ナショナル・ミニマム

新しい学習指導要領の理念と課題―確かな学力を基盤とした生きる力を』梶田叡一著

この中に梶田叡一氏(文部科学省・中央教育審議会副会長)の話がいろんな形で紹介されているのです。

そこに「家庭で新学習指導要領を考える」という章があり。

インタビュー記録で、『日本教育新聞tesio』2008年3月10日原題は 家庭で考える「新学習指導要領」とのこと。

家庭向けに書いてあるから、わかりやすい…と思うところ。

 

学習指導要領とは何ですか?

全国の子ども達が何の勉強をして、どんな力を身につけるべきかという最低限の内容を決めたもの。

この説明の続きがなるほど…って。わかりやすい!

 

 これがあるおかげで、日本ではどんなに山奥や小さな島に住んでいて重、一定したレベルの教育が受けられます。義務教育と聞くと、親や子どもの義務と思われがちですが、もう一つ、政府の義務でもあるんです。地域格差のない教育を提供するためにも、学習内容は、もちろん、先生の配置の仕方から校舎の建て方まで、さまざまな基準が設けられています。

 

その続きの言葉が、気になりました。

ナシャナル・ミニマム … 国全体で誰もが最小限身につけるべきこと

ローカル・オプティマム … その土地ならではの特徴を活かした勉強

 

ナショナル・ミニマム(national minimum)とは、国家(政府)が国民に対して保障する生活の最低限度(最低水準)のこと。

日本の場合、根拠は日本国憲法第25条。これを保障するための社会政策は、生活保護法など、それらを総称して「セーフティネット(安全網)」と呼ぶ場合がある。、国家として保障するものを「ナショナル・ミニマム」というが、地方自治体単位での最低限度の生活水準(生活環境水準)については「シビル・ミニマム(civil minimum)」という。

ウェッブ夫妻

 ウェッブ夫妻のいう「ナショナル・ミニマム」概念は,「最低賃金,最長労働時間,衛生安全,義務教育」の4つの項目からなる。

最低賃金が,現在の日本にも存在しているように,それは労働市場での自由な雇用契約に,一定の枠をはめて,これを規制していこうとする労働政策であった。ナショナル・ミニマムは,ベヴァリッジの「最低生活費保障原則」につながっていく福祉国家の最も根本的な理念の一つである。
 ところが,それは単に低所得者に対する平等主義的な所得分配策であったのではない。

「ナショナル・ミニマム」は,快適な労働条件によって労働者の健康,知力,活力を増大させ,また,劣悪な条件でしか労働者を雇用できない非効率な企業を追放することで,マーシャルのいう「有機的成長」を,加速度的に推し進めようとする生産力理論であった。

ちなみに,ウェッブのこうした主張は,東京大学,大河内一男教授が提唱したところの,生産力説的な社会政策論と,ほぼ等しい視点にある。大河内教授は,もちろんウェッブのこの面に気づいていたであろう。     

               ウェッブ夫妻『産業民主制論』(1897年)より

 

もともとは、教育用語ではないみたいですね。この用語を、このような使い方をするのは一般的なのかなぁ…?

教育に於けるナショナル・ミニマムというテーマで書いてあるブログのページ発見。

この記事は2005年9月の文章。

教育の国家責任とナショナル・ミニマム2012年04月発行

義務教育費国庫負担制度のあり方について  東京学芸大学 小塩 隆士

ナショナルミニマム研究会中間報告(案)  平 成 2 2 年 ● 月 ナショナルミニマム研究会 これは厚生労働省のサイトにあった…

ナショナルミニマム 平成22年厚生労働省報道のための資料みたいです。

日本の教育を考える10人委員会2011

これまでのナショナルミニマム研究会における各委員からの主な意見(事項別概要)

 

いろいろ探してみて、「ナショナルミニマム」という言葉が出ている文部科学省関係のものって…?

中央教育審議会 義務教育特別部会(第33回・第34回)議事録・配布資料

平成17年9月8日(木曜日)14時~18時

資料2 学習指導要領等の教育課程の基準等の在り方について

簡潔な言葉で国がナショナル・ミニマムとしての教育の基本を示すことが必要。

  ニートの問題を含め,義務教育の在り方,教育課程の在り方が問われており,日本の教育や各教科の水準,ナショナルミニマムがどうあるべきかの検討が必要。

 

これなのかなぁ…?

 

新教育基本法法制研究特別委員会公開研究会

 1. 全体テーマ 「教育・保育におけるナショナル・ミニマム・スタンダードと地域主権改革」 2. 期日 2010年10月16日(土) 午後1時30分~午後5時30分 (開場:午後1時) 3. 会場 桜美林大学四谷キャンパスB1ホール(地下1階) (JR四ツ谷駅、東京メトロ丸ノ内線・南北線四ツ谷駅より徒歩3分。) 4. 報告  渡部昭男(鳥取大学)  「障害児教育におけるナショナル・ミニマム・スタンダードのこれまでと今後」(仮)  横田光平(筑波大学)  「保育におけるナショナル・ミニマム・スタンダードのこれまでと今後」(仮)  山崎洋介   (ゆとりある教育を求め全国の教育条件を調べる会)  「義務教育費国庫負担法の現状と今後」(仮) 主催   日本教育法学会

東京都町田市教育プランが書いてある中に次のように紹介されてました。

2001 年の地方分権改革推進会議報告において、「ローカル・オプティマム」という言葉が登場したことに象徴されるように、地方公共団体には、地域住民のより高いレベルのニーズに応えて、地域ごとに最適の施策の組み合わせを探求し、その実現に向けて努力するという考え
方が求められています。
この考え方は、国がすべての国民に対して最低限の行政サービスを保証するという「ナショナル・ミニマム」の考え方と対立するものではなく、主権者である国民=地域住民の立場を重視し、真の分権社会の実現を目指すという点で同一基軸にあるものです。すなわち、国と地方
の役割分担を明確にして、国が責任をもつべき分野については、基盤整備等の面からその責務を十分に果たす必要があり、地方が責任をもつべき分野については、地方の自主性、主体性を十分に発揮していく必要があります。

ということで、2001年に「ローカル・オプティマム」という言葉が登場したんだ…。

学校教育におけるナショナル・ミニマムは、臨時教育審議会、教育改革国民会議、中央教育審議会などの組織で検討され、答申として示されてきましたが、その方向性は、時代背景や社会的要請を受けて変化してきています。
大綱的な基準や標準、あるいはナショナル・スタンダードと言われてきた学習指導要領についても、2004 年の中央教育審議会答申において「最低基準」というとらえ方があらためて強調され、ナショナル・ミニマムとしての特色が明確になっています。また一方で、社会的な要請や指摘を受けて、文部科学省が実施した全国的な学力調査やいじめ実態調査は、義務教育の責務である「水準の確保」について、国が責任をもって検証しようという動きです。

これは古いのかなぁ…?2004年が最後かなぁ…?

 

義務教育特別部会(第37回) 議事要旨  平成17年9月30日(金曜日)

資料3-1 義務教育は将来への投資!!ナショナルスタンダードを維持しつつ、地域の特色を取り入れた教育を(藤田委員からの配付資料)

 

 

本『新しい学習指導要領の理念と課題―確かな学力を基盤とした生きる力を』に書いてあることで、それってホント…?と思ってしまうところは、旧(現行)学習指導要領との差は何ですか?というところに書いてある言葉。

できるだけ子どもにラクをさせるのをよしとしたのが旧。これからは、子ども自身の頑張ろうとする気持ちや、いろいろな知識や能力を自分から身につけようとする態度を大事にした内容になります。

2単位になったんだから…ラクさせていられない…って思ってやってましたねぇ…。授業以外のところで学ぶ機会を持ってもらわないと、身についてもらえない…ってやっていたから、この一文はビックリ。

 

この表現の仕方は理解しやすいなぁ…と思わされた文章。

教育方法は違っていても、今、どの国の子どもたちにも必要とされているのは、確かな知識を駆使して自ら考え、判断できる力です。高度情報化社会を迎え、“おいしい“情報に子ども達が振り回されないためにも、大人が自立した人間としての在り方を示して、子どもが欲求や欲望に流されないようセーブしてあげる必要があります。

 その際のポイントは二つ。ひとつは、みんなが気持ちよく人間らしい生活を送れるよう、一定のルールを共有してときに我慢し、他人の都合も考えるということ。近代社会・国家が形成された原理である「法治主義」の考え方です。もうひとつは、自分の内側に良心や規範意識を作り、欲求をコントロールすること(=「超自我」の形成)。これら二つは自然には身に付きませんから、親がしつけを通して教えていきました。しかし近年では、親自身がそれらを理解していないことが多く、そこにつけ込んだマスコミをはじめとした学者や教師が「子どもに好き放題させることがいいこと」とあおったのが、「ゆとり教育」であったといえます。

 

わかりやすいけど、とっても凄い表現…。親がしつけを通して、子どもに何を身につけさせたらいいかを理解していないことが多いということ。そんな親の状態に対して、学者や教師がつけ込んだと書いてあること。すごい…ホントビックリ…。

自由にさせていないと偉く言われた…普通科での話が全て間違っているってことと思える文章。大元の文章を読むと、この「ゆとり教育」とは違うって思うのに、大筋のところで目指すところは一緒のはずなのでは?と思うのに、この否定文章凄いなぁ…。ただ、本当に心強く思うのは、この「子どもに好き放題させることがいいこと」と言わんばかりにしてきた管理職はじめ先生方から批判され続けたことが、おかしくなかったんだ…ってしみじみと。心強く思った文章ですね。

そういう意味では、この本のこの部分から先のページにずっと書いてある表現の中に感じられる批判的な姿勢。

ただ、違う受け取り方をされたら、また、なんか違うことになりそう…とは思いますね。

86ページ87ページに書いてあるアメリカやイギリスなど欧米の教育の話を日本の話みたい…って思うしかない。

 その結果、学力大幅に落ち、暴力や犯罪、中高生の妊娠が一気に増えました。自由奔放にしたら意欲がわくかというと、むしろ勉強する気が亡くなり、努力する気もなくなる。勝手気ままというのは、人間から活力を失わせるのです。子ども達の置かれた状況に危機感を覚えた欧米では、1985年以降、教育方針を180度転換しました。子どもが自分でものを考えた上で自己責任によって判断する、時制や字会を重んじる教育に戻したのです。

 

実際に出た結果としては、書いてあることって正しいなぁ…と思うことがいっぱい書いてあります。ただ、本当のところは、つけ込んだマスコミをはじめとした学者や教師が問題だったんじゃないの~?なんて思うことはあります。大元の答申とか読んでいて、こんな解釈に捻じ曲げる…?なんて思わされるマスコミ文章。そして、そんなマスコミなどのまとめて簡略化したものしか読んでいなかった教師と会話して通じない…と思うこと多々。

 

親に対して書いてあるこの文章を読んで、思うことは、読む親が多くないと伝わらないんだよねぇ…。

 

しつけを通して親が子供に身につけさせることとあげていることは、ある意味で、保育の授業で、親の役割として伝えるべきことなのかもしれない…?なんて思いながら、読んだのでした。

 

文部科学省が出している文章達から、見つけ出さないといけないのかもなぁ…。

 

教育基本法

第10条 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。

この「せいかつのために必要な習慣」「自立心」「心身の調和のとれた発達」というところに、ポイント2つがかかわっているのかもなぁ…。

 

この本を読んでいて、思うことは、新学習指導要領を理解しやすくしてくれているなぁ…というのと、梶田叡一氏の私見はどこからどこまでなのか?というか、私見として取った方がいいのでは?と思われる部分を公的な意見として取ることにもなりそうな本だなぁ…と思ったのでした。

書かれていることをごもっとも…なるほど…と思うのです。だけど、この一冊だけで理解してやっていこうとすると、見えない部分があるなぁ…と思いました。

 

教えると言うことは

私は、この本のこの部分は、初めて家庭教師をするときに、父にきつく言われて…って、そんなこと知ってるよ…って思いながら言われた言葉で、改めて読みながら、他の人も同様のことを言う…と嬉しくおもった部分です。

 

教えるということは、「できない人を、できる人に変えること」です。

 

この文章の言葉を忘れていると、いっちゃうことば…

 

「いまの生徒は…」

「最近の新人は…」

 

私は、この言葉を言うようになったら、上司なり、先生なりのピークは過ぎたと考えています。

なぜなら、こうした言葉が頭に浮かんでしまうということは、自分の知識を部下や生徒のレベルに合わせることができなくなったことを意味しているからです。

 

ということで、父に私が教わった言葉は

 

「相手のレベルにまでおりて話す」を忘れてはいけない

 

正直、難しいです。特に家庭科でそれをするのは。

他の教科だと…って、たとえば数学だと、足し算ができないのなら足し算からフォローすればいいと思います。

たとえ、因数分解を教えなくてはいけなくても…、英語ならたとえ仮定法をおしえなければいけなくても…、なんて難しい話であろうとも、家庭教師をしているとき、最初にどの程度できるんだろう…?探りました。高校2年生の英語の家庭教師をしたとき、じゃあ…と英検3級問題をさせたら、馬鹿にしてるだろう?と言われましたが、3級が高校入学程度なら…そこで確認してみたら…解けて当たり前と思っているか、それを難しいと思う生徒かわかります。

中学3年生に教えたとき、「He am」など…高校に入学できるようにして欲しい…という親の願いに理解しながらも、どうしたら勉強するようになるか?必死に考えたことは、今でも忘れられません。

 

それでいて、改めて読んでこの本のこの文章に反応しているのは、そのところにこう書いてあるのです。

 

「説明を省いてしまえ」と思ったときは、疲れた証拠と心得よ

教える側は日々勉強し、知識が増えていく一方で、それを受ける側はどんどん入れ替わっていくので、レベルは一定です。つまり、教える側がキャリアを積むにしたがい、受けてとの知識量の差はどんどん乖離していってしまうのです。

たとえば、同じ内容を何度も何度もくり返し教えていると、次第に説明不足になっていきます。「AがBを経てCになる」という説明を何度もしていると、その流れは当たり前のことであり、「B」の説明を省いても聞き手には通じるだろうと思ってしまいます。

しかし、それをはじめて聞く聞き手にとっては、「AがBを経てCになる」ことは当然のことではなく、「B」の説明を省かれてしまえば、チンプンカンプンになってしまうのです。

自分のレベルが上がっていても、つねに教えを受ける側のレベルまでおりていくことができるか。じつは、これは非常に難しいことなのです。

 

 

本当に、この文章を読んだとき、この文章は何度でも読んで思い出さないといけない…って思わされました。「ここの説明を省こうかな…」と言う邪念は、疲れている。その発想は、忘れてはいけないなぁ…。

 

そんな本の章の最後に書かれている文章。私は本当に…って納得です。

 

その「いまの若い人」を育てたのは、その言葉を口にする大人たちでもあるのです。いまの若い人を責めるのは「いまの社会をつくっている大人たちはダメだ」と言っているのと同じだと言うことを肝に銘じたいものです。

 

私は、今の若い人、信じられない…という思いが湧くとき、いつもホント…有り得ない!親祖父母…世代のやってきたことの結果と見てました。もうすぐしたら、早いところでは私が教えた生徒たちの子どもたちが高校へ来るのか…と思うと、他人事ではないところ。私はそこを見て、何ができるか?って思ってきていたのですが、その結果が見えてき始める…と思うと、生徒が就職したところの上司と会話させていただくよりは気が楽ですが、少しでもいいから私が大事にしてきたことを伝わってくれているといいなぁ…そう思います。私も未熟でしたし…といっぱい生徒から学ぶこと多い…って、やり方をいろいろ試行錯誤したので、時代と生徒で変わっていってる自分の接し方もありますが、根底に絶対変えない…と最初から貫いていることもあります。それは、私が中学生の頃から貫いていることだから、この先も…変えないとは思いますが、それだけでも伝わっていると嬉しいな。

 

何を書いているやら…って感じになってますが、この本に書かれていることは、やってきたことを言葉にしてくれている…って心強く思える部分と、そのスタンスで慢心してしまったら…という警告的にも取れる言葉たち。そして、同じようなことを悩んでいる人がいるんだ…って、学ばせていただけて感謝です。私は言葉にうまくできなかったことも、言葉になっていたりして、凄いなぁ…って思います。

 

これが絶対ではないし、私も書いてあることを盲目的に全てとは思いませんが、こんなスタンスもOKなんだ…って心強く思わせてくださった本でした。

高校時代の勉強時間 大学・就職満足度に影響

日経新聞2012年8月14日朝刊より

上記タイトルの記事。

はぁ…?

高校時代に家で勉強する時間が少ないと、大学での達成感や就職内定先の企業への満足度が低い。

だそうです。

それを調べていて見つけた資料

 

なぜ日本の大学生は欧米の大学生に比べて勉強しないのか

こちらの方が面白そう…。

資料1 鈴木委員提出資料:文部科学省

 大学で育成する人材像と大学政策

大学で育成する人材像と大学政策

 

高校時代の勉強時間でその後が違う…。

同じ大学の人で比べたのかなぁ…?と疑問を持ちましたが、この文章は納得!と思ったのでした。

同センター元教授で、調査を担当した金子元久・筑波大教授は「高校時代に自分で勉強する習慣を身に付けていない学生は、自主的な学習が中心となる大学での成長の機会を積極的に活用できない傾向があり、キャリア形成にも影響しているようだ」と分析。

そうでしょうねぇ…というのと、これはなんかそうか…っと納得データは

高校生の授業外の勉強時間は、学力注意そうで減少傾向にあり、ベネッセ教育研究開発センターによると、1990年の112分(平日1日当たり)から2006年には60分(同)にほぼ半減した。

この文章を見ると、このデータはきっと正しいだろうなぁ…なんて納得しながらも、正直1時間以下か1時間越かで話を展開していることに「はぁ~?」って思う感覚も世代間ギャップで正しいってことですね。

1時間しか勉強していないで大学へ行こうって考えること自体、大学要らないんじゃない?とか言ったらダメなのでしょうか…私にとって一番わからないところですね。

 

たかが1時間勉強しているかしていないか…って思うけど、その1時間もしていない人たちが増えている…というお話の方が問題なんじゃない?それで大学行って…ホント変!と言ったらダメでしょうけど、

平成24年度全国学力・学習状況調査 理科

平成24年度全国学力・学習状況調査の結果が昨日新聞に出ていました。

見ていて、疑問。

調べてみました。

平成24年度全国学力・学習状況調査の解説資料 http://www.nier.go.jp/12chousa/12kaisetu.htm

平成24年度全国学力・学習状況調査の調査問題 http://www.nier.go.jp/12chousa/12mondai.htm

平成24年度全国学力・学習状況調査の正答例 http://www.nier.go.jp/12chousa/12seitourei.htm

平成24年度 全国学力・学習状況調査 調査結果 http://www.nier.go.jp/12chousakekkahoukoku/index.htm

H24全国学力・学習状況調査の結果をまず読みました。そして、気になったところは…。

新聞にも載っていたのですが、理科。

私の気になったところに→を入れました。

7.8%って何?

2(2)の問題は

1つの回路で,2つの実験と同じ結果を得るための測定方法を説明する

という問題でした。

抵抗の直列つなぎ,並列つなぎなどに関する知識を活用して,他者の実験方法を検討し改善して,正しい実験方法を説明することができる

そんな力を見るらしいのですが、ホントに7.8%正答率。

だけど、私はそれよりもこちらに注目してしまいました。

道がそれる…という注目かもしれませんが、無回答率39.7%、正答率11.5%

これって、前までの流れの問題がわかっていなくても解けるのでは?なんて思うのです。

どちらの問題かというと、(6)です。無回答率39.7%、正答率11.5%というような問題???

単に時間が足りなかっただけ?単位を変えることができなかった?後は…習っていない?

 

ちなみに、7.8%正答率の2(2)の問題は無回答率18.5%。

 

家庭科として、気になったのは、この回答率と正答率。

それは、上記問題の(5)。

どの白熱電球を変えると一番節約できるか?なんて訳してしまいます…。

これは、白熱電球と蛍光灯の話でも言われていて当然のことでしょう…と思います。そして、あからさまに使用時間の違いが出ている。

入浴回数とトイレへ行く回数、階段昇降回数を思い浮かべたら、それだけで解けるでしょう…。と、意地悪に思うのは、これがトイレに行く回数と時間が示してあって使用時間がわかっているなど、夜通しつけているモノとの比較ではなく、そう使用時間数は同じでも、ON・OFFの回数の違い…なんかだったら、家庭科?

生活の中での電気をつけている時間を考えることができれば、単独で正解できるのでは…?と正答率100%でしょう…と思いきや、60%。無回答率は、3.2%と低い方ですが、4割間違えていることに驚き。まぁ…6割のうち、実生活のこととして思い浮かべて解けたかは別問題ですけどね。

 

それで思うのでした。

どこで、白熱電球などを習っただろう…?

直列・並列等の話は確かに習っているから、その時?

 

今、白熱電球の代わりに蛍光灯がついている家庭も多い時代だしなぁ…と思えば、身近な生活の話ではないのかなぁ…?

 

白熱電球と蛍光灯の違いで、白熱電球を使用するといいのは…という話

○ スイッチを入れてから点灯まで時間がややかかる(白熱電球は即時)
○ 頻繁に電源ON・OFFが行われる場面では寿命が短くなる(白熱電球の場合無関係)

という蛍光灯の短所を知っている…って言うのは学校で習うもの…?

中学校で習うのかなぁ…? と、これは中国地方総合研究センターのサイトからです。

http://www.crrc.or.jp/eee/PDF/chu_5.pdf#search=’%E7%99%BD%E7%86%B1%E7%81%AF %E8%9B%8D%E5%85%89%E7%81%AF %E7%BF%92%E3%81%86%E3%81%AE%E3%81%AF %E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1′

 

まぁ、白熱電灯ではなく、蛍光灯で全てが話されていたら…問題複雑だったかも…と思えばいいですかしら…。

 

あと、無回答率38.4%と高い問題があります。正答率38.6%も低いかなぁ…でも、一ケタ正答率があるから、高い方?わかりません。

これは浮力の問題だねぇ…と見て、何でこれが解けないの?とふと思って、私の答え違うかなぁ…と見てみる。

でも、正解してた…って、これはもう、見ただけでパスしたとしか思えませんね。

習っていない中学校があるというのかなぁ?学ぶ時期が違うのかなぁ…?

 

卵が食塩水に浮くという話は、卵の鮮度を知る一つの方法で、家庭科だけど小学校の教科書か中学校の教科書で見たよ…確か…って思います。

 

あと、計算できるかどうかは別問題としてありますが。

 

ふ~ん…

そう思ったのは、国立中学校だけが、正答率が低い問題も高かったりしている?

母数が違うので、一概にこのデータだけでは言えないけど、そう思わされました。

2(6)、4(3)の問題に対して、無回答は公立4割。これを意識してみないといけないのでしょうね。

 

よく他のデータを見ていないけど、この4割は、恐らく理科は将来役に立たないと思っているのでは?って思います。

他の問題は、学校で問題集などでやったりしたモノの続き…って思って見ることができるのでしょう。そして、2(6)、4(3)は、その前の問題が簡単?だけど身近なことで…と、その次に出た問題は恐らく学校で学んだことでは解けないなんて、始めっから解くのを辞めている?なんて思わされました。

 

国語や数学の問題を私はちゃんと見ていませんが、理科が一番正答率が低いのか…?わかりません。

 

過去、この調査ではありませんが、自分がいた学校でこのような調査を受けた時に、その学校の特別に進学のために編成したクラスに受けさせてました。正直、それって意味があるの~?と冷ややかに見ていましたが、この調査がどのように行われているのかをよく知りません。

ただ、さらっと問題を見ていて思ったことは、何でこれを無回答なのか…という疑問が残りました。

 

 

 

 

 

人間形成と食育・食教育 

人間形成と食育・食教育―食のいとなみがからだをつくる・心を育てる

2002年1月1日発行の本。ですから、10年前の話。

 

1996年、長野県の小中高校の人達が共同で教育調査を行ったんだそうです。

その結果が書いてあったのですが、

「生まれてこなければよかった」と思っている子どもが、小学校高学年と中学生で20%から25%いたのだそうです。

また、同じ調査で

「あなたはもう学校に来なくていい、自由にしていいと言われたら何をしますか?」

→ 「朝から晩まで寝ている」と答えた子がほとんど

「後輩に言い残したいことは」

→ 「学力や偏差値が上がったさがったということは一切意味がないから、こういうことは考えない方がいい」

 

読んだ時、それはそうですねぇ…なんて思って読み進めたのでした。

でも、今はどうだろう?10年たった今。

こんな質問をして…まとめているデータがどこかにあるのかなぁ…。

 

食べ物に対する無関心がありますから、実際のモノと知識や言葉が一致しません。言葉だけが浮遊して、今の言葉でいえばバーチャルリアリティーの状態が子どもに現れたと言われるようになったのは、70年代くらいからなんだそうです。

稲と麦の区別がつかない子どもがいます。

鶏の脚を4本描く子ども達もいます。家で鶏を飼っている農家の子どもですら、脚を4本描く…

こんな事実に対して、この本では結論として書いている言葉

ですから、子どもたちは意識して見つめてはいないのです。親の生活や地域の人々の暮らしに全然、関心がないのです。ですから、目を開いていても何も見ていないという生活状態になっているのです。

本の文章のまま。「ですから」が気にはなりますが、とても面白い指摘だと線を引いていました。

 

ルソーやフレーベルなども出てくる。

この本によると、

ルソーは、食教育=健康教育=主権者教育つまり政治教育、としっかりつながって枠組みをしているとのことです。

ルソーの『エミール』を読んだことはありません…。でも、その『エミール』は、革命が起きて新しい世の中になるだろうと予感したところに書いた本なんだそうです。

そして、その『エミール』の中で、新しい時代の人間を育てるにはどう言う教育をしていけばいいのかということを、家庭教師とエミールという男の子との関係で描いているのだそうです。

と、私はホント、『エミール』を読んでいないので、ただただ、へぇ~って思うのですが、こう書いてあります。

食事をするということは、自己保存つまり自分の命や体を守ることです。それが食の基本です。自分の体なのだから自分でちゃんとできなくてはいけません。これはそのまま健康教育と言えるわけですが、それができないで、どうして来るべき民主的な共和国の主人公に慣れるでしょうか。自分のこともコントロールできない、自己保存や自己教育もできなくて、どうして国家・社会の主権者になれるでしょうか。これがルソーの主張です。つまりルソーの食教育とは、民主的な主権者を育てるための基礎的な教育の過程であると位置づけられるわけです。

 ルソーが自己保存の教育として大事だと言っている食教育のひとつは、自分の身体感覚に敏感にならなくてはいけないということです。おなかが減ったときには「腹減ったー」です。おいしいものを食べて満たされた時は充足感を満喫します。そんな身体感覚を作らなければいけないというのです。だから、働いておなかが減る、運動しておなかが減るという生活をしなければいけません。ルソーは、そうした体、感覚、完成の教育を重視しました。

 また、味覚を育てるために、ゴテゴテしたものを食べさせてはいけないしています。食材そのものの味がわかるような子どもに育てなさいと言っています。自分にとってどんな食べ物がいいのか、どんな料理がいいのアkということを自分で判断して選択できるような子どもにしなければいけないのです。

 最後に、自分の食卓に並べられている食べ物は、どれくらいの人々のどのような手をとお手、この食卓に並んでいるかということをちゃんと理解できる子どもにしなければ、新しい民主的な社会の主人公・主権者にはなれませんよと言っています。

だそうです。

そして、ペスタロッチ―という人が、このルソーの食教育論に共感し、「パンがどこから来るかも知らないことこそ、現代教育の欠陥の中心点である」「これを知らないで、人間の知識とは一体何であろうか」と述べているんだそうです。

『エミール』という本が書かれたのは1762年。

 

“Qu’ils mangent de la brioche”

マリー・アントワネットは、フランス革命前に民衆が貧困と食料難に陥った際、発言したというこの言葉は何年の言葉でしょう…?と思わされました。本当は、ルイ16世の叔母であるビクトワール王女の発言だとか。でも、この言葉をマリー・アントワネットが言ったとうわさを広めることの効果を思わされますね。

 

いろんな食にまつわる事例はたくさん載っているのですが、ルソーまで話が及んでいる凄さ…。

ルソーって聞いたことがあるけど、政治か経済の世界の話…としか思っていなかったのに、ビックリです。

 

そんな風に調べたら… ジョン・ロックって、この人も世界史で習った名前…って、食にまつわることをおっしゃっていたのですねぇ…

イギリスの哲学者ジョン・ロックは,その「教育に関する考察」(1693年)の中で,子供の食事に関して,肉類はできるだけ控えるべきであり,牛乳,ポタージュ,かゆ等の食品が子供には適している,といったことを述べている

そして

子供に適した食べ物とは,子供にとって自然な,すなわち自然の好みにしたがった食べ物であり,裏を返せば,自然人の食べ物ということになる。また,私たちの文脈に即して言えば,人間が本来(自然状態において)食べるべき物なのである。

この文章はルソーの文なのだそうです。

人の性格や気質が食べ物の好みにも反映する。もしくは食べ物が人間の性格にも影響を及ぼし得るという考え方は,18世紀において,かなり広く信じられていたようである。

なんてことも述べられていました。

ルソーにおける菜食の思想と自然意識 』 田中恒寿

http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/137803/1/fbk000_024_061.pdf