ナショナル・ミニマム

新しい学習指導要領の理念と課題―確かな学力を基盤とした生きる力を』梶田叡一著

この中に梶田叡一氏(文部科学省・中央教育審議会副会長)の話がいろんな形で紹介されているのです。

そこに「家庭で新学習指導要領を考える」という章があり。

インタビュー記録で、『日本教育新聞tesio』2008年3月10日原題は 家庭で考える「新学習指導要領」とのこと。

家庭向けに書いてあるから、わかりやすい…と思うところ。

 

学習指導要領とは何ですか?

全国の子ども達が何の勉強をして、どんな力を身につけるべきかという最低限の内容を決めたもの。

この説明の続きがなるほど…って。わかりやすい!

 

 これがあるおかげで、日本ではどんなに山奥や小さな島に住んでいて重、一定したレベルの教育が受けられます。義務教育と聞くと、親や子どもの義務と思われがちですが、もう一つ、政府の義務でもあるんです。地域格差のない教育を提供するためにも、学習内容は、もちろん、先生の配置の仕方から校舎の建て方まで、さまざまな基準が設けられています。

 

その続きの言葉が、気になりました。

ナシャナル・ミニマム … 国全体で誰もが最小限身につけるべきこと

ローカル・オプティマム … その土地ならではの特徴を活かした勉強

 

ナショナル・ミニマム(national minimum)とは、国家(政府)が国民に対して保障する生活の最低限度(最低水準)のこと。

日本の場合、根拠は日本国憲法第25条。これを保障するための社会政策は、生活保護法など、それらを総称して「セーフティネット(安全網)」と呼ぶ場合がある。、国家として保障するものを「ナショナル・ミニマム」というが、地方自治体単位での最低限度の生活水準(生活環境水準)については「シビル・ミニマム(civil minimum)」という。

ウェッブ夫妻

 ウェッブ夫妻のいう「ナショナル・ミニマム」概念は,「最低賃金,最長労働時間,衛生安全,義務教育」の4つの項目からなる。

最低賃金が,現在の日本にも存在しているように,それは労働市場での自由な雇用契約に,一定の枠をはめて,これを規制していこうとする労働政策であった。ナショナル・ミニマムは,ベヴァリッジの「最低生活費保障原則」につながっていく福祉国家の最も根本的な理念の一つである。
 ところが,それは単に低所得者に対する平等主義的な所得分配策であったのではない。

「ナショナル・ミニマム」は,快適な労働条件によって労働者の健康,知力,活力を増大させ,また,劣悪な条件でしか労働者を雇用できない非効率な企業を追放することで,マーシャルのいう「有機的成長」を,加速度的に推し進めようとする生産力理論であった。

ちなみに,ウェッブのこうした主張は,東京大学,大河内一男教授が提唱したところの,生産力説的な社会政策論と,ほぼ等しい視点にある。大河内教授は,もちろんウェッブのこの面に気づいていたであろう。     

               ウェッブ夫妻『産業民主制論』(1897年)より

 

もともとは、教育用語ではないみたいですね。この用語を、このような使い方をするのは一般的なのかなぁ…?

教育に於けるナショナル・ミニマムというテーマで書いてあるブログのページ発見。

この記事は2005年9月の文章。

教育の国家責任とナショナル・ミニマム2012年04月発行

義務教育費国庫負担制度のあり方について  東京学芸大学 小塩 隆士

ナショナルミニマム研究会中間報告(案)  平 成 2 2 年 ● 月 ナショナルミニマム研究会 これは厚生労働省のサイトにあった…

ナショナルミニマム 平成22年厚生労働省報道のための資料みたいです。

日本の教育を考える10人委員会2011

これまでのナショナルミニマム研究会における各委員からの主な意見(事項別概要)

 

いろいろ探してみて、「ナショナルミニマム」という言葉が出ている文部科学省関係のものって…?

中央教育審議会 義務教育特別部会(第33回・第34回)議事録・配布資料

平成17年9月8日(木曜日)14時~18時

資料2 学習指導要領等の教育課程の基準等の在り方について

簡潔な言葉で国がナショナル・ミニマムとしての教育の基本を示すことが必要。

  ニートの問題を含め,義務教育の在り方,教育課程の在り方が問われており,日本の教育や各教科の水準,ナショナルミニマムがどうあるべきかの検討が必要。

 

これなのかなぁ…?

 

新教育基本法法制研究特別委員会公開研究会

 1. 全体テーマ 「教育・保育におけるナショナル・ミニマム・スタンダードと地域主権改革」 2. 期日 2010年10月16日(土) 午後1時30分~午後5時30分 (開場:午後1時) 3. 会場 桜美林大学四谷キャンパスB1ホール(地下1階) (JR四ツ谷駅、東京メトロ丸ノ内線・南北線四ツ谷駅より徒歩3分。) 4. 報告  渡部昭男(鳥取大学)  「障害児教育におけるナショナル・ミニマム・スタンダードのこれまでと今後」(仮)  横田光平(筑波大学)  「保育におけるナショナル・ミニマム・スタンダードのこれまでと今後」(仮)  山崎洋介   (ゆとりある教育を求め全国の教育条件を調べる会)  「義務教育費国庫負担法の現状と今後」(仮) 主催   日本教育法学会

東京都町田市教育プランが書いてある中に次のように紹介されてました。

2001 年の地方分権改革推進会議報告において、「ローカル・オプティマム」という言葉が登場したことに象徴されるように、地方公共団体には、地域住民のより高いレベルのニーズに応えて、地域ごとに最適の施策の組み合わせを探求し、その実現に向けて努力するという考え
方が求められています。
この考え方は、国がすべての国民に対して最低限の行政サービスを保証するという「ナショナル・ミニマム」の考え方と対立するものではなく、主権者である国民=地域住民の立場を重視し、真の分権社会の実現を目指すという点で同一基軸にあるものです。すなわち、国と地方
の役割分担を明確にして、国が責任をもつべき分野については、基盤整備等の面からその責務を十分に果たす必要があり、地方が責任をもつべき分野については、地方の自主性、主体性を十分に発揮していく必要があります。

ということで、2001年に「ローカル・オプティマム」という言葉が登場したんだ…。

学校教育におけるナショナル・ミニマムは、臨時教育審議会、教育改革国民会議、中央教育審議会などの組織で検討され、答申として示されてきましたが、その方向性は、時代背景や社会的要請を受けて変化してきています。
大綱的な基準や標準、あるいはナショナル・スタンダードと言われてきた学習指導要領についても、2004 年の中央教育審議会答申において「最低基準」というとらえ方があらためて強調され、ナショナル・ミニマムとしての特色が明確になっています。また一方で、社会的な要請や指摘を受けて、文部科学省が実施した全国的な学力調査やいじめ実態調査は、義務教育の責務である「水準の確保」について、国が責任をもって検証しようという動きです。

これは古いのかなぁ…?2004年が最後かなぁ…?

 

義務教育特別部会(第37回) 議事要旨  平成17年9月30日(金曜日)

資料3-1 義務教育は将来への投資!!ナショナルスタンダードを維持しつつ、地域の特色を取り入れた教育を(藤田委員からの配付資料)

 

 

本『新しい学習指導要領の理念と課題―確かな学力を基盤とした生きる力を』に書いてあることで、それってホント…?と思ってしまうところは、旧(現行)学習指導要領との差は何ですか?というところに書いてある言葉。

できるだけ子どもにラクをさせるのをよしとしたのが旧。これからは、子ども自身の頑張ろうとする気持ちや、いろいろな知識や能力を自分から身につけようとする態度を大事にした内容になります。

2単位になったんだから…ラクさせていられない…って思ってやってましたねぇ…。授業以外のところで学ぶ機会を持ってもらわないと、身についてもらえない…ってやっていたから、この一文はビックリ。

 

この表現の仕方は理解しやすいなぁ…と思わされた文章。

教育方法は違っていても、今、どの国の子どもたちにも必要とされているのは、確かな知識を駆使して自ら考え、判断できる力です。高度情報化社会を迎え、“おいしい“情報に子ども達が振り回されないためにも、大人が自立した人間としての在り方を示して、子どもが欲求や欲望に流されないようセーブしてあげる必要があります。

 その際のポイントは二つ。ひとつは、みんなが気持ちよく人間らしい生活を送れるよう、一定のルールを共有してときに我慢し、他人の都合も考えるということ。近代社会・国家が形成された原理である「法治主義」の考え方です。もうひとつは、自分の内側に良心や規範意識を作り、欲求をコントロールすること(=「超自我」の形成)。これら二つは自然には身に付きませんから、親がしつけを通して教えていきました。しかし近年では、親自身がそれらを理解していないことが多く、そこにつけ込んだマスコミをはじめとした学者や教師が「子どもに好き放題させることがいいこと」とあおったのが、「ゆとり教育」であったといえます。

 

わかりやすいけど、とっても凄い表現…。親がしつけを通して、子どもに何を身につけさせたらいいかを理解していないことが多いということ。そんな親の状態に対して、学者や教師がつけ込んだと書いてあること。すごい…ホントビックリ…。

自由にさせていないと偉く言われた…普通科での話が全て間違っているってことと思える文章。大元の文章を読むと、この「ゆとり教育」とは違うって思うのに、大筋のところで目指すところは一緒のはずなのでは?と思うのに、この否定文章凄いなぁ…。ただ、本当に心強く思うのは、この「子どもに好き放題させることがいいこと」と言わんばかりにしてきた管理職はじめ先生方から批判され続けたことが、おかしくなかったんだ…ってしみじみと。心強く思った文章ですね。

そういう意味では、この本のこの部分から先のページにずっと書いてある表現の中に感じられる批判的な姿勢。

ただ、違う受け取り方をされたら、また、なんか違うことになりそう…とは思いますね。

86ページ87ページに書いてあるアメリカやイギリスなど欧米の教育の話を日本の話みたい…って思うしかない。

 その結果、学力大幅に落ち、暴力や犯罪、中高生の妊娠が一気に増えました。自由奔放にしたら意欲がわくかというと、むしろ勉強する気が亡くなり、努力する気もなくなる。勝手気ままというのは、人間から活力を失わせるのです。子ども達の置かれた状況に危機感を覚えた欧米では、1985年以降、教育方針を180度転換しました。子どもが自分でものを考えた上で自己責任によって判断する、時制や字会を重んじる教育に戻したのです。

 

実際に出た結果としては、書いてあることって正しいなぁ…と思うことがいっぱい書いてあります。ただ、本当のところは、つけ込んだマスコミをはじめとした学者や教師が問題だったんじゃないの~?なんて思うことはあります。大元の答申とか読んでいて、こんな解釈に捻じ曲げる…?なんて思わされるマスコミ文章。そして、そんなマスコミなどのまとめて簡略化したものしか読んでいなかった教師と会話して通じない…と思うこと多々。

 

親に対して書いてあるこの文章を読んで、思うことは、読む親が多くないと伝わらないんだよねぇ…。

 

しつけを通して親が子供に身につけさせることとあげていることは、ある意味で、保育の授業で、親の役割として伝えるべきことなのかもしれない…?なんて思いながら、読んだのでした。

 

文部科学省が出している文章達から、見つけ出さないといけないのかもなぁ…。

 

教育基本法

第10条 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。

この「せいかつのために必要な習慣」「自立心」「心身の調和のとれた発達」というところに、ポイント2つがかかわっているのかもなぁ…。

 

この本を読んでいて、思うことは、新学習指導要領を理解しやすくしてくれているなぁ…というのと、梶田叡一氏の私見はどこからどこまでなのか?というか、私見として取った方がいいのでは?と思われる部分を公的な意見として取ることにもなりそうな本だなぁ…と思ったのでした。

書かれていることをごもっとも…なるほど…と思うのです。だけど、この一冊だけで理解してやっていこうとすると、見えない部分があるなぁ…と思いました。

 

高校時代の勉強時間 大学・就職満足度に影響

日経新聞2012年8月14日朝刊より

上記タイトルの記事。

はぁ…?

高校時代に家で勉強する時間が少ないと、大学での達成感や就職内定先の企業への満足度が低い。

だそうです。

それを調べていて見つけた資料

 

なぜ日本の大学生は欧米の大学生に比べて勉強しないのか

こちらの方が面白そう…。

資料1 鈴木委員提出資料:文部科学省

 大学で育成する人材像と大学政策

大学で育成する人材像と大学政策

 

高校時代の勉強時間でその後が違う…。

同じ大学の人で比べたのかなぁ…?と疑問を持ちましたが、この文章は納得!と思ったのでした。

同センター元教授で、調査を担当した金子元久・筑波大教授は「高校時代に自分で勉強する習慣を身に付けていない学生は、自主的な学習が中心となる大学での成長の機会を積極的に活用できない傾向があり、キャリア形成にも影響しているようだ」と分析。

そうでしょうねぇ…というのと、これはなんかそうか…っと納得データは

高校生の授業外の勉強時間は、学力注意そうで減少傾向にあり、ベネッセ教育研究開発センターによると、1990年の112分(平日1日当たり)から2006年には60分(同)にほぼ半減した。

この文章を見ると、このデータはきっと正しいだろうなぁ…なんて納得しながらも、正直1時間以下か1時間越かで話を展開していることに「はぁ~?」って思う感覚も世代間ギャップで正しいってことですね。

1時間しか勉強していないで大学へ行こうって考えること自体、大学要らないんじゃない?とか言ったらダメなのでしょうか…私にとって一番わからないところですね。

 

たかが1時間勉強しているかしていないか…って思うけど、その1時間もしていない人たちが増えている…というお話の方が問題なんじゃない?それで大学行って…ホント変!と言ったらダメでしょうけど、

平成24年度全国学力・学習状況調査 理科

平成24年度全国学力・学習状況調査の結果が昨日新聞に出ていました。

見ていて、疑問。

調べてみました。

平成24年度全国学力・学習状況調査の解説資料 http://www.nier.go.jp/12chousa/12kaisetu.htm

平成24年度全国学力・学習状況調査の調査問題 http://www.nier.go.jp/12chousa/12mondai.htm

平成24年度全国学力・学習状況調査の正答例 http://www.nier.go.jp/12chousa/12seitourei.htm

平成24年度 全国学力・学習状況調査 調査結果 http://www.nier.go.jp/12chousakekkahoukoku/index.htm

H24全国学力・学習状況調査の結果をまず読みました。そして、気になったところは…。

新聞にも載っていたのですが、理科。

私の気になったところに→を入れました。

7.8%って何?

2(2)の問題は

1つの回路で,2つの実験と同じ結果を得るための測定方法を説明する

という問題でした。

抵抗の直列つなぎ,並列つなぎなどに関する知識を活用して,他者の実験方法を検討し改善して,正しい実験方法を説明することができる

そんな力を見るらしいのですが、ホントに7.8%正答率。

だけど、私はそれよりもこちらに注目してしまいました。

道がそれる…という注目かもしれませんが、無回答率39.7%、正答率11.5%

これって、前までの流れの問題がわかっていなくても解けるのでは?なんて思うのです。

どちらの問題かというと、(6)です。無回答率39.7%、正答率11.5%というような問題???

単に時間が足りなかっただけ?単位を変えることができなかった?後は…習っていない?

 

ちなみに、7.8%正答率の2(2)の問題は無回答率18.5%。

 

家庭科として、気になったのは、この回答率と正答率。

それは、上記問題の(5)。

どの白熱電球を変えると一番節約できるか?なんて訳してしまいます…。

これは、白熱電球と蛍光灯の話でも言われていて当然のことでしょう…と思います。そして、あからさまに使用時間の違いが出ている。

入浴回数とトイレへ行く回数、階段昇降回数を思い浮かべたら、それだけで解けるでしょう…。と、意地悪に思うのは、これがトイレに行く回数と時間が示してあって使用時間がわかっているなど、夜通しつけているモノとの比較ではなく、そう使用時間数は同じでも、ON・OFFの回数の違い…なんかだったら、家庭科?

生活の中での電気をつけている時間を考えることができれば、単独で正解できるのでは…?と正答率100%でしょう…と思いきや、60%。無回答率は、3.2%と低い方ですが、4割間違えていることに驚き。まぁ…6割のうち、実生活のこととして思い浮かべて解けたかは別問題ですけどね。

 

それで思うのでした。

どこで、白熱電球などを習っただろう…?

直列・並列等の話は確かに習っているから、その時?

 

今、白熱電球の代わりに蛍光灯がついている家庭も多い時代だしなぁ…と思えば、身近な生活の話ではないのかなぁ…?

 

白熱電球と蛍光灯の違いで、白熱電球を使用するといいのは…という話

○ スイッチを入れてから点灯まで時間がややかかる(白熱電球は即時)
○ 頻繁に電源ON・OFFが行われる場面では寿命が短くなる(白熱電球の場合無関係)

という蛍光灯の短所を知っている…って言うのは学校で習うもの…?

中学校で習うのかなぁ…? と、これは中国地方総合研究センターのサイトからです。

http://www.crrc.or.jp/eee/PDF/chu_5.pdf#search=’%E7%99%BD%E7%86%B1%E7%81%AF %E8%9B%8D%E5%85%89%E7%81%AF %E7%BF%92%E3%81%86%E3%81%AE%E3%81%AF %E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1′

 

まぁ、白熱電灯ではなく、蛍光灯で全てが話されていたら…問題複雑だったかも…と思えばいいですかしら…。

 

あと、無回答率38.4%と高い問題があります。正答率38.6%も低いかなぁ…でも、一ケタ正答率があるから、高い方?わかりません。

これは浮力の問題だねぇ…と見て、何でこれが解けないの?とふと思って、私の答え違うかなぁ…と見てみる。

でも、正解してた…って、これはもう、見ただけでパスしたとしか思えませんね。

習っていない中学校があるというのかなぁ?学ぶ時期が違うのかなぁ…?

 

卵が食塩水に浮くという話は、卵の鮮度を知る一つの方法で、家庭科だけど小学校の教科書か中学校の教科書で見たよ…確か…って思います。

 

あと、計算できるかどうかは別問題としてありますが。

 

ふ~ん…

そう思ったのは、国立中学校だけが、正答率が低い問題も高かったりしている?

母数が違うので、一概にこのデータだけでは言えないけど、そう思わされました。

2(6)、4(3)の問題に対して、無回答は公立4割。これを意識してみないといけないのでしょうね。

 

よく他のデータを見ていないけど、この4割は、恐らく理科は将来役に立たないと思っているのでは?って思います。

他の問題は、学校で問題集などでやったりしたモノの続き…って思って見ることができるのでしょう。そして、2(6)、4(3)は、その前の問題が簡単?だけど身近なことで…と、その次に出た問題は恐らく学校で学んだことでは解けないなんて、始めっから解くのを辞めている?なんて思わされました。

 

国語や数学の問題を私はちゃんと見ていませんが、理科が一番正答率が低いのか…?わかりません。

 

過去、この調査ではありませんが、自分がいた学校でこのような調査を受けた時に、その学校の特別に進学のために編成したクラスに受けさせてました。正直、それって意味があるの~?と冷ややかに見ていましたが、この調査がどのように行われているのかをよく知りません。

ただ、さらっと問題を見ていて思ったことは、何でこれを無回答なのか…という疑問が残りました。

 

 

 

 

 

ミニマム・エッセンシャルズ

ミニマムエッセンスを伝える

各教科にておいて、(    )に必要なためのエッセンスを最小限にまとめ、要領よく伝えること

 

( )にしたのは、実はこの文章を見つけたのは、家庭教師のサイトからだから。(   )が目的なんだけど、違う…って、やっぱり予備校とか家庭教師の場合は「合格」。といって、受験に関係する教科の目標も「合格」と勘違いしていたりする?だから、おかしなことになっているのかもなぁ…

 

ミニマムエッセンシャルズとは、教育用語で最低限教えるべき教材のこと。20世紀初頭にエッセンシャリスト(アメリカの教育思想家の一派で、文化遺産の伝道を教育の主要機能と考える学派)によって、教育課程の近代化が試みられた際に、新しい社会に対応する基本的教育内容の抽出を始めたことがその由来である。

これは、ウィキペディアの文章。

 

生徒が最低限身に付けるべき基礎・基本(ミニマム・エッセンシャルズ)を明示する

「ミニマム・エッセンシャルズ」とは
[意味]生徒が最低限身に付けるべき基礎・基本
[作成のねらい]
① 自校の生徒として最低限身に付けておくべき基礎学力を明示して、生徒の学力保証につなげる。
② 学習内容と目標の重点化により、生徒に学習の指針を示す。
③ 学習内容を重点化して示すことにより、主体的な学習を導き、基礎学力を身に付けさせる。
④ 自己評価欄やチェックリストを設けることで、生徒に学習の振り返りを促す。
⑤ 計画的な学習指導の指針となり、指導方法や評価方法の改善につなげる。
⑥ 学習内容を重点化し、学校としての指導事項を複数の指導者間で共通理解する。

これは、栃木のミニマム・エッセンシャルズを示したシラバスの活用から。

高等学校におけるシラバスの作成と活用に関する参考資料    栃木県総合教育センター  平成16年11月

わかりやすい図だなぁ…と思ったのと、生徒のところに「具体的な評価項目に基づく学習の振り返り」「到達目標を意識した主体的な学習」と書いてある。

 

このミニマム・エッセンシャルズを意識した分け方の表現。

ミニマム・エッセンシャルズに基づいた高校生物教育課程の開発研究

Aランク:国民的教養としてのミニマム・エッセンシャルズ。すなわち、生徒の将来の進路のいかんを問わず高校卒業生の一般教養として必要不可欠な内容。したがって、できれば必修科目の中でとりあげたい内容。

Bランク:発展的・補修的内容。すなわち、生徒の将来な進路の希望によって、選択科目の中で取り上げたい内容。

Cランク:参考程度の内容。もし余裕があれば取り上げても良いという程度。

 

ミニマム・エッセンシャルズ

 

家庭科教育における調理技能の位置づけ

 

競争やめたら学力世界一

 この10年で、ヨーロッパを中心にして先進国の学力観は、知識中心から思考力中心へ、社会に出て実際に使える能力へと転換してきている。現代では知識や技術は速いスピードで変化しており、知識や技能は学校を卒業してからでも、一生を通じて学ぶものになっている。そこで一生涯かけて学ぶための力、いわゆる学習力を社会に出る前につけさせることが学校教育の目的となる。

 

これは、本の冒頭の文章。2006年に読んだ本。『競争やめたら学力世界一』の冒頭の文章。

 

詰め込んで教えても絶対無駄!と言っても、それしかない…みたいに言われて、家庭科の授業時間減らされて…2単位で教えるには無理がある!とどうしたら…と考えているときに、出会ったことのひとつ。それが、PISAでした。

 

それに対して、日本人がフィンランド教育の成功ということで、書いた本。

 

いっぱい線を引きながら読んでいたことだけがわかる本…。

 

「学習力」をつける以外にない…これが2単位で教える家庭科のできることだなぁ…って取り組んできたのですよね。

 

フィンランドは1985年、国を挙げて習熟度別編成授業を中止した。

フィンランドの教育学でいう「異質性と集団」方式に取り変えた。

 

それはいってみれば、平等を推進し、競争を排除する教育方法をとることにしたのである。だが、これは厳しい選択だ。学習動機を形成するために、テストの点数や競争という手段を使用できないからだ。

フィンランドでは「強制すれば、本来の学習がぶち壊しになってしまい、教育にならず、かえってマイナスだ」という判断を多くの大人がもっているんだとか。本当に…?という疑問と同時に、正直、今はどうなっているの?という思いです。

 

自分が個人として生きていくために勉強して道を決める、

そういう生き方への考え方が

ちゃんと親から子へと受け継がれているのだと実感しました。

学校での教育だけではなくて、

親から子へ伝えていく『生き方』の手引がある

 

PISAの結果が出て、右往左往…結局全国統一試験とか始めた日本。

改めて読んでいるとき、この本に書いてあることを本当だと考えたとして、今はどうなっていってるのだろう?と疑問を持ちました。

 

p35

OECD教育局のシュライヒャー指標分析課長によれば

「この読解力とは、単なる読み書きではありません。社会的な道具を使って、社会とつながりを持つ能力を指します」

ということを

受け身的かそれとも批判的に参加するかという態度が、読解力に反映するというわけだ。

とまとめてあって、マスコミで広まったりした言葉だけ独り歩き、聞いて記憶に残りやすい「ゆとり教育」などの用語と同様な感じで、「読解力」などが独り歩きして言ってる…と思わされるとは思うのですが、そんなマスコミに書かれたことしか読んでいない…話が強いのが本当は問題だと思いますね。

p42

日本の教育では必要な知識の定着度が低い。この事実は、日本人が、必要もない知識をたくさん詰め込んでいるのか、本当に必要な知識を知らないのか、あるいは学び方が悪くてすぐ忘れてしまったり、自分の生活や生き方に影響を与えていない、役立っていないということなのか。

 

p48

「PISAの重要な成果の一つは、生徒個人の成功にとって自らのやる気と動機がきわめて重要であるということです。」

 

フィンランドがやっていったことは

子どもたちが「自分自身のために学ぶ」という「普通の教育」に徹底していったところがすごい。その当たり前の生活、当たり前の教育が、日本から見ると異質なのである。

 

と、注目していたのは「学ぶことは自分のためだ」という意識。

 

p52

2006年2月のこと、フィンランド大学教育学部教師養成学科長マッティ・メリ教授は、こんな説明をしたそうだ。

「フィンランドの生きる力が育まれた背景には、この寒い自然環境の影響が大である。『寒くなる』という現象一つとっても、『気温が低くなる→湖が凍る→水が得られなくなる・魚が取れなくなる→食するものがなくなる→生命の危機』というように一つの事柄を見た時にも、それから派生するさまざまな事柄をつねに結び付けて考えなければならない。すなわちフィンランド人の思考体系は、一を見て多くを知るのではなく、一を見て、それにつながっている多様な側面的部分も常に同時に考えているのだ」

これを読んだ時に、今でも、「風が吹けばおけ屋がもうかる」という言葉を生み出した日本人なんだから、違いがないだろうに…って思っていましたね。

 

p64

PISA2003の成果について、なぜPISA2003でうまくいったかということを、フィンランド国家教育委員会が公式に英語で説明している項目は11。

①家庭、性、経済状態、母語に関係なく、教育への機会が平等であること。

②どの地域でも教育へのアクセスが可能であること。

③性による分離を否定していること。

④すべての教育を無償にしていること。

⑤総合制で、選別をしない基礎教育。

⑥全体は中央で調整されるが実行は地域でなされるというように、教育行政が支援の立場に立ち、柔軟であること。

⑦すべての教育段階で互いに影響し合い協同する活動を行うこと。仲間意識という考え。

⑧生徒の学習と福祉に対し、個人にあった支援をすること。

⑨テストと序列づけをなくし、発達の視点に立った生徒評価をすること。

⑩高い専門性を持ち、自分の考えで行動する教師。

⑪社会構成主義的な学習概念(socio-constructvist learning conception)。

学習には生徒の積極性が重要で、それを保証するのは教えるのではなくて学ぶという行為にゆだねるということ。

 

p84

フィンランドはどこに行ってもいつでも学べるようになっており、どう学ぶかは本人次第という大前提がまずある。そして、本人の将来は本人が決めていく。自分の興味や関心、自分の得意とする能力などを考慮して、また将来に向けて勉強して職業を選びとっていく。

 

そのあとにずっとフィンランドの話、ヨーロッパの話、日本の話が載っている。

 

改めて読んで思うことは、

日本と異なることは何?日本は何を求めている?

ということです。

 

私は、「自分自身のために学ぶ」って当たり前だと思うし、それがなぜ、当たり前と受け入れられないのか?という疑問を持っていました。

でも、答えは簡単なんですよね。

 

 

強制されているから

 

 

 

強制ばかりを体験している人たちに対して、そうではないやり方で学ばせようとすることは最初大変です。ずっと…1年間大変な人と出会うこともありますね。

だけど、「ゆとり教育」と言われるものが、本当に実施されてきているんだろうなぁ…と思わされる中学校からきていると感じられる生徒たちは、こちらの予測している「この程度かなぁ~」と到達基準予測をはるかに上回っていく…ちゃんと身についているねぇ~って思います。

大人がついていけていない部分が実は一番問題だと思うのでした。

 

この本を改めてだしてきて読む。

 

そして思うことは

中学の時の担任の言った言葉「これからの教育界はおかしくなっていく」

なっていったのか、それともおかしかったのか、イマイチわからないけど、

今の日本で一番大事なのは、親の教育力だと思う。

 

どんなに有名な学校へ行ったとしても、

どんなに素晴らしい教育に出会えたとしても、

どんなにいい環境だったとしても、

生かすかどうかを判断して行くのは、

親なんだよねぇ~。

 

スイスの寄宿舎に子どもを送る人が増えているとか。

 

今の日本は、『蜘蛛の糸』の地獄に似ている部分があるなぁ…と芥川龍之介を想うのでした。

 

そして、

何をどうしたらいいのだろう?と考えた時に、インディアンの生活やアイヌの生活…昔の日本の生活などを思ってみたりする。

 

そして、

ヨーロッパの考え方は?

アメリカの考え方は?

 

大切にしようと思っていなかった…というより、大切と思っていたけど無くなると思っていなかったものたちを失っていって気づかされている日本って感じがしますね。

だからと言って、昔がいいわけではなく、ドンドンよくなっているはずなんだから、

よいものに注目していくといいのにねぇ…というのは大震災後の教訓ではないかと私は思います。

 

 

オリンピックの報道を見て、

今朝の朝刊を読んで、

日本をよくしたくない人たちの集まりはマスコミかも…。

公共電波などを通して、日本中にマイナスな言霊を響かせて満足させているなぁ…と思うのです。

 

現状分析は正確にしないといけないと思うのです。そして、課題を認識することも。

だけど、それを疎かにして楽観視して発言も、言われる側への影響としてはマイナスだと思うのです。

現状分析している…というマスコミ自体の情報をとる能力の低下を思わされるなぁ…って、昔が高かったのか?と言われたら、ん…わかりません。ただ、昔よりも穴が大きくなっていってる気がします…抜けていっている視点の甘さを感じるのでした。

 

こと、教育という視点でオリンピックの報道等を拝見して思うのは、日本がどんな教育をしていこうとしているか…おさえて発言する公共電波などを使ったものにしていかないと、変わらないなぁ…なんて思わされます。

 

フィンランドなど…他の国の報道はどうなっているのだろう?と思いますね。

 

多分、国の大人が共通理解することが大切なのでは…って思う意味では、学歴は高い人が増えている割には…という感じになっていってる…これが経済に出ているだけでしょう…。なんてね。