認知的不協和

認知的不協和とは cognitive dissonance

人が自身の中で矛盾する認知を同時に抱えた状態、またそのときに覚える不快感を表す社会心理学用語。アメリカの心理学者レオン・フェスティンガーによって提唱された。 人はこれを解消するために、自身の態度や行動を変更すると考えられている。有名な例として、イソップ物語のキツネとすっぱい葡萄の逸話が知られる。  これは、ウィキペディアから。

 

この言葉を調べてみようと思ったのは、『新しい学習指導要領の理念と課題』という本に出てくるから。

 

現行の学習指導要領に置いて…?多分、私が思うのは、ちゃんとどんなものかを知らずに表面だけをさらった人達が行った指導の中で、「自ら学び自ら考える」という面ばかりを強調されすぎたということについて書いてあるのです。

…そのために、保護者や教師、自分と違う友達の意見や感じ方の違いなどを虚心坦懐に受け止めることがおろそかになりました。また

自分と異なる感じ方や考えを内面で自分のものと照らし合わせて吟味・検討するといった面が弱かったように思います。

と書いてあります。

正直、「自ら学び自ら考える」と言って野放図にした人達から非難されまくったのは、展開等に対して系統だってさせようと課題を与えることなど。はぁ~?ってバッカみたい…と無視してました。だって、「自ら学び自ら考える」ためにはいきなりは難しいから、ステップバイステップと指導準備が大切。それをしないで、いきなり言われる生徒の方が混乱して当たり前でしょ…それを「なんだそれは…」みたいな言葉かけをする先生気取りの人達と働きながら、「そんなに口出しするな」とか言われるけど、それはそういうふうに考えてやるという風土をつくりだして、そんな形が定着したところからしかできないのにね…と無視してたのでした。だから、拍手!ってくらいに思います。

まぁ、徹底的に与えて…という人達もいますが、この余地のなさも嫌い。そんな思いの私には読んでいて、スーッとした「でしょ、でしょ」と思うところ。

 例えば、これまでの授業では、自分で課題を見つけ、自分で取組むことが強調されてきました。しかし、それだけではなく、教師から与えられる課題も、時には必要です。その時には関心が薄くても、大事な課題を与えられて取り組む中でその大切さがわかってくる、あるいはそれができるようになって達成感、有能感を味わう、という学習経験も必要だからです。

と、ホント、スーッとしました。課題を見付けさせるって結構難しい。枠を設定してあげて、その中で…など段階を経ていくと、全体的な漠然としたものも多くの生徒達が取り組めるなぁ…と思わされることはあります。だけど、初回からそれをするのは違うでしょ…という思いと、後はできる子もいるけど、そうできない子にとっては伸びずに終わるんだよねぇ…と思うのです。どちらかというと、伸びずに終わるのが問題と思っています。今の学校でも、与え方まずいよねぇ…って思うことばかりあっていて、意見する機会がない!ともう形が大まかにできてからしか話を出してこないしくみが「例年通り」の一番問題と思いますね。そして、問題にやらないと気づかないの…?とビックリするようなことでも、スーッと通っていたりしてます。「形をつくる担当になった人がこんなに頑張ったんだから…」の一辺倒で済まされるので、これってまずいよ!と知っていて言っても通らない…理由は3つ思ってます。1つは、これではまずいと言ってすでに変える話をやった経験がない。もう1つは、年齢でしか人を見ない。ラストは、勉強不足・視野が狭い・知識不足…で言っていることを理解してもらえない。最低最悪パターンを体験して思うのは、だから日本はよくならない…。そんな失敗談なんてとうの昔に過ぎている学校とかを体験して、言っていても、「なんでそんなことを言うんだ、やってもいないのに」という言葉を吐く年配者たちに出くわす度に勉強していないから何でも年数で経験したことしか…と言っていたら腐るでしょ?と思います。ホント…まぁ古いやり方から重い腰を上げるのが遅い対応の学校で思うことは、後追いする学校は嫌い!何でも最先端で取り入れてみて検討を重ねよくしていくということをしないと、法規法令が改正されて不都合にも対処できないと最初の職場で学んでいる私には受け入れがたいスタンス。どっぷり昔流…その昔流が大っきらいな私には頭古い…が何十年前の指導要領を見た話をしていますか?って思う度に嫌悪感しか感じません…と違うことを書きたいのに…。

 

書いてある所には、

教師から与えられる課題も、ときには必要です。そのときには関心が薄くても、大事な課題を与えられて取り組む中でその大切さがわかってくる、あるいはそれができるようになって達成感、有能感を味わう、という学習経験も必要だからです。

 先生から注意される、友達から違う意見をぶつけられるというのは嫌なものです。心理学的には「認知的不協和」というのですが、先生や友達から思わぬことを言われたら、それ自体が不快ですから避けようとします。しかし、それでは、世の中を生きていくことはできません。安易な上滑りの人生になってしまいます。

ということ。

実は、このところの課題を不快に受け入れない…。違う意見を出しても耳にしない自分を通す…ってやり方をする自己流の人と話すときに、こんな風に書いてある本を片手にでも話さない限り耳を貸さない年配者たちって学校教員は多いなぁ…って思います。本当にやっていたりしている人と話すときは、違いを理解して取り組むときに役立つって思いますが、もう「こう!」と決めているそのものがおかしい!と言っている言葉が通じない…。無知無学で教えようとしている人たちと接して共有するって本当に難しいです。こんな指導要領とか頭に入っている人達と働けていたことを本当に過去のこと…ですが、あのころがよかったって思います。全く通じない人達と働いて思うのは、だから生徒が伸びない!理由は簡単ですね。自己流以外知らない人たち…。実は先生の方がこんな「認知的不協和」を避けるから、生徒にそんな体験をさせないのかも?させているつもりになっているかも。

 

…「自ら」や「自主性」は最後に目指すものであり、プロセスでは教師の指導をもっと大切にしよう、ということをきょうちょうしているわけです。

 

とあります。そうだよね…と納得です。

 

 

例えばおいしいと評判のラーメン屋に行って行列に並んで食べたがあまりおいしいと思えなかった経験はあるでしょうか?

このとき人は「おいしいと評判の店。行列に長時間並んだ。」なのに「ラーメンが美味しくなかった。」という事に矛盾を感じ認知的不協和に陥ります。そして以下のように考えます。

「このラーメンは美味しいけど自分には味が分からなかっただけ。なのでこのラーメンはやはり世間一般的には美味しい。」

このように人は認知的不協和を解消するためにこのように感情を理論的にコントロールしようとします。この現象が大きく影響するのはプライシングです。

こう書いてある「認知的不協和」の説明サイト。こんなのも「認知的不協和」なのですね。

 

自分の状態(気持ち、経験)にそぐわない状況に置かれた場合、居心地の悪さ:認知的不協和が生じる。

  その居心地の悪さ:認知的不協和を避けようとして、自分を納得させられるような、自分の状態(現状・過去・欲望…)を正当化(合理化)するような、理屈や態度をこしらえて
 ・安心が得られるように
 ・自分自身の内部に矛盾がないように
 ・自分をほめることができるように
人は自分の考え方を変えてしまう

 

自分自身にもあることかなぁ…とは思いますが、教育の場でこれを体験させながら学ぶ機会を得る意義について書いてある文章を読む機会を得てよかったです。

 

 

 

ナショナル・ミニマム

新しい学習指導要領の理念と課題―確かな学力を基盤とした生きる力を』梶田叡一著

この中に梶田叡一氏(文部科学省・中央教育審議会副会長)の話がいろんな形で紹介されているのです。

そこに「家庭で新学習指導要領を考える」という章があり。

インタビュー記録で、『日本教育新聞tesio』2008年3月10日原題は 家庭で考える「新学習指導要領」とのこと。

家庭向けに書いてあるから、わかりやすい…と思うところ。

 

学習指導要領とは何ですか?

全国の子ども達が何の勉強をして、どんな力を身につけるべきかという最低限の内容を決めたもの。

この説明の続きがなるほど…って。わかりやすい!

 

 これがあるおかげで、日本ではどんなに山奥や小さな島に住んでいて重、一定したレベルの教育が受けられます。義務教育と聞くと、親や子どもの義務と思われがちですが、もう一つ、政府の義務でもあるんです。地域格差のない教育を提供するためにも、学習内容は、もちろん、先生の配置の仕方から校舎の建て方まで、さまざまな基準が設けられています。

 

その続きの言葉が、気になりました。

ナシャナル・ミニマム … 国全体で誰もが最小限身につけるべきこと

ローカル・オプティマム … その土地ならではの特徴を活かした勉強

 

ナショナル・ミニマム(national minimum)とは、国家(政府)が国民に対して保障する生活の最低限度(最低水準)のこと。

日本の場合、根拠は日本国憲法第25条。これを保障するための社会政策は、生活保護法など、それらを総称して「セーフティネット(安全網)」と呼ぶ場合がある。、国家として保障するものを「ナショナル・ミニマム」というが、地方自治体単位での最低限度の生活水準(生活環境水準)については「シビル・ミニマム(civil minimum)」という。

ウェッブ夫妻

 ウェッブ夫妻のいう「ナショナル・ミニマム」概念は,「最低賃金,最長労働時間,衛生安全,義務教育」の4つの項目からなる。

最低賃金が,現在の日本にも存在しているように,それは労働市場での自由な雇用契約に,一定の枠をはめて,これを規制していこうとする労働政策であった。ナショナル・ミニマムは,ベヴァリッジの「最低生活費保障原則」につながっていく福祉国家の最も根本的な理念の一つである。
 ところが,それは単に低所得者に対する平等主義的な所得分配策であったのではない。

「ナショナル・ミニマム」は,快適な労働条件によって労働者の健康,知力,活力を増大させ,また,劣悪な条件でしか労働者を雇用できない非効率な企業を追放することで,マーシャルのいう「有機的成長」を,加速度的に推し進めようとする生産力理論であった。

ちなみに,ウェッブのこうした主張は,東京大学,大河内一男教授が提唱したところの,生産力説的な社会政策論と,ほぼ等しい視点にある。大河内教授は,もちろんウェッブのこの面に気づいていたであろう。     

               ウェッブ夫妻『産業民主制論』(1897年)より

 

もともとは、教育用語ではないみたいですね。この用語を、このような使い方をするのは一般的なのかなぁ…?

教育に於けるナショナル・ミニマムというテーマで書いてあるブログのページ発見。

この記事は2005年9月の文章。

教育の国家責任とナショナル・ミニマム2012年04月発行

義務教育費国庫負担制度のあり方について  東京学芸大学 小塩 隆士

ナショナルミニマム研究会中間報告(案)  平 成 2 2 年 ● 月 ナショナルミニマム研究会 これは厚生労働省のサイトにあった…

ナショナルミニマム 平成22年厚生労働省報道のための資料みたいです。

日本の教育を考える10人委員会2011

これまでのナショナルミニマム研究会における各委員からの主な意見(事項別概要)

 

いろいろ探してみて、「ナショナルミニマム」という言葉が出ている文部科学省関係のものって…?

中央教育審議会 義務教育特別部会(第33回・第34回)議事録・配布資料

平成17年9月8日(木曜日)14時~18時

資料2 学習指導要領等の教育課程の基準等の在り方について

簡潔な言葉で国がナショナル・ミニマムとしての教育の基本を示すことが必要。

  ニートの問題を含め,義務教育の在り方,教育課程の在り方が問われており,日本の教育や各教科の水準,ナショナルミニマムがどうあるべきかの検討が必要。

 

これなのかなぁ…?

 

新教育基本法法制研究特別委員会公開研究会

 1. 全体テーマ 「教育・保育におけるナショナル・ミニマム・スタンダードと地域主権改革」 2. 期日 2010年10月16日(土) 午後1時30分~午後5時30分 (開場:午後1時) 3. 会場 桜美林大学四谷キャンパスB1ホール(地下1階) (JR四ツ谷駅、東京メトロ丸ノ内線・南北線四ツ谷駅より徒歩3分。) 4. 報告  渡部昭男(鳥取大学)  「障害児教育におけるナショナル・ミニマム・スタンダードのこれまでと今後」(仮)  横田光平(筑波大学)  「保育におけるナショナル・ミニマム・スタンダードのこれまでと今後」(仮)  山崎洋介   (ゆとりある教育を求め全国の教育条件を調べる会)  「義務教育費国庫負担法の現状と今後」(仮) 主催   日本教育法学会

東京都町田市教育プランが書いてある中に次のように紹介されてました。

2001 年の地方分権改革推進会議報告において、「ローカル・オプティマム」という言葉が登場したことに象徴されるように、地方公共団体には、地域住民のより高いレベルのニーズに応えて、地域ごとに最適の施策の組み合わせを探求し、その実現に向けて努力するという考え
方が求められています。
この考え方は、国がすべての国民に対して最低限の行政サービスを保証するという「ナショナル・ミニマム」の考え方と対立するものではなく、主権者である国民=地域住民の立場を重視し、真の分権社会の実現を目指すという点で同一基軸にあるものです。すなわち、国と地方
の役割分担を明確にして、国が責任をもつべき分野については、基盤整備等の面からその責務を十分に果たす必要があり、地方が責任をもつべき分野については、地方の自主性、主体性を十分に発揮していく必要があります。

ということで、2001年に「ローカル・オプティマム」という言葉が登場したんだ…。

学校教育におけるナショナル・ミニマムは、臨時教育審議会、教育改革国民会議、中央教育審議会などの組織で検討され、答申として示されてきましたが、その方向性は、時代背景や社会的要請を受けて変化してきています。
大綱的な基準や標準、あるいはナショナル・スタンダードと言われてきた学習指導要領についても、2004 年の中央教育審議会答申において「最低基準」というとらえ方があらためて強調され、ナショナル・ミニマムとしての特色が明確になっています。また一方で、社会的な要請や指摘を受けて、文部科学省が実施した全国的な学力調査やいじめ実態調査は、義務教育の責務である「水準の確保」について、国が責任をもって検証しようという動きです。

これは古いのかなぁ…?2004年が最後かなぁ…?

 

義務教育特別部会(第37回) 議事要旨  平成17年9月30日(金曜日)

資料3-1 義務教育は将来への投資!!ナショナルスタンダードを維持しつつ、地域の特色を取り入れた教育を(藤田委員からの配付資料)

 

 

本『新しい学習指導要領の理念と課題―確かな学力を基盤とした生きる力を』に書いてあることで、それってホント…?と思ってしまうところは、旧(現行)学習指導要領との差は何ですか?というところに書いてある言葉。

できるだけ子どもにラクをさせるのをよしとしたのが旧。これからは、子ども自身の頑張ろうとする気持ちや、いろいろな知識や能力を自分から身につけようとする態度を大事にした内容になります。

2単位になったんだから…ラクさせていられない…って思ってやってましたねぇ…。授業以外のところで学ぶ機会を持ってもらわないと、身についてもらえない…ってやっていたから、この一文はビックリ。

 

この表現の仕方は理解しやすいなぁ…と思わされた文章。

教育方法は違っていても、今、どの国の子どもたちにも必要とされているのは、確かな知識を駆使して自ら考え、判断できる力です。高度情報化社会を迎え、“おいしい“情報に子ども達が振り回されないためにも、大人が自立した人間としての在り方を示して、子どもが欲求や欲望に流されないようセーブしてあげる必要があります。

 その際のポイントは二つ。ひとつは、みんなが気持ちよく人間らしい生活を送れるよう、一定のルールを共有してときに我慢し、他人の都合も考えるということ。近代社会・国家が形成された原理である「法治主義」の考え方です。もうひとつは、自分の内側に良心や規範意識を作り、欲求をコントロールすること(=「超自我」の形成)。これら二つは自然には身に付きませんから、親がしつけを通して教えていきました。しかし近年では、親自身がそれらを理解していないことが多く、そこにつけ込んだマスコミをはじめとした学者や教師が「子どもに好き放題させることがいいこと」とあおったのが、「ゆとり教育」であったといえます。

 

わかりやすいけど、とっても凄い表現…。親がしつけを通して、子どもに何を身につけさせたらいいかを理解していないことが多いということ。そんな親の状態に対して、学者や教師がつけ込んだと書いてあること。すごい…ホントビックリ…。

自由にさせていないと偉く言われた…普通科での話が全て間違っているってことと思える文章。大元の文章を読むと、この「ゆとり教育」とは違うって思うのに、大筋のところで目指すところは一緒のはずなのでは?と思うのに、この否定文章凄いなぁ…。ただ、本当に心強く思うのは、この「子どもに好き放題させることがいいこと」と言わんばかりにしてきた管理職はじめ先生方から批判され続けたことが、おかしくなかったんだ…ってしみじみと。心強く思った文章ですね。

そういう意味では、この本のこの部分から先のページにずっと書いてある表現の中に感じられる批判的な姿勢。

ただ、違う受け取り方をされたら、また、なんか違うことになりそう…とは思いますね。

86ページ87ページに書いてあるアメリカやイギリスなど欧米の教育の話を日本の話みたい…って思うしかない。

 その結果、学力大幅に落ち、暴力や犯罪、中高生の妊娠が一気に増えました。自由奔放にしたら意欲がわくかというと、むしろ勉強する気が亡くなり、努力する気もなくなる。勝手気ままというのは、人間から活力を失わせるのです。子ども達の置かれた状況に危機感を覚えた欧米では、1985年以降、教育方針を180度転換しました。子どもが自分でものを考えた上で自己責任によって判断する、時制や字会を重んじる教育に戻したのです。

 

実際に出た結果としては、書いてあることって正しいなぁ…と思うことがいっぱい書いてあります。ただ、本当のところは、つけ込んだマスコミをはじめとした学者や教師が問題だったんじゃないの~?なんて思うことはあります。大元の答申とか読んでいて、こんな解釈に捻じ曲げる…?なんて思わされるマスコミ文章。そして、そんなマスコミなどのまとめて簡略化したものしか読んでいなかった教師と会話して通じない…と思うこと多々。

 

親に対して書いてあるこの文章を読んで、思うことは、読む親が多くないと伝わらないんだよねぇ…。

 

しつけを通して親が子供に身につけさせることとあげていることは、ある意味で、保育の授業で、親の役割として伝えるべきことなのかもしれない…?なんて思いながら、読んだのでした。

 

文部科学省が出している文章達から、見つけ出さないといけないのかもなぁ…。

 

教育基本法

第10条 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。

この「せいかつのために必要な習慣」「自立心」「心身の調和のとれた発達」というところに、ポイント2つがかかわっているのかもなぁ…。

 

この本を読んでいて、思うことは、新学習指導要領を理解しやすくしてくれているなぁ…というのと、梶田叡一氏の私見はどこからどこまでなのか?というか、私見として取った方がいいのでは?と思われる部分を公的な意見として取ることにもなりそうな本だなぁ…と思ったのでした。

書かれていることをごもっとも…なるほど…と思うのです。だけど、この一冊だけで理解してやっていこうとすると、見えない部分があるなぁ…と思いました。

 

出雲大社 in 京都国立博物館

部分的に撮影可能でした。

神々の国しまね

高さ48メートルあったといわれる古代出雲大社本殿を再現

という、このイベント?だから写真撮影可能みたいでした。

 

日本神話においてスサノオが詠んだ

八雲立つ 出雲八重垣妻ごみに 八重垣作るその 八重垣を」

という和歌。日本最初の和歌らしい。

そんな古文の知識?日本史の知識?も全くなく、行きました。

 

私は知らなくても、小泉八雲は知っていて、凄いなぁ…。

パトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn) さん。

この方、出雲にいたことがあったらしい。そして、その出雲で神事を最初に見た外国人だとか。

さて、このスサノオの詠んだ和歌から、小泉八雲という名前をつけたんだそうです。

 

神々の国の首都「出雲」 神在月神事【神迎祭と神等去出祭】

ネット上でたくさんの写真と共に紹介して下さってました。

 

私にとっては、小泉八雲 といえば… 耳なし法一。

小学校にあがるまえに、読み聞かされたお話。そう思えば、こんな話を聞かせることもすごいなぁ…。

耳なし法一と紀伊国屋のブックカバーと小泉八雲はセットの思い出です。

「神社と神さま」がよくわかる本: 境内の見どころ・参拝マナーからご利益までを完全ガイド

この本を部分的にみることができるようになっている…ってこの本も、こうやって博物館で拝見した後なら、書いてあることも理解…。

 

相撲が神事なのは昔からなんだ…って、埴輪として相撲取りが…ウソでしょ?っておもったけど、確かに力士姿。

 

神事もよく知りませんでしたが、海から蛇がやってきて…という話だったり、博物館でお聞きしながら、へぇ…って不思議に、そんな神事が根付いている様子を拝見させていただいて、小泉八雲の感じた出雲体験は、確かに海外ではなくても、日本国内でもその地域以外から行くと神聖な感じなのかも…って思わされました。

 

『古事記』『日本書紀』なんて、名称だけは日本史で聞いて覚えているかなぁ…くらいのものでしたが、本居宣長と『古事記』との関係も習ったのかもしれないけど…ちっとも記憶になかったです。

ただ、この本居宣長が『古事記』に注目して調べる…ってことをするまでは、長らく無視されていた書物?みたいですね。

それを機に、再注目されて…それまでは、『日本書紀』優位の神話が一変して、『古事記』優位の神話が主体となり、現在にいたっているのだとか。

「古事記伝(こじきでん)」 これは国会図書館のサイトをリンクしています。

京都博物館で、直筆というものを拝見しました。きれいな字。読みやすい字でした。付箋は当時なかったものですが、紙を貼って、それにいろいろと書きこんで…という作業は、簡便化されて今はポストイットなどいろいろありますが、なくてもやっていたんだなぁ…と違う学びも。

 

生きている間には全て発刊されていないことなども知りました。

 

古事記は、その序によると、712年(和銅5年)太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ)によって献上された、現在、確認できる日本最古の歴史書なんだそうです。歴史書という認識ではなく、神話などが載っているモノと思ってましたね。

上・中・下の全3巻に分かれており、原本は存在していない。

後世の写本として残っている古事記の序文に書かれた和同年及び月日などによって年代が確認されているのだそうです。

 

あまてらすおおみかみ

おおくにぬしのかみ

などなど…

 

神社で見かけるお名前がずらっと出てきます。

本居宣長が『古事記』を注目させたから、それ以降に、そんな『古事記』に出てきているお話の絵が描かれたり…してきて今に至っているそうです。ですから、あるときから…江戸時代の本居宣長が『古事記伝』を発刊するまで、その中に出てくる物語の絵などは描かれていないとか。

 

古事記 上 太安万侶 著 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772088/1

こんな書き方すると、今時の本みたいですが、近代デジタルライブラリーで見ることができるんですよね。

まぁ…江戸時代の出版物。

本当に昔書かれていたのかなぁ…?という疑問の声もあるのも確か。

 

出雲大社だったかの柱図が展示されていましたが、それも遺跡が出るまではまがい者扱いされていたそうです。でも、実際にそのように柱をつくっていた…って遺跡が出てから、信憑性が出て…と、昔のことはホントわからないですよね。

 

力士姿の埴輪が出てきてから、古墳に一緒に人を埋めるのではなく、埴輪を埋めませんか?と言ったというそんな記述に出てきている人の名前なども、神話じゃなくて事実かも?とか、注目されたのだそうです。

 

いろんな神様が…って、日本だけでなく世界中の神様に通じるものがある神様たちの話。

遠く離れていそうな…そんな感じでも、ギリシャ神話とかにも共通するような感じ…って、小さいころにギリシャ神話の分厚い本を読まされてから思ったのも、あながち間違いではなさそう?

 

京都国立博物館に初めて行ったのですが、建物自体古い?

外で雷がゴロゴロと鳴っている…って室内でも聞こえる。雨も感じる。

東京の国立博物館も古い…でも、そちらの方が手が加えられていて、近代的になっている感じも。

 

日本の政治の流れ…って、奈良時代平安時代…と、見えないものにも存在を認め意識していた時代の話があるのも、それよりも前にそんな話が当然のようにあったから?と思わされる日本の歴史でした。

 

屋久島で教えてもらったんだよね。

出雲なのか、伊勢なのか、私はよく覚えていないけど、建て替えるって伊勢かな?その時には、屋根材に屋久杉が使われていたんだそうです。そうやって切りだしていた跡などが、屋久島では見ることができる。
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教えると言うことは

私は、この本のこの部分は、初めて家庭教師をするときに、父にきつく言われて…って、そんなこと知ってるよ…って思いながら言われた言葉で、改めて読みながら、他の人も同様のことを言う…と嬉しくおもった部分です。

 

教えるということは、「できない人を、できる人に変えること」です。

 

この文章の言葉を忘れていると、いっちゃうことば…

 

「いまの生徒は…」

「最近の新人は…」

 

私は、この言葉を言うようになったら、上司なり、先生なりのピークは過ぎたと考えています。

なぜなら、こうした言葉が頭に浮かんでしまうということは、自分の知識を部下や生徒のレベルに合わせることができなくなったことを意味しているからです。

 

ということで、父に私が教わった言葉は

 

「相手のレベルにまでおりて話す」を忘れてはいけない

 

正直、難しいです。特に家庭科でそれをするのは。

他の教科だと…って、たとえば数学だと、足し算ができないのなら足し算からフォローすればいいと思います。

たとえ、因数分解を教えなくてはいけなくても…、英語ならたとえ仮定法をおしえなければいけなくても…、なんて難しい話であろうとも、家庭教師をしているとき、最初にどの程度できるんだろう…?探りました。高校2年生の英語の家庭教師をしたとき、じゃあ…と英検3級問題をさせたら、馬鹿にしてるだろう?と言われましたが、3級が高校入学程度なら…そこで確認してみたら…解けて当たり前と思っているか、それを難しいと思う生徒かわかります。

中学3年生に教えたとき、「He am」など…高校に入学できるようにして欲しい…という親の願いに理解しながらも、どうしたら勉強するようになるか?必死に考えたことは、今でも忘れられません。

 

それでいて、改めて読んでこの本のこの文章に反応しているのは、そのところにこう書いてあるのです。

 

「説明を省いてしまえ」と思ったときは、疲れた証拠と心得よ

教える側は日々勉強し、知識が増えていく一方で、それを受ける側はどんどん入れ替わっていくので、レベルは一定です。つまり、教える側がキャリアを積むにしたがい、受けてとの知識量の差はどんどん乖離していってしまうのです。

たとえば、同じ内容を何度も何度もくり返し教えていると、次第に説明不足になっていきます。「AがBを経てCになる」という説明を何度もしていると、その流れは当たり前のことであり、「B」の説明を省いても聞き手には通じるだろうと思ってしまいます。

しかし、それをはじめて聞く聞き手にとっては、「AがBを経てCになる」ことは当然のことではなく、「B」の説明を省かれてしまえば、チンプンカンプンになってしまうのです。

自分のレベルが上がっていても、つねに教えを受ける側のレベルまでおりていくことができるか。じつは、これは非常に難しいことなのです。

 

 

本当に、この文章を読んだとき、この文章は何度でも読んで思い出さないといけない…って思わされました。「ここの説明を省こうかな…」と言う邪念は、疲れている。その発想は、忘れてはいけないなぁ…。

 

そんな本の章の最後に書かれている文章。私は本当に…って納得です。

 

その「いまの若い人」を育てたのは、その言葉を口にする大人たちでもあるのです。いまの若い人を責めるのは「いまの社会をつくっている大人たちはダメだ」と言っているのと同じだと言うことを肝に銘じたいものです。

 

私は、今の若い人、信じられない…という思いが湧くとき、いつもホント…有り得ない!親祖父母…世代のやってきたことの結果と見てました。もうすぐしたら、早いところでは私が教えた生徒たちの子どもたちが高校へ来るのか…と思うと、他人事ではないところ。私はそこを見て、何ができるか?って思ってきていたのですが、その結果が見えてき始める…と思うと、生徒が就職したところの上司と会話させていただくよりは気が楽ですが、少しでもいいから私が大事にしてきたことを伝わってくれているといいなぁ…そう思います。私も未熟でしたし…といっぱい生徒から学ぶこと多い…って、やり方をいろいろ試行錯誤したので、時代と生徒で変わっていってる自分の接し方もありますが、根底に絶対変えない…と最初から貫いていることもあります。それは、私が中学生の頃から貫いていることだから、この先も…変えないとは思いますが、それだけでも伝わっていると嬉しいな。

 

何を書いているやら…って感じになってますが、この本に書かれていることは、やってきたことを言葉にしてくれている…って心強く思える部分と、そのスタンスで慢心してしまったら…という警告的にも取れる言葉たち。そして、同じようなことを悩んでいる人がいるんだ…って、学ばせていただけて感謝です。私は言葉にうまくできなかったことも、言葉になっていたりして、凄いなぁ…って思います。

 

これが絶対ではないし、私も書いてあることを盲目的に全てとは思いませんが、こんなスタンスもOKなんだ…って心強く思わせてくださった本でした。

人間形成と食育・食教育 

人間形成と食育・食教育―食のいとなみがからだをつくる・心を育てる

2002年1月1日発行の本。ですから、10年前の話。

 

1996年、長野県の小中高校の人達が共同で教育調査を行ったんだそうです。

その結果が書いてあったのですが、

「生まれてこなければよかった」と思っている子どもが、小学校高学年と中学生で20%から25%いたのだそうです。

また、同じ調査で

「あなたはもう学校に来なくていい、自由にしていいと言われたら何をしますか?」

→ 「朝から晩まで寝ている」と答えた子がほとんど

「後輩に言い残したいことは」

→ 「学力や偏差値が上がったさがったということは一切意味がないから、こういうことは考えない方がいい」

 

読んだ時、それはそうですねぇ…なんて思って読み進めたのでした。

でも、今はどうだろう?10年たった今。

こんな質問をして…まとめているデータがどこかにあるのかなぁ…。

 

食べ物に対する無関心がありますから、実際のモノと知識や言葉が一致しません。言葉だけが浮遊して、今の言葉でいえばバーチャルリアリティーの状態が子どもに現れたと言われるようになったのは、70年代くらいからなんだそうです。

稲と麦の区別がつかない子どもがいます。

鶏の脚を4本描く子ども達もいます。家で鶏を飼っている農家の子どもですら、脚を4本描く…

こんな事実に対して、この本では結論として書いている言葉

ですから、子どもたちは意識して見つめてはいないのです。親の生活や地域の人々の暮らしに全然、関心がないのです。ですから、目を開いていても何も見ていないという生活状態になっているのです。

本の文章のまま。「ですから」が気にはなりますが、とても面白い指摘だと線を引いていました。

 

ルソーやフレーベルなども出てくる。

この本によると、

ルソーは、食教育=健康教育=主権者教育つまり政治教育、としっかりつながって枠組みをしているとのことです。

ルソーの『エミール』を読んだことはありません…。でも、その『エミール』は、革命が起きて新しい世の中になるだろうと予感したところに書いた本なんだそうです。

そして、その『エミール』の中で、新しい時代の人間を育てるにはどう言う教育をしていけばいいのかということを、家庭教師とエミールという男の子との関係で描いているのだそうです。

と、私はホント、『エミール』を読んでいないので、ただただ、へぇ~って思うのですが、こう書いてあります。

食事をするということは、自己保存つまり自分の命や体を守ることです。それが食の基本です。自分の体なのだから自分でちゃんとできなくてはいけません。これはそのまま健康教育と言えるわけですが、それができないで、どうして来るべき民主的な共和国の主人公に慣れるでしょうか。自分のこともコントロールできない、自己保存や自己教育もできなくて、どうして国家・社会の主権者になれるでしょうか。これがルソーの主張です。つまりルソーの食教育とは、民主的な主権者を育てるための基礎的な教育の過程であると位置づけられるわけです。

 ルソーが自己保存の教育として大事だと言っている食教育のひとつは、自分の身体感覚に敏感にならなくてはいけないということです。おなかが減ったときには「腹減ったー」です。おいしいものを食べて満たされた時は充足感を満喫します。そんな身体感覚を作らなければいけないというのです。だから、働いておなかが減る、運動しておなかが減るという生活をしなければいけません。ルソーは、そうした体、感覚、完成の教育を重視しました。

 また、味覚を育てるために、ゴテゴテしたものを食べさせてはいけないしています。食材そのものの味がわかるような子どもに育てなさいと言っています。自分にとってどんな食べ物がいいのか、どんな料理がいいのアkということを自分で判断して選択できるような子どもにしなければいけないのです。

 最後に、自分の食卓に並べられている食べ物は、どれくらいの人々のどのような手をとお手、この食卓に並んでいるかということをちゃんと理解できる子どもにしなければ、新しい民主的な社会の主人公・主権者にはなれませんよと言っています。

だそうです。

そして、ペスタロッチ―という人が、このルソーの食教育論に共感し、「パンがどこから来るかも知らないことこそ、現代教育の欠陥の中心点である」「これを知らないで、人間の知識とは一体何であろうか」と述べているんだそうです。

『エミール』という本が書かれたのは1762年。

 

“Qu’ils mangent de la brioche”

マリー・アントワネットは、フランス革命前に民衆が貧困と食料難に陥った際、発言したというこの言葉は何年の言葉でしょう…?と思わされました。本当は、ルイ16世の叔母であるビクトワール王女の発言だとか。でも、この言葉をマリー・アントワネットが言ったとうわさを広めることの効果を思わされますね。

 

いろんな食にまつわる事例はたくさん載っているのですが、ルソーまで話が及んでいる凄さ…。

ルソーって聞いたことがあるけど、政治か経済の世界の話…としか思っていなかったのに、ビックリです。

 

そんな風に調べたら… ジョン・ロックって、この人も世界史で習った名前…って、食にまつわることをおっしゃっていたのですねぇ…

イギリスの哲学者ジョン・ロックは,その「教育に関する考察」(1693年)の中で,子供の食事に関して,肉類はできるだけ控えるべきであり,牛乳,ポタージュ,かゆ等の食品が子供には適している,といったことを述べている

そして

子供に適した食べ物とは,子供にとって自然な,すなわち自然の好みにしたがった食べ物であり,裏を返せば,自然人の食べ物ということになる。また,私たちの文脈に即して言えば,人間が本来(自然状態において)食べるべき物なのである。

この文章はルソーの文なのだそうです。

人の性格や気質が食べ物の好みにも反映する。もしくは食べ物が人間の性格にも影響を及ぼし得るという考え方は,18世紀において,かなり広く信じられていたようである。

なんてことも述べられていました。

ルソーにおける菜食の思想と自然意識 』 田中恒寿

http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/137803/1/fbk000_024_061.pdf