威圧しながらIメッセージ

自分のことを、「お母さん」「お父さん」と言ったり…して権威づけをしてお話をする。
自分のことを「先生」といって話をする。

これって、自分の言っていることに自信を持っていない心理の隠れた現れ方としてとっても有名。

「お母さんはね…」と言って、子どもに自分がしてほしいことを言うとか。

『親業』という本の中でも、また、他の心理学の本の中でも書いてあること。

簡単に言うと、自分では「私は…」と話す自信がないことが多いのです。ですから、「私は、○○をあなたにしてほしい」という代わりに、「お母さんは、○○をあなたにしてほしい」とか言うのです。
私ではなく、お母さんが言ってるのってね。

「お母さん」という仮面をかぶって、自分はそうしなくてもいいと思っていたり、それはどうでもいいと思っていることでも、「お母さんはね…」とか、お母さんだから言っているのだと伝えます。

でも、確実に子ども達には刷り込まれていくのです。「お母さん」「お父さん」「先生」…言ったことを聞いて守らないといけない…上下関係をつくる言葉達を小さいころから刷り込まれて育ちます。
だから、大人になってくるに従って、権威権力への反抗。思春期に素直に聞くことができなくなる…という現れ方が出るのです。

「先生は…」と語っている人は、自分としてはそれをしないといけないとは思っていなかったり、それを「私は…」と説明するだけ理解できなかったりします。だから、「先生は…」という敬称を自分に使って話をします。私の話は聞いてもらえないかもしれないけど、これは「先生」の言うことなんだからちゃんと聞きなさい!ってね。

アイメッセージの例:
「お父さんは、おまえが約束を守らなかったから、とてもがっかりしたよ。」
ユーメッセージの例:
「おまえは約束を守れない、出来の悪い子だ。」

あるブログで、このように書いてありました。実は、これも権威からのメッセージで「愛メッセージではない」という話なのです。

「お父さん」とか、自分のことを言う時点で、「お父さんという役割の存在が言っている…のであって、私ではないんだよ」という心理的働きがあるのです。ですから、約束を守らなかった行為をした子どもにとっては、上下のニュアンスが入って伝わります。だから、受け手には、拒否になるのです。という立場がトマス・ゴードンが書いている『親業』のIメッセージ。
同じく、Iメッセージを言いながらも、違う表現。

ですから、もし上記のことを伝えるとして、Iメッセージを使うとしたら…

アイメッセージの例:
「私は、おまえが約束を守らなかったから、とてもがっかりしたよ。」
ユーメッセージの例:
「おまえは約束を守れない、出来の悪い子だ。」

なのです。
読んだら違いは伝わると思います。
「私」になったとたん、「あなたがそう思っても別にいいよ…」というニュアンスが入ります。
これが、Iメッセージで一番大切なところなのです。

相手の人格や能力には言及せず、相手の行動にのみ言及することが大切である。上の例では「お前が約束を守らなかった」という行動に言及している。これをアクショントーク(行動についてのみ話すので)という。

日本では、この程度伝わっている方が多いのかもしれません。

Iメッセージとは、自分の気持ちを素直に「私」を主語に伝えることです。

その「私」を「お母さん」にしたり「お父さん」にしたり「先生」にしたり…して、いいのか?
実は、本人にとっては、違いがないように思っているかもしれません。だけど、奥の奥の…深層心理では違いがあるのです。

よく考えて、よく感じて、あなたは本当にそうおもっているの?

自分の言っていることを権威づけして伝えることで聞いてもらいやすくなります。だけど、主語を「私」にしたとたんに聞いてもらえる確率を下げる場合があります。特に、若くて…自分の言っていることに自信がない状態のときには有無を言わさず従わせたい…そういう思いが入るのですね。
そんな思いはない…というのなら、一度「私」でいつも言っていることを伝えてみてください。恐らく違和感を感じると思います。それは、「私はそう思っていない…」など、本音が出てきます。「先生は…」と話しているような内容、「お父さんは…」で話している内容、その立場だから言っていることなのですね。

「社長は…」と自分のことを言う人はいないと思うのです。書いていたのに消えました。でも、「校長先生は…」と自分のことを言われているのを見ることはあるなぁ…。書いていたのに…。

この一番の違いは、対象の違い。

大人に対して、自分の意見を一人称で言えないというのは、自信のなさの表れにもつながります。もしかしたら、役職にあるその立場だから言っている…そう思っている人は使うかも?ただ、無意識に大人は判別するのです。
「先生がそういうなら…」と、保護者の方たちも思います。でも、それは「先生」と言う権威があるから聞いている…けど、本当に正しいのか?
実は、上下のある言葉を使うと判断を鈍らせます。だから、本当ならおかしいことも通用させてしまう…。

パワハラまがいも横行します。
生徒に対して「先生の肩をもめ」と肩をもませている先生。
完全に生徒に対して圧力をかけています。やってくれている…ではないのです。生徒の心理状態には、生徒という立場で判断を迫られていてやりたくなくても先生が言っているからしなくてはいけないという判断が多少なりとも入ります。

「お母さんはこうして欲しいのよ…」
と伝えている内容を一度、「私はこうして欲しいのよ…」と言ってみてください。
違和感を感じるかもしれません。
その違和感が、自分ではどうでもいい…だったり、自分が伝えるとうまく伝わらなさそう…なんて思いが湧くと思います。その湧いた思いをうち消すために「お母さんはね…」「お父さんはね…」「先生は…」という言葉を使って、子ども達に話をする。

日本語に訳して入ってくるときに、「私は…」と「お母さんは…」に違いはないはずと、訳する人が違和感を感じて、混同したのだと思います。
日本発のものではない限り、訳を間違えると…というか、ニュアンスを間違えると違うものになる。

権威からの発言のつもりはない。
だけど、聞く側には効果絶大。

もう一つ、これは教育心理学の本などによく書いてあったりすることですが、小学生や小さい子対象の本の方がちゃんと書いてあること多いかもしれませんが…と断って書きます。
児童生徒を呼ぶときに名字を呼ぶことの重要性を言われている本は多いです。
学校という公的場での呼び方として、名字に敬称をつけて呼ぶ。これによって、ここはパブリックな場であるということを認識させることができます。
仲良く親しく…そう思わせて伝えようとする行為として、名字ではなくその子の名前を呼ぶ。これは子ども達に対して安心感を伝える効果はあります。それは、子ども達に対して下の名前で呼ばれることは家でのこと。つまり、私的なことなのです。ですから、お母さんやお父さんなど親しい関係性での呼称を用いて接されることによって、心理的に緩む効果を無意識に用いる大人がいます。しかし、これは同時に、お母さんやお父さんと自分との関係性も無意識に用いられます。私的なところでの親子関係の延長線上…子どもたちは幼少期の子どもの自分を引きずった判断をしてもよいとして、自分のプライベートでの顔でパブリックなところで過ごすようになっていきます。そして、判断もプライベートの顔でするようになっていくのです。そして、下の名前で呼んでいる人との関係に対しても親と同様に上下関係を無意識に入れられることがあります。呼び捨てなど、親しそうですが上下関係を入れ込んだそして公的な訴えかけ方ではなく、私的な訴えかけ方になり、相手にとっては幼い自分でありプライベートの自分の顔で判断を強いられて学校というところでの自分の顔を育てることがうまくいかなく、学年が上がるに従って大人としての判断ではなく、プライベートでの判断する自分を出していきます。公的な顔を逸させるには一番簡単な方法。ですから、名字で呼び、公的なところであることを意識させる効果を理解している学校では、生徒を下の名前で呼ぶことを禁止します。ですが、先生たちは、親しみをこめて呼んでいるのに…と思っている人もいるかもしれません。しかし、そういう人に限って下の名前で呼ぶことによって相手に子ども意識で自分の言うことを効かせるように操作している…無意識かもしれませんが…。
潜在意識で行っている行為を見て、その人の深層心理を理解し、その人の行っていることが何を表しているか…それを理解することができるのですね。

主語を「私」にして話してみると、相手は聞いてくれないのではないか?という不安。
しかし、その圧して聞かせていることによって失っているものは…どうしようもなく救われたかった自分の気持ちを認める機会。

「お父さんは、おまえが約束を守らなかったから、とてもがっかりしたよ。」

これは、ちゃんと認めているように伝わるかもしれません。
だけど、私に直してみて考えてみてください。
本当にあなたの子どもさんが約束を守らなかったから、あなたはがっかりしたのですか?約束をあなたなら守ると信じていた自分が裏切られてしまったことに、あなたは怒りを感じたのではないのでしょうか?あなたが信じていたかもしれませんが、それであなたのお子さんはその約束をしなければいけない義務は法的にもないことかもしれません。その約束を守ることは、その子どもにとって意味がないと判断されたことに傷ついているあなたがいるのではありませんか?
本当は、あなたは自分が伝えたことに対して意味がないと判断されたということに怒りを感じて、がっかりしているのではありませんか?
よく状況を聞いたりしたら、その子は守ろうと努力していたかもしれません。本当に忘れていたかもしれません。だけど、この伝え方ではIメッセージにはなっていないのです。
正確に子どもに伝わるように話すとしたら、「私はあなたは約束を守ると信じていたことを裏切られて、がっかりしている。」です。
がっかりしているのは、約束を守る子だと信じている自分があったことを伝えて、あなたの愛の所在を見せることが大事なのです。

そして、子どもに選択権をゆだねるのです。愛されていないわけではなく、愛されている自分を権威の言葉達から自分を解放することで伝える。
主語を「I」にして、伝えようという話は2つの意味があるのです。1つは、自分の感情をしっかり把握して相手に伝えましょう。そして、もう1つは、相手に愛ある伝えかたをしましょう。

お母さん、お父さんは、主語を私にしたら愛が消えますか?
もしかしたら、私にすることで、自分を解放できるかもしれません。
「お母さん」という名称を使うことで、自分に対して「こうしなくてはいけない」という子どもに対してさせたい思いで判断していることがありませんか?
それができなかったら、あなたのお子さんには価値がありませんか?

権威をつけて伝えることは簡単です。
だけど、怖いのは、そのような権威がないところで、意味をなさないで判断基準がうまく形成されないことがあるのです。ドンドン…大きくなっていった時、いつもお母さんはこういっていたけど、実際にお母さんだって言っていることと違うことをしているじゃないか…なんて、矛盾やおかしさを感じた時など、子どもたちは全面的に相手の言っていることを否定したり、疑います。

それをそのまま大人になって引きずり…、仕事の上でも、上司が言っていることを聞き流す…。そう言っているけどそんなことは無理だと、聞いたふりで何も改善されないということが起きたりします。日本はこれを増やし過ぎている面があると思うのです。

それはきつい…とか、いやだ…とか。
本筋を否定して代わりに…とやっていることで代用してごまかそうとしている。
そのことで、本当に伝えたいことが伝わらずに曲がって伝わってしまう…。

よくよくあることなのです。

教育関係の本をちゃんと読んでいる人は児童・生徒を下の名前で呼ぶことの効果を知っています。いい面も悪い面も両方。だから、パブリックな立場で接している顔を育てたい…本来学校の目的ですから、子どもに対して公的な顔を求める為に名字で呼ぶことをします。実際に、子どもの精神年齢が上がっていると、下の名前で呼ばれることに対して嫌悪感や違和感などを感じさせます。ここはプライベートではないし、先生からプライベートネームで呼ばれたくない!とね。ちゃんと顔を使い分けることが身についているのです。
しかし、まだ精神的成長が伴っていない人に対して、下の名前で呼ぶと親しみを込められたような感覚を沸かせてつながりがもてたような錯覚を持つことができます。しかし、同時に相手は自分のプライベートでの顔を全面的に出してくるので組織として崩壊…。学校やクラスが荒れたりすることが酷いときにはあります。しかし、そんなちょこっとが関係している…なんて、勉強していない人にはわからないのですね。

ちゃんと原因があるから結果がある。

播いている種が何なのか?しっかり把握しているといいのにねぇ…。

相手の世界観を理解することも大切です。だけど、自分の行為の相手への影響を知ることも大事ですね。

無意識に上下を利用して圧して伝えよう…とする人は、相手のプライベートネームで公的なものを処理して、なぁなぁにして…自分の過ちなどを赦してもらおうってします。また、相手にもなぁなぁにしてあげて…経済成長がない会社のやり方ですね。

単なる言葉ですが、そうやって影響をどのように与えるかなど全て意図して使う。意識して用いる。大事なのですね。
それをうまくできないと、社会は発展が難しくなります。
だって、発展という基準は人それぞれ。その基準をそろえて見させようとすることをうまくコントロールしなかったら、支離滅裂…ではなく、多様性を認める社会。ありとあらゆることがOKになるのです。

経済発展を基準にしたい人にとっては、経済は発展していないと思うかもしれません。ただし、他の面は発展しているかもよ~ってね。

 

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投稿者:

nova

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