ブロークンウィンドウ理論

このことを検索していたら、過去書いたブログの記事が上位に引っかかってきた。

はぁ…クローズしていると、検索が大変…と思わされた。

ブロークンウィンドウ理論 PWはJRの駅名。

 

一見なんでもないものでも、その放置が重大犯罪へ繋がりうる

これが、この理論のポイントだろうと思うのです。ただ、逆説的ですが、一見そこまで徹底しなくてもよいと思われることを徹底することでよくなることとも取れるはず…と思って、そのような視点から見たときは別の理論名があるのかと調べているところです。

 

調べている中で見つけたものはとりあえず、一緒に併記ということで書き上げます。

 

 

マザーグースのこの歌?もブロークンウィンドウ理論?

釘がないので 蹄鉄が打てない

蹄鉄が打てないので 馬が走れない

馬が走れないので 騎士が乗れない

騎士が乗れないので 戦いができない

戦いができないので 国が滅びた

すべては蹄鉄の 釘がなかったせい

For want of a nail ? Mother Goose Nursery Rhymes

For want of a nail the shoe was lost.
For want of a shoe the horse was lost.
For want of a horse the rider was lost.
For want of a rider the battle was lost.
For want of a battle the kingdom was lost.
And all for the want of a horseshoe nail.

 

 心理学系メディア「Psychology Today」の記事で、幸福に関しての権威、「The Happiness Project」のGretchen Rubin氏が、悪習はその習慣と直接関係のないことにでさえ影響をあたえるといっています。

この理論を検索していて、見つけた文章。

 

割れ窓理論

治安が悪化するまでには次のような経過をたどる。

  1. 建物の窓が壊れているのを放置すると、それが「誰も当該地域に対し関心を払っていない」というサインとなり、犯罪を起こしやすい環境を作り出す。
  2. ゴミのポイ捨てなどの軽犯罪が起きるようになる。
  3. 住民のモラルが低下して、地域の振興、安全確保に協力しなくなる。それがさらに環境を悪化させる。
  4. 凶悪犯罪を含めた犯罪が多発するようになる。

したがって、治安を回復させるには、

  • 一見無害であったり、軽微な秩序違反行為でも取り締まる(ごみはきちんと分類して捨てるなど)。
  • 警察職員による徒歩パトロールや交通違反の取り締まりを強化する。
  • 地域社会は警察職員に協力し、秩序の維持に努力する。

などを行えばよい。

 

これは、ウィキペディアから。

心理学者フィリップ・ジンバルドは1969年、人が匿名状態にある時の行動特性を実験により検証した。その結論は、

「人は匿名性が保証されている・責任が分散されているといった状態におかれると、自己規制意識が低下し、『没個性化』が生じる。その結果、情緒的・衝動的・非合理的行動が現われ、また周囲の人の行動に感染しやすくなる。」

この部分に注目されての、ブロークンウィンドウ理論への進展なんだろうなぁ…と思うのですが、状況を回復させるための話ってどうよ…と思わされますね。

 

恐らく、すでに、没個性化が起きた状態。匿名性が保障され、責任が分散されている状態。

そうなっていたところを、どうにかしたい…って「ブロークンウインドウ理論」に繋がっていっていると思うのです。

 

汚さが目立つ…

今まではなかった…

誰かがしてくれるだろう…と自分では何もしてこなかった人の気づきの言葉。

昨年度まできれいで、今年汚い。

イコールどういうことか?

2つあり。1つは、昨年度まで匿名性が保障され、責任が分散されていて、「自分は関係ない」と思っていた人がいてもせっせと綺麗にするために努めていた人がいたのがいなくなったということ。もう1つは、意識低下。

 

大々的なパトロールで犯罪発生率を低下はさせていない。しかし、住民の体感治安を向上はさせている。

これが、ブロークンウィンドウ理論へ繋がっていく1つの大規模実験による成果。

 

要するに、見回りって回ることの役割は、その場にいる人の心理的効果。

割れている窓ガラスを無くす方がよっぽど犯罪を無くすって話。

 

埃たっぷりの状況で、綺麗にしているつもりになっている。

実は一番の問題点は、この「つもり」だと思う。

では、なぜ「つもり」になれるか。

 

要するに、感知能力が低いということ。

本当にきれいではないけれど、まぁ…よしとOKを出してきたことに対して、すでに目をつぶる意識体制があるってこと。

気にしないことにしている。もしくは、気にしないってこと。

 

トイレ掃除に取り組んで会社が変わったと、「掃除道」を書かれている鍵山秀三郎さんをはじめ、本当に改革できる人たちがやることは、一つだと思うのですが…それをキーワードとして表す言葉が見つからない。そこで検索していたのが「割れ窓理論」近いかなぁ…?

 

経営についての話を書いた文章には、次のようにあった。

「経営の問題はまず小さなところから現れます。その変化を見逃さないこと、そして、早く手を打つことが大切です。また、徹底した小さなこだわりを続けることで、お客様に伝わり、その勝ちがドンドン大きくなり付加価値になり、企業経営に多大な影響を及ぼします。

小さなこだわりとは、毎日愚直に本気で仕事に取り組むことでしか生まれません。誰でもできる当たり前なことを、誰よりも真剣にやるしかないのです。毎日、細部にこだわり、それを実践し続けると、ある瞬間に爆発的に広まって生きます。

些細なことや目の前の子とに、必死になることで、将来に相当な影響を与える可能性があります。経営力は本質追及の継続力なりと言われています。」

 

ある高校の先生とお話をしていて、「本当に、先生のところの学校は生徒がよく掃除されていますよね」ってお話させていただいた。そうしたら、それも危機的な状態に陥ったことが今までに何度かあったんだという話を聞かせていただいた。驚いてしまった。実は、同じ言葉を他のその学校の先生にしても、「そうでしょ」って言葉が返ってくることはあっても、それ以上の気付きを持っている人に出会わなかった。それなのに、その状態が悪化劣化していく事態を察知して対応してきた話を伺えた。

兆候は人が普段行かないところに現れ始める。埃の山が見えてきたら、その都度、「危機だ」と感じて警告を発しているという先生に出会った。お話を伺いながら、自分がいるところは、危機を超えているなぁ…とだけ。

 

今ようやく何ヶ月か経ったんだけど、視界に入る埃が普通の埃になってきた。ようやく、厚く重なっている埃を目にする機会が減った…なんて思いながら、数箇所埃だらけの場所がある。それが目に付くようになってきた。すべてが汚いと違いが見えてこないけれど、差が出てくると違いも見えてくる。だけど、汚いところを清掃している人にはその差が気づけていないのだろうと思ったら、なぜ気づけないのか?って思った。

 

何周も周回しているはずの管理職たちがいるのに、変わらないということは、気づけない管理職ということ。そのセンサーの低さは会社だとイエローハットに学びにいく会社の管理職より劣る。気づけていないことに気づいていない。

 

要するに、問題意識が低いということ。問題解決するためのセンサーが劣っている?問題の関連性が意識化されていないということ。普段人が行かないところの埃がたまったから、荒れてき始めている…というセンサーが働く人と、別に人が行かないから問題ないという意識の人の違い。

 

要するに、2つの問題があると思われる。

1つは、気づく能力に欠けているということ。それを問題という認識がないということは、つまり、そのようなことが関係しているとは思っていない。些細なことをおろそかにして、後手に回っている組織の後手に回る理由の最たるところ。

もう1つが、フィリップ・ジンバルドさんが言っている「没個性化」のところなのでは?って思うのでした。要するに全体に対して匿名性が保障され、責任が分散されている。管理職ですら、自己責任の範疇に置いていないこと。だから、そんなことをおろそかにしても誰からもマイナス評価を受ける心配はないから、汚くしていても問題がない?常に、口うるさく言われないと動けない。これを常道化してきて、口うるさく言われなくなると行動できない人が増えている状態。気づかれないだろう…という甘え?

 

「問題意識を高めようとする要因」

1)チーム全体が目的意識がクリアでなく方向性がバラバラ

2)自分のなすべき役割がハッキリせず、自分のなすべきことが見えていない

3)どういう状態にすべきかが、目的と対比してもハッキリさせられない

4)問題は見えていても、どうしたらよいのかアイデアが行き詰ってしまう

5)日々ついつい問題を意識せず、後から気づくことが多い

 

どのレベルでのどの要因なのか、複合的なのかもしれないけれど、問題意識を高めるという話に、おもしろい文章を発見。ただ、その文章は意味が取りにくいなぁ…と思ったので、自分なりにまとめてみると…

 

問題意識があるから、問題が見えるのではないということ。

それは、問題意識があっても、問題が見えていないことがあるということ。つまり、「問題を意識する」ということができないと、問題が見えるようにならない。だから、問題意識を持たないもしくは問題解決につながらないということ。

 

あ~それは問題だよね…よくなるように…誰かがしてくれたら…の姿勢。どうしたらいいのか?わからない状態。つまり、解決させたことがないということ。どうしたらかいけつできるんだろうね…という言葉には、解決策を思いつけないということ。それが生じる理由は簡単。因果関係が理解できていないということ。些細なレベルが意識できない。大きな問題に繋がる兆候を気づけないということ。些細なことを見逃してきているから、問題として事象が起きるまで気づけない。

 

ハサップ的視点を…なんて話を聞いた後なので余計に思うけど、チェック能力が低いということ。

 

そこで、「問題を意識する」ことを高める4つの重要なことが

1)チームの仕事についての知識・経験を持っていること

2)目的が何であるかを知っていること(目的意識)

3)そのために自分が何をなすべきかを考えていること(役割意識)

4)それをしなくてはならないのは自分であると感じていること(当事者意識)

と紹介されていた。

 

認知心理学で「今はこういう状態である」という初期状態を、それとは異なった別の「~したい状態(目標状態)」に転換したいとき、その初期状態が「解決を要する状態」つまり「問題」と呼ぶそうで、初期状態を目標状態に意識させなければ問題がないとも読める。

目標がなければ、初期状態に問題は存在しないということ。

 

つまり…

 

1)問題と感じる人にとってのみ存在している問題は「私的レベル」であり、共通な問題が元々あるわけではない。共通な問題に私的レベルの問題をするプロセスを経ることなくしては、共通問題はない。

2)目標状態の中身を厳密に見ていき、単に「目標」でとどめない。つまり、達成すべき課題水準、維持すべき水準、保持すべき正常状態、守るべき基準などに敷衍する。目標状態が、自分の目的意識と結びつき意識されている状態でないと、現状に対して問題を感じないということ。意識化されるためには、今の状態を分析できる能力つまり水準の分析が行われていることが大事。

3)目標と関わる心理状態をレベル化する。「~したい」でとどめるのではなく、「~しなくてはならない」(使命・役割)「~する必要がある」(役割)「~すべきである」(義務)「~したほうがよい」(希望)と分けてみると、どのレベルで意識しているか?初期状態を認知する人が、どういう立場、どういう視点で状況に向き合っているかが見えてくる。逆に言えば、その初期状態をどういう心理レベルで見たら目標状態をセットアップするか?

 

 

そして、問題を見ていくと3つのパターンに人を分類できると思う。

1)問題と意識化していない人

2)問題と認識していても、責任所在を自分ではなく他人に求めている人(誰かがしてくれること)

3)自分の周りだけ(個人空間)にその問題がないならば、問題と意識しない(それはできないことと思っているということ)

 

 

問題を意識するための「知識」というのがおもしろく思われたのは、知識とは、所有型知識(Knowing That)と遂行型知識(Knowing How)。前者が、「~ということを知っている」ということで、これだけでは所有されている知識に過ぎない。後者の「いかに~するかをしっている」ことによって初めて生きた知識になる。つまり、知識があるということは次のような思考の枠組みがあるということ。

1)自分はどういうときにどうするタイプの人間化という自己認知

2)ある状態ではこういうことがおき、こういう風になるであろうという、行動や出来事の蓋然性についての知識

3)このような状況・立場では、こういう役割や行動が期待されているという状況への認知

4)人間はこういう性格と傾向があるという経験値

5)こうなればこういう風になるだろう、あるいは、こういうことがあればこういう風な結果が起きるだろうという因果関係の図式の認知

これらを持っているということが、コツをつかんでいる、腕があるというレベルだが、これらのいずれかに欠如がある場合、問題といわれずに解決可能な状態へと展開させることができないということ。

 

ある意味で大きな問題として出てきていなければ、問題と認識がとれないことが本当は問題であるはずなのに、大きな問題として意識されることが出てくるまで些細なことをおろそかにして誰かのせいにしてきた結末とは意識できない人たちの集まりであるとき、問題は途方もなく、解決策が思いつかないということになる。

 

要するに、些細なことに対して「これは問題と思わなくてよい」とか「これは私がする仕事ではない」とか…見過ごしてきた人たちにとっては、経験値がない。いくら年をとっていても、経験年数ではなく、問題意識できる年数がないということ。同じ状態に問題意識を持てるようになれないのは、問題と認知するプロセスを理解してアプローチされてきていないから、問題意識にできないということ。

 

要するに、誰かがしてくれること…自分には関係ない…ブロークンウィンドウ理論に集約されていく途中課程を分解的に見て、「割れた窓をなくす」ということは何を意味しているのか、どの程度を目標として結果として出ている水準とするのかを決めないといけないのに、問題意識がないと「10」のレベルで求められていても、「9」でOKを出す。つまり、「10」と「9」の違いがわかっていないから、そのたった「1」の違いが生み出す結果を予測できないということ。

 

他律的に、言われるからしているだけ…という意識の人間が生み出す結果は、逆を返せば「言われなければしない」ということに過ぎない。

この状態の組織ではHACCP的思考で取り組むことはできない。

なぜなら、言われていることに対して判断は「0」or「10」つまり、言われていなかったら「0」での対応をするから。その途中のグラデーションが理解できていないから、自立的に取り組まない。

指示待ち人間がすることに期待できない…と多くのところが困っている問題が、この言われなければ、「0」になる行動ということ。つまり、問題意識が無いということ。問題を意識化する能力の欠如は、自立的に問題解決する能力の欠如である。

「言われたらする」という指示待ち指導者が行っている指導で育てられた存在が、指示待ちになる以外に可能性が低いのはそこに判断がない。

100を伝えたから、100をする人をつくって満足している。100を伝えることに取り組むことが指導であると勘違いした育てられ方をしていると、100を言わないと100をしない人しかつくらない。

60を伝えて、100を求めたら、120になることもあるのに…って、精選して60に絞込み、不足をその都度補う手間を省く。手間を省かれた分、自分で気づく能力が養われない。40の気づくチャンスを与えず、常に100を与えられて育つと、気付きで広めていく学び方を学ぶ機会を逸する。

 

到達目標に対して全ての行程を指示し、全ての行程をその通りすればいいとしてしまうことで、100を達成させることはできても、その途中課程で身につけることができていることは違うということを重要視していない。

結果さえ100あればいい。その発想でベルトコンベアに載せて、部品を供給し続けて流すことをした弊害。

 

自分で歩かせているつもりでも、全てを与えて判断チャンスを奪っていることを理解していない供給をして求められていることを100やっているつもりになっているやり方を認知できないチェック機能。

問題と意識できない理由。

 

ブロークンウィンドウ理論の根底にある発想って、おそらく徹底したいい状態を作り出すということだろうと思うのですが、悪い状態を「0」いい状態を「10」としてみたときに、徹底する側の人間が「8」も「9」も「10」と同じと判断していたら、「8」と「9」と「10」の違いを見抜ける人間から見ると、「10」をやっているといいながら違うじゃないかともろさの方を見抜くと思うのです。

下限を測りにスレスレ行動を行おうとしている人間にとって、この「8」も「10」と見なしてもらえることをずるずると引き下げていこうという思惑と重なり、許容範囲が下がっていって言い訳している状態。問題が見えなくなっている状態を正当化した発言で通そうとする徹底したい状態を作り出そうとしている人たち。

ブロークンウィンドウ理論の一番の課題は、問題を起こした人たちではなく、保ちたい状況が何かを意識していない求めている人たちの問題意識かなと思います。その場から問題をなくすためには、問題に繋がる要素を意識し排除しなければ、ますます問題に繋がっていく。問題を気づけないから、問題が連鎖しているというところで、「0」の状態を「10」にする。本当なら…「7」でもいいんじゃない?なんて思っている人もいっぱいいるかもしれないけど、「3」落とした分のデメリットに注目したら、「7」は問題状態であると判断するということ。

 

スケーリングできることと因果関係がわかっていること、そして、他律的に結果を出しにいくのではなく、「考える力」を持って、集団のすべての人が自律して結果を出しにいくことをする。うるさくアナウンスされているから、やっているというレベルの取組みの生み出す結果は低レベルで当然。うるさくアナウンスをすることが仕事をしていること、また、うるさくアナウンスしないと結果が出ないと意識して動いているレベルのやり方がいいとおもっているということは…逆を返せば、他律的にしか行動できない集団だということ。

 

問題を解決するための初歩は、問題と意識するところから。

問題と意識する理由を因果関係として紹介する。エビデンスを示すことをしないと認識できないことは、ある意味その集団にとってはそのことを重要視していないから取り組んでいないから伝わらないということ。

それをすることが大事と認識が取れている人たちが集まっていたら、エビデンスを示して話をしなくても、「あぁそうだった…」となれるけど、因果関係をわかっていない人は面倒とかイヤだという思いが先立ち、すること自体に抵抗感があるから解決しない。

 

類推するとか、推測するとか、おもんぱかる…などの能力が不足しているから、「考える力」の育成が求められているけれど、指導する側の人が100を言われないと100しない人たちで、問題を問題と意識化できない集団であったら…解決可能にならない。それを取りまとめているはずの管理職も問題と意識化していなければ…どこにも問題が無いけど、大きな問題が起きている!!なんて愚かな話になる。些細なことを問題視しない集団は、些細なことの積み重ねで滅びる。

 

埃が1cm溜まっている…壁がすすこけている…2,3年の仕業ではない。その程度にいたるまでの年月を測ることもできるけど、とりあえず…よい状態を意識化させることによって、他の全てもよい状態へ繋がっていく。意識化させるときに「10」を求めるなら「9」も駄目ということ。この徹底振りができないと、この理論を使って取り組んでも、いい結果は出ないかな。うまく活用できない例も出ているというのはそういうことかなぁ…なんてね。

 

とりあえず記録。

 

 

 

日本人が最初に洋服に接したのは?

過去書いたブログから引っ張ってきてます。

日本人が最初に洋服に接したという表現がとっても微妙。まず、『洋服』って何?というところから考えてみると、本当にそうなのだろうかってんと思わされます。どこまで遡っていけるか、記録がないところでいろいろあったかもしれないと思うと浪漫ですね。

その1
今昔物語、に出てきている表記に、シベリアに漂流した農民が、馬を駆って疾走していく赤毛の巨大な人間達を見て、後にその人たちを胡人と記しているそうです。それが洋服と接した最初?当時のシベリアではどんな服を着ていたのでしょうね。宇治拾遺物語にも「胡人」が出てくるそうです。

その2
天正3年に、鑑真和上来朝の際、同行した多くの弟子達の中にペルシヤ人がいたそうです。このペルシヤ人はどんな服装だったのでしょう…。中国仏教では服装の規定はあったのでしょうか?

その3
天文12年に、ポルトガル商船「アバイス号」が種子島に漂流したそうです。これは、結構歴史で習いますね。その際に、乗組員の救助にあたった日本の漁夫たちは、今まで検分していた唐人服とは違った異装の姿を見て驚いたのだそうです。助けられたお礼として、乗組員達は着用していた上着、チョッキ、ズボンなどを漁夫達に贈呈していたそうです。それが、鹿児島の郷土伊集院兼房に謙譲されて…、この服がわが国に渡来した最初の西洋服だといわれているそうです。
時の領主島津貴久の臣で、薩摩藩士新納喜右衛門が次のように報告したと残っています。
「未知夷狄風情。於衣袖無之。分乎上着下穿矣。羽織長大。不恰好。猶不結紐。其奇體何不審也。」
この衣服はどこかにまだ現存しているかもしれませんね。船乗りの何気ない服だったかもしれないのに、それが献上品になったというのはおもしろい感じです。お茶道具にある抹茶茶碗にもそんなかんじの由来のものがたくさんありますね。

その後、天文18年に、スペイン人フランシスコ・ザビエルがキリシタン伝道の目的で鹿児島に上陸しました。南蛮貿易については、学校で学ぶところですね。
いろんなものが輸入されていったそうです。輸出するものが、銀、刀剣、漆器…すごいですね。それに対して、生糸・絹織物などが輸入されたそうです。中でも喜ばれた衣料は、羅紗・ビロウドなどだそうです。羅紗には、いろんな色があったそうです。その中でも、猩々緋(しょうじょうひ)と呼ばれる緋羅紗が最高級品だったそうです。そう思って、この時代の武将等の肖像画などを見ていくと、陣羽織、胴服の衿などにつかわれていたとか、肖像画もファッションの記録として見ることができそうですね。
猩々緋は、日本では得られない鮮やかな色だったため、織田信長や豊臣秀吉が格別に愛好したそうです。

天正の頃には、諸大名の間で南蛮服を真似ることが流行したとか。多くの大名達は、合羽、頭巾、短い軽袗・無縁帽子などを持っていて、武将間の贈答に利用されていたそうです。着物の上に衿輪や南蛮式の長袴を用いるものもいたというのは、織田信長の肖像画などを見てもわかるところでしょう。

しかし、天正15年に布教の禁止と宣教師の追放を豊臣秀吉が行いました。そして、寛永12年鎖国令…
天正の頃の南蛮文化の流行によって、和洋折衷をよしとする風潮が、大名から武士・町人にまで浸透しつつあったそうです。しかし、鎖国政策の強化に伴い、西洋の文物が自由に輸入されることはなくなり、庶民の生活には渡来品が縁遠いものとなっていきました。
さらに、寛永14年の島原の乱以後、洋服姿の日本人はキリシタンとみなされて、処罰される対象に。民衆にとって、洋服=忌むべきもの、恐ろしきものと受け取られるようになったそうです。

それでも、特権階級にとっては別。鎖国前と変わらずオランダから猩々緋をはじめ様々な布地が、将軍に献納されていたようです。これは政策の一環…ちょっとだけ、ある国で、鎖国のやり方で国民を支配する権力の持ち方に参考にされたのでは?と危惧します。でも、開国後の大変さも一緒に学んでほしいですよね。

享保5年洋書の禁が解かれ、キリスト教の書籍以外が輸入されるようになり、蘭学を学ぶものが多くなりました。オランダ人より蘭学を学ぶ日本人達にも、戎流または唐人仕立てという異名を持つ装束を身にまとい始めたそうです。オランダ人の服装のことを、戎模様、戎衣装もしくは戎の袖なしと呼んでいたようです。

いろんな変遷がありながら、日本に洋服が定着していったのですね。

参考文献:『日本洋服史―一世紀の歩みと未来展望 (1977年)』発行者 出口稔
総合服飾史事典 (1980年)』丹野郁編者

子どもの健康と生活リズム

過去書いたブログをそのまま引っ張ってきてます。

本日、九州大谷短期大学 准教授 NPO子どもとメディア 原陽一郎先生の講義を受けてきました。
保育士から現在の職業に至っている方の言葉は強い!たくさんの現場事例を知っている方、そして今の若者も知っている方。とっても「ふつー」にあっていることを、わかりやすくまとめてくださいました。

「生活リズム」の問題は、「食文化」崩壊と関係が深い。食の専門家が集まっているところでの講義でしたので、そんな始まりから。

いろんな言葉がありましたが、そうそう!と思った言葉は、「朝ごはん文化がない人間に、朝ごはんを求めても無理」です。「朝ごはんを食べるように!」と子どもに言っても家で朝ごはんというものが存在しないと、概念もない。もっと言うなら、本当に親が朝ごはん食べないから、子どもも要らないって思っている人なんてたくさんいる。アンケート結果としてそれが一時期見えていたけど、今ちゃんと朝ごはんを食べているようなデータがでるようになって教育効果が見えている??私は、ひねくれものかもしれませんが、「朝ごはん食べさせていないと答えると、よくないみたい」…自分達の評価が下がることはしない、言わない、外面を作るのは得意。その結果、上がっているように見えているだけと思っています。好意的に見たら、取りあえず何か口に入れさせているのかな…。と、脱線。

お話の趣旨は、メディアの影響を考えようというもの。ショッキングな本当の話を、他人の口から耳にしたのは初めてだったので、本が警鈴慣らして久しいけど、現場の声が広まっていっていることをこの分野でも感じました。といっても、メディア批判はパッシングを受けているという話も耳にでき貴重でした。

「授乳」はコミュニケーション能力の基礎を作る時間。この話は、育児に関する本には載っていないのかな?わからないけど、子どもの心理学や発達論の本では当然。だけど、テレビ見ながら、携帯扱いながら…一度知り合いに「ちゃんと相手しなくていいの?」と言って、みんなこう…という話にそれ以上いえなくなった私。専門家の口から聞けて、ほっとしました。

いろんなことをあげていかれたので、全てを書くと大変な量。

その中でも、私にとってショッキングだったことランキング3だけをあげてみます。
1位 Grand Theft Auto イマイチちゃんとスライドの文言を写せていないのでこれなのか…でも、犯罪者になりきって犯罪を行っていくというゲームらしい。知らなかったけど、今正式名称を知りたくて調べていたら18歳以下禁止の画面表示。そうだろうな…。私が見せられた画面だけで嫌になったのは、車内で売春婦(表現適切でなかったらすみません)とのセックスをゲーム内でどうするか選んでお金払って…。その後、(コンピュータが判断して)売春婦は車を降りるんだけど、(ゲームをしている人が判断したら)その売春婦を追って撃ち殺すというシーンだった。どこを撃つかもゲームをする人が選ぶらしい。ゾッとしました。日本で発売されているんだーと思ったけど、似たような感じはゲームセンターにあるのかも?18歳以下禁止にならないね…。

2位 モンスターハンターというゲーム。15歳以下お断りというゲームに対する自主規制</a>すら知らなかったのですが、子ども達が行っているカードゲームやポケットモンスターの延長線上に最初思いながら見ていました。ただ、「たまごっち」などと同じに少し違和感。なぜなら、生き物の命への感覚麻痺しそう…。怖く思わされました。生命感が歪んでいるっていうのはもうずっと言われていることですが、ペットが死んだときに「パパ電池買って入れて」という話の恐ろしさ。それよりも怖く思わされたのは、小学校3年生がすでにやっているらしいことと、サンタさんの贈り物でもらった子もいるらしい。親が知らない…携帯電話にしてもそうですが、子どもの世界は昔と違ったき件がいっぱいと思いました。

3位 『ネトゲ廃人』という本があるらしい。読むと気持ち悪くなると言われていたけど、これを大人が読むとストッパーになる効果あるかも?子どもがいろいろおかしいという感覚がないのは、大人がないからだろうと思う。親が読んでいる漫画、親がやっている行為、親がやっているゲーム…。子どもの一番のお手本は身近な大人なんだよねー。

いろいろと書きたいほど、ショッキングでした。でも、因果関係をきちんと証明できるまで待たなければならない?『「メディア漬け」で壊れる子どもたち』を購入して読み始めて、次の言葉にそうだよねーって思わされました。「人体実験国ニッポン 人間の子どもを“メディア漬け”にして育てると、体や心、コミュニケーション能力の発達にどんな歪みや遅れが現れるのか。親子の愛着形成にどのような変化が起こるのか…」

伝える立場にいますが、本当のところどうなわけ??と、データがないところでお話しするのはとても難しいテーマですが、下記にあげた5つの提言は特殊な感じではありません。

たくさん書きたいくらいの思いを持ちながら、さまざまな取り組みをしている人がいますが、それぞれの思いは広げていくと重なっていくなーって思いました。

子どもとメディアに関する5つの提言

「NPO子どもとメディア」が3年間の実態調査と実践的研究の結果に基づいて2003年3月に発表した提言を下記にのせてみました。

1.子どもの生活時間の中で、メディアに費やす「総時間」をコントロールしましょう。

2.とくに危険可能性が懸念される乳幼児のメディア漬けを、やめる取り組みを広げましょう

3.主体性を持ってメディアを選択し、判断し、発信する力を養うメディア・リテラシーを、
子どもも大人も身につけましょう。

4.子どもとメディアの“新しい関係”を求めて、広くネットワークをつくり、
協働してさまざまな研究と実践活動を進めましょう。

5.メディア漬けから抜け出して、遊びや仲間関係づくり、自然体験や文化活動などの
生き生きした生活を広げましょう。

日本料理について

過去書いたブログから

 

以前、日本料理店で学ばせていただいたときに、文献をいろいろと読みまとめました。現場で実体験で学んだことは、奥が深いということ。
その文献だけでもアップしておくと、役立つかも…。読まれる方には何??という感じかもしれません。かなりマニアックに日本料理を勉強しました。平成17年のことですが、本は変わらないはず…。

料理名言辞典 (1983年)』平野雅章 編 東京堂出版 昭和58年6月30日初版より引用。
「人間がつくる以上、人間が入用である。料理をつくる前に、まず人間をつくることである」 「料理をする根本は親切でなくてはいけない。魂の入った真剣なものでなければいけない。そうでないと自分がまるで機械になってしまって、自分自身、楽しいことにもならない。自分がやっていて、楽しく趣味に生くるには、正直に得心がいくように、良心に従うことが大切だ」(北大路魯山人)

吉兆味ばなし〈4〉』湯木貞一 暮しの手帳 平成3年四月17日第9刷より引用。
入社式に話したこと 開口一番に私は、明朗でハキハキした挨拶のできる成年であってほしい、と申しました。口の中でものを言っているようなことでは、とても日本料理は覚えていけません。これはもう、基礎から間違ってしまうので、受け筓えハッキリしてほしい……これを第一に話しました。 その次には、人のいやがる仕事を進んでやっていこう、という心がけを持ってほしいということですね。…(途中省略)… 日本料理というものは、花鳥風月の風雅がふくまれていてこそで、もし、吉兆が今日の日本料理になにをしたか、ということを改めて問われたら、一口に言えば、それは花鳥風月に心をもとめた料理を発掘していった、ということだと自負しています。…(途中省略)… 人の遊んでいるときに、こんなことをしなければならない、と思うのではなく、こういうときこそ、自分は勉強して、何かを得るよい機会だと自覚して、有意義な一日にして欲しいものです。 料理の最後の勝負は、なんといっても、センスがあるかないかで決まるものだ、ということも言いました。料理のセンス、感覚、これがなかったら、やっぱり料理人になることは無理ですね。あきらまて、ほかに生きる道を考えていったほうがいいでしょう。…(途中省略)… センスがあったら、やはり料理にも、きびしい心くばりが湧いてきます。料理に対するセンスというものは、お金では買うことのできない大きな財産になるのです。

盛り付けについて学びたくて、現場で働く方は体得に近いのですね。当時の料理長に違いを尋ねたり、「この盛り付けは…」と雑誌の写真を見ていただいて教えていただいたりしました。どういう意図で盛り付けていくかを説明いただきありがたいのです。でも、本などにはそういう風なことは書かれていませんでした。「水墨画のように…」と教えてくださった方もいましたが、多分生け花とかとも同様の発想だと思いました。あと、石庭など日本のお庭も。美意識というのか、感覚的なものは共通していることがわかりました。

完全理解 日本料理の基礎技術』野崎洋光 (株)柴田書店 2004年12月15日初版
研修で学んだ直後に読ませていただきました。体験したことが文書になっていること、そして疑問に思いながら何を質問してよいのかわからなかったことが書かれていました。この本は、かなり専門的でしたが、現場でのことがいろいろとわかるのには役立ちました。料理の仕込み方や作りかたは様々でしょうけど、考え方などは『なるほど』という思いでした。

『婦人画報1997年12月』
正月料理の盛り付け方を説明した特集がありました。今回の発表にあたって、料理の作り方は説明できないので、盛り付け方なら基本があると聞いていたので知りたく、料理長にお見せしました。掲載されている盛りつけ方の説明をさらに説明していただいたので、単にきれいとしか思えなかった写真もルールがあって盛り付けられていることがわかりました。
料理研究家が盛り付けたものも中にあったのですが、日本料理の料理人と違う点として、「食べ物以外が皿の上にある」とおっしゃっていたのは印象的な表現でした。日本料理でも、竹や葉が器として利用されますが、全く関係ないものは皿に載らないとのこと。こだわりだなーっと思いました。ちなみに、季節の花があしらっていたりはするのですよ。

吉兆 料理花伝』湯木貞一/辻静雄 新潮社 1983年9月25日発行
現在日本料理と言っているものが昔から同じでないということに気づかされた本です。かつて、「日本料理界は吉兆という風が吹いている」ともいわれたそうです。その味と趣向を極め、気品のある日本料理は世界に誇るものとして、「世界の名物 日本料理」を標榜していたと、webページ(http://www.kitcho.com/kyoto/shuppan/yume.htm)で紹介されています。「食の基本と最高の料理は家庭にある」とし、『暮らしの手帳』誌上の約二十年にわたる連載で「吉兆の手のうちも、洗いざらい」披露して、日本料理をまもり育てようと努めたことが『吉兆味ばなし』を読むとわかります。湯木さんが1988年に料理界では初めての文化功労者の顕彰を受けたことがわかるような一冊です。
これらの本を読んでいると、近年起きた事件は本当に悲しいです。

『吉兆味ばなし 一~四』湯木貞一 暮しの手帳 平成3年四月17日第9刷
作りかたなども載っていて、読んで楽しい本です。また、今の日本料理の形が見えてきたりします。

北大路魯山人 (別冊太陽 日本のこころ41)』平凡社 1983年spring
北大路魯山人という方がどんな方か、知らなかったので一読できてよかったです。いろんな顔をお持ちの北大路魯山人の日本料理に与えた影響を垣間見ることができました。
漫画「おいしんぼ」で名前が登場する、陶芸の世界で名前が出てくる、そんな認識でしたが、本当にすごいと圧倒させられました。

料理名言辞典 (1983年)』平野雅章 編 東京堂出版 昭和58年6月30日初版
様々な料理に関する名言が紹介されていて、私見で話してよいのか不安ですが、共感する言葉がたくさん紹介されています。うまく使わせていただくと、表現豊かになります。

辻留の和食器入門 (中公文庫ビジュアル版)』辻嘉一 中央公論社 1996年2月18日発行
この本には、懐石料理の盛りつけの基本が家庭用として載っています。会席料理の盛りつけの基本との違いはわかりませんでした。なぜなら、辻留は懐石料理専門店。会席の方が花があるのかな…というより、最近は会席料理のように懐石料理も盛り付けてあるからいいのかな?

食の名言辞典』平野雅章/田中静一/服部幸應/森谷尅久 編 東京書籍 平成6年10月25日初版
これは、『料理名言辞典』の世界単位のものです。国内外の名言が紹介されています。世界中の美食家の名前が出てきます。食に関する関心の示し方は国によって違いもありますが、共通するところも垣間見ることができて勉強になりました。

飲食事典』本山荻舟 平凡社 1958年12月25日初版1994年5月10日初版第24刷
料理の意義や日本料理についての項目を読み、現在の盛り付けは歴史的にどう変遷してきたのかと興味を持たされました。会席料理と懐石料理の区別がよくつかずにいましたが、短い文章ですが懐石料理という言葉が新しいものとわかりました。

田村平治の会席と弁当 (1973年)』田村平治/田村暉昭 女子栄養大学出版部 昭和48年11月10日初版
女子栄養大学で教鞭もとられていた方です。日本料理のキーワードについてわかりました。 大学で教えたということもあるからかもしれません。少しだけ、テキストみたいな感じもありました。

料理文献解題 (1978年) (シリーズ食文化の発見〈5〉)』川上行蔵 編 柴田書店 1978年1月10日初版
古文書ばかりが引用されて日本料理の歴史が紹介されます。古文書を知らなかったので、大まかなことを知るのに参考になりました。

器と盛りつけ―懐石の心をこめて』千澄子 婦人生活社 昭和57年12月20日発行
懐石料理の盛りつけを家庭料理に取り込むことを示唆する本です。お茶の世界の方ですから、流派の違いもあるのですが、家庭料理と思えば取り入れると参考になると思う盛り付けが載っています。器についても説明があり、おもしろいのと知らないことが多いのを感じました。

日本食文化人物事典―人物で読む日本食文化史』 筑波書房 2005年4月8日第1刷
人物で歴史がわかるようになっています。各人の本を読んでいたので、どんな人なのかを知ることができました。人となりがわかると、その方の発した言葉の凄さもさらにわかる思いがします。

会席料理の一年 (1972年)』辻留 辻嘉一 女子栄養大学出版部 昭和47年3月1日初版
盛り付けについての辻留での考え方が文章になっていて、写真や図でよいものとダメなものが紹介されています。杉盛りの図は、正直わかるようで違いがわかりにくく、体得するものだと思いました。好みもあるとは思いますが、盛り付ける方のセンス次第…当たり前ですね。取り方が様々で、定規で測るようなものではないところが芸術的なのではと思います。

たべもの日本史総覧』西山松之助ほか 著(京の料理 筒井紘一) (株)心人物往来社 平成6年四月5日第1刷
他の文献で紹介されている本だったので一部読みました。

懐石料理―基礎と応用』瓢亭 高橋英一 監修 柴田日本料理研鑽会 著 柴田書店 1998年10月25日初版 会席料理と懐石料理の盛り付けには違いがありますが、何が違うのかルールなどを知りたく読んでいました。この本は、茶道の流派別の決めごとの違いがわかります。 流派によっての決め事の違いがわかってくると、お店で頂く懐石料理を見る目も変わってきます。裏千家流が多いと思わされています。しかし、ここまでしっかりと懐石料理を把握して家庭で作るというのは難しいという意味では、厳密なラインもわかりにくくなっているかもしれませんね。お茶をしていますが、懐石料理のことまで学ぶ機会なんて…。たまたま、こんな勉強をしたのでよくわかりましたが、いろんな本を読んでもわかりにくいです。特に、表千家の懐石料理を知りたいと思っても、この本を読んだから私は見分けがつくくらいです。難しいです。

料理屋の会席料理―四季の献立』志の島忠 (株)旭屋出版 平成11年5月12日第一版第一刷
会席料理の盛りつけの基本や歴史について詳しく書かれています。陰陽五行説についてなど、中国料理を学ぶ上では必要と思っていたことが、かつての日本料理にも息づいていたことを知りました。器についても、陶芸の視点ではなく、料理用という視点で書かれています。 この方が書いた本は増えていますね。陰陽五行説など中国のことも含めて学んでいかないと、日本への影響はかなり奥深いと感じます。

食の器の事典』荻野文彦 柴田書店 2005年5月20日初版
器について詳しく書かれています。日本の器の基本図柄などまとめられています。いろんな器があり、学んでいくと器だけで大変。漆器について、今年、輪島塗の方にいろいろお話を聞かせていただき学んだのですが、どの分野も日本の伝統的なものの存続が難しいようです。

日本料理法大全 増補 (1)』石井治兵衛 著 石井泰次郎 校 清水桂一 訳補 第一出版 昭和40年四月30日初版 平成4年1月30日第13刷
日本料理の歴史を知るにはこの本を読まなくてはいけないと、他の本で紹介されていました。他の文献を読む前に読んでいたので、多くの文献の中身を理解するのに役立ちました。 歴史的に見るとおもしろいです。雉のさばき方などもですが、昔は包丁と箸をもって魚もさばいていたのでしょうか?歴史的な絵巻の細部を食文化としてみるとおもしろいものだなーと、美術鑑賞の一つの世界を広めてくれました。

『茶と美 第3号「懐石料理」(炉篇)』数江瓢鮎子 編 茶と美舎 昭和54年11月10日第5版
表千家の懐石料理について知るには、表千家の家元が書いた本を探す以外書かれている本があまりありませんでした。吉兆の湯木さんは表千家の茶道をされているとありましたが、料理は裏千家のようで何がどう違うのかわからなかったで、参考になりました。 盛り付けの違いもありますが、近年の違いは?あまり厳密にお茶の世界に入り込んでいないからかもしれませんが、難しいです。

表千家の茶懐石―亭主と客の心得 (お茶人の友)』堀内宗心 世界文化社 2000年4月25日出版
表千家の懐石料理を知るために読みました。辻留は裏千家に料理を仕出ししていたということ、柿傳が表千家に仕出ししていたということも『吉兆料理花伝』で知り、違いを知ろうと思いました。この方は宗匠なので、お茶の世界はお詳しい。絶対に表千家の話しになっているという意味では手軽な本の方です。

専門料理全書 日本料理―イラスト・調理方法・手順付き』辻勲 辻学園調理技術専門学校 1998年6月20日初版
辻学園が出している本で、テキストとして料理の作り方ものっています。後ろの方に料理屋の人脈図が載っていて、いろんな料理店のつながりを知ることができました。 どこで修行をしたかなどは、料理の違いにやはり出るようです。
関東流と関西流の違いなど、見た目も違いますが、微妙に味も違うことを、東京大好きという完全に舌も江戸っ子?の方とご一緒に食事をしてわかりました。意識していないで頂いているときは、おいしいですみますが、意識するとわかるものですね。会席料理における違いを発見させていただいたときは、嬉しかったです。一人で判別つくかと言われた私は不安です。しかし、お世話になった料理長はわかるみたいです。だから、プロの方もどちら側か…あまり意識されていない方がおおいのかもわかりません。ただ、気づけるようになると違うなーって思いました。

『25ans ELEGANCE BOOK 44 和食器』荒井務 編 婦人画報社 1998年12月1日発行
持っていた本です。改めて読んでみて、和食器を紹介するのは難しいかもしれないと感じました。
雑誌で全てを網羅なんて…難しいですよね。

日本料理全書』曽根喜和子 編 図書出版 集文館 昭和42年四月1日初版 平成3年3月31日全面改訂版 平成15年9月20日改定3版
大学の教授が書いた本です。全般的に書かれていますが、調理専門のプロと大学教授と日本料理に対する視点が違うことがわかりました。 調理を専門にしている方の表現力もあるかもしれませんが、背負っているものが学問科学で判断していくと見えないものもあるかもしれないと考えさせられました。

日本料理こつのこつ』中谷文雄 (株)柴田書店 1991年1月25日第7刷
料理について書かれた本ですが、盛りつけのことがはじめに書かれていました。吉兆で修行されて料理長をされていた方の本です。

懐石の研究―わび茶の食礼』筒井紘一 (株)淡交社 平成14年9月24日初版
裏千家の方の本です。茶席における食事の変遷が書かれていました。懐石料理というようになったのも江戸時代からということ、会席料理とルーツが同じであることなどが書かれています。 歴史的に学ぶにはとてもよいと思いました。表千家とどういう風に分かれていったかなどの予備知識があるとかなりわかりやすいかもしれません。

料理覚え書』志の島忠/浪川寛治 (株)グラフ舎 平成12年1月20日初版 平成17年10月10日第5版
料理屋に生まれて修行したにもかかわらず、途中芸術の分野で働かれ、料理の世界に戻られた人です。そのせいか、視点が他の本と違う面もあります。日本料理の変遷の途中(近年)が抜けているので、新しい本ですが、一昔前のことも詳しく書かれています。

「うつわ」を食らう―日本人と食事の文化 (NHKブックス)』神崎宣武 日本放送出版協会 1996年2月20日第1刷
民俗学の視点から書かれた本です。会席料理という華やかな分野を調べていたのですが、日常のケの文化もハレの文化に影響を与えていることを知りました。また、日本人で西洋料理に詳しい人が増えているが、日本料理に詳しい人が尐ないことを指摘していました。確かに!日本料理は難しい…西洋料理も奥が深いですよね。

わかりやすい日本料理のサービスマナー』市川安夫 (株)柴田書店 1993年3月10日初版 2005年6月5日9版
客としての振る舞いから接客を中心に書かれた本です。全般的に理解するには役立つと思います。流派によって客としての振る舞いはいろいろある。そんな思いはします。

『nobu the cookbook 日本語版英文版 NOBU:ザ・クックブック – NOBU: The Cookbook』松久信幸 講談社インターナショナル株式会社 2003年11月21日第1刷
nobu 』松久信幸(株)柴田書店 2004年7月30日初版
海外で活躍されて評価されている松久さんがどんな方で、どんな料理なのか、日本料理なのかを知りたくて読みました。読んでよかったと思うのは、日本料理ではないようだけど基本に日本料理があることを他の文献を読んだ後だったので気づきました。
先日、東京で開かれているお店の前を通りました。「和」というよりは、アメリカの「和」なのかな?逆輸入された感じがしました。入ってみたかったのですが、3時ごろだったので、お茶をするお店ではないですよね。

魯山人 もてなしの真髄』平野雅章 (株)リヨン社 2003年3月7日初版
魯山人のもてなしを中心において、もてなしの様々なことを述べた本になっています。『料理の鉄人』以来の昨今のグルメブームは、魯山人の「無理・ムダのない料理」という料理哲学の根本から考えると笑止千万と述べています。このもてなしは素敵だなーって思いました。
かなり美食家だから、現代のグルメみたいなイメージで思っていたら違うとわかりました。

『招福樓・おりふしのこと』中村秀太良 (株)世界文化社 2002年10月30日第1刷
中村氏は武者小路千家に入門しお茶を学ばれ、日本料理の店をされている方です。「決して料理本ではありません。日本の若い方々が1人でも多くこの本を御覧戴ければ之に越した幸せは有りません。」と本文にありますが、佐伯義勝氏の写真で日本美が紹介されています。とり市で、日本の建築や室内装飾をはじめあらゆる日本文化が料理にかかわっていると感じたことが、本を通して感じられます。きれい写真なので幸せな感じになります。

小泉教授が選ぶ「食の世界遺産」 日本編』小泉武夫 講談社 2004年6月18日第1刷
茶道などのルール性について書かれた文章が、調べていくヒントになりました。 農学博士なんですよね。食文化の奥深さは食材を知っている人の方が強いでしょうね。

『日本の陶藝』永竹威 人物往来社 昭和39年5月1日初版
器について知りたいと思っていたので紹介くださった本ですが、料理を盛る器という視点ではない本では今回知りたいことはわからないとわかった本です。焼物の歴史は理解でき、役立ちました。
とても華やかな器でも、料理が載るとしっくりくるのが不思議です。きっと料理人の器との語り合いがあっているのかな?料理用に作られた器はやはり料理が載っている方が素敵だと思います。

たくさんの本を参考文献で読んでいたことを改めて思わされました。これらの本を再度探すのが困難。私物もお借りしながら読んだので、ありがたい体験でした。まだ結構売られている本もあるようです。

日本料理ブームともてはやされていますが、本当に心からおいしいと思わせてもらえる料理は「愛」あるものだと学んだのでした。外食の究極目指すところは、おふくろの味の美的バージョン。愛に溢れた料理に勝るものはないと思います。

リーダー

過去ブログに書きまとめていたものを掘り起こし…

リーダーに求められる能力と役割とは

(1)リーダーの役割を理解する
(2)リーダーに求められる能力を要素に分解する
(3)求められる能力をスキルマトリックスに整理する
(4)保有レベルを自己診断し、成長目標を立てる

 

リーダーといって求められる役割は大きく2つ。

(1)マネジメント … 成果や行動を管理すること

(2)リーダーシップ … 動機付けと成長促進

 

リーダーが果たすべき役割には2つあり、マネジメントとリーダーシップと習った。

その役割を果たすためにすべきことは…
(1)関係を築く
感情指数
柔軟な思考
コミュニケーション
(2)問題を解決する
先見力
構想力
論理的思考力
(3)部下を指導・育成する
ロールモデル
ビジョン
フレームワーク

人間的信頼関係作りが大切なんだよね…。
よくわかっていても、本当に難しいなーって思う。

コミュニケーションと一言で言うのは易し。
でも、本当に難しいと思う。

山崎拓巳さんのDVDをたまたま見た。『人生のプロジェクト』というやつ。

成功は必ず失敗の延長線上に存在している。
考え込むより行動。動けば自然に見えてくる。
怖がらなくてもいい。
死ぬこと以外はかすり傷だ。

そっか…と見ている中で、あった話で私に響いたこと。

もともと上手ではないから、どうしたら上手になるかさぐる。
だから、他の人にも説明できる。
一生懸命うまくできるようになりたいとやってみたことは、
何気なくできてしまうことより凄いこと…。

そう思うと、コミュニケーションの難しさを知って、
本当にコミュニケーションをとろうと努力した人の方が
うまく行くためにどうしたらよいか、苦悩している人もわかる。
そう思えば、自然とやっていることに案外落とし穴だらけかもね。
人の上に達人が、自然と今までの延長線上で見えるものしか見ていない人だったら…
そう思うとたくさん失敗してたくさん傷ついたり、傷つけたり繰り返すことを認める度量のある社会でないと、人は縮こまっちゃいそう~と思ってしまいます。
今の日本って、そういう意味ではちっちゃくまとまることをみんなお互い求めているのかな?

 

決断するリーダーシップ

リーダーシップとは、特定目標の達成を目指す特定状況において、コミュニケーションという過程を通じて発揮される対人的影響である。(ロバート・タンネンバウム)

かつて受講した通信講座のテキストを開いたら載っていました。そのときは、何気なく読んでいたけど、さらっと本題を説明するために引用されている一言も感慨深いです。気づけるようになった自分の成長と見ればいいですよね。

精神分析医のマイケル・マコビーという方が、「リーダーが人々のやる気を鼓舞することで不可能に思えることも実現することが可能になる。すぐれたリーダーシップこそ、最も重要な競争優位の源泉である。」とおっしゃたとか。

対人的影響を与えるには、パワーが要るそうです。それは、組織からの公的パワーと、個人の資質や努力で培ったパワー。この2つが相乗的に作用して行使されることで、対人的影響力を効果的に発揮される…というわけでもないそうです。それは、そのリーダーが置かれた「状況」との関係もあるそうなのです。

この2つのパワーを持つこと、それだけでも努力が必要です。それなのに、それだけではダメ…。個人の資質や努力で培ったパワーというのは、カリスマ性と言われるものなのかな…?オーラを放っているとかいろんな表現をする人がいるけど、最近少し「カリスマ」というイメージが私の中でうまく理解できてきたように思います。

公的パワーも、もしかしたらカリスマがあってのパワーかな??公的パワーのみの人の言うことはあまり動きたくない人多いだろうなーって思います。

状況というのは、環境特性とリードされる部下の特性などいろんな要素が絡み合っています。画一的なパワー行使で従う人達の集団が求められていた時代が右肩上がりに成長していた頃にはあったかもしれません。しかし、今は考える集団を!とよく言われている気がします。そういう意味では、画一的なパワー行使は時代遅れで、リーダーも本当に実力のあるリーダーが求められている…と思いたいです。

ローマ帝国が頑張ったように?江戸時代の徳川幕府が頑張ったように?為政者の画一的パワーを効果あるように固定化する努力をした結果がバブル崩壊では?なんて思います。無常観ではありませんが、流水を止めて濁らせていくのも一つかもしれません。ただ、流れは必ずあるのだから…そんな思いで俯瞰してリーダーシップをとっていける人達が、これから激流の時代みたいなので、たくさん出てくるのでしょうね。

権力を持たなければ、人はリードできないが、人を心服させなければまたリードできない。リードできなければ、その決断は無視され、ホゴと化すのがオチである。

テキストの一文を抜粋しました。心服させることができれば、権力も持てるのでは?なんて思うのは浅はかでしょうか…。ただ、この文章は、組織の中で、ホゴされている状況をよく見るのでわかる気がします。組織が大きくなっていくと、全体に周知徹底させることは難しいと思いますが、裸の王様になっているリーダーは満足できているのでしょうか?それとも、気づいていないのでしょうか?

リーダーシップをとれているかは、リーダーが決断したときに試される感じがします。その前に気づけるといいのですが…。