があったことを伝えて、あなたの愛の所在を見せることが大事なのです。

そして、子どもに選択権をゆだねるのです。愛されていないわけではなく、愛されている自分を権威の言葉達から自分を解放することで伝える。
主語を「I」にして、伝えようという話は2つの意味があるのです。1つは、自分の感情をしっかり把握して相手に伝えましょう。そして、もう1つは、相手に愛ある伝えかたをしましょう。

お母さん、お父さんは、主語を私にしたら愛が消えますか?
もしかしたら、私にすることで、自分を解放できるかもしれません。
「お母さん」という名称を使うことで、自分に対して「こうしなくてはいけない」という子どもに対してさせたい思いで判断していることがありませんか?
それができなかったら、あなたのお子さんには価値がありませんか?

権威をつけて伝えることは簡単です。
だけど、怖いのは、そのような権威がないところで、意味をなさないで判断基準がうまく形成されないことがあるのです。ドンドン…大きくなっていった時、いつもお母さんはこういっていたけど、実際にお母さんだって言っていることと違うことをしているじゃないか…なんて、矛盾やおかしさを感じた時など、子どもたちは全面的に相手の言っていることを否定したり、疑います。

それをそのまま大人になって引きずり…、仕事の上でも、上司が言っていることを聞き流す…。そう言っているけどそんなことは無理だと、聞いたふりで何も改善されないということが起きたりします。日本はこれを増やし過ぎている面があると思うのです。

それはきつい…とか、いやだ…とか。
本筋を否定して代わりに…とやっていることで代用してごまかそうとしている。
そのことで、本当に伝えたいことが伝わらずに曲がって伝わってしまう…。

よくよくあることなのです。

教育関係の本をちゃんと読んでいる人は児童・生徒を下の名前で呼ぶことの効果を知っています。いい面も悪い面も両方。だから、パブリックな立場で接している顔を育てたい…本来学校の目的ですから、子どもに対して公的な顔を求める為に名字で呼ぶことをします。実際に、子どもの精神年齢が上がっていると、下の名前で呼ばれることに対して嫌悪感や違和感などを感じさせます。ここはプライベートではないし、先生からプライベートネームで呼ばれたくない!とね。ちゃんと顔を使い分けることが身についているのです。
しかし、まだ精神的成長が伴っていない人に対して、下の名前で呼ぶと親しみを込められたような感覚を沸かせてつながりがもてたような錯覚を持つことができます。しかし、同時に相手は自分のプライベートでの顔を全面的に出してくるので組織として崩壊…。学校やクラスが荒れたりすることが酷いときにはあります。しかし、そんなちょこっとが関係している…なんて、勉強していない人にはわからないのですね。

ちゃんと原因があるから結果がある。

播いている種が何なのか?しっかり把握しているといいのにねぇ…。

相手の世界観を理解することも大切です。だけど、自分の行為の相手への影響を知ることも大事ですね。

無意識に上下を利用して圧して伝えよう…とする人は、相手のプライベートネームで公的なものを処理して、なぁなぁにして…自分の過ちなどを赦してもらおうってします。また、相手にもなぁなぁにしてあげて…経済成長がない会社のやり方ですね。

単なる言葉ですが、そうやって影響をどのように与えるかなど全て意図して使う。意識して用いる。大事なのですね。
それをうまくできないと、社会は発展が難しくなります。
だって、発展という基準は人それぞれ。その基準をそろえて見させようとすることをうまくコントロールしなかったら、支離滅裂…ではなく、多様性を認める社会。ありとあらゆることがOKになるのです。

経済発展を基準にしたい人にとっては、経済は発展していないと思うかもしれません。ただし、他の面は発展しているかもよ~ってね。

 

このブログなら、何文字でも大丈夫かなぁ…?

他のブログは1万字制限があり。

調理と脳科学と

サーストンの多因子論というものがあります。

その理論は、知能の研究をそれまでのものと大きくかえました。

 

もし、それまでのものに固執しているのなら…不幸せかも…。

いろんな価値観があることを受け入れてみることで、可能性が広がるかもしれません。

 

 

それに基づく集団式知能テストが多く…。その例としては、「職業適性検査」があります。

この多因子論では、人の能力はIQのような1次元の総合的な指標ではなく、何本かの独立したものさしの上にプロフィールとして表されます。

IQの高低ではなく、どの能力にすぐれ、どの能力に劣るかが、きめ細かくわかるというのです。。

つまり、多次元的表現で知的能力が示されているということです。

 

基本的精神能力
S:空間因子 (図形や立体を知覚する能力)…………空間的関係の理解
N:数因子 (単純な数の演算能力)……………………計算などの能力
V:言語因子 (語の意味把握や文章理解力)………言葉を使う能力
P:知覚因子 (知覚の速さに関する能力)……………知覚するスピード
R:推理因子 (論理的能力や掲画力)…………………推理する能力
W:語の流暢因子 (語を速く柔軟に使う力)…………なめらかに話す能力
M:記憶因子 (機械的な暗記力)………………………記憶する能力

 

学校での評価って、M:記憶因子に著しく?まだまだ偏っているかなぁ…。特に、大学入試の多くは偏っているよなぁ…。ようやく「推理因子」が入ってきている?入っていたものも以前からあったけど、暗記力を問う入試問題が多いのは事実。それで考える力がない学生が多いというのは、集め方もまずいと思いますね。学生を選考する基準が暗記力でしかないのなら、暗記力がある人を取っている。そこには、推理力等考える力を測り、学生を集めようとする姿勢がない結果だと思います。大学の生徒募集の姿勢と大学で学んだ結果として、その大学の学生は企業等から考える力がないと評価されているとも取れますね。単純に生徒達が解きやすいように…また、生徒達が受けようとするように…なんて高校生が勉強しやすいように(=暗記して対応しやすいように)した問題を出題していることは自分たちが暗記力だけの学生を欲していると言っているにすぎないと思いますね。

ちなみに、「数因子」を求めている…入試ももちろんありと思いますし、「言語因子」を求めている入試もあると思います。なんて、他の因子も求めている入試もあるとは思いますが、記憶さえできればいいような入試…それで集まってきた学生を批判って、企業が採用するのに大学生の本質を見極めきらなかった…というのと同じで、求めるときに見抜く努力を少々怠ったことに通じるのでは?

脱線…

 

言いたいことは、そんな選抜の仕方ではなく、現実にその力をどうしたら身につけることができるか?ということ。

 

脳科学的に…というか、流行っているよね…。脳科学の領域なのか、認知心理学の領域なのか…?よく分かりません。

ただ、脳のしくみをよく理解し、どのような対応をするかを検討する。ただそれだけですよね。
前頭前野は記憶や学習などをコントロールしているところで、ものを考えたり判断したりするときに働くとドンドン詳しくわかってきているようですね。前頭前野は「脳というコンピューターの中のコンピューター」といわれるくらい大切なところ。「頭がよい人」と言われるは、この前頭前野が発達していると考えられています。

人間と動物の脳を比べたときに、多く違うのは、「前頭葉」の中の「前頭前野」と呼ばれる場所。人間の前頭前野は大脳の中の約30%もしめていますが、動物の中でもっとも大きいチンパンジーなどでも7~10%くらいしかないのです。
チンパンジーと比較しても仕方ないとは思いますが、テレビを見たり、コンピューターゲームをしたり…いろいろな情報が入ってくるので、脳が刺激されて活発に働いている…だから、子どもに教育番組などテレビを見せているといいのでは?など、思っている人が多いからでしょうか?また、近年ではiPADを子どもに持たせて遊ばせている方も増えていますね…。タッチパネルだといいのかなぁ~?なんてわからないから、どうなんだろう…?と考えはします。ただ、実際に、テレビを見るコンピューターゲームをするという際には、脳のごく一部だけしか使われていなくて、前頭前野はあまり使っていないことがわかったそうです。ん…前頭前野を鍛えるには至らない…。

 

調理による脳の活性化について研究成果を発表

子どもの生活習慣と脳

調理が前頭前野を活性化させるという研究をされたものがデータとして出てきていたのですが…

豊かな人間性を培う家庭教育の在り方- 家庭教育の方法とその内容についての一考察 –
    指導主事 高 崎 隆 一

にあるのですが、前頭前野を必ず活性化させるとは限らないという事実ももちろん見逃してはいけないと思いますね。

 

失敗させないためのマニュアルを見て動くだけで完璧!みたいな調理実習。火加減もありとあらゆることをすでに教え込む。

絶対に失敗させない…と、料理教室では失敗は許されない…。マンツーマンなど少人数では教え伝える…ここで失敗はなくても、本来は実際に自分でさせると理解できていないところで失敗するはず…と思うのです。それを失敗させないイコール全て教え込む。これでは脳は活性化しないと思います。なぜなら、単に単純作業として書かれている通りをするだけだから。

 

沸騰するまでにどのくらい時間がかかるのか、火加減は?など、本来は考えて作業するということをしています。だけど、すべての行程を言われたように動くだけ…そんな学び方をして考えずに調理している人たちの後を請け負うとき、なんでこんなに受け身で調理するんだ~?と思うのです。また、自分で考えて動く人との違いは何だろう~?ってね。上手でなくても、言葉を自分なりに理解して動いて失敗する…それを大人が恐れすぎた結果として、子ども達が失敗を大きな恐怖と捉える…そう育っているという指摘もありますね。調理だけの話ではありませんが、そんな調理恐怖症をつくるのは結構簡単。

 

料理教室で、教えられている時はできる気がするけど家に帰ったらやっぱりできない…だからずっと通い続ける…これはとっても営業的にはいいと思います。ただ、その循環を生み出している料理教室はどんなことが身につかないか?考える力が身につかないと思われます。つまり、前頭葉を使わずに…ただ作業しているだけ。ポイントもコツも言われた通り…。

 

力を込めて、火加減をきちんとすべて押さえて伝えた…など言われうと思うのです。「バッカじゃない…」

火加減は状態に応じて中火も強火に近くしないといけなかったり、弱火も強火で対応しないといけない…と判断したり…。指示待ち君にしないためには、状態を見て判断させないと、弱火でやっていたのに…と人のせいにして考えずにマニュアル通りやったという料理をつくる…そんな人たちとたくさん出会いました。

その結果への感想というか、私の考察。

とにかく、失敗した方がいいんじゃない?

水分が飛ばないように配慮しての弱火とか、焦がさないための弱火…など、なぜそうするのか?それがわかってからの作業。臨機応変に状態を見て対応すると思うのです。

尋ねられるのが面倒だから…人数多い対応は大変!確かに。でもね、それよりも問題なのは、失敗させないで成功させる怖さ。

失敗しないで成功体験…何事も何度も失敗してうまくいくようになる…という学びを無視して何でも1回でうまく行かなければならない…。大人の他者からの評価(指導できない)などを意識した強迫観念から生まれる失敗させないための指導には、生徒の成長は少ないと思うのです。

教員の自己満足はあっても、実際にそんな人たちの指導したあとの生徒たちを対応する…私だけではありませんが、そんな体験をした時に全く動けない…そんな生徒たちに唖然とする体験は多いのです。

 

ではなぜだろう…?をつきつめていった時に、失敗したことがないからかも…?なんて思ったのです。

強火で沸騰させ続けて水分がなくなったものを食べた…食べなくても水を足せばいいのでしょうけど、そんな現象に対する理解が乏しいから、火加減も気にしない。状態を見ない。そして、「書いてある通りに作った」という。ならば、書かない方がいい。

なんでも書いて伝えて…マニュアル通りに動く指導をするようにして…と指導する自分の力量に自信がないから…とされている話を聞きながら、確かに…私も試行錯誤…そうしていたこともあり。だけど、上達しないんだよね…その場さえこなしてくれたらいい…。それって、高校で大学さえ通ってくれたらいいという発想と似てない?

 

考える力とか言っているけど、一番の足かせは、教師の失敗を恐れる姿勢というか、どうしたらいいか?と生徒をベルトコンベアーに乗せる方法…つまり操り人形に仕上げる方法の研究は余念がないけど、実力つける為の研究はしない…といばって操り人形にする指導のためのテキストを発表した人を思いだしました。だいたい、これをいいという人は、調理を教える力がない人だけだよ…ってね。当人の話もほんとうにわかっていない…って、何がわかっていないかというと身につけされたいことは何かというポイント。一番最低な方法だと私は思っています。マニュアル君作り。

調理実習で学習した内容が充分に活かされないま. ま,大半が忘れ去られている…忘れさせるようにつくったテキスト。覚える必要性がない。自分で記録も何もしない…これは、学習ピラミッドのどこに位置するか…?行動をしていても、頭を使っていないに分類される…ってね。ただ、これは料理の本特に、苦手な人用として売られている本の体裁と似ている。つまり、うまくならずに本を買わせるためには有効な手段かもね。

 

時間内に実習さえすればいい…なら、一番簡単だけど、実力つかないよ…。

こんな指導をしていては、就職難直撃コースに行けそうですね。

 

 

前頭葉を使いながら、調理するためには…?

教師が指導楽イコール失敗をさせない。

 

失敗を1回くらいさせた方が次からの伸びは大きい…くらいに構えることができない…大人が増えているからかなぁ…なんて思わされる話はたくさん。多分、料理だけでなくいろいろがそんな感じになっているのでは…?もう布に線が引かれた被服実習。工作などもそうかもね…。

頭使わないででき上がりがいいように…と仕組んだ結果の考える力のない若者たち育成結果と考えない若者…って言われる話を聞くのでした。もちろん、学校が全てではない…一番大きいのは家庭での学びと思ってます。

 

 

 

飯事 ままごと

講義を受けたメモ。

といって、どこの大学…?中村の先生だったかなぁ…そこまで書いておかないとわからないメモになりますね。

 

ままごとが危ないって話でした。聞いてすぐに書いていると今更に思いだすよりいいですね…。

http://ameblo.jp/iki-iki-nova/entry-10628069137.html

メモに載っていること

 

ぐみキャンディー1個

こんにゃくゼリー1個

食べた

朝食を食べたと答えているという事実

 

ちゃんと聞くって大事ですね。

 

 

生活体験を共有することの必要性と題して話されたことをメモしたところに

家庭自体が機能していない場合も増えているとあり。

 

見る経験・体験が親世代もなくなっているのではないか?という話。

 

18~22歳ちょうど大学生に描かせたことを話されていたのだと思います。

○駐車場の絵が多い

○描けない → 遊んでいなかったかもしれない

○遊びこむ体験をしていないのではないか?

○生活環境・食環境が変わってきている

○戸外遊びの絵を描くけれど、体験少ない

 

子どもに鶏の絵を描かせると足を4本描くという話は、私自身描かせたことがある…って高校生。実際4本描かれたことありですね…。

魚の絵も子どもに描かせると切り身が泳いでいる絵を書くって笑い話ではなく聞いたのはこの先生からかなぁ…?

高校生に魚の絵を描かせるのも結構ビックリな絵になる人がいますね。

あまり見ないものは描けないね。

 

私が小学生の高学年のころ、家でカレーを作っていたら、弟の友達が「何作ってるの?」と聞いたから「カレー」と答えたら、「カレーの色してない」と言われた。作っている途中にカレー色しているわけない!と野菜を煮ている段階で言われて思ったのは男の子だから作っていないのかな?ってね。ボーイスカウトに入っていた弟たちからそんな言葉を聞いたことはないけど、体験って大きいね…。

さんぷらいず 2010,5,28

というメモを頼りに…検索したら出てきた。

さんぷらいず 3号

 

 

「飯事」がいままさに“絶滅危惧種”の遊びに指定されようとしています。個食や孤食といった言葉に代表されるように、いま子どもたちの食事環境にも大きな変化が訪れています。家族や仲間と「食卓を囲む」ことがなくなれば、この写真のような風景はいつしか子どもたちの遊びの中から消え去ることになるかもしれません。みなさんのご家庭はいかがでしょうか?

 

絶滅危惧種の遊びって増えているかもしれないなぁ…。

http://www.city.amagasaki.hyogo.jp/dbps_data/_material_/localhost/sosiki/010/H21.1.29oosyousorezorenoshitenkaramieruoosyou.pdf

 

ままごと遊びの人気の役割 [2008年01月23日(Wed)]より

ままごと遊びの人気の役は、少し前までは「あかちゃん」でした。
自宅の横が公園なので、小さいこどもたちがままごと遊びを真剣にしているのを、ほほえましく見守ったものでした。
今では、一番人気は「ペット」だそうです。
ばぶばぶいって可愛がられた赤ちゃんは、兄弟のいない一人っ子の家庭では実感がなく、代わりにペットを無条件に可愛がる大人を見て育つ子供たちがそう思うのも当然といえば当然のこと。
叱られないし、家族みんなが気にする存在ですから・・・

 

教員エッセイ:雑感「おままごと」より

ある日の「天花」の放送で、最近保育園に通う子どもたちの「ままごと」のことが話題になっていた場面がありました。今のこどもたちの「ままごと」で人気のある役割は「赤ちゃん」だと言っていました。その理由は、「みんなにやってもらえて、自分では何もする必要がなく、楽だから」だそうです。逆に一番人気のないのは「お父さん」役だそうです。また、それに続くワースト2は、「お母さん」役です。その理由は「朝から晩まで働いて忙しくしており、疲れそうだから」だそうです。ドラマの天花先生や主任の珠江先生の時代は、「お母さん」役が人気だったそうです。私、矢野の時代もそうだったろうと思います。ちなみに、サザエさんのアニメのなかでのタラちゃんやリカちゃんたちが行う「ままごと」では夫婦(お父さんとお母さん)役の場面がほとんどであったような気がします。たまに、波平さんやマスオさんが子ども役をやっていましたね(笑)。皆さんの時代はいかがだったでしょうか?

 

 ペット願望

ままごと

 

いろんな方が書いている文章…。

 

世界ではどうなのでしょう?と疑問を持ってみました。

キッチンセットみたいなおもちゃがあるくらいだから、いろんなところでなされているのでしょうね。