本当に欲しいものは

2001年5月5日土曜日 西日本新聞「思春期 心のカルテ」から。

電話の声は思ったより明るかった。冬美さん(19)=仮名=は、北九州津屋崎病院での入院生活を終え、四月から標語県内の美容室で見習いとして働き始めたばかり。「仕事?きついけど楽しいですよ」さびしい夜には、まだ悪い癖が出る。「頭では治ったと思うのに。後は自分次第だよね」

 

十七歳、高校三年生のころ。冬美さんは、真っ暗にした自分の部屋にいた。スーパーで買い込んだ七千円分の弁当、パン、惣菜、お菓子…。維持置換食べ続け、十分間吐く。一日十回は繰り返した。「食べてるときは楽しくてしょうがない。でも太るのはイヤ」。摂食障害の始まりだった。

慎重156㌢、体重52㌔。それが、数ヶ月で体重は34㌔にまで落ちた。歩くのもやっと。学校を休んで入院し、ベスト体重の48㌔まで戻すのに、一年かかった。

二度目の高校三年生。一学期はまじめに通ったが、九月に恋人ができて生活は一変した。親に隠れてスナックでアルバイト、日給六千円を手に毎日、朝まで遊んだ。居酒屋で思う存分食べた後、トイレで吐いた。そして複数のメル友(メールのやり取りをする友人)とのセックス…。

高校を卒業する今年三月まで入退院を四回繰り返した。

 

「何でも与えられすぎたから、何がほしいか分からなくなってた」

冬美さんは宮崎で生まれ育った。自営業の父と母、祖父母、三歳下の弟。初孫でかわいがられ、しかられた記憶はない。おもちゃ、お小遣い、ご飯のおかわり。何でも「欲しい」と言う前にあった。中学の吹奏楽部に入ると、両親はすぐ高価なホルンを買ってくれた。

小学校時代から元気で勉強できるいい子。中学では生徒会役員に選ばれた。だが、何かが違っていた。「はまりすぎてつまんない」。そして高校の入学式。茶髪に化粧で変身した自分がいた。以来、勉強も部活もほうり出して遊んだ。

中身は変わっていないつもりだったが、親や教師の評価は落ちた。次第に自分でも自分を認められなくなった。

「せめて外見だけでもきれいにならなきゃ、やせなくちゃって、思いつめちゃった」

 

北九州津屋崎病院の森崇副院長は、冬美さんを神経性大食症と診断した。親の愛情をモノで受け取ってきた彼女は、満足することを学習せずに食欲と性欲に走り、そんな自分を信じられなくなっていた。「摂食障害が本当に治るのは、自分が社会で役立っていると言う経験をするか、信じられるパートナーに出会ったとき」と森副院長はいう。

与えられるものではなく、本当に欲しいものは何か。冬美さんは探し続けている。

【メモ】

摂食障害には、最低限の清浄体重を維持できなかったり、拒否したりする「神経性無食欲症」と、むちゃ食いとおう吐、絶食などを繰り返す「神経性大食症」がある。青年期、早期成人期に発症することが多く、女性が9割を占める。食べ物が豊富で、やせた女性が魅力的とされる先進国に多い。女優オードリー・ヘプバーンも典型的な摂食障害だった。

 

 

と、ここまでが新聞記事。今から13年前。だから、この記事に書かれている冬美さんは少なくとも30歳は超えているんだろうなぁ~。

 

この記事の衝撃があったからか、ずっと残していた記事。

 

 

「ぞうさん」の贈り物

1998年6月1日の朝日新聞社説。衣替えについて

きょうから6月。衣替えである。

この変わりめに、こころの衣替えを考えてみたい。

まど・みちおさんに会った。

童謡「ぞうさん」の作詞家で知られる。

ぞうさん

ぞうさん

おはなが ながいのね

そうよ

かあさんも ながいのよ

大人も子どもも知らない人はいないだろう。作曲は團伊玖磨だ。

ぞうのこどもと母親の仲よしこよしの歌と思っていた。

「そうではないのです。ぞうの子が鼻が長いとけなされている歌なのです」

それでもぞうの子はしょげたりしない。むしろほめられたかのように、一番大好きな母さんも長いと、いばって答える。

「それはぞうが、ぞうに生まれたことはすらばしい思っているからです」

ぞうに限らない。ウサギもイワシもスズメも草や木も、地球に住む生き物たちすべてが自分であることを喜んでいる。人間だって、そのなかの一員である。これが、まどさんの「ぞうさん」哲学なのだ。

アイデンティティーとか「自分探し」といって、自分の存在証明に躍起になることもない。「あるがまま」でいいのだ、といっているように思われる。

人間も他の生き物も、それぞれにちがいがあるからこそ意味がある。違うもの立ちがその違いを生かして助け合うことが最善のみち。みんながみんな心ゆくまでに存在していい、共生の考え方だ。

まどさんは相手の傷や痛みを自分で引き受けてしまう。そんな詩を読むと、何か途方もなく大切なことをなおざりにしたままでいることを気づかせてくれる。

88歳。戦前、台湾にいた19歳から童謡や詩を書く。その数は千を越える。いまも書き続ける。

まどさんは繰り返し蚊の詩を書く。

刺しにくる蚊。おもわずたたいてしまうのだが、刺される側のまどさんは、血を吸わなければ生きていけない蚊の身の上にまで心を痛める。

きえいりそうに よってくる

きんいろの こえを

大げさに たたいたあとになって

ふと おもうことだってある

むかしむかしの

りょうかんさんだったらばなあ…と

たたいてしまった自分に傷つき、蚊のことが気にかかってしまうのだ。

こどもがしゃべった言葉を詩にした作品展で、まどさんの印象に残ったのは、教室でトイレに行きたいが紙がなく地団太を踏んでいる。それを見たほかのこどもが一緒足を踏み鳴らしたというものだった。

童謡「サッちゃん」の作詞家でまどさんの評伝を書いた坂田寛夫さんは「私たちがふだん見過ごしてる小さな、それゆえ大事なことを教えてくれます。いまでも新しい発見に向けて、散歩しています」。

ほかのだれでもない自分が、ほかのどこでもない「ここに」いる。そのことこそが、すばらしいのだと「ぼくが ここに」という詩でまどさんはうたう。

衣替えには「季節を着る」意味があった。袷から単になることで、こころまで軽くなる。

あなたも「お仕着せ」を縫いで、衣替えしてみませんか。

 

 

ちょっと強引な感じも何度読んでもしますが、「ぞうさん」ってそんな意味だったの…。驚きをもって読ませていただき、切り抜いていたのでした。

1948年に書かれたもので、1953年に團伊玖磨が曲をつけてNHKラジオ放送された。その歌詞は自らのもつ差異を肯定し、誇りとするものとされている[。周南市徳山動物園には「ぞうさん」の歌碑がある。

みちおは「ぞうさん」について次のように語っている。

「『鼻が長い』と言われれば からかわれたと思うのが普通ですが、子ゾウは『お母さんだってそうよ』『お母さん大好き』と言える。素晴らしい」

この文章はウィキペディアに載っている説明から。

本年、2014年2月28日、104歳で、老衰のため病院で亡くなられた。こうみると、88歳のときとあるので、それから16年。

〈ぞうさん〉とまど・みちおの思い

法政大学のレポートのようです。

ぞうさんの解釈などを丹念に調べられている。そして、どこの国の方だろう?韓国かな?日本人の思考という視点での考察など面白いなぁ…と思いました。

このレポートで知りえたことで気になったことを2つ。

1)「ぞうさん」の作られた背景を勝手に創作した朝日新聞記事があったということ。

1968 年4 月21 日の朝日新聞「東京のうた」欄に載った記事。

2)「ぞうさん」の。おはながながいのね」は、原文は「おはながながいね」だったということ。

「佐藤通雅『詩人まど・みちお』北冬舎、1998 年10 月、227 頁

「 佐藤義美さんのこと―まど・みちおさんに聞く―」『季刊どうよう』、チャイルド本社、平成2 年7 月、27 頁。

 

 

驚くべき事実。知らなかったわ…。

「の」がないと、確かに非難めいて聞こえる率が高くなる気がします。

 

朝日新聞の社説として、この「ぞうさん」のことを取り上げるってどういう意味があったんだろう?なんて気になりますね。

 

今までのスクラップなどを整理して捨てていく中で、記録したから捨てようかなぁ…と思っていたのですが、違う意味で気になりました。

 

 

プチ制服化現象

これは以前入力した気がするけど…消える前だったのかもしれない。

 

今から何年前の新聞の記事なのかも記録をとっていないけど、今や普通?

 

古館伊知郎のTV的職業病

プチ制服化現象

個性的?実はみんな同じ

目からウロコが落ちるとはこのこと。消費不況直撃の最中、大手デパートで今、売れに売れているものがあるという。それは女子高生の制服だ。

いや、厳密にいうと制服ではない。従来の制服は、それぞれの学校指定の文字通りの制服だったが、今売れているのは限りなく制服っぽいデザインの私服。紺のブレザーにチェックのスカート、襟元にはリボンという名門私立校風のデザインで、伊勢丹では「自由服」と呼んでいるらしい。

制服と私服の間に自由が存在するのか?私の硬直化した脳はこの現象を理化するのにちょっと時間がかかる。私の高校時代など制服こそが不自由の権化。したがって怒られるのを覚悟で学生服の下にわざわざ赤いセーターを着ていって、金ボタンを二つぐらい外して画一化に反抗したつもりになっていた。しかし、それはあくまで学校という組織の中でのアピール。「自由服」を選ぶ現代の女子高生は完全に外へ向けたアピールだ。

世間では女子高生ブランドを押し出したほうが注目されて得をする、という戦略。彼女たちは重大にして、すでに市場原理というものを学んでいる?我々の世代が埋め込まれた「自由」だの「個性」だのといったたちの悪い幻想に惑わされていない。どうせ個性なんて大したことない。だったら女子高生というグループへの帰属を前面に出した方が「ヨクナクナイ?」というわけだ。

このプチ制服化現象は、勝手気ままな私服全盛とみられがちなTVの現場にも実は蔓延している。一見それぞれが自由で個性的なふりをしつつ、よく見るとスタッフからタレントまでみんながみんなTシャツを着ている。まるで襟付きのワイシャツ、ポロシャツの類は厳禁というルールでもあるかのようだ。もし襟付きのシャツをはおっていたとしても絶対にその下にはTシャツを着ていて、しかもシャツのボタンは一つもかけず、Tシャツを丸見せにしている。もし本当の自由人だというなら、「少年の心のままに」詰襟の学生服でスタジオを仕切るディレクターが一人はいてもいいはずだ。

かつてサラリーマンの事実上の制服といえば「どぶネズミ」の背広一色であった。しかし、今は昔よりオシャレ。中間管理職系には相変わらずどぶネズミ系が多いが、CEOなんて言葉が流行りだしてからだろうか、役員クラスはオシャレな黒系のダークスーツが主流になり、一方若いサラリーマンはダーク系3つボタンにダークカラーのワイシャツ、同じくダークなネクタイというスタイリッシュないで立ちが台頭している。

しかしこの現象は一つだった制服が立場によって三つに分かれただけの話。これはまさに、光り物とくくってしまえば一つだが、アジとサバとイワシにそれぞれの立場が分かれるのと同じだ。そして同じ種類の魚が群れで行動してくれるからこそ一網打尽で網に引っかかる。そのあたりの原則は海の魚も陸のヒトもあまり変わらないという大自然の法則を私は完全に理解できた気がした。

 

 

とりあえず…いつの新聞から切り抜いたのかわからないけど、5年以上は経っている気もする。

 

多分、8年~10年前の記事では?って思います。

 

制服の概念はいろいろとあるのでしょうけど、制服みたいな私服を着て、高校生という枠組みに入る…それを崩して着る…女子高生が幼稚化しているなぁ…と、読んだ記憶あり。それなのに、そこからいきなり就職…大学へ行ったとしても…4年で就職…

「かわいい」ものが売れるのも、納得…と、世界中での傾向なのでしょうか?

 

制服っぽい私服を着るという気がしれないなぁ…って思っていたけど、たとえ私服だとしても、確かに20代の人が着ていたら…本人もきついなぁ…って感じているでしょうねぇ…とAKB48などを見てしまいます。

そんな制服っぽい格好をしないと、20代も10代も違いないような…そんな化粧をして同じような服を着て…ある意味、早く大人になりたい…というのか、大人として化粧する?一方で、短いスカートの制服もどきを着るとチグハグで…気持ち悪さを感じたりもするのですが、改めてこの記事を読んでいたら、親も服装低年齢化しているかもなぁ…。

好きな服装を着ているだけ…か。とも思いました。

 

きれいに着ることからうまくできないなら、立ち振る舞いも着方に合うよねぇ…というのは、イマイチ感いっぱいに感じます。

遠めで昔ではよく見かけたフォーマルスタンダードなスーツ姿の若い女性を見ると、どんな人だろう?と興味を持つくらいにズレテイルなぁ…がいっぱいで、きれいに歩いていたら本当に感動してしまうのでした。

今は東京どうなっているのかなぁ~?

無意識の虐待

「無意識の虐待」という言葉があることを知りました。

事象自体は私も知っていることがあったのですが、すでにそのような言葉が存在しているんだ…と。

 

なぜ学ぶか?のひとつの理由に紹介してきていましたが、これはショッキングな言葉で内容はもっとショッキングかも…?

 

たとえば、タバコを親が吸っていて、その場で育つ子供たち。

子どもの歯はやられていく…

だけではないかもしれませんが、そのようなことを紹介されていました。

 

言葉としては、確立していないようですね。

「無意識の虐待」と検索して出てくるのは、高齢者の虐待については結構出てきました。

 

知識がないがゆえに虐待していると思っていない。

 

昨日、聞いた言葉がなるほど…と思わされたのでした。

「死ぬとは思わなかったと虐待した親が言っているニュースを見て、そんなことはないだろうと思っていたけど、本当に思っていなかったのかも知れないってこと?」

ニュースなどでの言葉を見聞きして、信じられない…と思ったとしても、実際にその人が言っている言葉から学べることは、知識がないと実は自分も予備軍かもしれないと思えない…ってことですね。

力加減や、程度など、自分を中心に考えて行う人たち。どれほどに相手を傷つけているかも、まったく理解できず、自分を正当化…。

 

体罰を平気でやっていたり、それを助長したりしている人たちがやっていることの延長線上の出来事。学校で教えていることのひとつの結果に起きていること…でもあると思いますね。

 

いろいろと話をしていて、反応している声を聞いて対応していて…進まないなぁ…と思いながら、正直、こんなにいろいろと聞いてくる…その奥深さ?とおり一辺倒に今までも習っているはずでは…?という思いがあったのですが、他の領域と違う顔つきに驚いてしまいました。

 

ただ、突っ込んで話が深化すればするほど、実は聞くのが耐えられない…そんな子も増えることがある。

怖さを感じながら…ただ、いろんなところで教えていてもっと学びたい…という反応をよくもらう分野が保育に関すること。

 

「無意識の虐待」という用語も知らずにお話していたことをもっといろいろあるんだ…と知り、探したのですが見つけるキーワードがちがうのかしら?

そう今は感じています。

 

無知がゆえに行っていること。

それがおかしいという感覚が麻痺してしまっていること。

 

センシティブに対応することができるか…って気づくセンサーを壊さないとやっていられない…って育ち方をしたら、難しい話になっていくのかも…。

 

 

 

人間は習慣の動物

常に本気。

本気で行動する。

 

大人になる前に運動をして、成果を求めた人がまず覚えることの一つ。

それは、練習大事…もですが、

我流のスタイルを身につけると、体に負荷が大きくかかるって。

 

コンピュータなどのキーボードを打つことも…

なんて

 

我流のスタイルで極めていくことが難しいのではなく、負荷が増えるってことかな。

もちろん、きわめている人がいる。

 

と、スポーツしていて我流…体のあちこちに負荷。故障…なんて、体験している人。また、結果を出した人も、我流を修正して…って苦労した人。

 

できる限り…最初からできれば…いい感じに身につけたいなぁ…研究熱心

 

 

その逆で、どうせダメ…ってあきらめる口実に?

口実探し…

自分でまずは担保作り。ダメだったときのキープ。

口実探しは、自らの可能性を閉ざしてしまうだけ。

ハナからあきらめの気持ちが強く、あきらめることを自己肯定するために口実を探しただけ?

 

人間は習慣の動物。

いったんあきらめてしまうと、次からもあきらめることが平気になる…

 

この状況に子どもを追いやる社会が今の日本かもしれないなぁ…

 

というより、もしかしたら、昔からそうなのかもね…蓄積?

 

どんな場合でもあきらめない決めてやってきた自分を思い出せる人はまだいい。

その自分に戻る。

難しいくらい…あきらめることが平気になっている?そうなることが大人と教えているあきらめている人。

 

人生はどんな場合でも、可能性がある。

打開の道はそこから開かれる。

拓くためには、「あきらめない」を習慣にする。

 

降水確率80%と聞いて、どう考えますか?

どう対応しますか?

 

私が教わったことは、20%晴れるということ。

もっとすごい?その地域のどこかに少しでも降ったら当たり!だよ。

 

つけたいところに言い訳と絆創膏はつく。

 

エジソンのあきらめない心を見習おう

アインシュタインに学ぼう

なんて、あきらめない人だけが出せる結果。

後天的な性質としたら、あきらめないで頑張り続けることができる素質を身につけることができる環境って…?

 

あきらめないことと執着とは違うと言われたりもしますね…。

 

 

どのような習慣を身につけるか?

 

 

あきらめるとラクかもしれませんね。

 

「夢は見るもので、叶えるものではない」

と働きはじめて、教員の口からよく聞きましたね。

そんなスタンスでは、生徒の夢が叶うわけがないと思うのですが…って、いろいろ勉強してやっぱりそうだよねぇ~って思います。

そんなことを教えるから、引きこもりが増えているだろうなぁ…。

 

 

10mでも高く飛べるのみでも、人間の心を持つと高く飛べなくなる…と聞いたこともあり。

 

 

いろんな実習課題等を考えるとき、「これは生徒はできない」と言う先生は、

「これは生徒に私はさせることができない」と言っているだけなんだけど…

本当は、「生徒ができるわけがない」と信じている。

だから、生徒ができるようにならない。

 

信じる力って、実は大きい?

最後まで…あきらめなかったら、土壇場まで…ダメかもしれない?不安はよぎっていても予想をはるかに上回るすごい結果を出してくれることがあると信じられる。もし、ダメだったら?

 

そうやって信じてもダメだったら…次に出るかな?

それでも信じられるか?何度まで???

 

結果出るまで。

 

自分を信じることができるか?

信じてもらえて成長できたか?信じてもらい続けられているか?

周りの大人の度量かもなぁ…と思わされます。

自然と信じることのできる自分が存在するイコール信じてもらえて育ったということ。

ありがたさを感じますね。