キャスターが見たベトナム by宮川俊二さん

これは、昨日のシンポジウムで伺ったお話。

キャスターが見たベトナム」というタイトルでお話がありました。

きっと、どこかで内容は披露されるのだろうって思います。

私は自分が気になったことだけ調べながら…って書きます。

1989年にベトナムに古い日本のミシンを贈ろう

という活動があったそうで…私は知りませんでしたが、母は何かで知っていたようです。

1988年12月3日  朝日新聞(夕刊)女性の連帯『ミシンを』中古品も不足のベトナムへ ~かつての愛機差し出す人続々~

1989年3月3日  朝日新聞(夕刊)愛のミシン、深まる交流 ~全国に広がったベトナム支援運動~市民レベル、実り多く

1989年5月号  タイムズ ベトナムにミシンを送ろう ~市民による平和のかけ橋~に下記のものが載っていました。

文章は、そちらのサイトで読んだ方がちゃんと読めます。

1989年3月1日 読売新聞 ベトナム・名古屋 「ミシン」持参の主婦外交 戦争未亡人や孤児のため

グエン トリ ユン(NGUYEN TRI DUNG)さんと高橋ますみさん。

 

ブンタウで、ミシンが5台あったら活動ができるというベトナムの女性たちの声を受けて、高橋ますみさんが古いミシンを集めている話を、宮川さんは名古屋で勤務していた時に知り、ご自身がされていたラジオ番組で呼びかける機会をつくったのだそうです。

そんな始まりからご縁を持って、ベトナムに届ける取材も、カメラマンと二人で行ったのだそうです。

1975年 ベトナム戦争終結。

1978年末にはじまるカンボジアへの侵攻によって国際的に孤立していたそうです。国際社会からの強力な外交圧力と経済圧力の下、ベトナム政府は一連の経済改革と外交政策の改革を行い、1989年9月にカンボジアから撤退することになったという時代背景もあるようですね。

 

ベトナム戦争と、カンボジアへの侵攻…いずれも、どんなことがそのような事態を招くに至らせたのかという本当のところを私は知りません。

ただ、その当時、日本でベトナムで取材できていたのは共産党系の1社のみだったんだそうです。そこに、市民ボランティアのことによる取材ということで、取材ができたのだそうです。

手で縫うしかできなかったところに、ミシンが使えるようになり、さまざまな製品ができるようになった。さらに得たお金で、工業用ミシンを購入したりして、電気ミシンも活用できるようになった人達は、進出してきた工場で働けるようになっていた。

ミシンがそんなに影響力があるとは…って、驚かされるお話でした。

 

足踏みミシンを修理できる人達がまだいたこと、バブル時で日本では古くなったミシンを捨てたい人達がいたことなど、日本の事情もベトナムの事情ともちょうどWINWINだったんだ…と伺いながら思いました。

 

いろんなものの見方ができるとは思いますが、一つのお話をうかがえてよかったです。

 

花嫁道具にミシンを持たせ…って時代背景。そのミシンをフル活用して子ども達の服などをつくって…バブル時代には捨てるように言われて…聞いていて母のことを思うのでした。それでも、捨てなかった母。思い入れの強いミシンを壊したのは私でした。

父方の祖母は、戦後なのかなぁ…?洋裁を教えていたとか。

母方の祖母も、母や叔父の制服なども縫っていたと聞いています。

昔の人達って何でも作っていたんだ…と感心するのですが、ベトナムの話を伺いながら日本もそうだったのかもなぁ…なんて、明治時代の話などを思ったのでした。

 

私の縫い始めは、フェルトでマスコットを縫うとかで小学1年生の頃かなぁ…縫うとか編むとかなんか身近にしているのを見ていたのです。ミシンが使えるようになって喜んでいたら、雑巾縫って学校に持って行く…というのも私の仕事になっちゃいました…とか思いだされます。

 

でも、高校の時の家庭科で、自分で課題のスカートを縫っていない人の多さとか、卒業して知りましたねぇ…。

教え初めの時に、持ち帰らせないとか、持ち帰って家族が縫う…驚いていたけど、気付いていないだけの私はもうすでに同級生達がそんな感じだったのですねぇ~。

 

今は、雑巾も買う時代だろうなぁ…。

そう思ってみると、縫えないのが当たり前?

ボタンつけもお金を払う時代ですよねぇ…。10年位前にお聞きしたお話。その方の奥様は洋裁を学ばれていたそうで、背広などちょっとした傷みも全て表面に目立たないように繕い使っていけて有難いという話をされていました。そんな話をお聞きしながら、そんなプロフェッショナルにつくろえるのはすごいなぁ~って自分ができるとは思えないので伺っていました。

だけど、4,5年前に高校生にアンケート。ボタンが外れたら…って、捨てるという声がいっぱい…そう、基準は私の感覚ですが、私にとってはいっぱい…と思えるデータでした。このデータはオープンにしていいのかなぁ…?数値くらいはいいのかなぁ…?でも、そのアンケート結果に一緒に驚いた当時の高校生達も多かった。

今、どうでしょう…?

 

有名私立のお受験では、手作りバッグが必需品なのだとか。

そうやって、手作りバッグが高値で売れているそうです。すごいですよねぇ~。でも、手作りってそうですよねぇ~。

 

そういえば、全く関係ない話かも…中国での縫製が値上がりしていく…という話、ベトナムへ…カンボジアへ…なんていう日本で市販される衣類の縫製がどこで行われているか?多様化していると思うこともこんな話と関連?

そして、お手製絨毯が値上がりしていってる…って、確かペルシャ絨毯の値段が上がっているそうですね。IT化など進んでいくと、そんな重労働は嫌がられるようになると伺いました。

 

ドンドン手作りの希少価値は上がっていく?

 

それでも手作りで作っていただける有難さを知っている人たちが、お金を払って作ってもらう…希少な世界に…というヨーロッパものブランドたちも同じでしょうね…。

 

 

 

 

調理と脳科学と

サーストンの多因子論というものがあります。

その理論は、知能の研究をそれまでのものと大きくかえました。

 

もし、それまでのものに固執しているのなら…不幸せかも…。

いろんな価値観があることを受け入れてみることで、可能性が広がるかもしれません。

 

 

それに基づく集団式知能テストが多く…。その例としては、「職業適性検査」があります。

この多因子論では、人の能力はIQのような1次元の総合的な指標ではなく、何本かの独立したものさしの上にプロフィールとして表されます。

IQの高低ではなく、どの能力にすぐれ、どの能力に劣るかが、きめ細かくわかるというのです。。

つまり、多次元的表現で知的能力が示されているということです。

 

基本的精神能力
S:空間因子 (図形や立体を知覚する能力)…………空間的関係の理解
N:数因子 (単純な数の演算能力)……………………計算などの能力
V:言語因子 (語の意味把握や文章理解力)………言葉を使う能力
P:知覚因子 (知覚の速さに関する能力)……………知覚するスピード
R:推理因子 (論理的能力や掲画力)…………………推理する能力
W:語の流暢因子 (語を速く柔軟に使う力)…………なめらかに話す能力
M:記憶因子 (機械的な暗記力)………………………記憶する能力

 

学校での評価って、M:記憶因子に著しく?まだまだ偏っているかなぁ…。特に、大学入試の多くは偏っているよなぁ…。ようやく「推理因子」が入ってきている?入っていたものも以前からあったけど、暗記力を問う入試問題が多いのは事実。それで考える力がない学生が多いというのは、集め方もまずいと思いますね。学生を選考する基準が暗記力でしかないのなら、暗記力がある人を取っている。そこには、推理力等考える力を測り、学生を集めようとする姿勢がない結果だと思います。大学の生徒募集の姿勢と大学で学んだ結果として、その大学の学生は企業等から考える力がないと評価されているとも取れますね。単純に生徒達が解きやすいように…また、生徒達が受けようとするように…なんて高校生が勉強しやすいように(=暗記して対応しやすいように)した問題を出題していることは自分たちが暗記力だけの学生を欲していると言っているにすぎないと思いますね。

ちなみに、「数因子」を求めている…入試ももちろんありと思いますし、「言語因子」を求めている入試もあると思います。なんて、他の因子も求めている入試もあるとは思いますが、記憶さえできればいいような入試…それで集まってきた学生を批判って、企業が採用するのに大学生の本質を見極めきらなかった…というのと同じで、求めるときに見抜く努力を少々怠ったことに通じるのでは?

脱線…

 

言いたいことは、そんな選抜の仕方ではなく、現実にその力をどうしたら身につけることができるか?ということ。

 

脳科学的に…というか、流行っているよね…。脳科学の領域なのか、認知心理学の領域なのか…?よく分かりません。

ただ、脳のしくみをよく理解し、どのような対応をするかを検討する。ただそれだけですよね。
前頭前野は記憶や学習などをコントロールしているところで、ものを考えたり判断したりするときに働くとドンドン詳しくわかってきているようですね。前頭前野は「脳というコンピューターの中のコンピューター」といわれるくらい大切なところ。「頭がよい人」と言われるは、この前頭前野が発達していると考えられています。

人間と動物の脳を比べたときに、多く違うのは、「前頭葉」の中の「前頭前野」と呼ばれる場所。人間の前頭前野は大脳の中の約30%もしめていますが、動物の中でもっとも大きいチンパンジーなどでも7~10%くらいしかないのです。
チンパンジーと比較しても仕方ないとは思いますが、テレビを見たり、コンピューターゲームをしたり…いろいろな情報が入ってくるので、脳が刺激されて活発に働いている…だから、子どもに教育番組などテレビを見せているといいのでは?など、思っている人が多いからでしょうか?また、近年ではiPADを子どもに持たせて遊ばせている方も増えていますね…。タッチパネルだといいのかなぁ~?なんてわからないから、どうなんだろう…?と考えはします。ただ、実際に、テレビを見るコンピューターゲームをするという際には、脳のごく一部だけしか使われていなくて、前頭前野はあまり使っていないことがわかったそうです。ん…前頭前野を鍛えるには至らない…。

 

調理による脳の活性化について研究成果を発表

子どもの生活習慣と脳

調理が前頭前野を活性化させるという研究をされたものがデータとして出てきていたのですが…

豊かな人間性を培う家庭教育の在り方- 家庭教育の方法とその内容についての一考察 –
    指導主事 高 崎 隆 一

にあるのですが、前頭前野を必ず活性化させるとは限らないという事実ももちろん見逃してはいけないと思いますね。

 

失敗させないためのマニュアルを見て動くだけで完璧!みたいな調理実習。火加減もありとあらゆることをすでに教え込む。

絶対に失敗させない…と、料理教室では失敗は許されない…。マンツーマンなど少人数では教え伝える…ここで失敗はなくても、本来は実際に自分でさせると理解できていないところで失敗するはず…と思うのです。それを失敗させないイコール全て教え込む。これでは脳は活性化しないと思います。なぜなら、単に単純作業として書かれている通りをするだけだから。

 

沸騰するまでにどのくらい時間がかかるのか、火加減は?など、本来は考えて作業するということをしています。だけど、すべての行程を言われたように動くだけ…そんな学び方をして考えずに調理している人たちの後を請け負うとき、なんでこんなに受け身で調理するんだ~?と思うのです。また、自分で考えて動く人との違いは何だろう~?ってね。上手でなくても、言葉を自分なりに理解して動いて失敗する…それを大人が恐れすぎた結果として、子ども達が失敗を大きな恐怖と捉える…そう育っているという指摘もありますね。調理だけの話ではありませんが、そんな調理恐怖症をつくるのは結構簡単。

 

料理教室で、教えられている時はできる気がするけど家に帰ったらやっぱりできない…だからずっと通い続ける…これはとっても営業的にはいいと思います。ただ、その循環を生み出している料理教室はどんなことが身につかないか?考える力が身につかないと思われます。つまり、前頭葉を使わずに…ただ作業しているだけ。ポイントもコツも言われた通り…。

 

力を込めて、火加減をきちんとすべて押さえて伝えた…など言われうと思うのです。「バッカじゃない…」

火加減は状態に応じて中火も強火に近くしないといけなかったり、弱火も強火で対応しないといけない…と判断したり…。指示待ち君にしないためには、状態を見て判断させないと、弱火でやっていたのに…と人のせいにして考えずにマニュアル通りやったという料理をつくる…そんな人たちとたくさん出会いました。

その結果への感想というか、私の考察。

とにかく、失敗した方がいいんじゃない?

水分が飛ばないように配慮しての弱火とか、焦がさないための弱火…など、なぜそうするのか?それがわかってからの作業。臨機応変に状態を見て対応すると思うのです。

尋ねられるのが面倒だから…人数多い対応は大変!確かに。でもね、それよりも問題なのは、失敗させないで成功させる怖さ。

失敗しないで成功体験…何事も何度も失敗してうまくいくようになる…という学びを無視して何でも1回でうまく行かなければならない…。大人の他者からの評価(指導できない)などを意識した強迫観念から生まれる失敗させないための指導には、生徒の成長は少ないと思うのです。

教員の自己満足はあっても、実際にそんな人たちの指導したあとの生徒たちを対応する…私だけではありませんが、そんな体験をした時に全く動けない…そんな生徒たちに唖然とする体験は多いのです。

 

ではなぜだろう…?をつきつめていった時に、失敗したことがないからかも…?なんて思ったのです。

強火で沸騰させ続けて水分がなくなったものを食べた…食べなくても水を足せばいいのでしょうけど、そんな現象に対する理解が乏しいから、火加減も気にしない。状態を見ない。そして、「書いてある通りに作った」という。ならば、書かない方がいい。

なんでも書いて伝えて…マニュアル通りに動く指導をするようにして…と指導する自分の力量に自信がないから…とされている話を聞きながら、確かに…私も試行錯誤…そうしていたこともあり。だけど、上達しないんだよね…その場さえこなしてくれたらいい…。それって、高校で大学さえ通ってくれたらいいという発想と似てない?

 

考える力とか言っているけど、一番の足かせは、教師の失敗を恐れる姿勢というか、どうしたらいいか?と生徒をベルトコンベアーに乗せる方法…つまり操り人形に仕上げる方法の研究は余念がないけど、実力つける為の研究はしない…といばって操り人形にする指導のためのテキストを発表した人を思いだしました。だいたい、これをいいという人は、調理を教える力がない人だけだよ…ってね。当人の話もほんとうにわかっていない…って、何がわかっていないかというと身につけされたいことは何かというポイント。一番最低な方法だと私は思っています。マニュアル君作り。

調理実習で学習した内容が充分に活かされないま. ま,大半が忘れ去られている…忘れさせるようにつくったテキスト。覚える必要性がない。自分で記録も何もしない…これは、学習ピラミッドのどこに位置するか…?行動をしていても、頭を使っていないに分類される…ってね。ただ、これは料理の本特に、苦手な人用として売られている本の体裁と似ている。つまり、うまくならずに本を買わせるためには有効な手段かもね。

 

時間内に実習さえすればいい…なら、一番簡単だけど、実力つかないよ…。

こんな指導をしていては、就職難直撃コースに行けそうですね。

 

 

前頭葉を使いながら、調理するためには…?

教師が指導楽イコール失敗をさせない。

 

失敗を1回くらいさせた方が次からの伸びは大きい…くらいに構えることができない…大人が増えているからかなぁ…なんて思わされる話はたくさん。多分、料理だけでなくいろいろがそんな感じになっているのでは…?もう布に線が引かれた被服実習。工作などもそうかもね…。

頭使わないででき上がりがいいように…と仕組んだ結果の考える力のない若者たち育成結果と考えない若者…って言われる話を聞くのでした。もちろん、学校が全てではない…一番大きいのは家庭での学びと思ってます。

 

 

 

拈華微笑

ねんげみしょう 拈華微笑

この言葉も、ノートには書いているけど、ネット上に書いていない。だから、探すのにノートをひっくり返さないといけない…面倒。

意味は、言葉を使わずにお互いが理解しあうこと。心から心へ伝わる微妙な境地・感覚のたとえ。

【故事】

釈迦が霊鷲山(りょうじゅうざん)で弟子たちに仏法を説いたとき、黙って大梵天王から受けた金波羅華(こんぱらげ)をひねって見せると、摩訶迦葉(まかかしょう)だけがその意味を悟って微笑んだので、釈迦は彼だけに仏法の心理を授けたという故事による。

 

類義語いっぱい。

以心伝心

経華別伝

教外別伝

維摩一黙

笑拈梅花

拈華瞬目

感応道交

神会黙契

不立文字

黙契秘旨

 

さて、これをなぜメモっていたのか…というと、恐らくその後にメモしていることと関連しているのだろうって思います。

禅宗は、菩提達磨を始祖として、「教外別伝・不立文字」を掲げ、釈尊の説いた経論には寄らず、座禅によって悟りを得ようとする宗派という説明がありました。それを理解するにいたる過程で出てきた言葉。

禅宗は『大梵天王問仏決疑経』という経典をよりどころにしている。

その経典によると、

釈尊が涅槃のとき、聴衆の一人が一重だの睡蓮を釈尊にささげた。釈尊は黙って受け取り、ひねって大衆に示した。その場の大衆は釈尊の意図するところがわからなかったが、摩訶迦葉一人がそれを理解して破顔微笑した。そこで、釈尊は「正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門有り。不立文字、教外別伝にして、摩訶迦葉に附属す」と言って、仏の悟った深遠微妙(じんのんみみょう)の法門は経論・言辞によらず、ただちに以心伝心をもって法を摩訶迦葉に附属した

ということだそうです。この内容が正しいのか?とメモしているのを見ると、ホントかどうか、わかりません…。

 

不立文字、教外別伝」の主張は大梵天王問仏決疑経に見える言葉である。この経典には次のような話が述べてある。ある時大梵天王(ブラフマー神)が世尊(ブッダ)に説法を願い出て金婆羅華(こんぱらげ)という美しい花を世尊に奉った。

説法の座でブッダはその花を大衆に見せた。この時大衆はブッダが考えていることが分からずポカンと見ているのみであった。ただ一人摩訶迦葉(ブッダの高弟)が思わずニッコリ笑った。

これを見たブッダは「吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相微妙の法門あり。不立文字、教外別伝なり。摩訶迦葉に付嘱す。」 と言ったという。この経典に不立文字、教外別伝と言う言葉が出てくる。 いわば禅宗のルーツとも言える経典である。

しかし、このような事実は他の経典には一言も触れられたことはない。この「大梵天王問仏決疑経」は今では中国で作られた偽作経典とされている。不立文字、教外別伝を主張する中国人仏教徒(禅宗関係)が、西天28祖の伝法神話と同じく、自分達の主張をブッダ伝来の正統なものであると権威付けようとしてこの経典を偽作した可能性も考えられるだろう。

禅の公案を集めた「無門関」の第6則「世尊拈花」はこの話を元に作られたものである。著者である無門慧開禅師は大梵天王問仏決疑経が偽経であることは知らなかったらしい。またこの経典には正法眼蔵という言葉も出てくる。

大著「正法眼蔵」を表わした道元禅師も「正法眼蔵」という言葉の基となる経典が偽経であることは知らなかったようである。 日蓮は「蓮盛抄」という著作の中で大梵天王問仏決疑経について述べている。

この経典はいつの時代にインドから伝来し、誰によって翻訳されたかについて古い記録を調べても何も記録がない。従って偽経であると結論付けている。日蓮のこの指摘はなかなか鋭いと言える。

達磨は迫害され殺されかけたと伝えられる。恐らく普通の真面目な中国人仏教徒にとってどんな経典にも書いてない「不立文字、教外別伝」を主張する達磨の教えは経典に基づく仏教を否定する邪教だと考えられたのではないだろうか?

「不立文字、教外別伝」の言葉は圭峰宗密の「禅源諸詮集都序」に教禅一致の思想を歴史的に説明し、達磨の思想として出ている。

「祖庭事苑」という(1108年発刊の禅籍)本には「教外別伝不立文字、直指人心見性成仏」の言葉が出ているとのことである。

「碧巌録」の第一則「武帝問達磨」の評唱には「不立文字、直指人心見性成仏」の言葉が出ているのでこの言葉は有名であったことは確かであろう。

 この文章は、禅の思想というサイトから。

 

さて、この文章から見ても、確かに経典は無さそう…。

 

ただ、迫害されているものに対して、真実はどこにあるか?本当のところを図り知ることは難しいと思います。中国では、迫害するものを徹底的に痕跡を残させない。日本もそうでしょ?

そう思ったときに、本当か嘘か…という話よりも、そこから何を産み出したか?生み出されたものに価値があるかどうか?それでいいんじゃない?ってね。

 

正直、今だって中国は自分の国の考えに合わないものを徹底的になくそうとしていますよね。

 

日本も…そうやってきた過去あり。

 

座禅という一つの手法というのか、この方法はインドでは昔から座り方とかは別であっても、あったもの。

いろんな人が間に入ることにより神とのつながりにバイアスが入る可能性を排除する意味では有効だろうと思います。そして、どのような宗教名で伝えられているとしても、神は自分自身の中にある。つながるための理解を深めたり、そのような存在を肯定するための学びのために宗教はあったとしても、最後は自分の中にある。

 

禅宗というものをよく知らないし、正直、他の宗派も知りません。

ただ、葬式やら、説法やら…いろんな形で私が接している回数が多いのは禅宗。でも、ホント知らないことがいっぱい…。知ろうとすることが最初の一歩かも…くらいです。

 

私の名前自体、お坊さんがつけたということで、とにかく、自分の名前自体を知る意味でも、ちょっと調べて…と思うのです。

もう、詳しくいきさつ等を知っていそうな方々は他界。母もイマイチわかってないし…。

 

ただ、仏教をよく知るお坊さんがつけることはあまりしない字だよと、ある人から言われた漢字が使われている私の名前。その意味もわからないけど、いろいろと知ろうとすることによって知ることは増えていく…意味ではわからないからこそ面白いのかもしれません。

 

いろんな人の役割があると思いますから、私の役割も…と、自覚できているかいないか?以前よりはわかってきたかなぁ…と思うところもあります。

 

華をひねって微笑みあう。

そんなことがあるのか?といわれたら、私はあると思うのです。だから、そんなこともあるかもねぇ~と思います。ただ、伝わるということは、そこまで考えていることたち…ありとあらゆる知識経験等を同じ程度有しているということ。

iPS細胞を公的に発表するまで、黙っておくのに必死でした…という話を耳にしたとき、きっと同じようなことを必死に探求している人たちだったらわかるということがあるということ。私が聞いても、「あ!」って思って出し抜こうなんてできなかったと思うのです。

拈華微笑も、そんな感じかなぁ…って。ある程度まで達した学びを共有しているからこそ気づく。

 

座禅も悟りを得るまでに、無心に…という状態が共有できているのなら宗教宗派の形にとらわれないで通じていくものがありとあらゆる人たち共通していくのかなぁ…?と思います。

表面での違いで争う…それはお互いに学びが足りないということに過ぎないかなぁ…宗教での争いってそんなものではないのかなぁ…私自身悟っているわけではないし、様々な宗教宗派を知っているわけではありません。ただ、知らないで判断することだけは愚か…。知る努力をせずに自分のそれまでのバイアスで、相手の世界観を判断する愚かさは先人たちの反面教師。そうではない人たちから学び、自分自身を精進させたいと思います。年をとっているから自分立ちの方が優れている…と思っている年配者たちに出会う体験を多々持ちますが、偉人たちの文章をたくさん読んでいる読書量の多い若い人のほうが学びが深いのかもしれないと、しみじみ思います。それを強く思うのは、無知無学とは言いませんが、読書量が半端に少ないまた偏っている先生方と接し思うこと。私も知らないことが多い…けど、学んでいない年をとって指示している言葉たちを横で聞きながら、こうしたらいいのに…と何で知らないのだろう?とずっと思っていましたが、理解したのは学習量が絶対的に少ないということ。それは…と口出しすると人権侵害しかしない…そんな人達と働いて思うのは、勉強していない人が教育するほど社会をダメにすることはないということ。

なんで、こんなに言われていることを知らないで指示できるか?金曜日にも思ったのですが、反目。時間の無駄です。指摘しても、そしてこうしたら…?も無視するしかしない人たち。そんな人たちがいっぱい。勉強してから給料もらえば…?若いうちに読書量が圧倒的に足りないのに教えることをしていて、受験指導なんて大学生でも高校生にできる行為。それで満足して学び足りない…それが日本の経済失墜につながっているのでしょうね。でもしか先生たちの教えに追随した日本教育ってかんじ。

シャネル

私の中でシャネルイメージって、実はとっても悪かったのです。

多分、バブルはじける前、シャネラーを見て、シャネルを知ったのかも…くらいに、あんまり興味ない世界でした。

そして、働きはじめて、見たシャネル。カッコイーも見たりしたけど、私にインパクト与えたシャネルは、学校の卒業式で白のシャネル、それもミニスカート…ウエストのベルトにシャネルマーク…それは国語の先生の姿でした…。はぁ~?バッカジャナイ…が第一印象。と、そんな私にはシャネル=馬鹿…言葉悪いけど、そんなイメージが植えつけられたのでした。

でもね、そんなんでシャネルを判断してはいけないだろう…って、デパートのシャネルのコーナーをチラ見。そのときに、これ素敵…というか、私の中では白シャネルミニスカートスーツが頭にあって、ピンクシャネルとかテレビで見たりしていたので、ちっともシャネルを知らない私が気にしたのは黒のスーツでした。これならいいなぁ~と値札を見てビックリしたのでした。めっちゃ高い…?今はちゃんと覚えていないから、ただ当時の私にはビックリ高かったイメージだけ残ってました。

今なら、ブラックスーツってシャネルでは結構王道かも?ってわかるのですが、ホント、百貨店でビックリしたときの私はシャネルって本当に何も知らない…。ただ、テレビでシャネルのマークがついたバッグやスーツや…って着ているシャネラーって言われる人たちを目にしたことがあるくらいでした。

シャネルの映画『ココ・シャネル』だったかなぁ…それを見て、改めてシャネルってどんな人?

本を読んだり…って、し始めたのはシャネルのどこがいいんだろう…?

 

いろんなブランドのことを知らないで判断するのもよくない…って、知る努力。そんなことをし始めたのは、ネクタイ・ワイシャツをはじめ…販売経験をさせていただいたことから。とにかく知らないブランドいっぱい…だけど、説明するために知る努力した。それから…。つくっている人を知ると、ブランドに対する見方も変わる…ってね。

 

どこがいいんだろう…?って読んだ本は、シャネルの言葉を集めて書かれた本が最初。でも、その本に出ている言葉たちはかなりインパクト大でした。


さらに…って、読んでビックリ。

 

 

シャネル 最強ブランドの秘密 (朝日新書)
ビックリの本でした。

 

この本のタイトル。

興味を持つようになったのも、他のブランドのこともいろいろと知るようになってきたからかなぁ…。

でも、この本を読んでよかった…。とっても面白かったです。

 

この本のはじめは、「シャネルの服を着たことは一度もない。…」そんな始まり。

だけど、この人シャネルの研究…って、この人の研究の内容はとっても面白くて、わかりやすかったです。

 

「モードは芸術ではない。商売だ」

あ…なるほどね…って、スタンスを思わされたのです。

そして、いっぱい発見をありがとう!って本でした。

 

本当にシャネルに詳しくない私が読んで、感動…というか、シャネルを理解するのに、偏っていないのか?という疑問は持ちながらも、この本から学んだシャネル像…それは商売人!

 

そう、シャネルは商売人として凄い人だったと学んだのでした。そう思って見ると、理解できることがいっぱい。そして、納得したのです。

 

私の疑問たちをいろいろと解決してくれた本。

 

その1 なんで、あんなブランドって言うだけで、合皮のバックなどが高くなるのか?

その2 なんで、シャネルが売れているのか?

…って、本当はいっぱいあるのです。でも、いろんな疑問を解決してくれた…

 

ブランドシャネルは、今となっては、ルイヴィトンなどと同じ…?そんな面もあると思いますが、何が違うかなども知りえて本当に面白かった。

 

20世紀、シャネルが作り出した?はじめて広めたことの影響力の大きさを知りました。

 

そして、私が思ったこと。

21世紀は…?

シャネルが壊したモノ達のそして、生み出したモノ達の浮世草的な印象を受けた感じを理解できた気がします。

きっと、シャネル本人がまだ生きていたら…?保守的になっていた?恐らく先導を切ってアグリッシブだったかもしれませんが、私は今の時代に生き返ったとしたら…って考えたら、恐らく、やっぱり黒シャネルだろうなぁ…って思います。

他の本で、なんであれだけミニスカートを毛嫌いしていたシャネルのブランドなのに…私の中でのイメージはミニスカートだったのはなぜ?って、創立者の意向と違って、ブランドとしての生き残りのために…という発想で動いている部分?商売だからね…。

 

シャネルって、やっぱり、自分が作り出した者たちが壊していくのは…シャネルが好きだったものかもって思うのでした。そして、シャネルが好きだったものを、いまだにある状態にさせているのは伝統でありある意味貴族など言われている人たち…。

読んで私の中で作り変えられたシャネル像。それは、シャネルの土台の文化はクラッシック…ということ。

この気づきは大きい。本を読んだ後すぐの感想は残しておいたほうがいい…って思わされるのでした。

 

この本に共感!は、ここ。

時代のマインドは「成熟」と「本物」をめざして思考を深めているようにもみえる。

というとこ。

 

高度成長期に青春を送り、ハングリーから「過剰富裕化」まで、ひととおりを経験してきた世代は、もはやハングリーな消費欲望に目を奪われてない。

 

時をさかのぼることおよそ100年、19世紀が終焉をむかえ、20世紀の幕があがろうとする境で、やはり贅沢の意味が問われた。

問いを放ったのはほかでもない、ココ・シャネルである。

このシャネルの問い。そして、その答え。面白い~

 

理解したことは、これ。

その贅沢は、金がかかっていることを人に見せるためのものだ。むろnその金を出すのは男、つまり夫か愛人であって、女の衣装は男たちが富をひけらかす「口実」にほかならない。ここでシャネルが指弾の的にしているのは、ヴェブレンの『有閑階級の理論』のいう、あの「顕示的消費」、見せびらかしのための消費そのものである。

 

あ~納得ってね。

そして、そのさらに先。

シャネルのモード革命を「皆殺しの天使の」という冠付き。

 

シャネルの嫌悪感、凄いなぁ…と思うのです。でも、そんなシャネルを「皆殺しの天使」笑えるくらいに…

ジャージー素材のスーツをシャネルが高価に販売したことも知らなかった~

また

ニットは女性のものとして存在していなかったということも凄い…。

 

正直、そんなシャネルも今はいない。そういう意味では、今のシャネルは…?なんて思いも抱きながら、痛快なシャネルの言葉たち…。

大げさなのは個性を殺すのよ。表面的なものはみな値打ちを下げてしまう。アメリカ人はこういって私をほめたけれと、とても嬉しかったわ。

これほどの金を使いながら、それをみせないようにするなんて!

この言葉納得の私がみた黒スーツ…って思い出されたのでした。

 

 わたしにとっての贅沢は、よく仕立てられた服で、一つのコスチュームが五年ぐらいはちゃんともって、着られるものだ。古くて、使い古したものというのが、私の夢だ。アメリカでは何でも捨てる。だからしっかりしたものは何もない。洗いもしないし、洗いに出しもしない。一度ドレスを洗いに出したことがあるけれど、ボタンが一つしか残っていなかった。これがアメリカだ。贅沢の反対、チープだ。なんと嫌なのだろう。

 ここで語っているシャネルは典型的なヨーロッパ人である。歴史を重んじるヨーロッパは古いものを愛し、とかく新品を軽蔑する。大量消費は大量廃棄、すぐに捨てられるようなものに価値などありはしない。ヨーロッパ人から見れば、まさにそれこそ「贅沢の反対」であり、チープに他ならない。

このシャネルの言葉は、マルセル・ヘードリッヒさんが聞き書き留めた…って、シャネル晩年の話。

 

 成金たちの新品にもノン、貴族たちの華美豪奢にもノン-シャネルのこの美意識を、「アンチ・ゴージャス」と名づけてもいいかもしれない。どちらの二つも「見るからにゴージャス」だからだ。シャネルにとっては贅沢はまさにその反対だった。別のところでシャネルは作家ポール・モーランにむかって「贅沢」をこう語っている。

わたしにとっての贅沢といえば、昔から代わらず続いているものだ。「歳月に磨かれた」オーヴェルニュ地方の立派な家具、どっしりと重くて地味な田舎の木、紫がかった桜の木、艶出しで磨かれて黒光りしている梨の木(…)わたしは貧しい子ども時代をおくったと思い込んでいたのに、実はそれこそ贅沢なのだと気づいたのだ。オーヴェルニュでは、すべてが本物で、大きかった。

 

実はこの本。とっても軽快に現代のいろんなものを蹴散らかしているなぁ~と思わされるところはあり。

そんな感じだから、こんな風にシャネルを見るのかも…とは思いますね。

 

色彩のゴージャスへの拒絶…黒

表面的な色の贅沢は嫌悪すべき贅沢趣味だった…って

 

ダンディズムの詩人ボードレールの言葉

「エレガンスは絶対的なシンプリシティにある」

 

「金持ちのための宝石」を身につけるのは、「首のまわりに小切手をぶらさげるのも同じだ」ってシャネルの言い放った言葉点凄い…とかね。

 

 

シャネルの名前をしてイミテーションを高く売る。そのことで、既存の贅沢を愚弄…。

恐らく、いろんなブランドがこの20世紀にやってきたことかも…そして、21世紀が始まるって頃、本物を買い占め始めた…ルイヴィトンとかね。

 

さて、これからをどう見るのか…が大事って思うのですが、この本読んで私が得た感想。

 

読んで感じることは自由。

 

そう思って、読んで感じたこと。

 

 

ブランドマークでイミテーションの値段をつりあげてきた…そして、今、本物であることを求めようとしているブランドもあり。

その上で、シャネルは…?とか見たとき、ココ・シャネルのシャネルと同じなのかなぁ…?わかりません。

だけど、その名前を冠にすることで稼ぐことのできる…それがブランドかなぁ…と思わされる。品質の維持も大事だけど、そのブランドの力…影響力…きっと必要なんだろうなぁ…。

 

日本は戦後って、もう60年はたっているんだけど、その間、アメリカをお手本に…と取り組んできたことが多かったよねぇ…と思います。だけど、根底には日本はアメリカより長い歴史を有していたんだよねぇ…と思わされたのでした。どういう意味か、日本もヨーロッパの歴史あるものへの評価って顔を持っているよねぇ…。

 

ファーストファッションという言葉が登場して、とにかくデザインさえ…今の最先端を…

上質なんてどうでもいい…

 

その反対に位置しているもの。

オールドファッションだろうね、昔からの価値観としてどの国にもある一つのものを大切に着ていく…その価値観。

本を読みながら、その価値を大事に思いながら、商売のために壊しに行ったのがシャネルの一つの凄さだったのかも。

モードだけでなく、価値観を壊してしまった…。不本意かもしれませんが、自分が大切に思っていたものまで壊しちゃった面もあるのでは?と思います。そして、やっぱり…クラッシックに脈々と…一つのものを大切に…と生きている人たち。どの国にもいて、その人たちが選ぶものは…上質?使い続けることができることが価値基準として当然にある。

その感覚を失った人たちを増やしたことは、ファッションを女性にお金とは無縁に開放した光と影のことではないでしょうか?

マスを魅了し、ブランドネームで物の値段を引き上げていくこと、その一方で上質を作り続けている…そんなブランドたちの生き残るために必要なことは、ちょっと巨大化しちゃったから、お得意様…と極々一部の大金持ちにだけ販売していてもその人たちは1つ買ったら何年間も買ってくれるわけではないから…とか、きっと小さく商売をやっていくには向いていない体制になっていること。新規開拓、また昔から自分のブランドが大切にしているコアなものの維持…。ブランド企業からいうとそんな感じ?

 

女性にファッションを開放し、男性のお金をいっぱい持っているんだぞ~という誇示に使われない表現力としてある面は、とっても豊かな表現を生み出していると思います。だけど、シャネル自身は嫌悪感を表したミニスカートたちも生み出したり…した発端も、シャネル。そして、今、シャネルというブランドで売っているものも、マスを魅了するためにミニスカート。

 

捨てられていってる…廃棄処分対象の昔つくられたものたちを拾い集めて…価値を見出している世界観。安いから…ではなく、今となってはもうそのレベルの職人がいない…という世界もある。

お金を出して新しいものを有名ブランドが売っているものを…と求めていく価値だけを肯定していると、きっとプアなお金がないからそうしているのでしょう…って思う人もいるかもしれません。だけど、もともとの持ち主にとってはもういらないものかもしれない…って、そんな古臭い…って見るものも、シャネルが言う言葉の「贅沢」というところでは?

笑えるくらいな話、久留米絣なんかも、古いもので取引されているものは価格が信じられないくらいのものも…。それは、今の時代でその柄を出す技術がない…など、今に生きていって得られないものありってね。

着物だけでなく、漆器も、陶器も…今ではそのための材料が手に入ることも難しい…って家具も…。

シャネルと白洲次郎・白洲正子…なんか、通じるものがあるなぁ…。

 

ただ、シャネルが好きなものを好きと言える人たちを減らしたことはシャネルのやったことだろうし、シャネルの好きなものたちを作れる人たちを減らすのに貢献もしたと思う。それは気づかずに…かもしれないけど。

 

日本の経済成長はシャネルと一緒な感じもする。

だから、100年たって、今度はシャネルが大事と言っていたものを大事という人が増えてきている。壊し続けた世代たちがふと気づいた贅沢。そして、ドンドン大量消費していって気づいたロハス…などね。

 

ただ、そんなものに価値を見出せない人たちも増やしたから、どうするか?

伝統あるもの…大事にしましょうね…って教育でも言うようになっている…という感じ。そんなことを言っても、大事にするものをわからなくなってしまっている親世代。もしかしたら、祖父母世代もわからなくなっている世代かもよ…と今の日本はそんな感じかもしれないなぁ…とも思います。

 

100円ショップで安くものが買えて、100円でいいじゃない?と生きるのも一つだけど、それで失ったことは、ものを大切に扱っていこうという価値?もしかしたら、もともとなかったのかも?100円だろうが、10000円だろうが、大切に扱うことを知っていれば、どちらも長く使い続けることができるもの。

長く使い続けることができるものだと判断することに価値を見出していなければ、違いを見ようとしないと思うのです。モノを見る目が衰えている?

素敵なものたちをつくる人の後継者なく消えていく…そのゆえんは、自分では見極める力のない生活者たちがマスコミで紹介されて知る以外に自分では判断できないところにあるのかもしれない…って思います。消えないためには…商売である以上、知らせていくことが大切…それも一つ…。つくるだけではダメで、それを惚れてくれる人たちを増やさないと残れないこと。そして、閉鎖的に限られた人たちだけの世界のものに留まっていると、継いでいく人も見つからないし、生き残れない…。

 

私はシャネルなんてよく知らない。だけど、シャネルは自分の持っている価値観である「伝統」「贅沢」に本人が気づかないところだったかもしれないけど、それをマスに売ったことが生き残れた理由かもね…。宣伝力が強いものだけが残っていく…。ある意味質のよしあしではない面もあるのでしょうけど、何事も同じみたいだなぁ…と思わされた本でした。

 

大げさなのは個性を殺すのよ。表面的なものはみな値打ちを下げてしまう。アメリカ人はこういって私をほめたけれと、とても嬉しかったわ。

これほどの金を使いながら、それをみせないようにするなんて!

このシャネルへの賛辞を発しているアメリカ人は、恐らくアメリカで成功して富をもっている人たち…でも、ヨーロッパの伝統から切り離された地。ネイティブアメリカのもつよさもシャネルに通じているのでは?とは思わされましたね。

ふんだんにお金を使いながら、それを見せないおしゃれ。わかる人にしかわからないというおしゃれが確かに、ヨーロッパのブランドのイメージでした。過去形。だけど、ルイヴィトンもシャネルも…なんかそれとは違うなぁ…と思っていたら、バーバーリーもダックスも…って、それらもこれ見よがしのものになっていって…。ちゃんとそのブランドだとわからないといけないと言わんばかりのマーキングがされているのは日本だから?ヨーロッパでのそれぞれを見ていないからわからないけど、マークがついているから高いのよ!って感じ。

あまり詳しくないから、世界中でのことなのか、日本用にライセンスを取ってつくっているものだからなのか、わかりません。

 

ただ、日本のもの…伝統的?着物などもみんなが着ている柄がいい~大量生産の面もないと、広まらないとさらに…と好きになる人も出てこない?一緒なのかなぁ…と思わされました。

 

この本の著者世代、すでに着物を着ることができない人たちもいっぱいでは?

だけど、この世代の人たちは、まだ、花嫁道具の一つに着物が入っていた世代だと思います。だから、着ることができなくても、恐らく持つのが当然の話だった世代。

今は…?

レンタルで着てくれたら…くらいにもっている人たちがいなくなっている。

着物も贅を尽くした…そんなものでないと採算が合わないと言わんばかりに、手ごろなものは機械化。ますます魅力が欠けていってる面もあるのかも?つくり続けていく人たちが生活できないと残らない…。つくる人たちも必死に工夫しているのでしょうけど、裾野を広げていく努力をシャネルは当たり前にしていた…という学びでした。

 

偽モノしかもてなかった人が小さくても本物を持つ…次は数を増やす…そして、そんな本物の中でもその人だけのものをつくる…

消費意欲を掻き立てていき、本物のブランド物に権威をつけていく…と見れば、贋物がいっぱい登場するイコールニンキモノ。ただ、贋物を作り、贋物をもって幸せ気分…は同じ価格の本物を否定していることにもつながるのでは?って思わされます。

粗悪な贋作より、誰かがマイオリジナルで作った無名かもしれない世界観をもつモノ。

そう思って使っている人たちが、新たなブランドに無名かもしれない素敵なものを広める…。その際に、うまく大きくなることに対応できずつぶれていくモノたち…もあり。

流行曲線の始まりに位置するのは嫌な日本人が多いから、日本の素敵は世界に広まっていかないのかもしれないなぁ…とも思わされたりして…。

 

たまたまに図書館で手に取った本でしたが、なかなか面白く読みました。感謝。

 

圧倒的に世界に影響を与えたんだなぁ…と知った点もありがたかったです。

 

ハンドバッグ

女性のスーツ

手の入るポケット

短くなったスカート丈

ニット

ジャージ

今では当たり前にあるものたちを生み出した凄さに感動しました。

 

 

 

 

身だしなみの三原則

清潔感 調和 機能性

これは書いている途中でテレビでやっていたもの。チラッと見てメモ代わり。

 

 

 

 

 

 

ラーニングピラミッド 学習定着率

久々に先日見ました。

これを押さえた学び方…って、セミナーで体験。と、そのときに、このピラミッドも一緒に紹介いただきました。

 

アメリカ国立訓練研究所(National Training Laboratories)

って、はじめて知って…セミナーでやった学び方。それは教えあうこと。そして、劇をする…。

 

エドガー・デール Edgar Dale が、その著書“Audio-Visual method in teaching (学習指導における聴視覚的方法, 1946) ”で提唱した学習経験の分類図、「経験の円錐:Dale’s Cone of Experience」が元なんだそうです。
抽象なものから具体的な次元に沿って「経験」を11の段階に分類。

「学習」は「経験」の一般化にあると定義して、そのためにはもっとも直接的で具体的な経験から、さまざまな抽象化の段階を経て、最後にもっとも抽象的な言語象徴つまり概念化に至ることを説いたものだったそうです。
エドガー・デールは、米国、オハイオ州立大学教育学教授 (1946, ナショナル・トレーニング・ラバラトリ National Training Laboratories: NTL) 。

「学習のピラミッド」は、当初、デールの「経験の円錐」 (Dale’s Cone of Experience) として報告されていた。

円錐に付随、提示されている数字 (%) は、示された活動方法や教え方の後に情報を「記憶している割合」の平均を示している。

 

NTL(National Training Laboratory)

集団と集団の相互作用や集団に属する個人と個人のコミュニケーションによる相互作用を研究調査し、個人と集団の相互的な行動やコミュニケーションを統御する一般法則を発見しようとする社会心理学の学問領域を『グループ・ダイナミクス(group dynamics:集団力学)』という。集団に所属する個人の行動・態度・発言・意見がどのような影響を受けるのかを考察するグループ・ダイナミクスの研究分野は、『場の理論』を提唱したゲシュタルト心理学者として知られるクルト・レヴィン(Kurt Lewin, 1890-1947)によって意欲的に発展させられてきた。

学習定着率と学習のピラミッド (出典: NTL)。
平均学習定着率 (Average Learning Retention Rates) から見ると、講義は5%の影響しかない、さまざまな教授方略、教授方術を工夫することが学習定着率を上げる、としている。特に学生同士が教え合う:Teaching Others は、非常に有効な教授方略と言える。授業内で学生同士が教え合ったり、話し合ったりする仕組みを取り入れると、学習へのモチベーションが上がったり、学習定着率が上がったりする、などと述べている。

このピラミッド図は、1960年代初期に NTL によって開発され使用された。しかし、NTL はこの数値の根拠となるオリジナルの研究結果を提示せず、また見つけることもできなかった、と報告している。*つまり、これら数字は、「経験の円錐」がいつのまにか「学習のピラミッド」へと独り歩きし、変化したようである。

 

まぁ…これにはじめて遭遇ってしたときに、思ったこと。それは、そうだろうなぁ…と理論がついてきた…って感じでした。

 

不思議な体験?

生徒として、「生活」という教科?総合的な学習の時間…実は、小学生の頃に体験して育ったんだよね…。今ならわかるのは、いっぱい先生たちが見に来ていたなぁ…は実は研究授業だったんだろうね。

 

また、教えあうことが学習定着につながるってこと。

これは中学のとき、社会の授業基本的に全部教えあいでしたね…当時は面倒って思っていたのですが…。

自分が教える立場になったとき、これがうまくできると、授業で単に教わるよりもたくさん学ぶ機会を持てるよね…って体験からくる記憶。

だから、いろいろやってみた。

どうやったら、お互い教えるってことをうまくできるか?実は、うまくいかないと、調べて教えようとするのは一部の子だけ…これが私の中学で学んだこと。

 

多くの人がいろんな先生方から学んでいるんだろうけど、そんな中で、私もたまたま…で、こんな風な学び方をさせていただきました。

感謝ですね。

 

そんな体験が新たなものにつながっていくのですね…。