無限の洞察力と問題解決力を引き出してくれる

時代を先取りするための分野別バイブルと本が紹介されています。

 

その中の、内田和成氏(早稲田大学大学院商学研究科教授)の文章が面白いなぁ…と思いました。

 

最近、私が教えているビジネススクールの応募者が増えている。また、各種セミナーや企業の幹部向けエグゼクティブプログラムも盛況だと聞く。世間では、「経営学を学びたい」という機運が高まっている。

しかし、自らのキャリアアップを目指したかつての「MBAブーム」とは質が違うように思える。今なぜ、経営学に関心が集まっているのか。「このままでは日本企業はダメになる」と考え始めた人が多いからではないだろうか。

という、始まり。そうなんだ…って、経営学を学びたい人の意識って昔と違うんだ…と思う時、今は危機感?

 一昔前だったら、上司の背中を見て学び、それを踏襲していれば順調に昇給・昇格した。経営者も同じで、経営環境はさほど大きな変化に見舞われることはなかった。他者と同じような手を打つだけで、社長の椅子は安泰だった。

ということが書いてあって、それでは難しくなっているんだ…と思ったのでした。

まぁ、そうならないとおかしいよねぇ…ってね。

 

時代は変わっていってるのだから、本当は上司の100%踏襲を何年も…繰り返したら10年で古い時代遅れのはず。

ちょこちょこ…90%踏襲で、ズレを補正…などをやってきているところは、対応していってるのでは?なんて思うのです。それなのに、100%踏襲っていちばんおろかな話をしている人達を評価して…時代についていけていたのか?そこで問題が上がって…ジエンド。

100%転換みたいなはなしとなったのでした。

状況は一変し、激変、激動の時代に突入した。

ビジネスパーソンも経営者も、今までと同じやり方を続けることが大きなリスクとなっている。

いつ、何に対して、どんな手を打つべきか。自分の頭で考え、臨機応変に実行しないと、会社も個人も生き抜けない時代になった。

ホント、多くの方がこう思っていたら、変わっていくのかも…。

 

こうした状態に対処するには、そう、学ぶしかない。

学ぶには「歴史に学ぶ」「別の業界に学ぶ」「海外事例に学ぶ」などの手法があるが、それらを全て包摂するのが「本を読んで学ぶ」やり方なのだ。

これは本当に…本を読んで学ぶの本は手段でしかないですよねぇ…。

 

そこで私が普段から行っている経営書を読む際の3つのポイントを伝授しよう。

そんな言葉で3つ書かれています。

 1つ目 正解をさがすな

正解はあなたが自分自身で導き出すべきであり、本はそのためのヒントや発想法を得るために読むべき。

2つ目 インサイトを得るために読め

情報はすぐ陳腐化するが、洞察は他の減少を考察する場合にも利用できる。その洞察パターンをいくつ知っているかで、問題解決力は大きく変わる。

3つ目 自分の文脈で読め

自分は何を知りたいのか、何に悩んでいるのか。常に問題意識をもちながら、読むべき本を紐解いている。

こんな感じに書いてあるかなぁ…と適当に抜粋。

 

この文章達が面白くて、この人の紹介している本に興味を持ってみました。

 

ネクスト・マーケット[増補改訂版]――「貧困層」を「顧客」に変える次世代ビジネス戦略 (ウォートン経営戦略シリーズ)

  

違う本なのかしら?

決断力 (角川oneテーマ21)

イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき (Harvard business school press)

エンデュアランス号漂流 (新潮文庫)

戦略不全の論理―慢性的な低収益の病からどう抜け出すか

 

すぐれた意思決定―判断と選択の心理学 (中公文庫)

 

この6冊のうちにいくつかは中古しかなさそう…。

ミニマム・エッセンシャルズ

ミニマムエッセンスを伝える

各教科にておいて、(    )に必要なためのエッセンスを最小限にまとめ、要領よく伝えること

 

( )にしたのは、実はこの文章を見つけたのは、家庭教師のサイトからだから。(   )が目的なんだけど、違う…って、やっぱり予備校とか家庭教師の場合は「合格」。といって、受験に関係する教科の目標も「合格」と勘違いしていたりする?だから、おかしなことになっているのかもなぁ…

 

ミニマムエッセンシャルズとは、教育用語で最低限教えるべき教材のこと。20世紀初頭にエッセンシャリスト(アメリカの教育思想家の一派で、文化遺産の伝道を教育の主要機能と考える学派)によって、教育課程の近代化が試みられた際に、新しい社会に対応する基本的教育内容の抽出を始めたことがその由来である。

これは、ウィキペディアの文章。

 

生徒が最低限身に付けるべき基礎・基本(ミニマム・エッセンシャルズ)を明示する

「ミニマム・エッセンシャルズ」とは
[意味]生徒が最低限身に付けるべき基礎・基本
[作成のねらい]
① 自校の生徒として最低限身に付けておくべき基礎学力を明示して、生徒の学力保証につなげる。
② 学習内容と目標の重点化により、生徒に学習の指針を示す。
③ 学習内容を重点化して示すことにより、主体的な学習を導き、基礎学力を身に付けさせる。
④ 自己評価欄やチェックリストを設けることで、生徒に学習の振り返りを促す。
⑤ 計画的な学習指導の指針となり、指導方法や評価方法の改善につなげる。
⑥ 学習内容を重点化し、学校としての指導事項を複数の指導者間で共通理解する。

これは、栃木のミニマム・エッセンシャルズを示したシラバスの活用から。

高等学校におけるシラバスの作成と活用に関する参考資料    栃木県総合教育センター  平成16年11月

わかりやすい図だなぁ…と思ったのと、生徒のところに「具体的な評価項目に基づく学習の振り返り」「到達目標を意識した主体的な学習」と書いてある。

 

このミニマム・エッセンシャルズを意識した分け方の表現。

ミニマム・エッセンシャルズに基づいた高校生物教育課程の開発研究

Aランク:国民的教養としてのミニマム・エッセンシャルズ。すなわち、生徒の将来の進路のいかんを問わず高校卒業生の一般教養として必要不可欠な内容。したがって、できれば必修科目の中でとりあげたい内容。

Bランク:発展的・補修的内容。すなわち、生徒の将来な進路の希望によって、選択科目の中で取り上げたい内容。

Cランク:参考程度の内容。もし余裕があれば取り上げても良いという程度。

 

ミニマム・エッセンシャルズ

 

家庭科教育における調理技能の位置づけ

 

奇跡の子 内村航平の原点

ちょうど、片付けていたら、出てきた…開かれてもいない新聞。

ドタバタとしている日は、全く手つかず…と、片付けようとしたら「内村航平」という文字。気になったので読んでみました。

 

「魔法の言葉」で急成長

 人間離れしたG難度の技を決め、着地に狂いもない。体操界のエース内村航平は強く、美しい演技で人々を魅了する。「プレッシャーって何なのか分からない。どんどん期待してもらっていい」。この夏の主役候補は言いきった。

 

 少年時代に指導した父の和久は、17年前の”事件”を振り返る。「航平をたたいてしまった」。小学1年で初めて出場した長崎県内の大会。緊張で顔を真っ青にした内村は演技構成を忘れてしまう。「40人ぐらいいて再会でした。それで…」

 和久は、福岡・柳川商高(現柳川高)時代に全国総体で床運動と跳馬を制した。息子であり、教え子のふがいなさに思わず手をあげた。「(たたいた箇所は)お尻でしたが、主人がたたかなかったら、私が『何でできなかったの』と責めていたかもしれません」。体操選手として、学生時代に九州で名をはせた母の周子が明かす。その後、内村は試合になると全く力を出せなくなった。

 

 和久は福岡県大川市で生まれた。街を流れるクリークにわらを敷き詰め、宙返りで着地を決めるのが得意だった。高校1年だった1976年、体操男子はモントリオール五輪で団体5連覇を達成。体操ニッポンの黄金時代に胸をときめかせた。日体大を卒業後、福岡県内の体操教室で指導者の道を歩み始めた和久は、五輪に出られるような教え子を育てるという夢を抱いていた。その頃、九州で指導していた周子と出会い、結婚。当時住んでいた北九州市で第1子が誕生した。昭和から平成に元号が変わる5日前の1989年1月3日のことだ。

 2702グラムで生を受けた子どもは「世界を目指し、大海原に飛び出して欲しい」との願いから「航平」と名付けられた。3年後、31歳の和久は、周子の実家があった長崎県諫早市で念願の独立を果たす。海上コンテナ2基をつなげた自宅で体操教室を開いた。

 

 夫婦は航平を授かったときから「子ども達に重圧をかけるような言葉は掛けまい」と決めていた。だから、教え子となった小学1年の息子に対して禁を犯したことを悔やむ。練習ではできるのに試合になると委縮する姿に、感情に任せた行動は過ちだったと気付いた。「よかよか、次頑張れば」。小学4年の時、試合で失敗した内村の頭をなでながら、和久は語り掛けた。この言葉は、次第に内村の「お守り」になっていく。第一人者となってから、内村は周子に打ち明けた。「お父さんの『よかよか』でここまで頑張れたよ」

 両親の”魔法の言葉”で成長し、北京五輪に出場。大会前は腰痛に苦しんだ。自分達の夢をかなえた息子の雄姿を見たい気持ちは当然ある。それでも周子は「出られなくてもいいじゃない。私はベンチの航平を応援するから」と励ました。

 

 「体操と出会えたのも両親のおかげ。どんなレベルになっても同じように応援してくれる」。最下位にべそを書いた少年は、23歳の今、世界から「天才」と呼ばれるまでになった。「自分の子ではないみたい。『奇跡の子』です」。周子は目を細めた。

西日本新聞20120年7月17日

 

読んで、そんなことがあったんだ…と北京オリンピックの話もよく知らずにいました。

新聞記事には写真が2枚。一枚は3歳のころ、鉄棒にぶら下がっている内村選手の写真。その写真は体操教室のチラシに使われていた?使われている?そうです。

 

「よかよか」

この言葉を言えるのか?というよりも、重圧をかけまいと誓う背景にある思いがあるからこそ、自分を制するのだと思います。

読んでいて思ったのは、この内村選手の両親は重圧をかけられて選手生活を送ってきていたのでしょうね。

それで結果を出していったと信じている人は、次に指導者になっても同様に圧力をかけていくのかもしれません。だけど、本当は圧力をかけていることがどのような影響を与えているのか、そのことをしっかりと認識し、自分が体験して嫌だったことへの思いを忘れなければ同様のことをしないために、他の方法を学ぶ努力をすると思います。

だけど、されて嫌だったかもしれないけれど、その嫌だったという思いを覚えていても、それ以外に方法がないと、嫌でもそれ以外には勝つ方法がないと思うと同様のことを…それは自分が嫌だったはずのことを後進者に対して行って、自分に言い訳をしている人がいますよね。それ以外勝つ方法はないから…。

本当は、圧する方が相手を委縮させ、本来の力を出せない方向に持って行きかねない…って、ちゃんと科学的に学習していれば知っているはずなのに…思わず叩く、責める…そして自分に言い訳をする。そうするから強くなるんだ…。一番簡単な負のサイクルのできあがり。これは虐待の連鎖と一緒。

他の方法を学び、様々な他の方法を探る…そして、身につけるべく取り組む。一朝一夕で身に付かない指導スタンスだと思うのです。それでも、「よかよか」と言い続け、「出られなくてもいい」と言うことの凄さを思います。

 

自分が受けたことに対して、間違いはないはずだ…と虐待を受けた子どもは思いたくなりそう思いこむために、おかしい!とか嫌だったという思いを無意識の世界に追いやり、その方法しかないんだと同じ方法を繰り返している人に出会って思うのです。私も声を荒げることあります。そして、本当に伝わらない…と思わされることもあります。特に、長いこと、虐げるような圧する指導を受けた子どもには、恐らくこの内村選手のお父さんのように接されると何をしてもいいと勘違いして行動する可能性が高いと思わされます。指導が理解がうまくできない子にしていっているのが理解できないのは、自分は耐えて頑張ってきたというスポーツマン精神?で指導している人だと私は思います。そんな人にはよく出会えるなぁ…と思いますが、本当にすごいなぁ…と内村選手のご両親の指導を思うのです。

自分はそうやって虐げられる指導で耐えてきたのだから…耐えなければ強くなれないと勘違いしている人達は頭を使わない兵隊的に扱われたスパルタ指導で育ったのだろうと思います。そして、同じ体験をしても、それを伝えていく人と、そうではない方法をするために自分を律する人。一番大きな違いは強さだと思います。本当に強くないと、変えることができない。強いのは心なんですよね。

いろんな思いがよぎりながらも、「よかよか」と言い続ける試合後の対応かもしれません。だけど、普段は違うのかもしれません。「よかよか」はきっと、自分への言葉だと思うのです。「次はどう接していくと、どう組み立てさせると間にあうか?また、結果を出せるように本人にコンディションをはじめ全ての取組みをどのように用意したらいいか気づかせることができるか?」なんて思いなのでは…?って思います。結果を出せないのはコーチのやり方のまずさ…と、自分の指導のまずさを反省し、どうしたらいいか考える。「よかよか」は恐らく、決して結果が出なかった責任は選手ではない…自分の指導をどうしたらいいか…仕切り直しを思っていらしたのではと思います。

 

スパルタ方式だと、こんなに言ったのになぜ結果を出せない!といかにも選手のせいみたいですが、

実は、結果をいかなる状況でもだせる選手にできなかった…と考えたらコーチの責任みたい…これが問題解決力をつけさせるってこと。

自分で考え、自分で知識や技術を身につけ結果を出せるようになっていけたように思うときがあるかもしれない…これがコーチングかな…って思うのです。蛇のしっぽコーチングって教えてもらったのを思うのです。

 

難しい指導だけど、それをするって、決めることが早いのは、マイナスの大きさを客観的に捉えて、背面教師にお世話になったかもしれないけど自分の指導者をすることができたからだと思います。それができないと、いつまでも…自分も同じことをしていく…。虐待がなくならないのと一緒ですね。悪いとかいいとか、自分の感情を評価せず全てを受け入れる力が必要なんですよね。

 

そんなことを思わされました。

 

 

競争やめたら学力世界一

 この10年で、ヨーロッパを中心にして先進国の学力観は、知識中心から思考力中心へ、社会に出て実際に使える能力へと転換してきている。現代では知識や技術は速いスピードで変化しており、知識や技能は学校を卒業してからでも、一生を通じて学ぶものになっている。そこで一生涯かけて学ぶための力、いわゆる学習力を社会に出る前につけさせることが学校教育の目的となる。

 

これは、本の冒頭の文章。2006年に読んだ本。『競争やめたら学力世界一』の冒頭の文章。

 

詰め込んで教えても絶対無駄!と言っても、それしかない…みたいに言われて、家庭科の授業時間減らされて…2単位で教えるには無理がある!とどうしたら…と考えているときに、出会ったことのひとつ。それが、PISAでした。

 

それに対して、日本人がフィンランド教育の成功ということで、書いた本。

 

いっぱい線を引きながら読んでいたことだけがわかる本…。

 

「学習力」をつける以外にない…これが2単位で教える家庭科のできることだなぁ…って取り組んできたのですよね。

 

フィンランドは1985年、国を挙げて習熟度別編成授業を中止した。

フィンランドの教育学でいう「異質性と集団」方式に取り変えた。

 

それはいってみれば、平等を推進し、競争を排除する教育方法をとることにしたのである。だが、これは厳しい選択だ。学習動機を形成するために、テストの点数や競争という手段を使用できないからだ。

フィンランドでは「強制すれば、本来の学習がぶち壊しになってしまい、教育にならず、かえってマイナスだ」という判断を多くの大人がもっているんだとか。本当に…?という疑問と同時に、正直、今はどうなっているの?という思いです。

 

自分が個人として生きていくために勉強して道を決める、

そういう生き方への考え方が

ちゃんと親から子へと受け継がれているのだと実感しました。

学校での教育だけではなくて、

親から子へ伝えていく『生き方』の手引がある

 

PISAの結果が出て、右往左往…結局全国統一試験とか始めた日本。

改めて読んでいるとき、この本に書いてあることを本当だと考えたとして、今はどうなっていってるのだろう?と疑問を持ちました。

 

p35

OECD教育局のシュライヒャー指標分析課長によれば

「この読解力とは、単なる読み書きではありません。社会的な道具を使って、社会とつながりを持つ能力を指します」

ということを

受け身的かそれとも批判的に参加するかという態度が、読解力に反映するというわけだ。

とまとめてあって、マスコミで広まったりした言葉だけ独り歩き、聞いて記憶に残りやすい「ゆとり教育」などの用語と同様な感じで、「読解力」などが独り歩きして言ってる…と思わされるとは思うのですが、そんなマスコミに書かれたことしか読んでいない…話が強いのが本当は問題だと思いますね。

p42

日本の教育では必要な知識の定着度が低い。この事実は、日本人が、必要もない知識をたくさん詰め込んでいるのか、本当に必要な知識を知らないのか、あるいは学び方が悪くてすぐ忘れてしまったり、自分の生活や生き方に影響を与えていない、役立っていないということなのか。

 

p48

「PISAの重要な成果の一つは、生徒個人の成功にとって自らのやる気と動機がきわめて重要であるということです。」

 

フィンランドがやっていったことは

子どもたちが「自分自身のために学ぶ」という「普通の教育」に徹底していったところがすごい。その当たり前の生活、当たり前の教育が、日本から見ると異質なのである。

 

と、注目していたのは「学ぶことは自分のためだ」という意識。

 

p52

2006年2月のこと、フィンランド大学教育学部教師養成学科長マッティ・メリ教授は、こんな説明をしたそうだ。

「フィンランドの生きる力が育まれた背景には、この寒い自然環境の影響が大である。『寒くなる』という現象一つとっても、『気温が低くなる→湖が凍る→水が得られなくなる・魚が取れなくなる→食するものがなくなる→生命の危機』というように一つの事柄を見た時にも、それから派生するさまざまな事柄をつねに結び付けて考えなければならない。すなわちフィンランド人の思考体系は、一を見て多くを知るのではなく、一を見て、それにつながっている多様な側面的部分も常に同時に考えているのだ」

これを読んだ時に、今でも、「風が吹けばおけ屋がもうかる」という言葉を生み出した日本人なんだから、違いがないだろうに…って思っていましたね。

 

p64

PISA2003の成果について、なぜPISA2003でうまくいったかということを、フィンランド国家教育委員会が公式に英語で説明している項目は11。

①家庭、性、経済状態、母語に関係なく、教育への機会が平等であること。

②どの地域でも教育へのアクセスが可能であること。

③性による分離を否定していること。

④すべての教育を無償にしていること。

⑤総合制で、選別をしない基礎教育。

⑥全体は中央で調整されるが実行は地域でなされるというように、教育行政が支援の立場に立ち、柔軟であること。

⑦すべての教育段階で互いに影響し合い協同する活動を行うこと。仲間意識という考え。

⑧生徒の学習と福祉に対し、個人にあった支援をすること。

⑨テストと序列づけをなくし、発達の視点に立った生徒評価をすること。

⑩高い専門性を持ち、自分の考えで行動する教師。

⑪社会構成主義的な学習概念(socio-constructvist learning conception)。

学習には生徒の積極性が重要で、それを保証するのは教えるのではなくて学ぶという行為にゆだねるということ。

 

p84

フィンランドはどこに行ってもいつでも学べるようになっており、どう学ぶかは本人次第という大前提がまずある。そして、本人の将来は本人が決めていく。自分の興味や関心、自分の得意とする能力などを考慮して、また将来に向けて勉強して職業を選びとっていく。

 

そのあとにずっとフィンランドの話、ヨーロッパの話、日本の話が載っている。

 

改めて読んで思うことは、

日本と異なることは何?日本は何を求めている?

ということです。

 

私は、「自分自身のために学ぶ」って当たり前だと思うし、それがなぜ、当たり前と受け入れられないのか?という疑問を持っていました。

でも、答えは簡単なんですよね。

 

 

強制されているから

 

 

 

強制ばかりを体験している人たちに対して、そうではないやり方で学ばせようとすることは最初大変です。ずっと…1年間大変な人と出会うこともありますね。

だけど、「ゆとり教育」と言われるものが、本当に実施されてきているんだろうなぁ…と思わされる中学校からきていると感じられる生徒たちは、こちらの予測している「この程度かなぁ~」と到達基準予測をはるかに上回っていく…ちゃんと身についているねぇ~って思います。

大人がついていけていない部分が実は一番問題だと思うのでした。

 

この本を改めてだしてきて読む。

 

そして思うことは

中学の時の担任の言った言葉「これからの教育界はおかしくなっていく」

なっていったのか、それともおかしかったのか、イマイチわからないけど、

今の日本で一番大事なのは、親の教育力だと思う。

 

どんなに有名な学校へ行ったとしても、

どんなに素晴らしい教育に出会えたとしても、

どんなにいい環境だったとしても、

生かすかどうかを判断して行くのは、

親なんだよねぇ~。

 

スイスの寄宿舎に子どもを送る人が増えているとか。

 

今の日本は、『蜘蛛の糸』の地獄に似ている部分があるなぁ…と芥川龍之介を想うのでした。

 

そして、

何をどうしたらいいのだろう?と考えた時に、インディアンの生活やアイヌの生活…昔の日本の生活などを思ってみたりする。

 

そして、

ヨーロッパの考え方は?

アメリカの考え方は?

 

大切にしようと思っていなかった…というより、大切と思っていたけど無くなると思っていなかったものたちを失っていって気づかされている日本って感じがしますね。

だからと言って、昔がいいわけではなく、ドンドンよくなっているはずなんだから、

よいものに注目していくといいのにねぇ…というのは大震災後の教訓ではないかと私は思います。

 

 

オリンピックの報道を見て、

今朝の朝刊を読んで、

日本をよくしたくない人たちの集まりはマスコミかも…。

公共電波などを通して、日本中にマイナスな言霊を響かせて満足させているなぁ…と思うのです。

 

現状分析は正確にしないといけないと思うのです。そして、課題を認識することも。

だけど、それを疎かにして楽観視して発言も、言われる側への影響としてはマイナスだと思うのです。

現状分析している…というマスコミ自体の情報をとる能力の低下を思わされるなぁ…って、昔が高かったのか?と言われたら、ん…わかりません。ただ、昔よりも穴が大きくなっていってる気がします…抜けていっている視点の甘さを感じるのでした。

 

こと、教育という視点でオリンピックの報道等を拝見して思うのは、日本がどんな教育をしていこうとしているか…おさえて発言する公共電波などを使ったものにしていかないと、変わらないなぁ…なんて思わされます。

 

フィンランドなど…他の国の報道はどうなっているのだろう?と思いますね。

 

多分、国の大人が共通理解することが大切なのでは…って思う意味では、学歴は高い人が増えている割には…という感じになっていってる…これが経済に出ているだけでしょう…。なんてね。