著者講演会に参加して

先日、本を三冊…と3人の方がそれぞれ出版している…それも違う出版会社から。だけど、三人そろって講演会というイベントに行ってきました。

よく考えると不思議な話。

三者とも本を出した出版社が違う。これって凄いことでは?とチラッと思ったのです。

著者がつながっている前提で、複数の著者で出版記念講演ということでしょ?

 

多分、今までだったら出版社が自分たちの会社が出版した本を紹介する企画としてあった行為なのでは?というところなのでは?なんて思います。だけど、出版社関係なく、著者たちサイドで講演企画運営して本を売る。売りたいものが本ではないというイベントだなぁ…って思いはしましたが、そんな出版社が違う本の著者が集まる出版記念講演会に参加したのは初めてかも…。

 

本は3冊とも、話を聞いた後読みました。(読者前提の講演会だったみたいですが…。)

 

直接に話を聞けると、読むかどうか…決めやすくて好きです。本って購入するのにお金かかるし…と、たくさんの出版物の中から選んで購入するときにどれにしようか…?これで本当にいいかなぁ…?と思いますね。自分の専門書に関しては手当たり次第に購入して、あ~これはダメ…と思うことは多々。だからこそ、専門外の本で同じ無駄をしていくとショック…そんなかんじです。

 

新聞の広告でいろんな本が紹介されているのを見ながら、面白そうだなぁ…と思うことはあるのですがいざ本屋に行くと、他の本が気になったり…。私の場合は、この本を買う!と決めている時はインターネット上で購入することもありますが、どんな本かなぁ…って実物を見ることができる方が好きですね。図書館もいろんな本との出会いがあって好きですが、残念なのは新刊は少ない。図書館での未知との遭遇も楽しい~とは思いますが、誰が書いたどの本を読むと一番その分野について詳しく知ることができるのかなぁ…?究極のコレ!という1冊などがわかっていると楽なのに…と思うことがありますね。

数冊読んでいくと、同じようなことが書いてある…と思う本に出くわしていくことになり、結局どれが大元…?とか疑問。最近は気にしないようにしていますが、ある人が教えてくれた言葉を思い出すのです。「究極、昔書かれた数冊を著者の体験等を通してリバイバルしているだけ…」みたいな感じのこと。

なら、その究極の数冊が知りたい…なんて、その究極の数冊に出会って読むとき思うのは確かに…。何度もそれを読んで理解するという方法が経済的ね…とは思います。だけど、他の人のバイアスが入って読むことで、同じことでも見方が違うことを知る機会になるということはうれしく思います。

 

今回読んだ3冊は、似たようなテーマで書いている人の本を数冊それぞれ読んでいます。だから、目新しいか?というと、結論等は目新しいと思えません。だけど、それぞれの体験が面白いなぁ…。自叙伝ではないでしょうけど、こなれて数冊も書いている人の文章と入魂の1冊?最初の本とはやはり受けるものが違いますね。

話を聞いたら読まなくてもいいんじゃない…?なんて思うところもありましたが、聞いたから読んでみてよかったの方が多かったです。偶然に自分のブログのリンクをさかのぼってみて知った講演でした。そんなことあまりしないのに、そんなことをしてみて得た未知との遭遇。味をしめて、再度!という気にも。

 

自分のやっていることとは違う世界でも、会場が出している気などで楽しくなってくる~と思わされました。昨年参加した出版記念?講演会は本屋さん主導?だったけど、その時に会場から感じた気と違う…。どんなことだろう…という感じは同じだろうけど、著者の持つエネルギーの違いは大きいなぁ…そう思いました。

ブクログ

こうやっていたら、検索しやすいのかなぁ…?

novaの本棚 – 2011年08月 (330作品)

 

 

男女共同参画基本計画
読了日:08月16日

 

 

食品学
読了日:08月16日

 

生活の色彩学
加藤雪枝
読了日:08月16日

 

 

教育力 (岩波新書)
齋藤孝
読了日:08月16日

 

 

欲情の作法
渡辺淳一
読了日:08月16日

 

 

 

 

 

 

ザ・パワー
ロンダ・バーン
読了日:08月17日

 

 

道をひらく
松下幸之助
読了日:08月17日

 

伊勢丹な人々
川島蓉子
読了日:08月17日

 

 

家庭科教育
田部井恵美子
読了日:08月17日

 

認知心理学を知る
市川伸一
読了日:08月22日

 

 

僕につばさがあった頃
読了日:08月22日

 

女将。
福田純子
読了日:08月22日

 

 

 

水平社の源流
読了日:08月22日

 

性ってなーに
佐藤香代
読了日:08月22日

 

 

10年後の日本 (文春新書)
読了日:08月22日

 

家庭科の教育と授業研究
読了日:08月22日

 

 

新編家庭科教育法
読了日:08月22日

 

 

 

 

 

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novaの本棚 – 2012年07月 (12作品)
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ブクログの機能の有難いことは、重複して登録しようとしたらすでに登録済みもわかること。いろんな読んだ本なども全てリストアップしようとした時に、途中辞めてからもう一度…ってメンドクサイ。その一番の理由は、どの本を登録していないか分からなくなっていること。感謝。

戦死したロシア兵の祈り

渡辺和子さんの『置かれた場所で咲きなさい』という本があります。

その中で、彼女が手許に持っているという詩を紹介されています。

 

私は、他の人が書いている、このような事態のことを読んだ記憶があります。ただ、どの本に書いてあったのか…を思いだせません。ですから、これもどこに書いているかを忘れる前にここに記しておきたいと思います。

 

この話はキリスト教の話です。でも、仏教での話も見たことがある気がするのです。

だから、宗教を問わず、ある話なのかもしれないと思いながら、このロシア兵の詩にチランにあるという特攻隊たちの最期の手紙達の話を重ねて読んでいました。

 

そして、神の存在を否定したような…武士の世で広まった狂言と神の存在など見えないものを受け入れた能とを思うのです。

 

「聞いてください、神さま。僕は今まで、あなたの存在について全く知りませんでした。子どもの頃から、あなたなんかいないと聞かされ、そう信じてきました」という言葉で、詩は始まっています。その彼が、生きて戻る可能性のない出撃の夜、頭上にきらめく星を眺めていて、それまで全く無関心だった神の存在と、人間の残酷さに気付いたのでした。

 出撃の合図のラッパを聞きながら、兵士は続けます。「もういうことはありません。あなたを知ることができて嬉しいのです。あなたがご存知のように、戦いは激しく、今夜、僕は、あなたのドアを叩きに行くかもしれません。そんな僕が行ったら、入れてくださいますか」

 さらに続けます。「僕の目は開かれたのです。さようなら神さま。もう行かなくてはなりません。多分生きては帰れないでしょう。おかしいのでしょうか。僕は、もう、死を恐れてはいないのです」

多分、このサイトに書いてあるものが前文なのかなぁ…?と思います。

http://blogs.dion.ne.jp/mrgoodnews/archives/1240956.html

今まで一度もあなたのみ業について考えたことがありませんでした。
でも、今夜、頭上にきらめく星を眺めていて、人の残酷さに気がつきました。
神さま、あなたの手をぼくの上においてくださるでしょうか。
とにかくぼくはあなたに語りかける、あなたは分かってくださる。
光がぼくに出会うのは別に不思議ではありません。
ぼくはこの呪わしい夜にあなたに対面しています。
もういうべきことはありません。
とにかく、あなたを知ることができてうれしいのです。

読んだ本にはこの部分など書いてありませんでした。

ただ、何となくですが、やはり読んだことがある気がします。

だから、似たような話はいっぱいあるのかもしれません。

 

 

 

9月12日の日経新聞の「春秋」に書いてある言葉。

物理学者のアインシュタインは言ったそうだ。「ナショナリズムは子どもの病気だ。人類にとってのハシカのようなものだ」。作家・池澤夏樹さんの「叡智の断片」から引いた。池澤さんは続けて書いている。「たしかにハシカに似ている。熱が高くなるし、伝染する。」

領土の話は人の胸にくすぶる愛国心という火種に油を投げつけてくる。威勢よく燃えればその威勢を為政者は人気取りに使う。バーンズという英国の作家が最高の愛国心を説いている。

 「あなたの国が不名誉で、悪辣で、バカみたいなことをしている時に、それを言ってやることだ」。燃え上がるばかりが愛国心ではない。

実は、ここのところ、この新聞の春秋には、ナショナリズムについていろんなことが書いてある。

ナチスの話も載っていた。

9月5日

「われわれはパンの値下げも値上げも要求していない。ナチズムによるパンの価格を要求する」。かつてナチスはこんな演説で聴衆を寝供させたと、ピーター・ドラッカーの「経済人の終わり」にある。なにも橋本さんが同じだとは言わないが、強い言葉の裏には危うさが潜んでいよう。世間には、そう案ずる感覚もある。

 

 

日本だけではないと思いますが、愛国心の表現の仕方を間違えて、愚かな話をつくりだした歴史をあと何度体験したいのか?と尋ねられて、1回以上の希望を出す人達の方が少ないことと思っています。

だからこそ、思わされることは、

 

 

言うとおりより、するとおり

コメントをいただいて嬉しいけど、読み終わるのを待っていたら書けない…と先に100投稿目。

消えたとはいえ、ようやく100です。

 

いろいろと資料だけはたまっていきます。

 

だけど、100回目で見つけた順番より、今、この本に出会えてよかった…と今日出会えた本を。

 

感謝です。

 

その本のタイトルは、『置かれた場所で咲きなさい』。

以前発見したときは、手に取りませんでした。

でも、今日発見したとき、手に取ってみました。今日手に取った本は、売れているという棚から2冊。

そのうちの1冊。

 

この本との出会いに感謝です。

 

こんな事例いっぱい…と他人事のように…書きながら、本当にこの本に出会えてよかった…と思えることと仕事のために書くことは違うかなぁ…。

 

子どもは親や教師の

「いう通り」にならないが、

「する通り」になる。

子どもに何かを伝えるのに言葉は要らない。

ただ、誠実に努力して生きていくだけでいい。

 

価値観は言葉以上に、

実行している人の

姿によって伝えられる。

同じ事柄でも価値観によって受け取り方が変わる。

子どもには、愛と思いやりのある価値観を伝えたい。

 

1,2ページの出来事を交えたお話を、こんな感じでまとめてある。

いろんな同じことを書いている本を見ます。そして、本当にそうだよねぇ…と思うことなのですが、こんなにわかりやすく端的にまとめてある。そう思わされる優しい語り口。

いろんな同じことを言う文章よりも、伝わる気がします。

 

親の価値観が子どもの価値観を作る

 3歳ぐらいの子どもを連れた母親が、水道工事をしている人たちのそばを通りながら語って聞かせています。「おじさんたちが、こうして働いていてくださるおかげで、坊やはおいしいお水が飲めるのよ。ありがとうといって通りましょうね」

 同じところを、これまた幼い子を連れた別の母親が通りかかります。子どもに向かっていいました。「坊やも勉強しないと、こういうお仕事をしないといけなくなるのよ」

 価値観はこのようにして、親から子どもに伝えられることがあるのです。最初の母親は、人間はお互い同士、支え合って生きていること、労働への感謝の念を子どもの心に植えつけたのに対し、2番目の母親は、職業に対する偏見と、人間を学歴などで差別する価値観を植え付けたのではないでしょうか。…

 

なんて書いてある最後に

価値観は言葉以上に、

実行している人の

姿によって伝えられる。

同じ事柄でも価値観によって受け取り方が変わる。

子どもには、愛と思いやりのある価値観を伝えたい。

といった感じでまとめてあるのです。

 

53万部突破と書いてありました。

最初に見た時は、手を伸ばしませんでした。

だけど、知らずに語るなかれ。ちゃんと勝手に判断ではなく、読んで…と手に取りました。

 

いたるところ、本当に心洗われる思いがします。そして、年を重ねる凄さを思わされます。

 

日本で、いじめがなくならない理由。

その一番大きな原因は…?と尋ねられたら、私は大人の弱さだと思います。

ここにあげた母親。前者と後者のどちらが多いか?

学校の教員で後者に出会える確率は低いです。聞いていて気持ちが悪くなるくらいに後者の言葉を使う人が多いです。

あ~日本がよくならないなぁ…ではなく、しみじみと、伝えていることが違って、何を伝えたいのかという意識しているところがないから発言している言葉たちかもしれない。子どもを思って…の後者の発言と言いたいお母様方が多いんだろうなぁ…と思っても、この著者と同じように私も思います。というより、この文章を読んで安堵しました。母より年上のこの著者だから、時代が違うと価値観も違うの典型的な話でしょうか?

 

昨日、大雨、落雷。

櫓から下りるように…など、注意し避難。そんな中、まだ上がっている…。誰?と見たら、教員でした。

保護者や生徒にしめしがつかないね…。注意している立場はどっち…?

保護者だと危険を伝えに行こうって、動いたら言っている側。管理職に報告しても、わかっているでしょうから…と放置判断。

これじゃあ伝えているのは、何?

 

そう思っている矢先に読んだ文章。

 

いろんなことがありますが、言うことよりしていることの方が強いんですよね。

「これは禁止です」と言いながら、実際にそのことをしている人が何も言われずに過ごすことを見ていると、恐らく多くの人達は禁止を咎めることのできない組織と見るでしょうね。そして、一部の人たちは、咎められないのならしていい…そう判断するでしょうね。

 

雪山で遭難など、いろんなニュースが流れます。母が山登りを昔していて、見ていて言うのです。こんなこと絶対したらいけないのでは?と。時代が変わって、昔より便利になり、昔よりもしかしたら雪山でも何でも危険が減っているのかもしれないなど思いながら母の言っていることを聞きます。だけど、同じだよね…。禁止だったり、しなければいけないことには理由があったりする。その理由をわかっている人には、何をやっているんだ…と、実行している人たちを注意したり警告したり…しない人達に対して何をしているんだ…と思います。だけど、咎められない=していいという雰囲気が万延している感じがします。注意している矢先から、注意している組織から違うことをしている人の姿を見せる…。警察の飲酒運転みたいなものでしょうか?

 

そうしたい気持ちを理解するという側面もあると思うのですが、その行為によって他者へ与える言っていることに対する重みのなさを伝える行為としての側面を見るということはないのかなぁ…?

「こうやりたい」が規範よりも先立ち動く…何年も教員をしている人間の行為としてどうか?なんて思いながら、管理職が言いというのなら…と不快に思うけど、気づかれた方偉い!くらいでちっとも気づかなかった私としては、第3者へ与える影響って考慮するのは普通ではないということを学びました。

 

 

 

Believing is seeing

日経新聞2102年8月28日の経営書を読むという欄で『予想どおりに不合理』アリエリー著の本が紹介されていました。

ことわざ「百聞は一見に如かず」は「Seeing is believing」と訳されるけれど、「Believing is seeing」であることをアリエリーが証明?しているんだそうです。

 

人って、一度「こうだ!」と予測してしまうと、結果が客観的にはっきりしたものでない限り、自分の予測にあわせて結果を解釈し、納得する傾向があるんだそうです。

迷惑な話…とそんな風に接されて嫌な思いをしまくったりする側は思いますが、そうやっている人達はそれがバイアスであって偏見ということをちっとも自覚していません。

でも、この本面白そう…って思ったのは「酢を数滴たらしたビール」と「普通のビール」を双方試飲してもらうことをしてみたり、「コーヒーを飲む雰囲気が高級だとコーヒーの質も高級に感じる」などの話が出ているんだそうです。

 

問題解決には、まず仮説を立て、それを検証することにより真の結論を導き出す「仮説思考」が重要。しかし、さまざまな情報の中から「仮説」あるいは「予測」を正当化する情報だけを集めてきて、「やっぱり正しい」などと考えてしまうリスクも知っておくべきと書いてあります。

これは本当に意識しておかないといけないなぁ…って思わされました。

 

人間はもともと「不合理」なものという大前でいてどのように対処できるか?ということを指摘した本なんだそうです。

まぁ…記録までですね。