保護中: 遅々

このコンテンツはパスワードで保護されています。閲覧するには以下にパスワードを入力してください。

毬杖 ぶりぶり香合

毬杖(ぎっちょう)について以前知りえたときに書いていました。でもって、一度ブログデータを全て消してからもういっか…って思っていました。

だけど、「ぶりぶり香合」のためというよりは「ぎっちょう」という言葉自体を知りたくて…と、何度も調べまくるのはやっぱり面倒。もう一度書いた文章データを引っ張ってくるよりは、いろいろ違うものを見つけることが今度はまたできるかもしれない~って調べます。

 

なぜ「ぎっちょう」が気になるかというと、私自身左利き。左利きのことを「ぎっちょ」と言われたりしてきました。でも、なんか差別用語らしいということで使ったらいけないらしい…くらいの認識でした。ただ、「毬杖」のことについてお話を伺い、これについて調べたとき、お茶道具として「ぶりぶり香合」の由来を知りたいと知る程度には出てこなかった。

 

ただ、こないだ母から「なんで左利きをぎっちょと言わないようになったのだろう?」と素朴に聞かれた。ん…母も軽く左利きというのか、成長する中できっと右利きの人は耳にする機会は少ない言葉かもしれないけど、左利きの場合結構耳にする言葉だよねぇ…。今度は言葉のほうで気になりました。

データ消した…ついでにもう一度以前のものをアップしなおすのもひとつだけど、素朴な疑問もついでに…新たに調べてみようかな…と思わされました。

 

まず、「ぎっちょ」って使ったらいけない言葉なのかなぁ…?

結構同様の質問をしているのを発見。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/2575112.html

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1200185.html

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1122976736

など。

それから…

左毬杖と左義長にも書いてありました。

 

毬杖(ぎっちょう)は、木製の槌(つち)をつけた木製の杖を振るい、木製の毬を相手陣に打ち込む遊び、またはその杖。振々毬杖(ぶりぶりぎっちょう)、玉ぶりぶりとも。杖には色糸をまとう。

平安時代に童子の遊びとして始まり、後に庶民の間に広まった。その後は形骸化し、江戸時代頃まで正月儀式として残った。現在では、地域における文化体験の一環として時たま楽しまれる。左利きの人が毬杖を左手に持ったことから、ひだりぎっちょうの語源とする説もある。『本朝俚諺』には、「俗間に、左の手の利きたる人をぎっちょといへるは、左義長といふ意、左専(もっぱ)らききたるに準(なら)ふ」とある。

これは、ウィキペディアにある説明でした。

 出土した毬杖の先端部と毬」ということで、写真が紹介されているサイトもありました。

 

左義長・三毬杖(さぎちょう)

(もと、毬打(ぎっちょう)を三つ立てたからという)小正月の火祭りの行 事。宮中では正月15日と18日に吉書を焼く儀式。

清涼殿の東庭で、青竹を束ね立て、毬打3個を結び、これに扇子・短冊・吉 書などを添え、謡いはやしつつ焼いた。民間では正月14日または15日(九州では6~7日)長い竹数本を円錐形などに組み立て、正月の門松・七五三飾(しめかざり)・書ぞめなどを持ち寄って焼く。

その火で焼いた餅を食えば、年中の病を除くという。子供組などにより今も行われる。どんど焼。さいとやき。ほっけんぎょう。ほちょじ。おにび。三毬打。新年の季語。徒然草「三毬杖は、正月に打ちたる毬杖を真言院より神泉苑へ出して焼きあぐるなり」

 

 

さて、この毬杖は打毬に使われるラケットのようなものをいうそうです。この打毬は、中央アジアの一角で発生したそうです。西に流れたものがヨーロッパに伝えられて「ポロ」となったんだそうです。そして、東にながれたものが中国で打毬となり,やがて朝鮮半島を経て8~9世紀頃に日本へ伝わってきたみたいですね。

 

奈良・平安時代には、端午の節会の際に行われる宮中の年中行事だったそうです。

この打毬について、宮内庁のHPにも書いてありました。

 

朝鮮半島では、撃毬(きょっく)と呼ばれ、武官の登用試験の必修科目だったそうです。朝鮮王朝時代に入って、ますます盛んになり、第4代王世宗が「撃毬がうまい人は、乗馬と弓術も上手で、槍と剣術も上手になる」とその重要性を強調していたんだそうです。

日本に残る舞楽の中に、この撃毬の様子を舞いにした「打毬楽」があるそうです。

中国の伝説の皇帝と呼ばれる黄帝の作とされているそうで、日本へは仁明天皇の頃に伝えられたといわれているんだって。

img-4

その昔、この舞を舞うときに毬杖を右手に持つところを左手に持って舞った貴族がいらしたそうです。その様子を周囲の人達が見て、

「左手で毬杖を持っている=左毬杖」

と呼んだことから、左利きを「ぎっちょ」と呼ぶようになったという説もあるのだそうです。

 

 

 

 

日本のポロ・打毬,ぶりぶり,打毬楽 ~イスラム文化と古代日本ということで、詳しく書かれているブログ?を見つけました。

 

さて、お茶の席で見る「ぶりぶり香合」のことはすっかり無視して調べていましたが、いろんな国のつながりもさらに知る機会になりました。

また、動画も見つけることができました。感謝。

 

 

 

 

 

 

 

 

保護中: nova

このコンテンツはパスワードで保護されています。閲覧するには以下にパスワードを入力してください。

学校で料理を学ぶ意味は?

素朴に思うのです。

家でちゃんと教えていたら、学校で学ぶ必要なんてないでしょ…。これが、当然のように思われていた昔。それでも学校で料理を学んでいた…って、恐らくよりおいしく…より技術向上…なんて感じだったのだろうなぁ…と思います。あと、家庭で伝わっていかない新しい料理を学ぶ。例えば、カレーも、グラタンも…学校で習ってつくることができるようになった…時代を牽引してきた?

そんな時代と今は違うとは思います。だけど、教える人はどうでしょう?

料理が上手になってほしい…って思うのは、教える以上思うことではあります。だけど、調理技術向上のため?というのなら、ゼロスタートはないと思いたいですよね…。

 

正直、学校で習うだろうから…と、家で教える必要なしと判断していた保護者とお話ししたときに悟ったのです。何でも学校任せ…の一つになっている?そしてさらに、その方とお話したのは、お母さんたちの時は1,2年生など3年間のうち2年間家庭科習っていませんでしたか?そういうと、そうそう…ってね。

今は違うんですよ~。2単位で1年間しか習わないから、そんなに調理実習なんてないのですよ。

そう聞いての驚きのお母様に、私もなるほど~と理解したことがありました。それは、学校で習えるはず…という思い込み。

 

それから4,5年は軽く経っていますので、今の高校生の保護者はもしかしたら男女共修世代もいる?なんて思いますね。

 

初めて調理実習を教えた一年目。40人一斉で5人8班。目がいきとどくのも大変…って思っていました。でもね、私が最初に働いた学校で、絶対に近いことだったのは、学習ノートにある献立をつくらせること。そして、その献立に載っている1回でつくると示している料理数を減らさないこと…。ハードル高かったです。

だけど、それができるようになって…というまでは、生徒がどうしたらレシピ通りの味を再現するだろう?と、計量や作業行程などいろんなことをどうしたら伝わるか?生徒が失敗するたびに、また、生徒の動きを見る度に思っていたことは、どうしたら時間内に動かせるだろう?食べる時間がなくなって時間内に食べることができない…なんてことも起こってました。

そんなところに、普通科で教える体験。正直、ビックリしたことはない。だけど、案の定、米を洗剤で洗おうとする人がいるよ…など、いろいろ。想定内と言えるのは、高校での同じ調理実習をした皆様から学んだこと。だけど、想定外と思った驚きは、だしの味をおいしいと言わず「まずい」という人達。化学調味料漬けになっていたのです…。「気合い・根性・努力」でどうにかして…と言ってました。

 

あまりにも、料理してなさすぎの状態に、時間内に終わらせることを諦めて、まぁいっか…食べ物を捨てない方がいいと思ったことと、もう一つ、この先に習う機会がなくてもいろいろ作れるようになってほしいなぁ…と願って教えていたのでした。

 

もし、自分が習って嬉しいのは何?

考えるときの一つのポイントに、応用性があるものかなぁ?と思っていた時があります。そして、その時に学んだことが、応用性より発想力が必要…。言われた応用はできても、自分で思いつけないと…って思ったのです。

そんなこんなで…時間内に終わり生徒や試食していただく先生がまずいと言わないための調理実習を多くの家庭科の先生は必死に追求している?みたいと発表を聞いて思った数年前がありますが、私はそっか…と思いだして見直しておもったこと。私は、調理を通して(家庭科を通して)家庭科の技術知識を身につけて欲しい…ではなく、自分らしく生きていける人達になってほしいなぁ~って思っていたのでした。

単に同じように再現できるように教えることは結構簡単。だけど、それでは同じことを何度も聞いてくる…そんな人たちが出る。

だから、フードデザインでは、いつもオリジナルレシピを最後の方で1回は取り組んでもらってました。自分が時間内にできることを思いつけること。そして、実際に考えたことが実行できること。などなど、それができるってことは、料理の本などレシピを見て、作業等が想像できて、自分の実力でかかる時間も考えることができる。さらに、材料も自分たちで調達してもらったり…。普通科の生徒達にとって、自分で考えだすというのは新鮮?あ~これがいい…などうまく組み合わせて献立を考え取り組んで…。うまくできないイコール教えたことが身についていないなぁ…みたいな感じに思っていました。

そんな私が狙っていたのは、おいしい料理をつくれる人ではなかったなぁ…と気付いたのです。私が狙っていたのは、時間内に冷蔵庫の中にあるもので料理がつくれる人。料理上手なのかどうか?数こなせば上達すると思ってました。だけど、自分が料理するためにかけることのできる時間内に作るってできなかったら、中食か外食しかないかもねぇ…と思っていたのです。だから、レシピを見ながら料理ができるより、何となくでも、こんなものが作れるんじゃないかなぁ…と思いつける人。それも1品ではなく…って願い。

 

教えた料理が1回目上手にできるより、教えた献立をつくるためには時間配分をどうするか…など、手順等を考えて2回目は上手にできる人。失敗などを考察することを求めてました。今も求めているけど、うまくできる人とできない人…どこの学校にもいるけど、失敗した原因をちゃんと自分で気付いていて、自分なりにどうしたらいいかを考えだせる子って結構賢いと思っています。(受験に関する教科での評価とは違うらしいけど…)違う料理でも2回目3回目…と、どうしたらいいか?考えだせる子たちは、頭の回転よかったんだと思うのです。そして、私がそうなってほしいなぁ…は、その手順等を思い描いて動ける人であったり、習ったものを適当に自分の持っているもので応用していける人。

生きる力って、習った料理を授業中に完璧に作れる…のもあるとは思いますが、私は2回目に失敗を生かしたり、うまくいった点を分析できる方が大切と思っていたのでした。失敗はOKだけど、なぜ?と考える人に評価!そんな感じでした。

それも、最初に働いた普通科の子たちがステレオタイプに「○○が~したらいいと思います。」「△△が~するべきだと思います」なんて、大半の人の思いつく家庭科で扱った課題に対する解決策が「それをするためにどうしたらいい?」みたいな感じ。また、「国が…」「大人が…」なんて自分がどうしたらいいか?という意見が出てこない…体験をして、どうしたら「私が…」と自分のできることを思いついてくれるようになるだろう?と取り組んできたお陰様かも。とにかく半年はかかるなぁ…。そんなことを取り組んできての感想は、他人がどうにかしてくれる…また、国などがすべきである…って思いつきから、私が…と難しいことでなくてもいいから、自分ができることを思いついてもらうためにかかる時間は半年くらい…早い人で1か月くらい…。自分の発想の仕方で私が評価しない理由を知って、私が評価するように書く…そんな能力が高い人たちに「主語は自分で、自分ができることを…」と書くように求めると、一般論でいいと言われていることを書きたがる…それを変える為には?など、そんなんにイチイチ突っ掛かっていたら進まないよ…と言われたこともありますが、自分のことと思って発想させるためには?など取り組んだことなども、もしかしたら私の調理実習への教えるスタンスにつながっているかも…。

 

そんな私にとって、作業を時間内にさせることに努力するって研究はおかしくない?そう思っていました。だけど、一つ気付いたのは目指しているものが違うんだ…ってね。

時間内においしく料理させるためには?と考えるか、どうしたら教科目標などを達成することにつながる調理実習になるか?なんて、目標が違うと伝え方がちがって当然か…。

 

私は、今まで嫌悪感しか感じたことがなかった、なんでこんなに何でも書いて写真にして…至れり尽くせり?それも一つだけど…調理技術を身につけさせるためにあると「家庭基礎」の実習を見る?なんて思ってました。そして、何でもワンディッシュ?それって、日本文化崩壊させるジャン…とか、こんなマニュアル君作り…と思っていましたが、目標が違うと気付いたら納得。自分がなるべくきつくないようにして、時間内に終わることだけを目指せばそれもありだなぁ…。その子たちが将来マニュアル君になる要素を増やしていたとしてもいいだろうなぁ…って思えたのでした。

 

そして、学校で料理を学ぶ意味は何だろう…?そう思ったのです。

それぞれの分野の知識や技術を身につけることも一つと思うのですが、ほんとうに大事な学んでほしいことって…?

私は、この先また変わるかもしれませんが、今のところやっぱり自分らしく生きる為には…?という意味でも「生きる力」と言われているものを調理実習を通して身につけてくれることが一番大事かなぁ…って思います。

だから、調理技術だけ、栄養だけ…ではない。全てを学ぶことも一つ大事な機会だろうし…そして、学んだ生徒が断片的でも記憶に学んだことが残っていて、何かの瞬間につながっていく…深い気付きをもたらす…料理以外にも応用できる力を身につけてもらえるようにすることが必要ではないかと思うのです。

 

いろいろ価値観があると思いますが、単なるおいしい~だけなら料理教室へ。学校だから、料理だけではないはず…って思うのです。

 

まぁ…指示待ち君をつくりたくない…これは、自分で判断しながら状況に対応していってくれていた…と給食施設で状況を判断しながら対応されていた方々も知っていたからの思いかもしれません。自分が一緒に働くとしてどんな人がいい~?レシピに関して、全く同じものを再現性高く作ることができる…ってプロになりたいのなら求めるけど、そのためには…ってほんとうは観察力などが大切なんだよね。どこがポイントで、どう知っているものと違うか?などを判断して理解していく…。ただ、習ったことをそのままポイントもわからずにスーッと聞き流してわかっていないけどわかったつもりになる…そんなのを防ぐためには?どこを見たらいいとか、どこを知ったらいいとか、情報の獲得に緩急をつけて…みたいなことが大事だよねぇ…と思うのです。そのためには?言われたことをただ細部までしめされて何にも気付かなくてもできるように…って情報を提示するやり方は、気付かないといけないポイントを知る機会を失っていない?と思うのでした。

見て判断するって大事でしょ?ってね。

だけど、今の日本の若者…と言われている批判されている人たちがうまくできていないって言われていることって、細部の違いに気付く能力が低下していることが一番大きいと思うのです。細部に気付かない…つまり違いに気付かない。問題発見能力が乏しいから、問題解決に至らない…では?また、見つけてもそれを解決するための方法を思いつく思いつき方を身につけてきていない。全部やってもらってきているから、どうしたらうまくいくようにできるか?と頭を働かさなくても、言われた通りすれば…示された通りすれば…一人でできる。乳幼児対象の『ひとりでできるもん』でしたっけ…?そんな感じですね。そして、知っている知識をフル活動させて、持っているものでどうにかしていく…これもうまくない。

 

ホント、ちょっと大人が先回りし過ぎたのでは?と思うのでした。

 

調理実習だけではないですけどね…。

 

たくさん情報を与えておいたら、教える法は楽?

わかりませんが、応用性を持たせるために伝えたいことと、マニュアル君にするために伝えることは違う。

 

求めている結果が違うから違うんだ…と知ったことの素晴らしさ…気付けたことに感謝です。

 

居酒屋やファミリーレストランで1つの料理がいろいろ展開されている…面白い料理などに出会う時に思うのはそれとそれをつなげてみたんだ~とか、この組み合わせを思いつくのすごい~なんて発想力の豊かさに感動すること多いのです。でも、元々違う形があって…それをつなげ合わせていくことで新たなことを生み出す…。

麻婆豆腐からマーボー茄子、マーボー春雨なんて展開が広がっていく…のも、これとこれ組み合わせてもいいのでは?など、新しいものを発想する力と言いながら、いろんな持っている知識を応用していっただけだよねぇ…。

いろいろ思いつける…なども、訓練しているから簡単にできることになるんだよねぇ…と思えば、訓練不足は新たな局面に新しい対応をしていくことが上手にできない…ってことか。料理だけで対応していける問題ではないかもしれませんが、単に料理できる人を育てたいわけではなかった…と言葉にできると、目指している水準によって対応が違うなぁ…とわかったのでした。

 

1時間で調理実習…なんて、やっていたよ…って思うけど、調理技術等がない状態で1時間調理実習って身につけることが本当に少ないだろうなぁ…と思っていたら、1時間設定が無謀かもなぁ…。調理能力が下がっているのに、時間は短縮…。

 

でもね、書きながらそうやって思いだしたとき、ちゃんと前提能力として調理技術がない人に1時間は無謀だよねぇ~。1品でも仕方ない…けど、あと思うことは…そんな1時間なら1品でも、。2時間続けることができたら3品とか4品でもできるかもしれないのに…。た教科の先生方の協力が得られない学校で、生徒の学習効果を上げるよりも、形こなす方が簡単なのかもねぇ…等も考えたのでした。

 

はぁ…。

 

まぁ、スタンスの違いを思えば、やりたいことも変わる…。そんな思いをいただいたのでした。

 

写真で見た檜なぎックの話など面白そうでした。

 

 

 

 

カール・フロイデンベルグ

「フロイデンベルグ」と教えていただいたので、調べてみる。

 

カール・フロイデンベルグ社が皮革製造業から手を引いたために、今後もう二度と作られることのない素材って…ブログで書いている人がいるくらい有名なんだ…。

 

ドイツのカール・フロイデンベルグ(Carl Freudenberg)社のことなんだ~

 

サルツレザーや、ドイツ・カール・フロイデンベルグ社の最高級のドイツボックス、クロム革ではこれまた最高のイタリア・フラスキーニ社のソフトカーフやキップ、フランス・コスティル社の白ヌメ。みんなぼくがサイフを作ってきた革だけれど、会社が整理されてしまったりして、もう見ることができなくなってしまった革たちだ。

 

ふーん…

 

過去に有名ハイブランドなどで採用されていたドイツの名門カールフロイデンベルク社は数年前に、製造停止。

しかし、新たに同社の職人達がポーランド工場設立に参加。再びその洗練された技術を使い、高級皮革の提供を開始しています。

この文章も見つけた。へぇ~

 

ボックスカーフ(滑らかな皮革)の最高峰だったのですか?って、ボックスカーフがイマイチわからない…。

ボックスカーフといえばドイツボックス。ドイツボックスと言えばカール・フロイデンベルグというくらいの高級革なんですが、ドイツの環境配慮による制限から従来の製革工程を続けられなくなり、皮革産業から撤退したそうです。

こんな文章も発見。

ドイツ「カールフロイデンベルク社」の職人たちが集まって作られたタンナー「ワインハイマー社」の「ワープロルックス」。

これも見つけた文章。

 

これらをつなぎ合わせて創造できることは、

ドイツ「カールフロイデンベルク社」は皮革産業から撤退し、職人たちがポーランドに「ワインハイマー社」を設立した?

 

ボックスカーフ

 カール・フロイデンベルクの固有名詞が一般名詞として定着 ボックスカーフとは、生後3~6ヶ月の仔牛の革にクロームなどを施した革の一種です。なめし液の中に浸ける時間が約2時間と短いので硬さが残る反面、適度なハリがあって、特殊なコーディングを施してあるのでキズも付きにくいです。もともとはドイツのタンナー、カールフロイデンベルク社製のカーフを指していましたが、次第に他社でも手掛けるようになり、同様の品質を持つカーフの一般名称としてこの名が用いられるようになりました。
牛革の種類と説明に書いてありました説明です。

デュプイ社

モード界のメゾンブランドが集まる国だけあって、非常にエレガントなレザーが好まれるのが傾向のようだ。なかでも生後3-6ヶ月の子牛にクロム鞣しを施したボックスカーフが有名だ。

これは、クロムの槽に革を浸けるピット鞣しの一種だが、浸ける時間が短いため、適度な硬さと軽さが特徴だ。

本来はドイツのタンナー、カール・フロイデンベルク社の得意技だったが、同社が皮革産業から撤退したこともあり、現在はフランスのタンナーが、その手法を継承している。

1948年創業のデュプイ社や同社から独立したアノネイ社といったタンナーが、この手法を得意としている。

 

タンナーとは、皮から革を作る仕事なんだそうです。

 

とにかく…って調べて見たら、フロイデンベルググループというサイトに行き着きました。そこで書かれていたこと。この会社は最初、皮なめし工場だったようですね。

 

よくわからないけど、カバンも何も、革一つからのこだわりがある…そんなことを知りました。

カバンに使われている革がどこのものなのか…なのかも、神経を使って選定している…そんなことを知ってどうするか?

よくわからないけど、こんな風に素材からこだわって…という世界はなんとなく理解できそうな気がして、牛皮ひとつも奥が深いなぁ…。

 

よくわかっていなかったけど、えらく勧められて購入したバッグが10年以上現役で重たい荷物を運んでくれて…。

きれいにお手入れしてもらったのでした。感謝。