2013あけましておめでとうございます

ようやく、昨年いただいたコメントを読み終わりました。そこで、コメントを下さったみなさまへ。まずは、ありがとうございました。感謝申し上げます。本年分だ!とようやく今年いただいたコメントを拝見したので、書き始めします。

 

今年は、いつものように…よりがんばったのは、初日の出を見に行きました。


初日の出を見に行くのは久しぶりでした。

日本では一年に一度の最初の夜明けとしてめでたいとされ、初日の出参りを行う人は数多くいる。この習慣は明治以降に盛んになったと言われている。

これは、ウィキペディアにある一文です。

 

とりあえず…、本のタイトルは思い出せないけど、明治に入り政府主導でとにかく神社と寺と分けて、天皇を神として崇めることで国をまとめようとしたところに、ご来光って初日の出を見に行く習慣を奨励したようなことが書いてありました。

 

たぶん、山頂に上がったりして見たら日の出の時刻として発表されている時間に日の出を見ることができるのかもしれません。しかし、私が見た初日の出はそれから約10分過ぎてから。

 

「正月」という言葉は、中国から伝わった言葉。中国、周の時代に11月を正月と言っていたのだそうです。そして、王朝が交代すると暦も一変。時代が下って1月を正月というようになったのだとか。

調べてみないといけないと思っているのは、旧暦では必ず冬至を11月におくようにしていた理由。

冬至は日照時間が一番短い日。その翌日から日照時間が長くなりますので、万物を育む太陽が再生する日として、多くの文明で一年の終点(起点)として使用されています。それなのに、旧暦の一年の長さを単純に365.25日とするユリウス暦精度の暦と、歳差運動を考慮に入れた太陽太陰暦では、400年で約10日のズレが生じます。

ある年にユリウス暦精度の暦と太陰太陽暦が日付合わせをしたとします。常識的に考えて、ユリウス暦が冬至を大晦日とすることになるでしょう。1200年後にはユリウス暦の冬至は11月になります。太陽太陰暦は、太陽に合わせて月を決めるので、冬至がある月が12月でかわりありません。この冬至が11月になってしまったユリウス暦精度の暦が、ある年から精確な太陰太陽暦に移行すると、11月に冬至が来る太陰太陽暦ができあがります。東洋の暦、すなわち古代中国の暦が冬至を11月に置いていることは、千年以上の歴史があったユリウス暦精度の暦が、あるときから太陰太陽暦へ移行したことを物語っています。

  ここで気になるのは前漢の武帝が10月を翌年の1月にする改暦を行っていることです。前漢は秦暦を使っていました。秦暦は中原の暦と2ヶ月のズレがあり、秦暦の10月が中原の1月でした。前漢は武帝の時代に、秦暦を中原の暦に合わせたのです。中原の暦が太陰暦だったことは明らかなので、後ズレしていた秦暦がグレゴリウス暦精度太陽暦だった可能性が高いです。

 順番に言うと、おそらく商(殷)はどこかで千年以上の伝統がある太陰太陽暦を手に入れました。その時点で既に太陽暦と太陰暦の間には1ヶ月のズレがあり、商は11月を冬至とする太陰太陽暦を使うことになりました。西周と中原諸国はこれを継承しました。これに対し、西周を滅ぼした秦は、太陽の観測によって日付を補正しない固定太陽暦を使用しました。それは秦が文明的に後れていたためか、あるいは中原とは違う思想を持っていたためかどちらであるかは不明です。

と、書いてあるサイトから。

冬至を11月に置くように旧暦はできている。そんなルールと月の満ち欠け周期と太陽の周期。

新月から新月までの月の満ち欠けひとめぐりのサイクルは29.5日(正確には29.530589日)

冬至から冬至までのサイクルは365日(正確には365.24219日)

 

実はこの両者が重なることは非常に少なく、19年に一度。それが、今年起こる。これも貴重な年かも。

そんな日を「朔旦冬至」といい、今年はその年。めったに訪れることのない大変おめでたい日とされていたといいます。

冬至はかつて1年のはじまり。その後の紆余曲折をへて、いまでは旧暦の11月だけど…「朔旦冬至」は旧暦11月1日と冬至が重なる日って思うとびっくりでした。

 

天保暦では,冬至を含む月は11月,春分を含む月は2月,夏至を含む月は5月,秋分を含む月は8月となるように調整するというルールが加えられた

と、こちらは『新法暦書続録 巻四』にあるそうです。

 

旧暦2033年問題

なるものがあるそうで…こんなことを知るきっかけになりました。

 

 

正月の日本古来の呼び名は「ムツキ」。『日本書紀』にすでに一月は睦月と表記されているそうです。

「睦月」は「睦み月」仲良くする月の意。

「正月をむつきと申侍るは、しる人なrは、たかひに行かよひて、いよいよしたしみむつぶるわざを、しけるによりて、此月をむつびづきと名づけ、それを略してむつきと云也」と古書にあるそうです。

 

正月は、本来は歳神様を祭り、新たな年の豊作を祈るものだったところに、楽しみを求める人々の心が加わって現在の正月行事に発展したそうです。

 

小笠原惣領家の伝書に「正月朔日一日を元三ということは、年の初め、月の初め、日の初め、かくのごとき儀を持って三つの元というなり」とあるそうです。そこから、三が日と称したそうです。そして、正月の期間は「五カ日ということは、一日、二日、三日、七日、十五日なり」とあるそうです。

 

七日は、人日の節供あるいは七草の節供といって、一年の節供の始まりの日。男正月ともいう。

十五日は、小正月といい。また、地方名?女正月という。

 

 

古くは1月15日(小正月)までが松の内といい、この日まで門松を飾っていた。結構、成人式がずれるまではそうだった気がします。門松飾る期間を、江戸時代に徳川幕府の命により1月7日の大正月までとしたそうですが、関東地方以外には広まらなかった過去があるようですが…今は7日までみたいな雰囲気は広がっている気もしますね。

1月15日の朝には小豆粥を食べる習慣があったと過去では普通だったようです。古くは『土佐日記』や『枕草子』などにも、小正月に小豆粥を食べたことが記されているそうです。平安時代、宇多天皇のころから始められたそうです。「この粥は小豆粥といって、小豆、ささげ、きび、あわ、みのごめ、とろろいも、米を混ぜて粥とする」と7種のものを混ぜていたそうです。現在では、小豆と米と餅をいれたもの。ただ、現在でも東北地方の農村などに、左義長の前に小豆粥を食べる習慣が残っている地域があると東北だけのように書かれている文章を発見しました。ただ、「だんだら粥」ってものを食べていることを働き始めてすぐくらいに教えてもらったことがこのことにつながったときは感動しました。食べている子は意味わからないで食べているけど、この昔普通にあったらしい習慣って、方言と同じで伝わっていって残っているのですね。ちなみに、これらの地域では、元日から小正月の期間中に小豆(あるいは、獣肉を含む赤い色をした食品全般)を食することが禁忌とされている場合が多いのだそうです。こちらは本当なのかな?小豆粥を食べる習慣はなかった私ですが、確かに鏡開きをしてぜんざいは食べさせられていたのは覚えてます。

本を開くと載っている情報でも、サイトでは見つけることができませんでした。

 

歳神様は日の出とともにやってくると、明治時代山へ登り迎えに行くって広まったとのこと。

 

先日、鏡餅の説明をしていたら、「あのプラスチックの中に餅が入っているやつでしょ」という反応を受けて、「餅を丸めて重ねる」と話したら、「それは食べられないでしょ」ともったいないと言われてしまった。鏡開きというのがあって…と説明しても伝わらず…

 

 

投稿者:

nova

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