ナショナル・ミニマム

新しい学習指導要領の理念と課題―確かな学力を基盤とした生きる力を』梶田叡一著

この中に梶田叡一氏(文部科学省・中央教育審議会副会長)の話がいろんな形で紹介されているのです。

そこに「家庭で新学習指導要領を考える」という章があり。

インタビュー記録で、『日本教育新聞tesio』2008年3月10日原題は 家庭で考える「新学習指導要領」とのこと。

家庭向けに書いてあるから、わかりやすい…と思うところ。

 

学習指導要領とは何ですか?

全国の子ども達が何の勉強をして、どんな力を身につけるべきかという最低限の内容を決めたもの。

この説明の続きがなるほど…って。わかりやすい!

 

 これがあるおかげで、日本ではどんなに山奥や小さな島に住んでいて重、一定したレベルの教育が受けられます。義務教育と聞くと、親や子どもの義務と思われがちですが、もう一つ、政府の義務でもあるんです。地域格差のない教育を提供するためにも、学習内容は、もちろん、先生の配置の仕方から校舎の建て方まで、さまざまな基準が設けられています。

 

その続きの言葉が、気になりました。

ナシャナル・ミニマム … 国全体で誰もが最小限身につけるべきこと

ローカル・オプティマム … その土地ならではの特徴を活かした勉強

 

ナショナル・ミニマム(national minimum)とは、国家(政府)が国民に対して保障する生活の最低限度(最低水準)のこと。

日本の場合、根拠は日本国憲法第25条。これを保障するための社会政策は、生活保護法など、それらを総称して「セーフティネット(安全網)」と呼ぶ場合がある。、国家として保障するものを「ナショナル・ミニマム」というが、地方自治体単位での最低限度の生活水準(生活環境水準)については「シビル・ミニマム(civil minimum)」という。

ウェッブ夫妻

 ウェッブ夫妻のいう「ナショナル・ミニマム」概念は,「最低賃金,最長労働時間,衛生安全,義務教育」の4つの項目からなる。

最低賃金が,現在の日本にも存在しているように,それは労働市場での自由な雇用契約に,一定の枠をはめて,これを規制していこうとする労働政策であった。ナショナル・ミニマムは,ベヴァリッジの「最低生活費保障原則」につながっていく福祉国家の最も根本的な理念の一つである。
 ところが,それは単に低所得者に対する平等主義的な所得分配策であったのではない。

「ナショナル・ミニマム」は,快適な労働条件によって労働者の健康,知力,活力を増大させ,また,劣悪な条件でしか労働者を雇用できない非効率な企業を追放することで,マーシャルのいう「有機的成長」を,加速度的に推し進めようとする生産力理論であった。

ちなみに,ウェッブのこうした主張は,東京大学,大河内一男教授が提唱したところの,生産力説的な社会政策論と,ほぼ等しい視点にある。大河内教授は,もちろんウェッブのこの面に気づいていたであろう。     

               ウェッブ夫妻『産業民主制論』(1897年)より

 

もともとは、教育用語ではないみたいですね。この用語を、このような使い方をするのは一般的なのかなぁ…?

教育に於けるナショナル・ミニマムというテーマで書いてあるブログのページ発見。

この記事は2005年9月の文章。

教育の国家責任とナショナル・ミニマム2012年04月発行

義務教育費国庫負担制度のあり方について  東京学芸大学 小塩 隆士

ナショナルミニマム研究会中間報告(案)  平 成 2 2 年 ● 月 ナショナルミニマム研究会 これは厚生労働省のサイトにあった…

ナショナルミニマム 平成22年厚生労働省報道のための資料みたいです。

日本の教育を考える10人委員会2011

これまでのナショナルミニマム研究会における各委員からの主な意見(事項別概要)

 

いろいろ探してみて、「ナショナルミニマム」という言葉が出ている文部科学省関係のものって…?

中央教育審議会 義務教育特別部会(第33回・第34回)議事録・配布資料

平成17年9月8日(木曜日)14時~18時

資料2 学習指導要領等の教育課程の基準等の在り方について

簡潔な言葉で国がナショナル・ミニマムとしての教育の基本を示すことが必要。

  ニートの問題を含め,義務教育の在り方,教育課程の在り方が問われており,日本の教育や各教科の水準,ナショナルミニマムがどうあるべきかの検討が必要。

 

これなのかなぁ…?

 

新教育基本法法制研究特別委員会公開研究会

 1. 全体テーマ 「教育・保育におけるナショナル・ミニマム・スタンダードと地域主権改革」 2. 期日 2010年10月16日(土) 午後1時30分~午後5時30分 (開場:午後1時) 3. 会場 桜美林大学四谷キャンパスB1ホール(地下1階) (JR四ツ谷駅、東京メトロ丸ノ内線・南北線四ツ谷駅より徒歩3分。) 4. 報告  渡部昭男(鳥取大学)  「障害児教育におけるナショナル・ミニマム・スタンダードのこれまでと今後」(仮)  横田光平(筑波大学)  「保育におけるナショナル・ミニマム・スタンダードのこれまでと今後」(仮)  山崎洋介   (ゆとりある教育を求め全国の教育条件を調べる会)  「義務教育費国庫負担法の現状と今後」(仮) 主催   日本教育法学会

東京都町田市教育プランが書いてある中に次のように紹介されてました。

2001 年の地方分権改革推進会議報告において、「ローカル・オプティマム」という言葉が登場したことに象徴されるように、地方公共団体には、地域住民のより高いレベルのニーズに応えて、地域ごとに最適の施策の組み合わせを探求し、その実現に向けて努力するという考え
方が求められています。
この考え方は、国がすべての国民に対して最低限の行政サービスを保証するという「ナショナル・ミニマム」の考え方と対立するものではなく、主権者である国民=地域住民の立場を重視し、真の分権社会の実現を目指すという点で同一基軸にあるものです。すなわち、国と地方
の役割分担を明確にして、国が責任をもつべき分野については、基盤整備等の面からその責務を十分に果たす必要があり、地方が責任をもつべき分野については、地方の自主性、主体性を十分に発揮していく必要があります。

ということで、2001年に「ローカル・オプティマム」という言葉が登場したんだ…。

学校教育におけるナショナル・ミニマムは、臨時教育審議会、教育改革国民会議、中央教育審議会などの組織で検討され、答申として示されてきましたが、その方向性は、時代背景や社会的要請を受けて変化してきています。
大綱的な基準や標準、あるいはナショナル・スタンダードと言われてきた学習指導要領についても、2004 年の中央教育審議会答申において「最低基準」というとらえ方があらためて強調され、ナショナル・ミニマムとしての特色が明確になっています。また一方で、社会的な要請や指摘を受けて、文部科学省が実施した全国的な学力調査やいじめ実態調査は、義務教育の責務である「水準の確保」について、国が責任をもって検証しようという動きです。

これは古いのかなぁ…?2004年が最後かなぁ…?

 

義務教育特別部会(第37回) 議事要旨  平成17年9月30日(金曜日)

資料3-1 義務教育は将来への投資!!ナショナルスタンダードを維持しつつ、地域の特色を取り入れた教育を(藤田委員からの配付資料)

 

 

本『新しい学習指導要領の理念と課題―確かな学力を基盤とした生きる力を』に書いてあることで、それってホント…?と思ってしまうところは、旧(現行)学習指導要領との差は何ですか?というところに書いてある言葉。

できるだけ子どもにラクをさせるのをよしとしたのが旧。これからは、子ども自身の頑張ろうとする気持ちや、いろいろな知識や能力を自分から身につけようとする態度を大事にした内容になります。

2単位になったんだから…ラクさせていられない…って思ってやってましたねぇ…。授業以外のところで学ぶ機会を持ってもらわないと、身についてもらえない…ってやっていたから、この一文はビックリ。

 

この表現の仕方は理解しやすいなぁ…と思わされた文章。

教育方法は違っていても、今、どの国の子どもたちにも必要とされているのは、確かな知識を駆使して自ら考え、判断できる力です。高度情報化社会を迎え、“おいしい“情報に子ども達が振り回されないためにも、大人が自立した人間としての在り方を示して、子どもが欲求や欲望に流されないようセーブしてあげる必要があります。

 その際のポイントは二つ。ひとつは、みんなが気持ちよく人間らしい生活を送れるよう、一定のルールを共有してときに我慢し、他人の都合も考えるということ。近代社会・国家が形成された原理である「法治主義」の考え方です。もうひとつは、自分の内側に良心や規範意識を作り、欲求をコントロールすること(=「超自我」の形成)。これら二つは自然には身に付きませんから、親がしつけを通して教えていきました。しかし近年では、親自身がそれらを理解していないことが多く、そこにつけ込んだマスコミをはじめとした学者や教師が「子どもに好き放題させることがいいこと」とあおったのが、「ゆとり教育」であったといえます。

 

わかりやすいけど、とっても凄い表現…。親がしつけを通して、子どもに何を身につけさせたらいいかを理解していないことが多いということ。そんな親の状態に対して、学者や教師がつけ込んだと書いてあること。すごい…ホントビックリ…。

自由にさせていないと偉く言われた…普通科での話が全て間違っているってことと思える文章。大元の文章を読むと、この「ゆとり教育」とは違うって思うのに、大筋のところで目指すところは一緒のはずなのでは?と思うのに、この否定文章凄いなぁ…。ただ、本当に心強く思うのは、この「子どもに好き放題させることがいいこと」と言わんばかりにしてきた管理職はじめ先生方から批判され続けたことが、おかしくなかったんだ…ってしみじみと。心強く思った文章ですね。

そういう意味では、この本のこの部分から先のページにずっと書いてある表現の中に感じられる批判的な姿勢。

ただ、違う受け取り方をされたら、また、なんか違うことになりそう…とは思いますね。

86ページ87ページに書いてあるアメリカやイギリスなど欧米の教育の話を日本の話みたい…って思うしかない。

 その結果、学力大幅に落ち、暴力や犯罪、中高生の妊娠が一気に増えました。自由奔放にしたら意欲がわくかというと、むしろ勉強する気が亡くなり、努力する気もなくなる。勝手気ままというのは、人間から活力を失わせるのです。子ども達の置かれた状況に危機感を覚えた欧米では、1985年以降、教育方針を180度転換しました。子どもが自分でものを考えた上で自己責任によって判断する、時制や字会を重んじる教育に戻したのです。

 

実際に出た結果としては、書いてあることって正しいなぁ…と思うことがいっぱい書いてあります。ただ、本当のところは、つけ込んだマスコミをはじめとした学者や教師が問題だったんじゃないの~?なんて思うことはあります。大元の答申とか読んでいて、こんな解釈に捻じ曲げる…?なんて思わされるマスコミ文章。そして、そんなマスコミなどのまとめて簡略化したものしか読んでいなかった教師と会話して通じない…と思うこと多々。

 

親に対して書いてあるこの文章を読んで、思うことは、読む親が多くないと伝わらないんだよねぇ…。

 

しつけを通して親が子供に身につけさせることとあげていることは、ある意味で、保育の授業で、親の役割として伝えるべきことなのかもしれない…?なんて思いながら、読んだのでした。

 

文部科学省が出している文章達から、見つけ出さないといけないのかもなぁ…。

 

教育基本法

第10条 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。

この「せいかつのために必要な習慣」「自立心」「心身の調和のとれた発達」というところに、ポイント2つがかかわっているのかもなぁ…。

 

この本を読んでいて、思うことは、新学習指導要領を理解しやすくしてくれているなぁ…というのと、梶田叡一氏の私見はどこからどこまでなのか?というか、私見として取った方がいいのでは?と思われる部分を公的な意見として取ることにもなりそうな本だなぁ…と思ったのでした。

書かれていることをごもっとも…なるほど…と思うのです。だけど、この一冊だけで理解してやっていこうとすると、見えない部分があるなぁ…と思いました。

 

朝粥

以前、京都へ行って、五山送り火を拝見しました。その時、一緒に行ったお茶の先生をはじめ…御一行。ホントは、私が行きたかったんだけど…って、朝がゆを食べに瓢亭へ。

 

残念ながら、私は五山送り火を見て、仕事のために帰路。

 

そこで、今回は朝がゆを食べてみたい~。電話をしたら、予約できました。

感謝。

 

8時に予約。

お店がどこにあるかも知らずに、予約したのでした。

宿泊したホテルは京都駅前。初めてわかったのは、どこにあるかってこと。

遠かったのを知らなかった。

朝バスが何時にあるのかなど、前日調べて、行きました。

瓢亭 http://hyotei.co.jp/

昔、祇園界隈で朝まで遊んでいた旦那衆と芸者さん達が「朝ごはんを食べさせてほしい」と言って出したのが始まりだとか。

明治初年から始めたんだそうです。

 

瓢亭って…?と書いてあったのは、元々は南禅寺総門外松林茶屋で、当時から茶と菓子と煮抜き玉子を提供していたんだそうです。

400年前に煮玉子ですか…?って驚きです。「瓢亭」と名のって料亭としてスタートしたのは1837年なんだそうです。

1864年の京の名所案内書『花洛名勝図絵』には、松林の中の南禅寺参道で、煮抜き玉子で知られる「瓢亭」と、湯豆腐を名物とする「丹後屋」が描かれているんだそうです。

 

「瓢亭」当主の高橋英一は「星の数の増減で店が左右されるのは心配だ」とミシュランへの掲載を断っている

 

実は、お昼に食べに行ったお店で教えてもらったのです。瓢亭ってミシュランで三ツ星のお店ですよって。知らなかった…。

調べたら、ちゃんと出てきました。へぇ~。

 

新館に…。

先生方は本店でいただいたみたいですね…。

 

瓢亭のお庭にメダカが泳いでいる…って思ってみてました。

 

 

こんなにうっすらとした味で楽しませるんだ…と感動しました。

 

朝一番、大福茶ではないのかな…梅茶を出されて、ゆったり過ごさせていただきました。

 

実は、どこにお店があるかもわからず伺いました。

早く着いたから、どうせなら南禅寺を参ってから行こうって思って、南禅寺へ。それから、南禅寺で教えていただいて店の場所を確認。下調べなしの行き方。

朝からすがすがしいスタートでした。

 

お店がどこにあるかもわからずに行ったのですが、教えていただけて感謝です。

 

南禅寺も素敵なお寺で、後からどんなお寺で…というお寺のことを知るのでした。

8時40分から中のお庭を拝見させていただける…って、おかゆをいただいた後に戻り、いろいろと拝見させていただきました。

 

はす ロータス

九州国立博物館にて撮影

 

いろんな種類を写すことができました。

9時ごろにはあまり咲いていなかったけど、12時ごろには結構さいていた。

朝咲く花ではないのですねぇ…。

7月の写真です。

蓮はロータス。

 

ロータスクーポン券など、耳にしているときに「蓮」というイメージがなかったです。

 

蓮の花の絵を印象派の画家の絵で拝見した初めてのとき、日本人の絵だと思ってましたねぇ…。

浅はかですが、そんな感じのイメージでした。

でも、インドなど仏教画にも蓮が出たり、飾りにも出てきたり…。

 

きれいに写した写真たち。

 

 

出雲大社 in 京都国立博物館

部分的に撮影可能でした。

神々の国しまね

高さ48メートルあったといわれる古代出雲大社本殿を再現

という、このイベント?だから写真撮影可能みたいでした。

 

日本神話においてスサノオが詠んだ

八雲立つ 出雲八重垣妻ごみに 八重垣作るその 八重垣を」

という和歌。日本最初の和歌らしい。

そんな古文の知識?日本史の知識?も全くなく、行きました。

 

私は知らなくても、小泉八雲は知っていて、凄いなぁ…。

パトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn) さん。

この方、出雲にいたことがあったらしい。そして、その出雲で神事を最初に見た外国人だとか。

さて、このスサノオの詠んだ和歌から、小泉八雲という名前をつけたんだそうです。

 

神々の国の首都「出雲」 神在月神事【神迎祭と神等去出祭】

ネット上でたくさんの写真と共に紹介して下さってました。

 

私にとっては、小泉八雲 といえば… 耳なし法一。

小学校にあがるまえに、読み聞かされたお話。そう思えば、こんな話を聞かせることもすごいなぁ…。

耳なし法一と紀伊国屋のブックカバーと小泉八雲はセットの思い出です。

「神社と神さま」がよくわかる本: 境内の見どころ・参拝マナーからご利益までを完全ガイド

この本を部分的にみることができるようになっている…ってこの本も、こうやって博物館で拝見した後なら、書いてあることも理解…。

 

相撲が神事なのは昔からなんだ…って、埴輪として相撲取りが…ウソでしょ?っておもったけど、確かに力士姿。

 

神事もよく知りませんでしたが、海から蛇がやってきて…という話だったり、博物館でお聞きしながら、へぇ…って不思議に、そんな神事が根付いている様子を拝見させていただいて、小泉八雲の感じた出雲体験は、確かに海外ではなくても、日本国内でもその地域以外から行くと神聖な感じなのかも…って思わされました。

 

『古事記』『日本書紀』なんて、名称だけは日本史で聞いて覚えているかなぁ…くらいのものでしたが、本居宣長と『古事記』との関係も習ったのかもしれないけど…ちっとも記憶になかったです。

ただ、この本居宣長が『古事記』に注目して調べる…ってことをするまでは、長らく無視されていた書物?みたいですね。

それを機に、再注目されて…それまでは、『日本書紀』優位の神話が一変して、『古事記』優位の神話が主体となり、現在にいたっているのだとか。

「古事記伝(こじきでん)」 これは国会図書館のサイトをリンクしています。

京都博物館で、直筆というものを拝見しました。きれいな字。読みやすい字でした。付箋は当時なかったものですが、紙を貼って、それにいろいろと書きこんで…という作業は、簡便化されて今はポストイットなどいろいろありますが、なくてもやっていたんだなぁ…と違う学びも。

 

生きている間には全て発刊されていないことなども知りました。

 

古事記は、その序によると、712年(和銅5年)太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ)によって献上された、現在、確認できる日本最古の歴史書なんだそうです。歴史書という認識ではなく、神話などが載っているモノと思ってましたね。

上・中・下の全3巻に分かれており、原本は存在していない。

後世の写本として残っている古事記の序文に書かれた和同年及び月日などによって年代が確認されているのだそうです。

 

あまてらすおおみかみ

おおくにぬしのかみ

などなど…

 

神社で見かけるお名前がずらっと出てきます。

本居宣長が『古事記』を注目させたから、それ以降に、そんな『古事記』に出てきているお話の絵が描かれたり…してきて今に至っているそうです。ですから、あるときから…江戸時代の本居宣長が『古事記伝』を発刊するまで、その中に出てくる物語の絵などは描かれていないとか。

 

古事記 上 太安万侶 著 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772088/1

こんな書き方すると、今時の本みたいですが、近代デジタルライブラリーで見ることができるんですよね。

まぁ…江戸時代の出版物。

本当に昔書かれていたのかなぁ…?という疑問の声もあるのも確か。

 

出雲大社だったかの柱図が展示されていましたが、それも遺跡が出るまではまがい者扱いされていたそうです。でも、実際にそのように柱をつくっていた…って遺跡が出てから、信憑性が出て…と、昔のことはホントわからないですよね。

 

力士姿の埴輪が出てきてから、古墳に一緒に人を埋めるのではなく、埴輪を埋めませんか?と言ったというそんな記述に出てきている人の名前なども、神話じゃなくて事実かも?とか、注目されたのだそうです。

 

いろんな神様が…って、日本だけでなく世界中の神様に通じるものがある神様たちの話。

遠く離れていそうな…そんな感じでも、ギリシャ神話とかにも共通するような感じ…って、小さいころにギリシャ神話の分厚い本を読まされてから思ったのも、あながち間違いではなさそう?

 

京都国立博物館に初めて行ったのですが、建物自体古い?

外で雷がゴロゴロと鳴っている…って室内でも聞こえる。雨も感じる。

東京の国立博物館も古い…でも、そちらの方が手が加えられていて、近代的になっている感じも。

 

日本の政治の流れ…って、奈良時代平安時代…と、見えないものにも存在を認め意識していた時代の話があるのも、それよりも前にそんな話が当然のようにあったから?と思わされる日本の歴史でした。

 

屋久島で教えてもらったんだよね。

出雲なのか、伊勢なのか、私はよく覚えていないけど、建て替えるって伊勢かな?その時には、屋根材に屋久杉が使われていたんだそうです。そうやって切りだしていた跡などが、屋久島では見ることができる。
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教えると言うことは

私は、この本のこの部分は、初めて家庭教師をするときに、父にきつく言われて…って、そんなこと知ってるよ…って思いながら言われた言葉で、改めて読みながら、他の人も同様のことを言う…と嬉しくおもった部分です。

 

教えるということは、「できない人を、できる人に変えること」です。

 

この文章の言葉を忘れていると、いっちゃうことば…

 

「いまの生徒は…」

「最近の新人は…」

 

私は、この言葉を言うようになったら、上司なり、先生なりのピークは過ぎたと考えています。

なぜなら、こうした言葉が頭に浮かんでしまうということは、自分の知識を部下や生徒のレベルに合わせることができなくなったことを意味しているからです。

 

ということで、父に私が教わった言葉は

 

「相手のレベルにまでおりて話す」を忘れてはいけない

 

正直、難しいです。特に家庭科でそれをするのは。

他の教科だと…って、たとえば数学だと、足し算ができないのなら足し算からフォローすればいいと思います。

たとえ、因数分解を教えなくてはいけなくても…、英語ならたとえ仮定法をおしえなければいけなくても…、なんて難しい話であろうとも、家庭教師をしているとき、最初にどの程度できるんだろう…?探りました。高校2年生の英語の家庭教師をしたとき、じゃあ…と英検3級問題をさせたら、馬鹿にしてるだろう?と言われましたが、3級が高校入学程度なら…そこで確認してみたら…解けて当たり前と思っているか、それを難しいと思う生徒かわかります。

中学3年生に教えたとき、「He am」など…高校に入学できるようにして欲しい…という親の願いに理解しながらも、どうしたら勉強するようになるか?必死に考えたことは、今でも忘れられません。

 

それでいて、改めて読んでこの本のこの文章に反応しているのは、そのところにこう書いてあるのです。

 

「説明を省いてしまえ」と思ったときは、疲れた証拠と心得よ

教える側は日々勉強し、知識が増えていく一方で、それを受ける側はどんどん入れ替わっていくので、レベルは一定です。つまり、教える側がキャリアを積むにしたがい、受けてとの知識量の差はどんどん乖離していってしまうのです。

たとえば、同じ内容を何度も何度もくり返し教えていると、次第に説明不足になっていきます。「AがBを経てCになる」という説明を何度もしていると、その流れは当たり前のことであり、「B」の説明を省いても聞き手には通じるだろうと思ってしまいます。

しかし、それをはじめて聞く聞き手にとっては、「AがBを経てCになる」ことは当然のことではなく、「B」の説明を省かれてしまえば、チンプンカンプンになってしまうのです。

自分のレベルが上がっていても、つねに教えを受ける側のレベルまでおりていくことができるか。じつは、これは非常に難しいことなのです。

 

 

本当に、この文章を読んだとき、この文章は何度でも読んで思い出さないといけない…って思わされました。「ここの説明を省こうかな…」と言う邪念は、疲れている。その発想は、忘れてはいけないなぁ…。

 

そんな本の章の最後に書かれている文章。私は本当に…って納得です。

 

その「いまの若い人」を育てたのは、その言葉を口にする大人たちでもあるのです。いまの若い人を責めるのは「いまの社会をつくっている大人たちはダメだ」と言っているのと同じだと言うことを肝に銘じたいものです。

 

私は、今の若い人、信じられない…という思いが湧くとき、いつもホント…有り得ない!親祖父母…世代のやってきたことの結果と見てました。もうすぐしたら、早いところでは私が教えた生徒たちの子どもたちが高校へ来るのか…と思うと、他人事ではないところ。私はそこを見て、何ができるか?って思ってきていたのですが、その結果が見えてき始める…と思うと、生徒が就職したところの上司と会話させていただくよりは気が楽ですが、少しでもいいから私が大事にしてきたことを伝わってくれているといいなぁ…そう思います。私も未熟でしたし…といっぱい生徒から学ぶこと多い…って、やり方をいろいろ試行錯誤したので、時代と生徒で変わっていってる自分の接し方もありますが、根底に絶対変えない…と最初から貫いていることもあります。それは、私が中学生の頃から貫いていることだから、この先も…変えないとは思いますが、それだけでも伝わっていると嬉しいな。

 

何を書いているやら…って感じになってますが、この本に書かれていることは、やってきたことを言葉にしてくれている…って心強く思える部分と、そのスタンスで慢心してしまったら…という警告的にも取れる言葉たち。そして、同じようなことを悩んでいる人がいるんだ…って、学ばせていただけて感謝です。私は言葉にうまくできなかったことも、言葉になっていたりして、凄いなぁ…って思います。

 

これが絶対ではないし、私も書いてあることを盲目的に全てとは思いませんが、こんなスタンスもOKなんだ…って心強く思わせてくださった本でした。