目利きの選択定期購入

へぇ~

 

2012年10月10日の日本経済新聞に書いてあって、気になったことは、自分で商品を選ぶことをしないで誰かにしてもらう人が増えている?ということ。

最終決定は自分で行うのでしょうけど…。

 

ミクシィにアクセスを最近していないので、どうなっているのかを確認できていません。だけど、「プティジュテ」というサービスを知りました。

5種類の提案から会員が好きなデザインをチョイス…と書いてありますが、5種類まで情報を選択して提案しているというこういうやり方って、もともと百貨店の機能だったのでは?と思います。要するに、百貨店って、その会社の商品選びの信用で提供している商品をセレクト…としているのでしょうに…と、それでも多いということでしょうね。

4200円という定価格という安心もあるのかもしれないなぁ…。どれを選んだとしても、この金額だ!という安心もあるのかなぁ…って思います。選択する側の金銭的負担が選ぶものによって上がる…これって予算をあげていくことにもなりかねませんよね。

 

レシピ投稿サイト「クックパッド」は会員になると野菜約30種類を生産者から届けるってサービスも始めたっていうのも、既存にそんなサービスあったのでは?と思いながら、レシピだけでなくそれに食材も加わるという発想。スーパーなど食材を販売しているところは、食材→レシピだったと思うのです。だけど、レシピ→食材。スーパーなどで食材を見ながら、何にしようかなぁ~今日…ではなく、レシピを見ながら、今日は何を食べようかなぁ…ってかんじ?考えるというか作り方が自分の中になくてもOKというところ、本を購入して本から何をつくるか…という選択をしないでインターネットからというなら、本って売れていないのかもねぇ…。

「専門家がよりすぐったという安心感」と書いてありましたが、働く女性や家事で忙しい主婦を中心に重宝する…きっと選択肢が多すぎるということもイマイチだということですね…。

誰かがセレクトする努力をしてくれた安心は、ネット上の商品を買う上であるかもしれないなぁ…と思います。デザインは写真からでもわかるけど、質感などわかりませんよね…。

いずれにしても良心的に運用されているという大前提があるから、安心して活用しているのでしょうね。

自分で自分が使うものを選ぶ暇がない…という人へのサービスとして百貨店が行っているサービスもテレビで紹介されているのを拝見しましたね。今、自分が身につける食べる…など衣食にかかわるところ誰かに依存する?この人に任せたらいいと信じる…?ショップ店員でもなく、八百屋のオジサンでもなく…とface to faceの関係ではなく、ネット上…小売店業者は大変だねぇ~という思いと、もしかしたら今はネット上かもしれないけど、こういったサイトからリアルなお店に展開した方が小売業も成り立つ?オレンジページの店みたいな感じの展開をつづきに予想してみました。

 

 

 

 

 

 

骨董品 アンティーク

新聞で「アンティーク」という言葉と「ビンテージ」という言葉の違いについて書いてあって、ふと、「骨董」は?なんて思ったのでした。

 

骨董品というと、なんかちょっと東洋っぽいイメージがあるけど、それだけなのかなぁ…?

 

調べてみると、Wikipediaでは、日本国語大辞典によれば、「希少価値や美術的な価値などのある古美術品や古道具類」という現在一般的に使われる意味の一方、「古いだけで価値がなく役にたたなくなったもの」とも説明されており、正反対の意味をそれぞれ含有している。志賀直哉の『邦子』には、「貴女達の眼から見れば、ああいふのは骨董品かしら。さうなると主人公も同様骨董の部だろうが」という一文がある。と書いてある。

 

アンティークは、国際的認識としては GATT(関税と貿易に関する一般協定)に「現在から100年以上さかのぼるもの」と分類されていて、明確な定義があります。
一方、ビンテージとは、Vin=フランス語でワイン、Age=年齢,年の意味でワインの生産年を表す言葉ですが、これの中に、「時を経て成熟した芳醇な味わいのあるもの」の意味を含んでいて、これが古いけど良いものという意味で扱われているのだと思います。

と説明しているものも発見。質問サイトでそうこたえていたものがありました。新聞には、アメリカ合衆国の関税法と書いてあるけど、GATTというのはそのことかなぁ?

 

日本アンティーク時計協会が示している、「アンティーク」の定義

一般的には製造後100年以上と紹介しながらも、そう考えるとデジタル時計は当てはまらないから、50年一区切りで考えてもいいのでは?と本来の意味にはそぐわないかもしれないけど…って提案されていました。

そっか…出始めの頃のデジタル時計なんて、古めかしそうなイメージあるなぁ…。

 

珠玉のマイノリティアートというサイトでは、アンティークの定義について

アメリカが定めた通商関税法(1934年)の考えによるものに過ぎません。その後、世界貿易機関(WTO)がこの基準を採用したため、すべての加盟国が従うことになったわけです。つまり、「アンティークとは100年を経過したもの」といわれる背景には、実際にはそれと何の関係もない「関税法」があったわけです。

という風に書いてありました。

アンティーク(antique)

ジャンク(junk)

ラビッシュ(rubbish)

ヴィンテージ(vintage)

などという概念があるということも知ることができました。

この分類は関税を課すか、課さないかの税法上の都合で決められたものです。最近では定義もあいまいになって、「アールデコの終わりの1940年までのものまでをアンティーク、1940年~60年頃の物をモダンアンティーク」と呼んでいるようです。

と、書いてあるブログ?を発見。アンティークBlah Blah Blahは、アンティークショップの店主さんのサイトだそうです。

 

なるほどねぇ…。と、実は、なんでアメリカはアンティークの定義をしたのだろう?と疑問を持ったのでした。

1930年当時のアンティークと言うと、この適宜では1830年代より昔のもの。

コレクタブル(Collectable)という言葉もあると知りました。

 

1934年互恵通商協定法

と呼ばれているモノのことなのかなぁ…?

1930年通商関税法と書いてある文章が多くて、どちらが正しいのだろう?と調べて見つけたのは1934年の法律もあるんだよねぇ…。

 

互恵通商協定法とは、貿易自由化政策の推進を目的として、1934年アメリカで制定された互恵主義による通商協定の法律。

他国がアメリカに関税上有利な待遇を与えた場合に、その国からの輸入品に対する関税を50%の範囲で引下げる権限を大統領に与えることを定めたもの。

 

ということは、やはり1930年に出ている通商関税法の大元に書いてある所にアンティークの定義があるのかなぁ…?

ニューディール期アメリカ互恵通商政策構想(三瓶)

 

米国関税法の始まりは、1789 年に制定された関税法(Tariff Act of 1789)である。現行の関税法は、米国法典第 19 編(Customs Duties)に整理されており、1930 年関税法(Tariff Act of 1930)を基本として、累次の通商法等による修正が行われている。

この表記は日本の平成 18 年 6 月に出された関税法研究会とりまとめから。

経済通産省の白書から

米国

 

これらを見ても、アンティークの話なんて触れられてませんね。

 

このサイトを見て、なるほどねぇ…と思ったこと。

アンティークか中古品か?

アメリカで、なんでこの100年前という言葉が出たのだろう?と疑問に、ある意味納得というのか、そういう見方もあるんだなぁ…と思った表記。

それは、

100年以上前のものは、手工業の作品。それ以降は、イギリス産業革命後、大量生産できるようになっているからという見方。なるほどねぇ…。イギリスの産業革命前後で判断するということならば、100年前と言っていたものが110年前、120年前…と増えていくかもね。

イギリス産業革命(1840年~)以前に製作された美術品や手工芸品のことをアンティークと呼ぶ。 また、それ以後に作られたものはジャンク(がらくた)と呼ぶ。
合衆国通商関税法(1930年に制定)による。※産業革命以後の量産が可能なものと区別している。

ただ、産業革命以後量産されたものか否かで、関税率を変えて対応したという話の中での定義なのかなぁ…?

1930年の米・通商関税法では「100年以上の古い美術品、工芸品、手工芸品をいう」と書いてあっても、不思議ではないなぁ…というのは、ジャンク(ガラクタ)には関税をかけないってことでしょ?

要するに、古い貴重なものをアメリカに輸出(輸入)する際は、税金をとろう!という話に、基準をどこに置くかと決めたってことかなぁ…と思ったのでした。

 

アメリカで は1930年の通商関税法に基づき、100年以上前のものをいう
イギリスではビクトリア時代が終わる1901年までをさす
フランスではアールヌー ボーが翳りを見せ始める頃まで
日本では50年 経ったものを一般にさす

と、書いてあるサイトも発見。デコール・ゴミプチというサイト。

 

なんとなく…感覚的な言葉にすぎないって思わされましたね。

 

骨董品の輸入手続き

ということを紹介しているジェトロのサイトを拝読しながら、思ったのは、やはり購入する人の意識についての言葉定義と言うよりは手続き上の問題みたい。世界基準も100年と決めたのは、お互いに輸出入をする時に、古いからガラクタを輸入している…と言って、高く販売して…ということに対して税金をかける意味では、税金の基準になる年数を決めたものなんだ…。この定義が、逆に短いと、税金かかりまくり…となる品物も出るのでは?

まだ、法的にアンティークとは判定されないけどいいもの…だと、ガラクタ的扱いで輸入もできるという感じに読み受けました。

 

 

 

枠わずか、育てやすい男子校

実は、この記事ともう一つの記事が欲しくてスクラップしていた日本経済新聞9月24日のある一面。

その中心にあった「問題解決力の育成」は、あんまり読んでいなかった。

というのも、大学の改革は、以前から言われて変わっているところと…変わらないところがいろいろあるなぁ…くらいに思っていたから。

 

そんな記事の隣に

枠わずか、競争率高く

「育てやすい」男子校

この見出しに、共学に今はなっているけど、男子校で働いていた友達の言葉を思い出させられた。

 

ここに書いてある男子校の良さ

…、小・中学校段階では圧倒的に女子の方が早熟であり、精神的に幼く母親への依存度の高い男の子は、男子だけの集団でじっくり育てていく方がいいと感じる。

というところ。これを書いた人は共学校育ちで、男子校への憧れを感じている人なんだそうです。

ただ、事実として男子校が減っているのは確か。競争率が高くなっているんだって。

そのことについて書いてある文章が面白いなぁ…って思いました。

 学校数が少なければ必然的に競争率は高くなり、希望通り男子校に進学するのは、母親のいうことをちゃんと聞き、しっかりお勉強ができる、真面目で行儀のよい優等生ばかりということになりかねない。

 難関大学に進学しても男子学生はいつまでも母親の庇護の下。海外留学や国際交流やボランティア活動などで活躍するのは女子ばかりという話も耳にする。「男の子を『男らしく』育てていく」などという時代錯誤のように受け取られるかもしれないが、今最も大きな教育の課題になっているように思えてならない。

まぁ…男子校に進んだ母親の言うことをそれまではちゃんと聞いていた人たちがその後も素直に聞いていたとしても、変化があるのでしょう。

もし、「難関大学に進学しても母親の庇護の下の男子学生」は、親の問題では?なんて思わされます。いつまでも、心配していたくて、心配している母親はあるもので…それを否定はしません。ただ、そんな母親の一番の問題は、息子以外に関心ごとはないのか?ってそっちが問題なのでは…?父親は…?ある意味、母親にとって父親への興味関心がないということが背景にありそうな感じもした文章。そして、父親の教育力の乏しさの表れに過ぎないと思うのです。だって、父親は思春期の男性心理を母親よりも知っているはず。そして、その時にはどのような援助や支援、そして関わり方をすることが成長に役立ちそうか…ということもわかるはずだと思うのです。それでも、母親の庇護を容認しているってことは、父親は同性でありながら自分の我が子の教育しない方が子どものため?と思っている…???母親の庇護を制することは、本人一人でやること?まぁ…そうであれば、母親の努力が足りない?

 

時代錯誤というか、多分、男の子を男らしく…じゃないと思うのです。

母親は自分の体験上、女の子に対してはどのようなことをして接するといいか?なんてわかっているのかも。だけど、男の子に対して同様のことをすると…問題かもって思っていないだけ。

 

草食系男子と言われたりしたけど、今はどう呼んでいるのかなぁ…?

 

この新聞記事と違うことを書くとしたら、そんな庇護を受けて育った男の子のいいところもあるはず…。それは、そうではなく育った人にはなかった良さだと思うのです。その一つとして、細やかに女性の心を察する能力が高くなっているのではなんて思います。火星と金星という違う惑星から来たなんて男女の違いを異惑星出身という表現をしている話もありますが、同じ惑星出身の男女が登場しているのかもね。

細やかに気付き気配りすることができる女性が減っている…というのも、本当は考える必要があるのかもね。

大きな教育課題かどうかはわかりません。

役割分担が逆転するのも時代の大きな流れの中ではあってもいいのでは?と思うから。それは、過去歴史を振り返っても、あってきたこと。そして、何がいいかはわからないなぁ…って思います。

少なくとも、性別だけで論じられてきたことが、一人の個として論じられるようになっている時代に、あえて書いている文章を読みながら、女子校にこだわる学校経営体制も一方であるよねぇ…。

 

いろんな人がいる方がいいのでは?という思いと、自分の好みとしてこんな男性にいてほしい…という著者の思いの違いかな。

 

ジェンダーバイアスと切り捨てることもできる文章と思いながら、読んでいてこの意識は男女共同参画社会を推進するには弊害だろうなぁ…なんて思わされました。

問題解決力の育成を

日本経済新聞2010年9月24日に書いてあった見出しです。

国家戦略会議の民間議員が今春、大学予算の配分にメリハリをつけ大学の統廃合の促進を含む高等教育の抜本改革を求めた。日本私立学校振興・共済事業団の河田悌一理事長(前関西大学学長)は提言に不満を見せながらも、真剣に耳を傾け大学改革を勧める必要があると指摘する。

コレのことについてなのかなぁ…?

 平成24年 第3回 国家戦略会議 平成24年4月9日(月)17:50~18:50 官邸2階小ホール

大学の統廃合等の促進を含む高等教育の抜本改革

 

新聞に書いてあることのうち、そうそう…まだこの意識の人がいるかも…?そう思います。

 

 つい十余年前まで、大学は企業の人事・就職担当者から、こう言われてきた。「大学ではあまり勉強させなくても結構。(体育会系)クラブ活動に精を出し、元気で、やる気と協調性のある学生であれば、それで十分です。教育はわが社でしっかりやり社風に合った人材に育成しますから」

 それが、最近は風向きが変わった。「学生が勉強していない」「大学はグローバル社会に適応する人材のい養成ができていない」「大学の数が多すぎる」…。

 

少なくとも、高校も一緒かもねぇ…。

だいたい、勉強する機関で勉強しなくていいと言っていたら、そのあとに役立つものの基礎基本を持っていない人が入ってきて当然でしょう。以前言われていた人事・就職担当の人が言っている教育の中身は、言ったらその通りにやる人作りだったのでは?と思います。それが、YESマン増やしても、世界に通用しないことを痛感している…だけでしょうね。

今年の4月に大学の統廃合等の促進を含む高等教育の抜本改革を行うべきという話が出たそうです。今更…?と思いますが、国公立が民営化?したときにすでに言われていたこと。

これは、その時に出された資料の中から。

①すべての子どもに課題解決のために自ら考え判断・行動できる「社会を生き抜く力」を育成

というところあたり、今更…?

逆に考えると、今の子どもたちは課題解決のために自ら考え判断・行動できていないと思っているということですよね。

②新しい価値を生み出し社会を牽引する人材や世界に伍するグローバルな人材の育成

要するに、YESマンして、勉強してきていなかった他人にはそれができていないってことでしょうね。

③大学自身が変わり、日本社会全体の変革を実現

この3つ目について、特に新聞記事では論じているのだろうと思うのです。

そして、それを受けて、8月に出た中央教育審議会の答申。

「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて-生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ-」

この中で、熱いメッセージ「予測困難で先行き不確かな時代に、将来を切り開く学術研究を行い地域や企業に有為な人材を輩出するのは大学だ」が込められているんだって。

著者が書いてあるのだけれど、「当たり前のことばかりだが…」とかいてある授業について日本では徹底されてきていなかったことがあげられています。

 

人を樹えるに如くはなし

 

と、田中真紀子さんなんだろうか?

この新聞記事を書いた人と総理大臣は別ものだからねぇ…

 

読みながら思いだしたのは、父の言葉。

大学で経済学を専攻していたと言っても、理論を知らない人たちばかり…。

父がある新聞社の新人さん達を教育?することをしないといけなくて、接するたびに?家で当時大学生だった私に話した言葉達のひとつ。

当時聞いている時は、父がそのあと教授候補に残らないかと言われていたという話を母から聞いていたので、そんだけ取りあえず勉強していた父だからそう思うんじゃない?なんて思いながら、自分自身の分野に対して同様のことを言われたくはないなぁ…と勉強してましたね。

 

新聞読みながら今更ながら…という思いをしたのは、小泉内閣の時に、大学が統廃合が進むだろう…という話はあった気がしますね。

【課題】
○ これまでは、物質的豊かさを追求する大量生産・消費などのニーズに対応するため、与えられた情報を短期間に理解、再生反復する
力を求め、平均的な能力・知識の効率的伝達に主眼 (教師のみによる一方向・一斉型の授業が中心)
○ 一方、変化の激しい今後の社会においては、解法のない新しい問題に対しても自ら適切な対応を考え実行していく課題解決力の育成
が重要。
○ 我が国の学力は回復傾向にあるが、世界トップレベルにはなお改善が必要。学力上位層は国際的にひけをとらないが下位層が多い。
○ 諸外国と比べて、日本の子ども達は学習そのものに対する関心や意識が低く、十分なモチベーションをもてないまま勉強している状況。
○ 加えて、地域や家庭の教育力が低下しており、子ども達の基本的な生活習慣、規範意識、態度などにも課題が見られる。

 

これは、①にあげられていることに対しての課題とされていること。

大学だけのこと…?

 

まぁ、大学教授の文章ですから…。

新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて~生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ~(答申)

平成24年8月28日 中央教育審議会

 

小さくて読みにくいなぁ…。

一部分拡大した。

要するに…、成熟社会に置いて求められていることは何?というところが大切かなぁ…と。

 

実は、それだけでなく、気になったこと…

④「貧困の世襲」を断ち切る教育の機会均等の保障

新聞からずれていくけど…。

多分、昔は貧困な家庭と言われる家が多くて、ただ、それでも「教育」に価値を見いだすかどうかは、個人に任されていたということかもしれない。だけど、今は国が考える時代?

「貧困の世襲」と言われている内容をよく知らないで書いています。確かに、学び続けたいという思いに対して経済的な困難性を言われることも理解できます。そして、そうやって学びたくても学び続けることを辞めざるを得ない…昔からですよねぇ…という思いもよぎります。

あえて、そんなことをわかった上で思うことは、本当に貧困の世襲になっている部分と、お金の使い方が違う部分も見ないといけないと思うのです。同じ収入であっても、使い方が違うことが影響している部分を抜きに、「貧困の世襲」というカテゴリーに入っていることってない?また、実は断ち切る教育をするためには、親世代に対して伝えることがあるかもしれないのでは?

インドや…と、新興国と言われている国々の人達で大学へ行ける人はかなりのエリート。だけど、インターネットが通り、いろんなところで世界中の情報を得ることができるようになって、中国の山奥であってもアメリカの最先端の授業を知る機会ができた…学ぶ機会ができた…。貪欲に勉強する背景は貧困からの脱却のため…なんて話も聞いたことがあります。

数学ができたら、貧困から脱却できる…から、数学をがんばるっていう記事を読んだことも…。

 

不思議な感じですが、日本は?

 

○運動部等と異なり、科学好きの学生・生徒が競い合う場が不足
(米国はサイエンス・オリンピアド等を実施)
○学年が高くなるにつれ、理科好きな子どもの割合が低下
(小学校5年74%→中学校2年59%)

正直、韓国・フィンランド・香港という対照群の選出理由が知りたいけど…

レベル1以下だけでのことではなく、レベル1・2以下と見たら10%くらいの差がありますね。

「大学ではあまり勉強させなくても結構。(体育会系)クラブ活動に精を出し、元気で、やる気と協調性のある学生であれば、それで十分です。教育はわが社でしっかりやり社風に合った人材に育成しますから」

この言葉って、大学だけでなく、高校に対しても言われていた…まことしやかに…というより、未だにこれを信じている先生だけでなく、保護者が多いのでは?なんて思わされることがありますね。

 

私が一番思うことは、自分も体育会系のクラブ活動に取り組んできたけど、大きく違いがあるなぁ…と自分との違いというか、私が高校時代のクラブ活動で周りの人たちが言っていたから自分も意識させられてきていたことの違いがある。

それは、部活をするからには、それをしてもいいという学業成績を出しておかなければいけない。あくまでも部活って余暇の時間の取組みで、本業は学生は勉強…そんな感じのことを当然という感じで…、勉強できないのなら部活をする資格はない…みたいな感じで接されている親を持つ人達がいっぱいいた。だけど、教員になってそんな感じがない学校…と、学校の教員の方にその意識がない学校…。部活で成果を出せばいい?それで一生過ごせると企業の人事の人たちの言葉で思っていたのかなぁ?

 

この記事を読む前から、企業では人材を育成するゆとりがなくなった…など聞いていたし、身に付けていることがあまりない…そんな人が雇われないのも無理はない…かな?と思わされることも見聞きするけど、今更…という感じ。そして、単に勘違いしていた人がいっぱい大企業とかに増えていただけって思うのです。

いつだって、学ばないといけない…って努力している人はいるし、体育会系のクラブ活動に取り組むかどうかより基底に必要なことがあるということを認識していた人たちは文武両立当然だったはず。文武両立させての体育会系クラブ出身者のよさだった話が、片方なくてもいい…みたいに勘違いした先輩方がいたのは、目先の後輩可愛さで、根本として自分が働いている企業のためではなかっただけ。

 

私が聞いた高校での指導の中で、ばっかじゃない…の一つに、「大学行ったら勉強しなくていいんだから」と進学校と言われる高校での生徒への講話とか。

 

本当は、余りにも浸透し過ぎたおかしな価値観とするのなら、企業の言葉として紹介されていることの撤回的なことは、もっと周知しないと世の中は変わらないと思いました。

 

問題解決力って、大学でいきなりできるようになることではないけど…ってね。

 

問題解決力と言われる力には、いくつかの要素としての力があって、初めてできること…なんて言われていることの方が多いよねぇ…

 

大学さえ行ったらどうにかなる?

正直、大学行かなくても問題解決力がついた方がどうにかなると私は思いますね。

大学進学って、問題解決の一つでしかないと思うのでした。

おかげさまの言葉

ようやく今のところいただいている待機中のコメントを全て読ませていただきました。

本当に人をほめることばを駆使できる方に学ぶことが多いと思います。

 

私は記録したいと思っていたことを書きます。

それは、新聞に出ていた商品の広告で知りえました。だけど、素敵な言葉達。それらの言葉に絵を添えて販売されているモノですが、言葉が素敵…と記録したかったのです。もちろん、絵も素敵です。

 

1月 夜空

「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて冷やしかりけり」

無心に四季と向き合い、自然の美を素直に愛でる。ありのままこそ大切にしたい。曹洞宗の開祖、道元禅師が夜空を眺めながら詠ったと言われている言葉。

2月 花誰為開

「花は誰のために咲く いやいや 時がくるのを待っている」

花だけでなく、万物はすべて機が熟し、時が来れば開花します。天分を信じ、惑わされることなく、その時に備え精進したいと、禅の言葉「花誰為開」が教えてくれます。

このことば、焦る思いなどいろんな葛藤を静めてくれます。供えることの大切さ。手を抜かない努力を積み重ねることの大切さですね。

3月 花芽

「梅ひらき 桃ふくらみて 桜まつ」

春が近づくと、次第に膨らむ花芽があり、一方で散ってゆくものがあります。季節の移ろい、人生も移ろう。時には立ち止まり、じっとその流れを見守ってみるのもよいかもしれません。

今年の春は、全てが同時期に咲いた気がします。

4月 喫茶去

「まぁ、お茶でも」

 私たちは日頃、目の前の人を表面的なことで区別して対応しがちです。「喫茶去」とは、禅ではどんな人に対しても同等の態度で余計な分別をいれず、真心をもって接してゆきたいもの、という意をもつと言われています。とにもかくにも「まあ、お茶でも」。

先入観を持たない大切さを行っているのかなぁ…なんて思わされました。

5月 道

「一度きりの尊い道を 今、歩いている」

人生は一度きり。毎日の忙しさや楽しさに、私たちはつい忘れがちです。だからこそ、投げやりになったとき、決断を迫られた時、そして、平板な毎日にも思い起こしたい。人生は一度きり。

こう思うとむしょうに焦りを覚えます。悔しさや憤りも感じます。

6月泥中の華

「なに思う 泥中にあり 蓮の華」

お釈迦様は「高原陸地に蓮華生ぜず、卑湿汚泥にこの花を生ず」と話されました。泥なくして美しい花は咲きません。この泥を、如何にして肥料として昇華していくかが問われています。

清んだ水には蓮は咲かないと言うことでしょうか?

7月 おかえりなさい

「おかえりなさい」それは人を迎える言葉。待っていた願いがかなう喜び。戻ってきてくれたことへの感謝。この言葉をたくさん言える人は幸せです。お盆の季節。「おかえりなさい」の気持ちを、今は亡き大切な人へも。

おかえりなさいと伝える大切さを思わされます。

お盆を7月ではなく8月に行う…と言っても、季節問わず言霊の大切さを思わされたのでした。

8月 山鳥

「ほろほろと 鳴く山鳥の声聞かば 父かとぞ思う母かとぞ思う」

山鳥がほろほろと鳴く声を聞くと、あれは父かと思う、母かと思う。先に旅立つ存在である親への情愛は美しくも悲しいもの。奈良の大仏建立を支えた僧・行基の言葉です。

姿が見えるばかりが全てではないと思うのでした。そして、この歌を詠んだときの行基の両親は生きていたのかなぁ…?なんて思わされました。

9月 常緑

「松はいつも青々してるんだ 惑わず変らず」錦秋の中にあって色を変えない常緑の松。「松無古今色」(まつにここんのいろなし)とは禅の言葉。周囲に惑わされず、変わらざる心で生きたい。静かで強い意志を持った言葉です。

この言葉を冬のものとして昨年知りました。だけど、このように書かれると、色移ろう秋にも確かに…。いろんなとり方があるものだと思いました。

10月 喝采

「よい一日を 喝采」日一日を大切に、より良く生きたい。自分自身で願うだけでなく、全ての生きる人たちが、互いに親愛と存在への喜びを分かち合い、励まし合うことができたら、どれほど素晴らしいでしょうか。

11月 おかげさま

「好きなひと 嫌いなひと 愛するひと みんながいたから今がある」貴方の一年を彩った多くの「人」たち。人は人との関わりの中でしか生きていけません。それでこその今に感謝して、一年を締めくくりたいものです。

この10月11月本当に、頭で理解できていたとしても、本当にその通りだなぁ…そう思わされました。頭でわかっていても、心から思う難しさ。一番難しいこと「赦すこと」ということをしみじみと思うのです。

あきらめるのではなく、「赦すこと」…

12月 そのまんま

「そのまま そのまんま」お正月。この時ばかりは、「今年こそ」と誰しも新たな誓いを心ひそかに想うもの。でも気負うことなく、あえて今の自分を肯定することが、より良く生きることへ繋がってゆくのかも知れません。

こうやって12月分。新聞の1面を利用した広告。9月13日のものを書こう書こう…と持ってました。