葉祥明

昨日、知りました。

2012年8月4日フェア2012年<福岡三越>。

でも、作品というのか、絵はどこかで見たことがある…気はします。

だから、どんな人なんだろう?

 

美術館を持っている?とか、そんな作家さんとしらずにいました。

 

その人のブログでは

shomei Yoh 

とかいてあります。ということは、海外でも知られている人?そのくらいのノリ…熊本市生まれとかそんな感じでしか書いているのを読んで理解できていませんでした。

 

1972年に「ぼくのべんちにしろいとり」(至光社)を出版され、イギリス、フランス、スウェーデンでも発刊されているそうです。

読んだことがないなぁ…って思います。

これは日本語版の絵本ではない?

アマゾンで検索して、このイラストみたことがある…。

この絵本は読んだことがないけれど、私は知っている表紙だ…と思いました。


 

空を描くのが好きだと、展示会場には書いてありましたが、イルカの泳いでいる絵がとっても素敵だなぁ…って思わされました。

1991年から北鎌倉に葉祥明美術館があるそうです。そちらに行って、今回の展示の初日に…と来た人がいたとか。すごい…。

 

なんとなく、心癒される絵です。
絵本の絵って、本当に優しいかんじのものが多いですね。

 

調べてみて、あ~この本にはシリーズがあるのか…と知ったと同時に、この本『地雷ではなく花をください』を目にしていたから、イラストを私は見たことがある気がしたんだ…と理解しました。


 祖父の代に日本へ渡来した中国人の家系に出自を持つ。自身は30代で日本国籍となった。実兄の葉祥栄は建築家。

ウィキペディアに書いてありました。

2005年に映画『東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~』に葉祥明さん自作の詩《母親というものは》が引用されたんだそうです。

この映画を見ていないなぁ…と。


また、2007年に「MOTTAINAI~もったいない~」(NHK みんなのうた)の衣装として、JAKE がプリントされたTシャツが着用されているんだそうです…。これも知らないなぁ…。


この歌は聞いたことがありますね。

 

今日、本人がいらっしゃってサイン会とか言われても、へぇ~…明日は違うことをする予定…くらいに聞いていました。

人間、興味がなかったら反応の仕方が違いますねぇ…。すみません。

 

昨日は「こびとづかん」のなばたとしたか氏がいらしていたみたいで、これまたサイン会…ってやっていました。この方も存じ上げないので、へぇ~…。好きな人にとっては反応の仕方も違うのでしょうけれど、知らないということはすごいことだなぁ…と改めて思わされたのでした。

 

海の色、空の色…きれいでした。

緑も優しい。

 

福岡を描かれた原画。福岡の公的な施設で飾られているとか、福岡だから…というような施設(例えば図書館など)にあるといいのになぁ…って思わされた絵なのですが、原画は売れていました。まぁ…公的なところは予算がなくても、銀行とか、街の商業施設とか、あるといいのにねぇ…多くの人の目に触れるところにあるといいんじゃないかなぁ…と優しい感じに思いました。

 

 

奇跡の子 内村航平の原点

ちょうど、片付けていたら、出てきた…開かれてもいない新聞。

ドタバタとしている日は、全く手つかず…と、片付けようとしたら「内村航平」という文字。気になったので読んでみました。

 

「魔法の言葉」で急成長

 人間離れしたG難度の技を決め、着地に狂いもない。体操界のエース内村航平は強く、美しい演技で人々を魅了する。「プレッシャーって何なのか分からない。どんどん期待してもらっていい」。この夏の主役候補は言いきった。

 

 少年時代に指導した父の和久は、17年前の”事件”を振り返る。「航平をたたいてしまった」。小学1年で初めて出場した長崎県内の大会。緊張で顔を真っ青にした内村は演技構成を忘れてしまう。「40人ぐらいいて再会でした。それで…」

 和久は、福岡・柳川商高(現柳川高)時代に全国総体で床運動と跳馬を制した。息子であり、教え子のふがいなさに思わず手をあげた。「(たたいた箇所は)お尻でしたが、主人がたたかなかったら、私が『何でできなかったの』と責めていたかもしれません」。体操選手として、学生時代に九州で名をはせた母の周子が明かす。その後、内村は試合になると全く力を出せなくなった。

 

 和久は福岡県大川市で生まれた。街を流れるクリークにわらを敷き詰め、宙返りで着地を決めるのが得意だった。高校1年だった1976年、体操男子はモントリオール五輪で団体5連覇を達成。体操ニッポンの黄金時代に胸をときめかせた。日体大を卒業後、福岡県内の体操教室で指導者の道を歩み始めた和久は、五輪に出られるような教え子を育てるという夢を抱いていた。その頃、九州で指導していた周子と出会い、結婚。当時住んでいた北九州市で第1子が誕生した。昭和から平成に元号が変わる5日前の1989年1月3日のことだ。

 2702グラムで生を受けた子どもは「世界を目指し、大海原に飛び出して欲しい」との願いから「航平」と名付けられた。3年後、31歳の和久は、周子の実家があった長崎県諫早市で念願の独立を果たす。海上コンテナ2基をつなげた自宅で体操教室を開いた。

 

 夫婦は航平を授かったときから「子ども達に重圧をかけるような言葉は掛けまい」と決めていた。だから、教え子となった小学1年の息子に対して禁を犯したことを悔やむ。練習ではできるのに試合になると委縮する姿に、感情に任せた行動は過ちだったと気付いた。「よかよか、次頑張れば」。小学4年の時、試合で失敗した内村の頭をなでながら、和久は語り掛けた。この言葉は、次第に内村の「お守り」になっていく。第一人者となってから、内村は周子に打ち明けた。「お父さんの『よかよか』でここまで頑張れたよ」

 両親の”魔法の言葉”で成長し、北京五輪に出場。大会前は腰痛に苦しんだ。自分達の夢をかなえた息子の雄姿を見たい気持ちは当然ある。それでも周子は「出られなくてもいいじゃない。私はベンチの航平を応援するから」と励ました。

 

 「体操と出会えたのも両親のおかげ。どんなレベルになっても同じように応援してくれる」。最下位にべそを書いた少年は、23歳の今、世界から「天才」と呼ばれるまでになった。「自分の子ではないみたい。『奇跡の子』です」。周子は目を細めた。

西日本新聞20120年7月17日

 

読んで、そんなことがあったんだ…と北京オリンピックの話もよく知らずにいました。

新聞記事には写真が2枚。一枚は3歳のころ、鉄棒にぶら下がっている内村選手の写真。その写真は体操教室のチラシに使われていた?使われている?そうです。

 

「よかよか」

この言葉を言えるのか?というよりも、重圧をかけまいと誓う背景にある思いがあるからこそ、自分を制するのだと思います。

読んでいて思ったのは、この内村選手の両親は重圧をかけられて選手生活を送ってきていたのでしょうね。

それで結果を出していったと信じている人は、次に指導者になっても同様に圧力をかけていくのかもしれません。だけど、本当は圧力をかけていることがどのような影響を与えているのか、そのことをしっかりと認識し、自分が体験して嫌だったことへの思いを忘れなければ同様のことをしないために、他の方法を学ぶ努力をすると思います。

だけど、されて嫌だったかもしれないけれど、その嫌だったという思いを覚えていても、それ以外に方法がないと、嫌でもそれ以外には勝つ方法がないと思うと同様のことを…それは自分が嫌だったはずのことを後進者に対して行って、自分に言い訳をしている人がいますよね。それ以外勝つ方法はないから…。

本当は、圧する方が相手を委縮させ、本来の力を出せない方向に持って行きかねない…って、ちゃんと科学的に学習していれば知っているはずなのに…思わず叩く、責める…そして自分に言い訳をする。そうするから強くなるんだ…。一番簡単な負のサイクルのできあがり。これは虐待の連鎖と一緒。

他の方法を学び、様々な他の方法を探る…そして、身につけるべく取り組む。一朝一夕で身に付かない指導スタンスだと思うのです。それでも、「よかよか」と言い続け、「出られなくてもいい」と言うことの凄さを思います。

 

自分が受けたことに対して、間違いはないはずだ…と虐待を受けた子どもは思いたくなりそう思いこむために、おかしい!とか嫌だったという思いを無意識の世界に追いやり、その方法しかないんだと同じ方法を繰り返している人に出会って思うのです。私も声を荒げることあります。そして、本当に伝わらない…と思わされることもあります。特に、長いこと、虐げるような圧する指導を受けた子どもには、恐らくこの内村選手のお父さんのように接されると何をしてもいいと勘違いして行動する可能性が高いと思わされます。指導が理解がうまくできない子にしていっているのが理解できないのは、自分は耐えて頑張ってきたというスポーツマン精神?で指導している人だと私は思います。そんな人にはよく出会えるなぁ…と思いますが、本当にすごいなぁ…と内村選手のご両親の指導を思うのです。

自分はそうやって虐げられる指導で耐えてきたのだから…耐えなければ強くなれないと勘違いしている人達は頭を使わない兵隊的に扱われたスパルタ指導で育ったのだろうと思います。そして、同じ体験をしても、それを伝えていく人と、そうではない方法をするために自分を律する人。一番大きな違いは強さだと思います。本当に強くないと、変えることができない。強いのは心なんですよね。

いろんな思いがよぎりながらも、「よかよか」と言い続ける試合後の対応かもしれません。だけど、普段は違うのかもしれません。「よかよか」はきっと、自分への言葉だと思うのです。「次はどう接していくと、どう組み立てさせると間にあうか?また、結果を出せるように本人にコンディションをはじめ全ての取組みをどのように用意したらいいか気づかせることができるか?」なんて思いなのでは…?って思います。結果を出せないのはコーチのやり方のまずさ…と、自分の指導のまずさを反省し、どうしたらいいか考える。「よかよか」は恐らく、決して結果が出なかった責任は選手ではない…自分の指導をどうしたらいいか…仕切り直しを思っていらしたのではと思います。

 

スパルタ方式だと、こんなに言ったのになぜ結果を出せない!といかにも選手のせいみたいですが、

実は、結果をいかなる状況でもだせる選手にできなかった…と考えたらコーチの責任みたい…これが問題解決力をつけさせるってこと。

自分で考え、自分で知識や技術を身につけ結果を出せるようになっていけたように思うときがあるかもしれない…これがコーチングかな…って思うのです。蛇のしっぽコーチングって教えてもらったのを思うのです。

 

難しい指導だけど、それをするって、決めることが早いのは、マイナスの大きさを客観的に捉えて、背面教師にお世話になったかもしれないけど自分の指導者をすることができたからだと思います。それができないと、いつまでも…自分も同じことをしていく…。虐待がなくならないのと一緒ですね。悪いとかいいとか、自分の感情を評価せず全てを受け入れる力が必要なんですよね。

 

そんなことを思わされました。

 

 

「キタジマのDNA」残す

今朝、日経新聞のこの記事を読んで、思ったのです。

この記事を書いた人はどんな人なんだろう…?

 

それで、インターネット上で検索して、この件に関する記事を他にも見つけて、読みました。

 

アスリートはみんな、いつ自分が妥協していつ自分にうそをついたかを知っている。結果がいい時は気にならないけれど、追い込まれたり、敗北した時、どうしてあの時自分は妥協してしまったんだと後悔する。妥協は人にはうまくごまかせるけど、自分にはごまかせない。妥協した過去は後々の人生に響いていく。

 4年に1度、人生に数度のオリンピックで結果をコントロールするのはとても難しい。でも確かにやりきったという思いは宝物として選手の内側に残るのだと思う。

 後悔は結果ではなく、過程に依存する。結果はコントロールできないけれど、今日どう生きるかは毎日自分の力で選ぶことができる。悔しい思いはあるだろうけど、北島君が吹っ切れたような顔をできるのは彼が全力で競技に取り組んできたからじゃないだろうか。悔いはないと語った北島君の表情に、戦いきった人だけが持つ充足感と、自分はやりきったんだという自信を、僕は感じた。

 

失礼ながら、この記事を書いた方を私は知りません。

 

ただ、この人の記事を読んで、安堵しました。

 

同じことでも、書く人が変わると印象が変わりますね。

 

「あいつが、世界の平泳ぎのレベルをここまで引き上げた張本人だと思いますよ」という平井伯昌日本代表ヘッドコーチの言葉、ジュルタ選手のコーチも納得とか。

 

北京オリンピックのためだったのか、テレビでたくさんの人たちに支えられて競技をしていることを見て知りました。一人の選手が戦うって本当に大変だなぁ…。

それが、数日前新聞で知ったのは、そんな環境下で水泳を続けてきて今回の挑戦となっているわけではないということ。

日経新聞を見て、インターネット上で見つけたのは日刊新聞?わかりませんが競技人生を続ける意思を示している文章を読みました。

 

さて、どんな人に同意を求めたい?新聞記者なのでしょう…。私は日経新聞のこの記事を読みながら、日本はよくなりにくいなぁ…と思わず、はぁ…。

 

 北島の泳ぎをプラットホームにしつつ、北島にはないパワーを搭載して、北島より速い”マシン”が次々とつくられていく。逆説めいてはいるが、ロンドンで敗れる要因は自分自身が作りだしていたと言えるかもしれない。高速化の種をまき、五輪で記録の花が開くのを見届けつつ、当人は第一線の競技から遠ざかろうとしている。

 

国税を使っての取組みとして、コーチとして思うところがあるのは置いておいて…。

国の代表として、その国は何を世の中にアピールできるのか?なんて、たいそうなことではないと思いますが…4度目の五輪。それだけたくさんのチャンスを持つことができたことの凄さってあると思うのです。だけど、それを支えてきたスタッフって、マシンとして北島選手を扱っていたのかなぁ…?

 

「新しい挑戦で、五輪でつらい思いもしたけれど、いい勉強になったし、改めて水泳が好きになった。世界観も変わったし、感謝の気持ちで五輪に臨めた」。

そう談話が書かれていましたが、コーチの悔しそうな…話がいっぱいのっていますね。

「水泳が楽しい、って言ったって、4番、5番では本人が一番がっかりするでしょう?」

どうなのでしょうね。

 

アテネオリンピック、北京オリンピック、正直、すごいなぁ~と思って見て…ってニュースで見たりするくらい。今回も。ただ、今回、泳ぎ終わった後のインタビューを画面を見ずに耳にして…声を聞いて画面を見ました。別人?それまでのコメントと確かにアグリッシブな感じがないので穏やかに聞こえるのでしょうか?だけど、声が違う…って本人なのかと思い見たのでした。

 

もう4年後、若い世代が頑張ってくれていても…出られるくらいに…そんな競技人とはいきにくい世界なのかなぁ…?ドンドン早い人達が出てくる。それでも、まだ終わっていないのだろうし…

今の日本で求められているのは、今回北島選手が取組んでみているスタンスでの挑戦なんじゃないかなぁ~?

それを前回のオリンピックではできなかった…背負っているモノ。だけど、今回の立場は、ある意味背水の陣だったのかな?そして、得たもので…再挑戦を…と4年後は長いのかなぁ~?そう思いながらも、なんか3連覇とか言われながらでもどこかに後進の成長などを感じつつ…まだまだ…と自分との闘いという取組みって、ある意味で本当の「キタジマのDNA」の真骨頂なのでは?なんて…。

 

コーチがいないから…とか、

コーチが…

もちろん、優秀なコーチのもとで戦える幸せとして、選手の勝ちもあると思います。

だけど、一度勝つのと勝ち続けるのとは違うスキル。なんて、スポーツの世界ではなく聞くのです。筋力など、最高潮の時にだけ出て1度の勝利もあると思います。それもすごいと思うのですが、戦い続けることができるか?の挑戦で必要なことを思うと凄いなぁ…って思うのです。

 

もし、マシンを製造して…成果が出なかったら、次のマシンで!そんな風に感じさせられる中で、それでも何かを求めるのならば…今までの優秀なコーチと共にいても廃棄されるしかない自分しか残らなかったのでは?と思わされることもあります。まぁ…それでも3連覇を求めるのか…?税金使っているから?選手強化費も競技によって違っていたと聞きます。それで結果が…というものもあるかもしれませんが、大切なことって目標があるのなら自分で自分にあきらめないことでは?って思うのです。

その意味で、ようやく競泳の世界が変わるってことではないのかなぁ~?

勝ちたい挑戦者から、続けて勝つそのためのタフマインド?後進者たちへのサポートを変えることもできるかもしれないのですよねぇ…。

 

そして、見ている人に伝わるものが変わるとも思うのです。

 

マシンにならなくても勝てる…という言い方は語弊があるかもしれません。

だけど、人を機械の一部品のように正確に動くことを求めてきた教育や社会が限界を迎え、完全破たんしてしまう前に新しい違う芽が必要なのでは~?なんて思います。

多くの競技で、そうやって取組んでいる選手が増えている気もさせられる中で、それって今の若い世代がある意味自分で打ち破らなければ得られないモノを取りに行っている最初の何匹化のサルの行動でしょ?

ある一定の数超えると…全く別の場所でも発生して…と、社会の閉塞感を打ち破るのに必要な大切な資源ですよね。

 

 

なんて、ちょっと記事の目線は、なぜ歯車に成りきろうとしないのか?なったら結果が出たかもしれないのに…と聞こえました。

 

でも、そうではない勝てる方法を模索できるのなら…「楽しむ」という覚悟の方がいいんじゃないかなぁ~

 

私には水泳のことは全くわからないけど、細胞全てが意思に従うような…そんなヒトとしての可能性が出ることで出る結果という存在はあると思います。それは、マシンが得る結果より凄いと思っています。

それが実現するかどうか…は、私自身も私に対しての挑戦ですが、マシンになるか、マシンではなくそれでも目的を達成しに行くか…と二択以外にあきらめるしかないのなら、アインシュタインを信じるかな。

昨日になっちゃった…

聖徳太子

私の聖徳太子にまつわり知っていることなんて…そんなにない?

 

十七条憲法

など

 

大坂に行った時に、聖徳太子が建立した?というお寺に行って、そんな昔のものがまだ残っていたのか…と思ったなぁ…。

ただ、そのお寺で、やはり十七条憲法の中身を改めて目にして、へぇ~と内容を考えたこと。

そして、そのお寺の井戸?に龍の置物。

 

あとは…

生まれてすぐ歩いた?これはブッタの話?

 

あと、たくさんの人の話を一度に聞きわけたって小学1年か2年のころに知ったなぁ…。

 

敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) 生まれて、推古天皇30年2月22日(622年4月8日)に亡くなったと見るのかしら?

ウィキペディアで見て思ったのは、有名人は昔の人でも誕生日がわかっているのですね。

 

聖徳太子という名称は生前に用いられた名称ではない!

知らなかった…。

 

法隆寺と四天王寺

 

豪族の支配する世の中から公の官僚が政治を行う国にしようとしたり…

多分、力での支配から穏やかに…と変えるときには何かものが要るのかなぁ…?と思わされますね。

 

冠位というものは、中国とのかかわりなどあったりしていると、魅力的に写るものだったのかなぁ~?

また、豪族の中から才能や功績によって個人に与えるってところがポイントだったのかもしれませんね。

 

実在する人なのか…というところからいろんな意見があると思うのですが、

十七条の憲法を改めてお寺で見た時にすごいなぁ…って思いました。

 

お寺にあった龍もすごかった…とそちらの方が気にはなったのですが…。

四天王寺

 

 

敬老の日って、聖徳太子が建立した四天王寺にある悲田院に関係があるんだそうです。悲田院は社会福祉施設の先駆け。児童福祉サービスの他に、様々な老人サービスを行っているそうです。この悲田院の設立にちなんで「敬老の日」が祝日に制定された…って本当?

「聖徳太子が四天王寺に悲田院を建立した日」や「欽明天皇が養老の滝に御幸した日」である等の俗説もあるってウィキペディアにはありました。へぇ~。

 

1964年(昭和39年)に「老人の日」と改称され、翌年に野間谷村からの政府への繰り返しの働きかけもあり、1966年に国民の祝日「敬老の日」に制定されたんだって。

ちなみに、悲田院というのは元々中国にあったものなんだそうです。中国文化をとりいれることに熱心だった聖徳太子が、「一流の国家は福祉も一流でなければならない」という理想に燃えて設立したもの…って書いてあるサイトを発見。いずれにしても、こんな以前から福祉という概念があったのですね。すごい。

今、ちょうどたまたま…って「あるがままにみとめる」と松下幸之助さんが聖徳太子の言葉をうけて書いている文章を改めて読んでいたのです。そこで、ふと思ったのです。聖徳太子ってどんな人だったのだろう…
昔のお札にのっているくらいではなく、また、学校で学んだ…ではなく知ろうとすると、いろんな側面が見えてきますね。