この10年で、ヨーロッパを中心にして先進国の学力観は、知識中心から思考力中心へ、社会に出て実際に使える能力へと転換してきている。現代では知識や技術は速いスピードで変化しており、知識や技能は学校を卒業してからでも、一生を通じて学ぶものになっている。そこで一生涯かけて学ぶための力、いわゆる学習力を社会に出る前につけさせることが学校教育の目的となる。
これは、本の冒頭の文章。2006年に読んだ本。『競争やめたら学力世界一』の冒頭の文章。
詰め込んで教えても絶対無駄!と言っても、それしかない…みたいに言われて、家庭科の授業時間減らされて…2単位で教えるには無理がある!とどうしたら…と考えているときに、出会ったことのひとつ。それが、PISAでした。
それに対して、日本人がフィンランド教育の成功ということで、書いた本。
いっぱい線を引きながら読んでいたことだけがわかる本…。
「学習力」をつける以外にない…これが2単位で教える家庭科のできることだなぁ…って取り組んできたのですよね。
フィンランドは1985年、国を挙げて習熟度別編成授業を中止した。
フィンランドの教育学でいう「異質性と集団」方式に取り変えた。
それはいってみれば、平等を推進し、競争を排除する教育方法をとることにしたのである。だが、これは厳しい選択だ。学習動機を形成するために、テストの点数や競争という手段を使用できないからだ。
フィンランドでは「強制すれば、本来の学習がぶち壊しになってしまい、教育にならず、かえってマイナスだ」という判断を多くの大人がもっているんだとか。本当に…?という疑問と同時に、正直、今はどうなっているの?という思いです。
自分が個人として生きていくために勉強して道を決める、
そういう生き方への考え方が
ちゃんと親から子へと受け継がれているのだと実感しました。
学校での教育だけではなくて、
親から子へ伝えていく『生き方』の手引がある
PISAの結果が出て、右往左往…結局全国統一試験とか始めた日本。
改めて読んでいるとき、この本に書いてあることを本当だと考えたとして、今はどうなっていってるのだろう?と疑問を持ちました。
p35
OECD教育局のシュライヒャー指標分析課長によれば
「この読解力とは、単なる読み書きではありません。社会的な道具を使って、社会とつながりを持つ能力を指します」
ということを
受け身的かそれとも批判的に参加するかという態度が、読解力に反映するというわけだ。
とまとめてあって、マスコミで広まったりした言葉だけ独り歩き、聞いて記憶に残りやすい「ゆとり教育」などの用語と同様な感じで、「読解力」などが独り歩きして言ってる…と思わされるとは思うのですが、そんなマスコミに書かれたことしか読んでいない…話が強いのが本当は問題だと思いますね。
p42
日本の教育では必要な知識の定着度が低い。この事実は、日本人が、必要もない知識をたくさん詰め込んでいるのか、本当に必要な知識を知らないのか、あるいは学び方が悪くてすぐ忘れてしまったり、自分の生活や生き方に影響を与えていない、役立っていないということなのか。
p48
「PISAの重要な成果の一つは、生徒個人の成功にとって自らのやる気と動機がきわめて重要であるということです。」
フィンランドがやっていったことは
子どもたちが「自分自身のために学ぶ」という「普通の教育」に徹底していったところがすごい。その当たり前の生活、当たり前の教育が、日本から見ると異質なのである。
と、注目していたのは「学ぶことは自分のためだ」という意識。
p52
2006年2月のこと、フィンランド大学教育学部教師養成学科長マッティ・メリ教授は、こんな説明をしたそうだ。
「フィンランドの生きる力が育まれた背景には、この寒い自然環境の影響が大である。『寒くなる』という現象一つとっても、『気温が低くなる→湖が凍る→水が得られなくなる・魚が取れなくなる→食するものがなくなる→生命の危機』というように一つの事柄を見た時にも、それから派生するさまざまな事柄をつねに結び付けて考えなければならない。すなわちフィンランド人の思考体系は、一を見て多くを知るのではなく、一を見て、それにつながっている多様な側面的部分も常に同時に考えているのだ」
これを読んだ時に、今でも、「風が吹けばおけ屋がもうかる」という言葉を生み出した日本人なんだから、違いがないだろうに…って思っていましたね。
p64
PISA2003の成果について、なぜPISA2003でうまくいったかということを、フィンランド国家教育委員会が公式に英語で説明している項目は11。
①家庭、性、経済状態、母語に関係なく、教育への機会が平等であること。
②どの地域でも教育へのアクセスが可能であること。
③性による分離を否定していること。
④すべての教育を無償にしていること。
⑤総合制で、選別をしない基礎教育。
⑥全体は中央で調整されるが実行は地域でなされるというように、教育行政が支援の立場に立ち、柔軟であること。
⑦すべての教育段階で互いに影響し合い協同する活動を行うこと。仲間意識という考え。
⑧生徒の学習と福祉に対し、個人にあった支援をすること。
⑨テストと序列づけをなくし、発達の視点に立った生徒評価をすること。
⑩高い専門性を持ち、自分の考えで行動する教師。
⑪社会構成主義的な学習概念(socio-constructvist learning conception)。
学習には生徒の積極性が重要で、それを保証するのは教えるのではなくて学ぶという行為にゆだねるということ。
p84
フィンランドはどこに行ってもいつでも学べるようになっており、どう学ぶかは本人次第という大前提がまずある。そして、本人の将来は本人が決めていく。自分の興味や関心、自分の得意とする能力などを考慮して、また将来に向けて勉強して職業を選びとっていく。
そのあとにずっとフィンランドの話、ヨーロッパの話、日本の話が載っている。
改めて読んで思うことは、
日本と異なることは何?日本は何を求めている?
ということです。
私は、「自分自身のために学ぶ」って当たり前だと思うし、それがなぜ、当たり前と受け入れられないのか?という疑問を持っていました。
でも、答えは簡単なんですよね。
強制されているから
強制ばかりを体験している人たちに対して、そうではないやり方で学ばせようとすることは最初大変です。ずっと…1年間大変な人と出会うこともありますね。
だけど、「ゆとり教育」と言われるものが、本当に実施されてきているんだろうなぁ…と思わされる中学校からきていると感じられる生徒たちは、こちらの予測している「この程度かなぁ~」と到達基準予測をはるかに上回っていく…ちゃんと身についているねぇ~って思います。
大人がついていけていない部分が実は一番問題だと思うのでした。
この本を改めてだしてきて読む。
そして思うことは
中学の時の担任の言った言葉「これからの教育界はおかしくなっていく」
なっていったのか、それともおかしかったのか、イマイチわからないけど、
今の日本で一番大事なのは、親の教育力だと思う。
どんなに有名な学校へ行ったとしても、
どんなに素晴らしい教育に出会えたとしても、
どんなにいい環境だったとしても、
生かすかどうかを判断して行くのは、
親なんだよねぇ~。
スイスの寄宿舎に子どもを送る人が増えているとか。
今の日本は、『蜘蛛の糸』の地獄に似ている部分があるなぁ…と芥川龍之介を想うのでした。
そして、
何をどうしたらいいのだろう?と考えた時に、インディアンの生活やアイヌの生活…昔の日本の生活などを思ってみたりする。
そして、
ヨーロッパの考え方は?
アメリカの考え方は?
…
大切にしようと思っていなかった…というより、大切と思っていたけど無くなると思っていなかったものたちを失っていって気づかされている日本って感じがしますね。
だからと言って、昔がいいわけではなく、ドンドンよくなっているはずなんだから、
よいものに注目していくといいのにねぇ…というのは大震災後の教訓ではないかと私は思います。
オリンピックの報道を見て、
今朝の朝刊を読んで、
日本をよくしたくない人たちの集まりはマスコミかも…。
公共電波などを通して、日本中にマイナスな言霊を響かせて満足させているなぁ…と思うのです。
現状分析は正確にしないといけないと思うのです。そして、課題を認識することも。
だけど、それを疎かにして楽観視して発言も、言われる側への影響としてはマイナスだと思うのです。
現状分析している…というマスコミ自体の情報をとる能力の低下を思わされるなぁ…って、昔が高かったのか?と言われたら、ん…わかりません。ただ、昔よりも穴が大きくなっていってる気がします…抜けていっている視点の甘さを感じるのでした。
こと、教育という視点でオリンピックの報道等を拝見して思うのは、日本がどんな教育をしていこうとしているか…おさえて発言する公共電波などを使ったものにしていかないと、変わらないなぁ…なんて思わされます。
フィンランドなど…他の国の報道はどうなっているのだろう?と思いますね。
多分、国の大人が共通理解することが大切なのでは…って思う意味では、学歴は高い人が増えている割には…という感じになっていってる…これが経済に出ているだけでしょう…。なんてね。