今朝、日経新聞のこの記事を読んで、思ったのです。
この記事を書いた人はどんな人なんだろう…?
それで、インターネット上で検索して、この件に関する記事を他にも見つけて、読みました。
4年に1度、人生に数度のオリンピックで結果をコントロールするのはとても難しい。でも確かにやりきったという思いは宝物として選手の内側に残るのだと思う。
失礼ながら、この記事を書いた方を私は知りません。
ただ、この人の記事を読んで、安堵しました。
同じことでも、書く人が変わると印象が変わりますね。
「あいつが、世界の平泳ぎのレベルをここまで引き上げた張本人だと思いますよ」という平井伯昌日本代表ヘッドコーチの言葉、ジュルタ選手のコーチも納得とか。
北京オリンピックのためだったのか、テレビでたくさんの人たちに支えられて競技をしていることを見て知りました。一人の選手が戦うって本当に大変だなぁ…。
それが、数日前新聞で知ったのは、そんな環境下で水泳を続けてきて今回の挑戦となっているわけではないということ。
日経新聞を見て、インターネット上で見つけたのは日刊新聞?わかりませんが競技人生を続ける意思を示している文章を読みました。
さて、どんな人に同意を求めたい?新聞記者なのでしょう…。私は日経新聞のこの記事を読みながら、日本はよくなりにくいなぁ…と思わず、はぁ…。
北島の泳ぎをプラットホームにしつつ、北島にはないパワーを搭載して、北島より速い”マシン”が次々とつくられていく。逆説めいてはいるが、ロンドンで敗れる要因は自分自身が作りだしていたと言えるかもしれない。高速化の種をまき、五輪で記録の花が開くのを見届けつつ、当人は第一線の競技から遠ざかろうとしている。
国税を使っての取組みとして、コーチとして思うところがあるのは置いておいて…。
国の代表として、その国は何を世の中にアピールできるのか?なんて、たいそうなことではないと思いますが…4度目の五輪。それだけたくさんのチャンスを持つことができたことの凄さってあると思うのです。だけど、それを支えてきたスタッフって、マシンとして北島選手を扱っていたのかなぁ…?
「新しい挑戦で、五輪でつらい思いもしたけれど、いい勉強になったし、改めて水泳が好きになった。世界観も変わったし、感謝の気持ちで五輪に臨めた」。
そう談話が書かれていましたが、コーチの悔しそうな…話がいっぱいのっていますね。
「水泳が楽しい、って言ったって、4番、5番では本人が一番がっかりするでしょう?」
どうなのでしょうね。
アテネオリンピック、北京オリンピック、正直、すごいなぁ~と思って見て…ってニュースで見たりするくらい。今回も。ただ、今回、泳ぎ終わった後のインタビューを画面を見ずに耳にして…声を聞いて画面を見ました。別人?それまでのコメントと確かにアグリッシブな感じがないので穏やかに聞こえるのでしょうか?だけど、声が違う…って本人なのかと思い見たのでした。
もう4年後、若い世代が頑張ってくれていても…出られるくらいに…そんな競技人とはいきにくい世界なのかなぁ…?ドンドン早い人達が出てくる。それでも、まだ終わっていないのだろうし…
今の日本で求められているのは、今回北島選手が取組んでみているスタンスでの挑戦なんじゃないかなぁ~?
それを前回のオリンピックではできなかった…背負っているモノ。だけど、今回の立場は、ある意味背水の陣だったのかな?そして、得たもので…再挑戦を…と4年後は長いのかなぁ~?そう思いながらも、なんか3連覇とか言われながらでもどこかに後進の成長などを感じつつ…まだまだ…と自分との闘いという取組みって、ある意味で本当の「キタジマのDNA」の真骨頂なのでは?なんて…。
コーチがいないから…とか、
コーチが…
もちろん、優秀なコーチのもとで戦える幸せとして、選手の勝ちもあると思います。
だけど、一度勝つのと勝ち続けるのとは違うスキル。なんて、スポーツの世界ではなく聞くのです。筋力など、最高潮の時にだけ出て1度の勝利もあると思います。それもすごいと思うのですが、戦い続けることができるか?の挑戦で必要なことを思うと凄いなぁ…って思うのです。
もし、マシンを製造して…成果が出なかったら、次のマシンで!そんな風に感じさせられる中で、それでも何かを求めるのならば…今までの優秀なコーチと共にいても廃棄されるしかない自分しか残らなかったのでは?と思わされることもあります。まぁ…それでも3連覇を求めるのか…?税金使っているから?選手強化費も競技によって違っていたと聞きます。それで結果が…というものもあるかもしれませんが、大切なことって目標があるのなら自分で自分にあきらめないことでは?って思うのです。
その意味で、ようやく競泳の世界が変わるってことではないのかなぁ~?
勝ちたい挑戦者から、続けて勝つそのためのタフマインド?後進者たちへのサポートを変えることもできるかもしれないのですよねぇ…。
そして、見ている人に伝わるものが変わるとも思うのです。
マシンにならなくても勝てる…という言い方は語弊があるかもしれません。
だけど、人を機械の一部品のように正確に動くことを求めてきた教育や社会が限界を迎え、完全破たんしてしまう前に新しい違う芽が必要なのでは~?なんて思います。
多くの競技で、そうやって取組んでいる選手が増えている気もさせられる中で、それって今の若い世代がある意味自分で打ち破らなければ得られないモノを取りに行っている最初の何匹化のサルの行動でしょ?
ある一定の数超えると…全く別の場所でも発生して…と、社会の閉塞感を打ち破るのに必要な大切な資源ですよね。
なんて、ちょっと記事の目線は、なぜ歯車に成りきろうとしないのか?なったら結果が出たかもしれないのに…と聞こえました。
でも、そうではない勝てる方法を模索できるのなら…「楽しむ」という覚悟の方がいいんじゃないかなぁ~
私には水泳のことは全くわからないけど、細胞全てが意思に従うような…そんなヒトとしての可能性が出ることで出る結果という存在はあると思います。それは、マシンが得る結果より凄いと思っています。
それが実現するかどうか…は、私自身も私に対しての挑戦ですが、マシンになるか、マシンではなくそれでも目的を達成しに行くか…と二択以外にあきらめるしかないのなら、アインシュタインを信じるかな。
昨日になっちゃった…