日本人が最初に洋服に接したのは?

過去書いたブログから引っ張ってきてます。

日本人が最初に洋服に接したという表現がとっても微妙。まず、『洋服』って何?というところから考えてみると、本当にそうなのだろうかってんと思わされます。どこまで遡っていけるか、記録がないところでいろいろあったかもしれないと思うと浪漫ですね。

その1
今昔物語、に出てきている表記に、シベリアに漂流した農民が、馬を駆って疾走していく赤毛の巨大な人間達を見て、後にその人たちを胡人と記しているそうです。それが洋服と接した最初?当時のシベリアではどんな服を着ていたのでしょうね。宇治拾遺物語にも「胡人」が出てくるそうです。

その2
天正3年に、鑑真和上来朝の際、同行した多くの弟子達の中にペルシヤ人がいたそうです。このペルシヤ人はどんな服装だったのでしょう…。中国仏教では服装の規定はあったのでしょうか?

その3
天文12年に、ポルトガル商船「アバイス号」が種子島に漂流したそうです。これは、結構歴史で習いますね。その際に、乗組員の救助にあたった日本の漁夫たちは、今まで検分していた唐人服とは違った異装の姿を見て驚いたのだそうです。助けられたお礼として、乗組員達は着用していた上着、チョッキ、ズボンなどを漁夫達に贈呈していたそうです。それが、鹿児島の郷土伊集院兼房に謙譲されて…、この服がわが国に渡来した最初の西洋服だといわれているそうです。
時の領主島津貴久の臣で、薩摩藩士新納喜右衛門が次のように報告したと残っています。
「未知夷狄風情。於衣袖無之。分乎上着下穿矣。羽織長大。不恰好。猶不結紐。其奇體何不審也。」
この衣服はどこかにまだ現存しているかもしれませんね。船乗りの何気ない服だったかもしれないのに、それが献上品になったというのはおもしろい感じです。お茶道具にある抹茶茶碗にもそんなかんじの由来のものがたくさんありますね。

その後、天文18年に、スペイン人フランシスコ・ザビエルがキリシタン伝道の目的で鹿児島に上陸しました。南蛮貿易については、学校で学ぶところですね。
いろんなものが輸入されていったそうです。輸出するものが、銀、刀剣、漆器…すごいですね。それに対して、生糸・絹織物などが輸入されたそうです。中でも喜ばれた衣料は、羅紗・ビロウドなどだそうです。羅紗には、いろんな色があったそうです。その中でも、猩々緋(しょうじょうひ)と呼ばれる緋羅紗が最高級品だったそうです。そう思って、この時代の武将等の肖像画などを見ていくと、陣羽織、胴服の衿などにつかわれていたとか、肖像画もファッションの記録として見ることができそうですね。
猩々緋は、日本では得られない鮮やかな色だったため、織田信長や豊臣秀吉が格別に愛好したそうです。

天正の頃には、諸大名の間で南蛮服を真似ることが流行したとか。多くの大名達は、合羽、頭巾、短い軽袗・無縁帽子などを持っていて、武将間の贈答に利用されていたそうです。着物の上に衿輪や南蛮式の長袴を用いるものもいたというのは、織田信長の肖像画などを見てもわかるところでしょう。

しかし、天正15年に布教の禁止と宣教師の追放を豊臣秀吉が行いました。そして、寛永12年鎖国令…
天正の頃の南蛮文化の流行によって、和洋折衷をよしとする風潮が、大名から武士・町人にまで浸透しつつあったそうです。しかし、鎖国政策の強化に伴い、西洋の文物が自由に輸入されることはなくなり、庶民の生活には渡来品が縁遠いものとなっていきました。
さらに、寛永14年の島原の乱以後、洋服姿の日本人はキリシタンとみなされて、処罰される対象に。民衆にとって、洋服=忌むべきもの、恐ろしきものと受け取られるようになったそうです。

それでも、特権階級にとっては別。鎖国前と変わらずオランダから猩々緋をはじめ様々な布地が、将軍に献納されていたようです。これは政策の一環…ちょっとだけ、ある国で、鎖国のやり方で国民を支配する権力の持ち方に参考にされたのでは?と危惧します。でも、開国後の大変さも一緒に学んでほしいですよね。

享保5年洋書の禁が解かれ、キリスト教の書籍以外が輸入されるようになり、蘭学を学ぶものが多くなりました。オランダ人より蘭学を学ぶ日本人達にも、戎流または唐人仕立てという異名を持つ装束を身にまとい始めたそうです。オランダ人の服装のことを、戎模様、戎衣装もしくは戎の袖なしと呼んでいたようです。

いろんな変遷がありながら、日本に洋服が定着していったのですね。

参考文献:『日本洋服史―一世紀の歩みと未来展望 (1977年)』発行者 出口稔
総合服飾史事典 (1980年)』丹野郁編者

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nova

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