このことを検索していたら、過去書いたブログの記事が上位に引っかかってきた。
はぁ…クローズしていると、検索が大変…と思わされた。
ブロークンウィンドウ理論 PWはJRの駅名。
一見なんでもないものでも、その放置が重大犯罪へ繋がりうる
これが、この理論のポイントだろうと思うのです。ただ、逆説的ですが、一見そこまで徹底しなくてもよいと思われることを徹底することでよくなることとも取れるはず…と思って、そのような視点から見たときは別の理論名があるのかと調べているところです。
調べている中で見つけたものはとりあえず、一緒に併記ということで書き上げます。
マザーグースのこの歌?もブロークンウィンドウ理論?
釘がないので 蹄鉄が打てない
蹄鉄が打てないので 馬が走れない
馬が走れないので 騎士が乗れない
騎士が乗れないので 戦いができない
戦いができないので 国が滅びた
すべては蹄鉄の 釘がなかったせい
For want of a nail ? Mother Goose Nursery Rhymes
For want of a nail the shoe was lost.
For want of a shoe the horse was lost.
For want of a horse the rider was lost.
For want of a rider the battle was lost.
For want of a battle the kingdom was lost.
And all for the want of a horseshoe nail.
この理論を検索していて、見つけた文章。
割れ窓理論
治安が悪化するまでには次のような経過をたどる。
- 建物の窓が壊れているのを放置すると、それが「誰も当該地域に対し関心を払っていない」というサインとなり、犯罪を起こしやすい環境を作り出す。
- ゴミのポイ捨てなどの軽犯罪が起きるようになる。
- 住民のモラルが低下して、地域の振興、安全確保に協力しなくなる。それがさらに環境を悪化させる。
- 凶悪犯罪を含めた犯罪が多発するようになる。
したがって、治安を回復させるには、
- 一見無害であったり、軽微な秩序違反行為でも取り締まる(ごみはきちんと分類して捨てるなど)。
- 警察職員による徒歩パトロールや交通違反の取り締まりを強化する。
- 地域社会は警察職員に協力し、秩序の維持に努力する。
などを行えばよい。
これは、ウィキペディアから。
心理学者フィリップ・ジンバルドは1969年、人が匿名状態にある時の行動特性を実験により検証した。その結論は、
「人は匿名性が保証されている・責任が分散されているといった状態におかれると、自己規制意識が低下し、『没個性化』が生じる。その結果、情緒的・衝動的・非合理的行動が現われ、また周囲の人の行動に感染しやすくなる。」
この部分に注目されての、ブロークンウィンドウ理論への進展なんだろうなぁ…と思うのですが、状況を回復させるための話ってどうよ…と思わされますね。
恐らく、すでに、没個性化が起きた状態。匿名性が保障され、責任が分散されている状態。
そうなっていたところを、どうにかしたい…って「ブロークンウインドウ理論」に繋がっていっていると思うのです。
汚さが目立つ…
今まではなかった…
誰かがしてくれるだろう…と自分では何もしてこなかった人の気づきの言葉。
昨年度まできれいで、今年汚い。
イコールどういうことか?
2つあり。1つは、昨年度まで匿名性が保障され、責任が分散されていて、「自分は関係ない」と思っていた人がいてもせっせと綺麗にするために努めていた人がいたのがいなくなったということ。もう1つは、意識低下。
大々的なパトロールで犯罪発生率を低下はさせていない。しかし、住民の体感治安を向上はさせている。
これが、ブロークンウィンドウ理論へ繋がっていく1つの大規模実験による成果。
要するに、見回りって回ることの役割は、その場にいる人の心理的効果。
割れている窓ガラスを無くす方がよっぽど犯罪を無くすって話。
埃たっぷりの状況で、綺麗にしているつもりになっている。
実は一番の問題点は、この「つもり」だと思う。
では、なぜ「つもり」になれるか。
要するに、感知能力が低いということ。
本当にきれいではないけれど、まぁ…よしとOKを出してきたことに対して、すでに目をつぶる意識体制があるってこと。
気にしないことにしている。もしくは、気にしないってこと。
トイレ掃除に取り組んで会社が変わったと、「掃除道」を書かれている鍵山秀三郎さんをはじめ、本当に改革できる人たちがやることは、一つだと思うのですが…それをキーワードとして表す言葉が見つからない。そこで検索していたのが「割れ窓理論」近いかなぁ…?
経営についての話を書いた文章には、次のようにあった。
「経営の問題はまず小さなところから現れます。その変化を見逃さないこと、そして、早く手を打つことが大切です。また、徹底した小さなこだわりを続けることで、お客様に伝わり、その勝ちがドンドン大きくなり付加価値になり、企業経営に多大な影響を及ぼします。
小さなこだわりとは、毎日愚直に本気で仕事に取り組むことでしか生まれません。誰でもできる当たり前なことを、誰よりも真剣にやるしかないのです。毎日、細部にこだわり、それを実践し続けると、ある瞬間に爆発的に広まって生きます。
些細なことや目の前の子とに、必死になることで、将来に相当な影響を与える可能性があります。経営力は本質追及の継続力なりと言われています。」
ある高校の先生とお話をしていて、「本当に、先生のところの学校は生徒がよく掃除されていますよね」ってお話させていただいた。そうしたら、それも危機的な状態に陥ったことが今までに何度かあったんだという話を聞かせていただいた。驚いてしまった。実は、同じ言葉を他のその学校の先生にしても、「そうでしょ」って言葉が返ってくることはあっても、それ以上の気付きを持っている人に出会わなかった。それなのに、その状態が悪化劣化していく事態を察知して対応してきた話を伺えた。
兆候は人が普段行かないところに現れ始める。埃の山が見えてきたら、その都度、「危機だ」と感じて警告を発しているという先生に出会った。お話を伺いながら、自分がいるところは、危機を超えているなぁ…とだけ。
今ようやく何ヶ月か経ったんだけど、視界に入る埃が普通の埃になってきた。ようやく、厚く重なっている埃を目にする機会が減った…なんて思いながら、数箇所埃だらけの場所がある。それが目に付くようになってきた。すべてが汚いと違いが見えてこないけれど、差が出てくると違いも見えてくる。だけど、汚いところを清掃している人にはその差が気づけていないのだろうと思ったら、なぜ気づけないのか?って思った。
何周も周回しているはずの管理職たちがいるのに、変わらないということは、気づけない管理職ということ。そのセンサーの低さは会社だとイエローハットに学びにいく会社の管理職より劣る。気づけていないことに気づいていない。
要するに、問題意識が低いということ。問題解決するためのセンサーが劣っている?問題の関連性が意識化されていないということ。普段人が行かないところの埃がたまったから、荒れてき始めている…というセンサーが働く人と、別に人が行かないから問題ないという意識の人の違い。
要するに、2つの問題があると思われる。
1つは、気づく能力に欠けているということ。それを問題という認識がないということは、つまり、そのようなことが関係しているとは思っていない。些細なことをおろそかにして、後手に回っている組織の後手に回る理由の最たるところ。
もう1つが、フィリップ・ジンバルドさんが言っている「没個性化」のところなのでは?って思うのでした。要するに全体に対して匿名性が保障され、責任が分散されている。管理職ですら、自己責任の範疇に置いていないこと。だから、そんなことをおろそかにしても誰からもマイナス評価を受ける心配はないから、汚くしていても問題がない?常に、口うるさく言われないと動けない。これを常道化してきて、口うるさく言われなくなると行動できない人が増えている状態。気づかれないだろう…という甘え?
「問題意識を高めようとする要因」
1)チーム全体が目的意識がクリアでなく方向性がバラバラ
2)自分のなすべき役割がハッキリせず、自分のなすべきことが見えていない
3)どういう状態にすべきかが、目的と対比してもハッキリさせられない
4)問題は見えていても、どうしたらよいのかアイデアが行き詰ってしまう
5)日々ついつい問題を意識せず、後から気づくことが多い
どのレベルでのどの要因なのか、複合的なのかもしれないけれど、問題意識を高めるという話に、おもしろい文章を発見。ただ、その文章は意味が取りにくいなぁ…と思ったので、自分なりにまとめてみると…
問題意識があるから、問題が見えるのではないということ。
それは、問題意識があっても、問題が見えていないことがあるということ。つまり、「問題を意識する」ということができないと、問題が見えるようにならない。だから、問題意識を持たないもしくは問題解決につながらないということ。
あ~それは問題だよね…よくなるように…誰かがしてくれたら…の姿勢。どうしたらいいのか?わからない状態。つまり、解決させたことがないということ。どうしたらかいけつできるんだろうね…という言葉には、解決策を思いつけないということ。それが生じる理由は簡単。因果関係が理解できていないということ。些細なレベルが意識できない。大きな問題に繋がる兆候を気づけないということ。些細なことを見逃してきているから、問題として事象が起きるまで気づけない。
ハサップ的視点を…なんて話を聞いた後なので余計に思うけど、チェック能力が低いということ。
そこで、「問題を意識する」ことを高める4つの重要なことが
1)チームの仕事についての知識・経験を持っていること
2)目的が何であるかを知っていること(目的意識)
3)そのために自分が何をなすべきかを考えていること(役割意識)
4)それをしなくてはならないのは自分であると感じていること(当事者意識)
と紹介されていた。
認知心理学で「今はこういう状態である」という初期状態を、それとは異なった別の「~したい状態(目標状態)」に転換したいとき、その初期状態が「解決を要する状態」つまり「問題」と呼ぶそうで、初期状態を目標状態に意識させなければ問題がないとも読める。
目標がなければ、初期状態に問題は存在しないということ。
つまり…
1)問題と感じる人にとってのみ存在している問題は「私的レベル」であり、共通な問題が元々あるわけではない。共通な問題に私的レベルの問題をするプロセスを経ることなくしては、共通問題はない。
2)目標状態の中身を厳密に見ていき、単に「目標」でとどめない。つまり、達成すべき課題水準、維持すべき水準、保持すべき正常状態、守るべき基準などに敷衍する。目標状態が、自分の目的意識と結びつき意識されている状態でないと、現状に対して問題を感じないということ。意識化されるためには、今の状態を分析できる能力つまり水準の分析が行われていることが大事。
3)目標と関わる心理状態をレベル化する。「~したい」でとどめるのではなく、「~しなくてはならない」(使命・役割)「~する必要がある」(役割)「~すべきである」(義務)「~したほうがよい」(希望)と分けてみると、どのレベルで意識しているか?初期状態を認知する人が、どういう立場、どういう視点で状況に向き合っているかが見えてくる。逆に言えば、その初期状態をどういう心理レベルで見たら目標状態をセットアップするか?
そして、問題を見ていくと3つのパターンに人を分類できると思う。
1)問題と意識化していない人
2)問題と認識していても、責任所在を自分ではなく他人に求めている人(誰かがしてくれること)
3)自分の周りだけ(個人空間)にその問題がないならば、問題と意識しない(それはできないことと思っているということ)
問題を意識するための「知識」というのがおもしろく思われたのは、知識とは、所有型知識(Knowing That)と遂行型知識(Knowing How)。前者が、「~ということを知っている」ということで、これだけでは所有されている知識に過ぎない。後者の「いかに~するかをしっている」ことによって初めて生きた知識になる。つまり、知識があるということは次のような思考の枠組みがあるということ。
1)自分はどういうときにどうするタイプの人間化という自己認知
2)ある状態ではこういうことがおき、こういう風になるであろうという、行動や出来事の蓋然性についての知識
3)このような状況・立場では、こういう役割や行動が期待されているという状況への認知
4)人間はこういう性格と傾向があるという経験値
5)こうなればこういう風になるだろう、あるいは、こういうことがあればこういう風な結果が起きるだろうという因果関係の図式の認知
これらを持っているということが、コツをつかんでいる、腕があるというレベルだが、これらのいずれかに欠如がある場合、問題といわれずに解決可能な状態へと展開させることができないということ。
ある意味で大きな問題として出てきていなければ、問題と認識がとれないことが本当は問題であるはずなのに、大きな問題として意識されることが出てくるまで些細なことをおろそかにして誰かのせいにしてきた結末とは意識できない人たちの集まりであるとき、問題は途方もなく、解決策が思いつかないということになる。
要するに、些細なことに対して「これは問題と思わなくてよい」とか「これは私がする仕事ではない」とか…見過ごしてきた人たちにとっては、経験値がない。いくら年をとっていても、経験年数ではなく、問題意識できる年数がないということ。同じ状態に問題意識を持てるようになれないのは、問題と認知するプロセスを理解してアプローチされてきていないから、問題意識にできないということ。
要するに、誰かがしてくれること…自分には関係ない…ブロークンウィンドウ理論に集約されていく途中課程を分解的に見て、「割れた窓をなくす」ということは何を意味しているのか、どの程度を目標として結果として出ている水準とするのかを決めないといけないのに、問題意識がないと「10」のレベルで求められていても、「9」でOKを出す。つまり、「10」と「9」の違いがわかっていないから、そのたった「1」の違いが生み出す結果を予測できないということ。
他律的に、言われるからしているだけ…という意識の人間が生み出す結果は、逆を返せば「言われなければしない」ということに過ぎない。
この状態の組織ではHACCP的思考で取り組むことはできない。
なぜなら、言われていることに対して判断は「0」or「10」つまり、言われていなかったら「0」での対応をするから。その途中のグラデーションが理解できていないから、自立的に取り組まない。
指示待ち人間がすることに期待できない…と多くのところが困っている問題が、この言われなければ、「0」になる行動ということ。つまり、問題意識が無いということ。問題を意識化する能力の欠如は、自立的に問題解決する能力の欠如である。
「言われたらする」という指示待ち指導者が行っている指導で育てられた存在が、指示待ちになる以外に可能性が低いのはそこに判断がない。
100を伝えたから、100をする人をつくって満足している。100を伝えることに取り組むことが指導であると勘違いした育てられ方をしていると、100を言わないと100をしない人しかつくらない。
60を伝えて、100を求めたら、120になることもあるのに…って、精選して60に絞込み、不足をその都度補う手間を省く。手間を省かれた分、自分で気づく能力が養われない。40の気づくチャンスを与えず、常に100を与えられて育つと、気付きで広めていく学び方を学ぶ機会を逸する。
到達目標に対して全ての行程を指示し、全ての行程をその通りすればいいとしてしまうことで、100を達成させることはできても、その途中課程で身につけることができていることは違うということを重要視していない。
結果さえ100あればいい。その発想でベルトコンベアに載せて、部品を供給し続けて流すことをした弊害。
自分で歩かせているつもりでも、全てを与えて判断チャンスを奪っていることを理解していない供給をして求められていることを100やっているつもりになっているやり方を認知できないチェック機能。
問題と意識できない理由。
ブロークンウィンドウ理論の根底にある発想って、おそらく徹底したいい状態を作り出すということだろうと思うのですが、悪い状態を「0」いい状態を「10」としてみたときに、徹底する側の人間が「8」も「9」も「10」と同じと判断していたら、「8」と「9」と「10」の違いを見抜ける人間から見ると、「10」をやっているといいながら違うじゃないかともろさの方を見抜くと思うのです。
下限を測りにスレスレ行動を行おうとしている人間にとって、この「8」も「10」と見なしてもらえることをずるずると引き下げていこうという思惑と重なり、許容範囲が下がっていって言い訳している状態。問題が見えなくなっている状態を正当化した発言で通そうとする徹底したい状態を作り出そうとしている人たち。
ブロークンウィンドウ理論の一番の課題は、問題を起こした人たちではなく、保ちたい状況が何かを意識していない求めている人たちの問題意識かなと思います。その場から問題をなくすためには、問題に繋がる要素を意識し排除しなければ、ますます問題に繋がっていく。問題を気づけないから、問題が連鎖しているというところで、「0」の状態を「10」にする。本当なら…「7」でもいいんじゃない?なんて思っている人もいっぱいいるかもしれないけど、「3」落とした分のデメリットに注目したら、「7」は問題状態であると判断するということ。
スケーリングできることと因果関係がわかっていること、そして、他律的に結果を出しにいくのではなく、「考える力」を持って、集団のすべての人が自律して結果を出しにいくことをする。うるさくアナウンスされているから、やっているというレベルの取組みの生み出す結果は低レベルで当然。うるさくアナウンスをすることが仕事をしていること、また、うるさくアナウンスしないと結果が出ないと意識して動いているレベルのやり方がいいとおもっているということは…逆を返せば、他律的にしか行動できない集団だということ。
問題を解決するための初歩は、問題と意識するところから。
問題と意識する理由を因果関係として紹介する。エビデンスを示すことをしないと認識できないことは、ある意味その集団にとってはそのことを重要視していないから取り組んでいないから伝わらないということ。
それをすることが大事と認識が取れている人たちが集まっていたら、エビデンスを示して話をしなくても、「あぁそうだった…」となれるけど、因果関係をわかっていない人は面倒とかイヤだという思いが先立ち、すること自体に抵抗感があるから解決しない。
類推するとか、推測するとか、おもんぱかる…などの能力が不足しているから、「考える力」の育成が求められているけれど、指導する側の人が100を言われないと100しない人たちで、問題を問題と意識化できない集団であったら…解決可能にならない。それを取りまとめているはずの管理職も問題と意識化していなければ…どこにも問題が無いけど、大きな問題が起きている!!なんて愚かな話になる。些細なことを問題視しない集団は、些細なことの積み重ねで滅びる。
埃が1cm溜まっている…壁がすすこけている…2,3年の仕業ではない。その程度にいたるまでの年月を測ることもできるけど、とりあえず…よい状態を意識化させることによって、他の全てもよい状態へ繋がっていく。意識化させるときに「10」を求めるなら「9」も駄目ということ。この徹底振りができないと、この理論を使って取り組んでも、いい結果は出ないかな。うまく活用できない例も出ているというのはそういうことかなぁ…なんてね。
とりあえず記録。