威圧しながらIメッセージ

自分のことを、「お母さん」「お父さん」と言ったり…して権威づけをしてお話をする。
自分のことを「先生」といって話をする。

これって、自分の言っていることに自信を持っていない心理の隠れた現れ方としてとっても有名。

「お母さんはね…」と言って、子どもに自分がしてほしいことを言うとか。

『親業』という本の中でも、また、他の心理学の本の中でも書いてあること。

簡単に言うと、自分では「私は…」と話す自信がないことが多いのです。ですから、「私は、○○をあなたにしてほしい」という代わりに、「お母さんは、○○をあなたにしてほしい」とか言うのです。
私ではなく、お母さんが言ってるのってね。

「お母さん」という仮面をかぶって、自分はそうしなくてもいいと思っていたり、それはどうでもいいと思っていることでも、「お母さんはね…」とか、お母さんだから言っているのだと伝えます。

でも、確実に子ども達には刷り込まれていくのです。「お母さん」「お父さん」「先生」…言ったことを聞いて守らないといけない…上下関係をつくる言葉達を小さいころから刷り込まれて育ちます。
だから、大人になってくるに従って、権威権力への反抗。思春期に素直に聞くことができなくなる…という現れ方が出るのです。

「先生は…」と語っている人は、自分としてはそれをしないといけないとは思っていなかったり、それを「私は…」と説明するだけ理解できなかったりします。だから、「先生は…」という敬称を自分に使って話をします。私の話は聞いてもらえないかもしれないけど、これは「先生」の言うことなんだからちゃんと聞きなさい!ってね。

アイメッセージの例:
「お父さんは、おまえが約束を守らなかったから、とてもがっかりしたよ。」
ユーメッセージの例:
「おまえは約束を守れない、出来の悪い子だ。」

あるブログで、このように書いてありました。実は、これも権威からのメッセージで「愛メッセージではない」という話なのです。

「お父さん」とか、自分のことを言う時点で、「お父さんという役割の存在が言っている…のであって、私ではないんだよ」という心理的働きがあるのです。ですから、約束を守らなかった行為をした子どもにとっては、上下のニュアンスが入って伝わります。だから、受け手には、拒否になるのです。という立場がトマス・ゴードンが書いている『親業』のIメッセージ。
同じく、Iメッセージを言いながらも、違う表現。

ですから、もし上記のことを伝えるとして、Iメッセージを使うとしたら…

アイメッセージの例:
「私は、おまえが約束を守らなかったから、とてもがっかりしたよ。」
ユーメッセージの例:
「おまえは約束を守れない、出来の悪い子だ。」

なのです。
読んだら違いは伝わると思います。
「私」になったとたん、「あなたがそう思っても別にいいよ…」というニュアンスが入ります。
これが、Iメッセージで一番大切なところなのです。

相手の人格や能力には言及せず、相手の行動にのみ言及することが大切である。上の例では「お前が約束を守らなかった」という行動に言及している。これをアクショントーク(行動についてのみ話すので)という。

日本では、この程度伝わっている方が多いのかもしれません。

Iメッセージとは、自分の気持ちを素直に「私」を主語に伝えることです。

その「私」を「お母さん」にしたり「お父さん」にしたり「先生」にしたり…して、いいのか?
実は、本人にとっては、違いがないように思っているかもしれません。だけど、奥の奥の…深層心理では違いがあるのです。

よく考えて、よく感じて、あなたは本当にそうおもっているの?

自分の言っていることを権威づけして伝えることで聞いてもらいやすくなります。だけど、主語を「私」にしたとたんに聞いてもらえる確率を下げる場合があります。特に、若くて…自分の言っていることに自信がない状態のときには有無を言わさず従わせたい…そういう思いが入るのですね。
そんな思いはない…というのなら、一度「私」でいつも言っていることを伝えてみてください。恐らく違和感を感じると思います。それは、「私はそう思っていない…」など、本音が出てきます。「先生は…」と話しているような内容、「お父さんは…」で話している内容、その立場だから言っていることなのですね。

「社長は…」と自分のことを言う人はいないと思うのです。書いていたのに消えました。でも、「校長先生は…」と自分のことを言われているのを見ることはあるなぁ…。書いていたのに…。

この一番の違いは、対象の違い。

大人に対して、自分の意見を一人称で言えないというのは、自信のなさの表れにもつながります。もしかしたら、役職にあるその立場だから言っている…そう思っている人は使うかも?ただ、無意識に大人は判別するのです。
「先生がそういうなら…」と、保護者の方たちも思います。でも、それは「先生」と言う権威があるから聞いている…けど、本当に正しいのか?
実は、上下のある言葉を使うと判断を鈍らせます。だから、本当ならおかしいことも通用させてしまう…。

パワハラまがいも横行します。
生徒に対して「先生の肩をもめ」と肩をもませている先生。
完全に生徒に対して圧力をかけています。やってくれている…ではないのです。生徒の心理状態には、生徒という立場で判断を迫られていてやりたくなくても先生が言っているからしなくてはいけないという判断が多少なりとも入ります。

「お母さんはこうして欲しいのよ…」
と伝えている内容を一度、「私はこうして欲しいのよ…」と言ってみてください。
違和感を感じるかもしれません。
その違和感が、自分ではどうでもいい…だったり、自分が伝えるとうまく伝わらなさそう…なんて思いが湧くと思います。その湧いた思いをうち消すために「お母さんはね…」「お父さんはね…」「先生は…」という言葉を使って、子ども達に話をする。

日本語に訳して入ってくるときに、「私は…」と「お母さんは…」に違いはないはずと、訳する人が違和感を感じて、混同したのだと思います。
日本発のものではない限り、訳を間違えると…というか、ニュアンスを間違えると違うものになる。

権威からの発言のつもりはない。
だけど、聞く側には効果絶大。

もう一つ、これは教育心理学の本などによく書いてあったりすることですが、小学生や小さい子対象の本の方がちゃんと書いてあること多いかもしれませんが…と断って書きます。
児童生徒を呼ぶときに名字を呼ぶことの重要性を言われている本は多いです。
学校という公的場での呼び方として、名字に敬称をつけて呼ぶ。これによって、ここはパブリックな場であるということを認識させることができます。
仲良く親しく…そう思わせて伝えようとする行為として、名字ではなくその子の名前を呼ぶ。これは子ども達に対して安心感を伝える効果はあります。それは、子ども達に対して下の名前で呼ばれることは家でのこと。つまり、私的なことなのです。ですから、お母さんやお父さんなど親しい関係性での呼称を用いて接されることによって、心理的に緩む効果を無意識に用いる大人がいます。しかし、これは同時に、お母さんやお父さんと自分との関係性も無意識に用いられます。私的なところでの親子関係の延長線上…子どもたちは幼少期の子どもの自分を引きずった判断をしてもよいとして、自分のプライベートでの顔でパブリックなところで過ごすようになっていきます。そして、判断もプライベートの顔でするようになっていくのです。そして、下の名前で呼んでいる人との関係に対しても親と同様に上下関係を無意識に入れられることがあります。呼び捨てなど、親しそうですが上下関係を入れ込んだそして公的な訴えかけ方ではなく、私的な訴えかけ方になり、相手にとっては幼い自分でありプライベートの自分の顔で判断を強いられて学校というところでの自分の顔を育てることがうまくいかなく、学年が上がるに従って大人としての判断ではなく、プライベートでの判断する自分を出していきます。公的な顔を逸させるには一番簡単な方法。ですから、名字で呼び、公的なところであることを意識させる効果を理解している学校では、生徒を下の名前で呼ぶことを禁止します。ですが、先生たちは、親しみをこめて呼んでいるのに…と思っている人もいるかもしれません。しかし、そういう人に限って下の名前で呼ぶことによって相手に子ども意識で自分の言うことを効かせるように操作している…無意識かもしれませんが…。
潜在意識で行っている行為を見て、その人の深層心理を理解し、その人の行っていることが何を表しているか…それを理解することができるのですね。

主語を「私」にして話してみると、相手は聞いてくれないのではないか?という不安。
しかし、その圧して聞かせていることによって失っているものは…どうしようもなく救われたかった自分の気持ちを認める機会。

「お父さんは、おまえが約束を守らなかったから、とてもがっかりしたよ。」

これは、ちゃんと認めているように伝わるかもしれません。
だけど、私に直してみて考えてみてください。
本当にあなたの子どもさんが約束を守らなかったから、あなたはがっかりしたのですか?約束をあなたなら守ると信じていた自分が裏切られてしまったことに、あなたは怒りを感じたのではないのでしょうか?あなたが信じていたかもしれませんが、それであなたのお子さんはその約束をしなければいけない義務は法的にもないことかもしれません。その約束を守ることは、その子どもにとって意味がないと判断されたことに傷ついているあなたがいるのではありませんか?
本当は、あなたは自分が伝えたことに対して意味がないと判断されたということに怒りを感じて、がっかりしているのではありませんか?
よく状況を聞いたりしたら、その子は守ろうと努力していたかもしれません。本当に忘れていたかもしれません。だけど、この伝え方ではIメッセージにはなっていないのです。
正確に子どもに伝わるように話すとしたら、「私はあなたは約束を守ると信じていたことを裏切られて、がっかりしている。」です。
がっかりしているのは、約束を守る子だと信じている自分があったことを伝えて、あなたの愛の所在を見せることが大事なのです。

そして、子どもに選択権をゆだねるのです。愛されていないわけではなく、愛されている自分を権威の言葉達から自分を解放することで伝える。
主語を「I」にして、伝えようという話は2つの意味があるのです。1つは、自分の感情をしっかり把握して相手に伝えましょう。そして、もう1つは、相手に愛ある伝えかたをしましょう。

お母さん、お父さんは、主語を私にしたら愛が消えますか?
もしかしたら、私にすることで、自分を解放できるかもしれません。
「お母さん」という名称を使うことで、自分に対して「こうしなくてはいけない」という子どもに対してさせたい思いで判断していることがありませんか?
それができなかったら、あなたのお子さんには価値がありませんか?

権威をつけて伝えることは簡単です。
だけど、怖いのは、そのような権威がないところで、意味をなさないで判断基準がうまく形成されないことがあるのです。ドンドン…大きくなっていった時、いつもお母さんはこういっていたけど、実際にお母さんだって言っていることと違うことをしているじゃないか…なんて、矛盾やおかしさを感じた時など、子どもたちは全面的に相手の言っていることを否定したり、疑います。

それをそのまま大人になって引きずり…、仕事の上でも、上司が言っていることを聞き流す…。そう言っているけどそんなことは無理だと、聞いたふりで何も改善されないということが起きたりします。日本はこれを増やし過ぎている面があると思うのです。

それはきつい…とか、いやだ…とか。
本筋を否定して代わりに…とやっていることで代用してごまかそうとしている。
そのことで、本当に伝えたいことが伝わらずに曲がって伝わってしまう…。

よくよくあることなのです。

教育関係の本をちゃんと読んでいる人は児童・生徒を下の名前で呼ぶことの効果を知っています。いい面も悪い面も両方。だから、パブリックな立場で接している顔を育てたい…本来学校の目的ですから、子どもに対して公的な顔を求める為に名字で呼ぶことをします。実際に、子どもの精神年齢が上がっていると、下の名前で呼ばれることに対して嫌悪感や違和感などを感じさせます。ここはプライベートではないし、先生からプライベートネームで呼ばれたくない!とね。ちゃんと顔を使い分けることが身についているのです。
しかし、まだ精神的成長が伴っていない人に対して、下の名前で呼ぶと親しみを込められたような感覚を沸かせてつながりがもてたような錯覚を持つことができます。しかし、同時に相手は自分のプライベートでの顔を全面的に出してくるので組織として崩壊…。学校やクラスが荒れたりすることが酷いときにはあります。しかし、そんなちょこっとが関係している…なんて、勉強していない人にはわからないのですね。

ちゃんと原因があるから結果がある。

播いている種が何なのか?しっかり把握しているといいのにねぇ…。

相手の世界観を理解することも大切です。だけど、自分の行為の相手への影響を知ることも大事ですね。

無意識に上下を利用して圧して伝えよう…とする人は、相手のプライベートネームで公的なものを処理して、なぁなぁにして…自分の過ちなどを赦してもらおうってします。また、相手にもなぁなぁにしてあげて…経済成長がない会社のやり方ですね。

単なる言葉ですが、そうやって影響をどのように与えるかなど全て意図して使う。意識して用いる。大事なのですね。
それをうまくできないと、社会は発展が難しくなります。
だって、発展という基準は人それぞれ。その基準をそろえて見させようとすることをうまくコントロールしなかったら、支離滅裂…ではなく、多様性を認める社会。ありとあらゆることがOKになるのです。

経済発展を基準にしたい人にとっては、経済は発展していないと思うかもしれません。ただし、他の面は発展しているかもよ~ってね。

 

このブログなら、何文字でも大丈夫かなぁ…?

他のブログは1万字制限があり。

教科書の調理実習

いつも思うのです。

家庭一般から家庭基礎・家庭総合になったとき、全ての調理実習を書き出して、比較。そして、調理実習を何時間で考えて教科書には載せているのだろう?と考えました。

いろんな学校実態があるから、こんな献立ができる学校もあるんだねぇ~と思わされるといいのか?それとも、1時間で実施するためにこんな献立になっちゃったのかなぁ…?と見るのか?いろいろ考えさせられながら見ます。

教科書の新しいものを見るたびにチェックはしますが、昨日だったか、全国家庭科の組織が行った食に関する指導についてのアンケート結果を見ながら、教科書の献立をどう採用しているか?小中学校はそのまんま行っているところが多いようですね。でも、高等学校はあまり参考にされていない。

私は、見るけど、その通りの分量を…とか、正直献立を立てている人の意図がわからないなぁ…もあるので、何がいいか?でも、献立を立てている人の考えひとつだろうけど、コレを見て調理苦手…と思っている先生たちはどう?また、生徒は?

いいなぁ~と見るのはいいかもしれないけど、昔に比べてバリエーションあるけど、この食生活を高校生が好む?というものも…。教える側の年代がいろいろある…と思えば、面白いなぁ…と思って眺めます。

なんか定番?

この献立を作らせる…となると…って授業で実施を考えるときに思うのです。

何時間?2時間かなぁ…。

もし、コレを初回の調理実習にもってきたら…、恐らく「肉じゃが」しないかも…と思います。

これだったら、1回目でもできるかなぁ…?と思うのです。これでも結構ハードル高いかも…?できるとは思いますが…。

たしかに…これなら1時間でもできるかも?なんて思います。

似ているなぁ…と思うのですが、これならきっとできそう…とは思えますね。

弁当はいろいろ載っていたけど…

これは以前からよく見ていたけど…

写真写りでイメージが違うなぁ…。

これって…と栄養学の教科書的高齢者食写真…?

なんで魚とトマト…と思うのです。まぁいいけど…やわらかいからだろうし…でもね、本気で高齢者食なら、高齢者の食に関する意識とかを教える意味では違うだろうに…とは思います。

食べやすい料理を提供。もちろん…でも、高齢者は長年生きてきたから、今

までの食生活とは違うものって受け入れがたし…という感じ。トマトと魚の組み合わせをどう受けとめられるか?とか、考えていない結構高齢者施設でも、学校とかでも普通の献立にしたくない?栄養士の献立…おいしいかもしれないけど、ハンバーグの形がイメージと違うだけで食べることができなかったりもする高齢者もいたりする…という、長年の食習慣を配慮するとかを教えるにはイマイチなイメージでした。

 

これ、パーティ料理として載っているのです。

なんで炭水化物オンパレード…??献立ありきより、載せたいものを並べて名前をつけた?

これはつくらせようとしていないのでは?っておもいます。

この組み合わせで調理実習させてどのくらいの時間がかかるのか?

手際よい生徒なんだろうなぁ…考えた先生たちの生徒は…と思いますね。

1時間だったら無理じゃないの…?って手際よく…つくり方を変えたらできることもあるかなぁ…。たとえば、炊飯するだけですし飯にしていく。フードカッターで散らし寿司の具を切るなどね。

ただ、自然にある食材を使うなら…野菜の皮をむく、野菜を切るだけでも生徒たちができるのか?不安ですね。

中学校でこれからは習ってくるから大丈夫かなぁ…?中学校の教科書の調理実習は結構凄いなぁ~と変わっていたので、そちらに期待?

2時間なら…できるだろうけど…2品で2時間するくらいなら、私だったらせめて3品にするために茶碗蒸しをお吸い物にしてもう1品入れるかなぁ…。

これは結構できると思いますね。だけど、食中毒を防止するために…と考えたときには、かなり神経使う献立。

「家庭基礎」という単位数が少ないところにこれだけのものをもってくる…。対象生徒たちの調理実習レベルより衛生感覚がいいなら…

これも、知るにはいいけど、ビビンバって具の数を減らさないと手間がかかる。一品ずつは簡単店かもしれないけど、手際悪いと熱源がいっぱい必要な献立。

班毎に1種類ずつナムルを作らせるなら時間短縮かかるかなぁ…とか、調理技術を生徒が持っているのなら時間かけずにできるかもしれないけど、時間かかるよね…。フードデザインでは教えたりしていたので2時間でつくることは一応可能かなぁ…とは思いますけど。

インドカレーを思って…面白そうって思います。ナンが書いてある以上に時間かかると思います。カレーは辛い味が食べることができない人がいたりするので考える…って思います。麻婆豆腐もホント…辛味って難しいよね。イースト発酵のさせ方を変えたら、手短につくることができるかなぁ…。

 

中国料理としてチャーハンがいっぱい載っていました。

トマトと卵のスープ。おいしいなぁ~と私は思うのです。でも、トマトを加熱したものが…この写真とかきゅうりを加熱したものが…スープの具。チャレンジャーな食生活を広める意味では面白みはあるけど、学校教育で目指すものはそれ?

 

これ2時間で簡単にできそう~1時間でも作るだけなら簡単かも…って思ったのです。

だけど、この献立を教科書どおり作るか?と聞かれたら、しないかなぁ…ってつくり方を見ては思うのです。

それは、つくり方が悪いとかより、このつくり方しなくてもいいし…って思うのです。

本当に、科学的に教える教材?と思うのです。この著者は料理苦手か知らなさすぎ…?

ブラマンジェはフランス語で、フランスのブラマンジェあるけど、つくり方はイギリス流に近い。

もしフランス流ならゼラチンで固めるのでした。

生クリーム…イギリス流のつくり方で…

私は洋菓子が専門の人間でもないから、単純に思うのはこんな生クリームの加え方をしておいしいのかなぁ~?油が浮きそう…なんて思うところもあり。

イギリス流のブラマンジェをおいしく…ってよく煮るというより練る感じだよねぇ…なんて思います。調理科学的に文部科学省が参考にしているという本によると、「イギリスでは、コーンスターチ、砂糖、牛乳で作るが、フランスでは牛乳とゼラチン、砂糖、すりつぶしたアーモンド、生クリームを用いる」ってね。でんぷんによる糊化でつくるこのつくり方に生クリーム…できるらしいけど濃厚だろうけど…こんなに複雑にしなくていいものを複雑にしている傾向が教科書のつくり方にはあるよなぁ…ってね。これって、生クリームを抜いて作れるんだし、生クリームを入れて脂肪分を増やす…コレって洋菓子店の脂肪たっぷりおいしい~に迎合していて、家庭でも脂肪たっぷり?もし、これを子どものためにつくるとして学んだものを活用して欲しい…って思ったら、この生クリームを抜いてすぐできる簡単おやつにして、牛乳をおやつに…とできるのだろうと思うのです。でも、生クリームが入っているものを習って、これしかない?と思ったら、食物アレルギー増やすだろうなぁ…とか、小児肥満増やすには貢献できるだろうなぁ…とは思いえますね。

 

正直、中華料理の並べ方って気になるところです。

こんな感じで教科書にあるから、写真で乗せるときもご飯が向こう側スープが向こう側?

取り皿を並べる話と、料理を並べる話が一緒なのか?

疑問を持つ写真たち。素朴に疑問を持つのは、カラの器を並べるのはいいけど、料理を載せたら並べ方が違うのでは?っておもうのです。

中国料理のコースで出てくる順番に使用する器を変えていく…。そのときの並べ方で、一人前の料理を並べるって?これは疑問を持ちながら検証できていないところですね。日本の中国料理店で定食みたいにセットされているものはご飯は手前にあるよねぇ…とか。

教科書に載っていると、それが正解とか、正しい…授業で扱わなくてもそう伝わっていく…と思うのです。

 

実は、この3種。教科書が違う…。

②とか、凄い…杏仁豆腐って書いてあるのです。ハイハイ…。そして、分量も…1人分ではなく恐らく4人分くらいだと思います。

①と③は寒天の量が違う。どちらも固まると思います。③をもしつくったとしたら…80ミリリットルあるなぁ…と思いますが、コレ多分つくったら70くらいになると思います。そして、写真みたいに量はないと思うのです。蓮華の大きさから想像するのにこの量をこの分量ではできていないと思うのです。

 

教科書つくっているのは大学の教授?

正直、こんなん載せていて活用しろって酷くない…?なんて思うものもいろいろあったりすると思います。でも、文部科学省が通している教科書。

 

気づきはあって勉強になるのですが、料理が苦手でできない…そんな生徒に提供する資料として見ても本当に参考になるものがいいなぁ…と思うことはあります。まぁ…教科書の調理実習を無視する人が多いのを嘆くか?私は見るけど、参考にしてそのままで作らせてみるってすることもしますけど…その通りでおいしいという反応を得られる機会って少ない…と思うこともあり。好みがあるとは思いますけど…。

 

日本全体では、2時間連続で調理実習をしている学校が多いのか?わかりません。だけど、全国家庭科…が行ったアンケートでは40%超えて一番多かったのは2時間連続調理実習を行っている学校でした。だけど、1時間で行われている学校も多い。

1時間で…20分でつくって20分で食べて片付けくらいで考えるとき、作らせることができる料理…そりゃ…洗う必要のある皿を減らすとか工夫したいよねぇ…きっと。でも、それをすると一皿料理…今接している人たちとか食べるのが遅い。30分かけて食べる…って「食べるのを楽しみましょう」にはいいけど、授業としてはきつい。状況に応じて食べるスピード考えてよ…とできないし、話しながら…食べるのも休み時間じゃない!って思う。今までの授業を持っている中で一番時間という制約を意識できない人たちと接しているなぁ…と思う面々。

 

まぁ…「家庭基礎」とか、プリンだけ作って終り~とか、ピザトーストを作って終り~なんて実習も聞いたことがあるから、中学校でちゃんと全員が調理実習をしてきて何をするか?

エプロンを小学校中学校高校で作らせられる…同様の話にならないことを願いますよね。

料理教えるのが苦手な人は、高校でも味噌汁を…って小学校で習ったことの定着のためって言ってるけど、ご飯と味噌汁だけを作らせる…小学校と一緒でしょ?とは思わないらしいそんなことを平気でやっていることを通す教員も知っているけど、1人で作るならわかるけど、4,5人でそれだけでは上達も無理でしょ…。エプロン3枚つくりました~の次

プッチンプリンをポケットから出してごまかされる今は東京で教員をしている先生…少しは教えることができるようになったのかなぁ?研修も私語ばかり…ってマイペース自分勝手な人でしたが思い出したのでした。

 

 

 

調理と脳科学と

サーストンの多因子論というものがあります。

その理論は、知能の研究をそれまでのものと大きくかえました。

 

もし、それまでのものに固執しているのなら…不幸せかも…。

いろんな価値観があることを受け入れてみることで、可能性が広がるかもしれません。

 

 

それに基づく集団式知能テストが多く…。その例としては、「職業適性検査」があります。

この多因子論では、人の能力はIQのような1次元の総合的な指標ではなく、何本かの独立したものさしの上にプロフィールとして表されます。

IQの高低ではなく、どの能力にすぐれ、どの能力に劣るかが、きめ細かくわかるというのです。。

つまり、多次元的表現で知的能力が示されているということです。

 

基本的精神能力
S:空間因子 (図形や立体を知覚する能力)…………空間的関係の理解
N:数因子 (単純な数の演算能力)……………………計算などの能力
V:言語因子 (語の意味把握や文章理解力)………言葉を使う能力
P:知覚因子 (知覚の速さに関する能力)……………知覚するスピード
R:推理因子 (論理的能力や掲画力)…………………推理する能力
W:語の流暢因子 (語を速く柔軟に使う力)…………なめらかに話す能力
M:記憶因子 (機械的な暗記力)………………………記憶する能力

 

学校での評価って、M:記憶因子に著しく?まだまだ偏っているかなぁ…。特に、大学入試の多くは偏っているよなぁ…。ようやく「推理因子」が入ってきている?入っていたものも以前からあったけど、暗記力を問う入試問題が多いのは事実。それで考える力がない学生が多いというのは、集め方もまずいと思いますね。学生を選考する基準が暗記力でしかないのなら、暗記力がある人を取っている。そこには、推理力等考える力を測り、学生を集めようとする姿勢がない結果だと思います。大学の生徒募集の姿勢と大学で学んだ結果として、その大学の学生は企業等から考える力がないと評価されているとも取れますね。単純に生徒達が解きやすいように…また、生徒達が受けようとするように…なんて高校生が勉強しやすいように(=暗記して対応しやすいように)した問題を出題していることは自分たちが暗記力だけの学生を欲していると言っているにすぎないと思いますね。

ちなみに、「数因子」を求めている…入試ももちろんありと思いますし、「言語因子」を求めている入試もあると思います。なんて、他の因子も求めている入試もあるとは思いますが、記憶さえできればいいような入試…それで集まってきた学生を批判って、企業が採用するのに大学生の本質を見極めきらなかった…というのと同じで、求めるときに見抜く努力を少々怠ったことに通じるのでは?

脱線…

 

言いたいことは、そんな選抜の仕方ではなく、現実にその力をどうしたら身につけることができるか?ということ。

 

脳科学的に…というか、流行っているよね…。脳科学の領域なのか、認知心理学の領域なのか…?よく分かりません。

ただ、脳のしくみをよく理解し、どのような対応をするかを検討する。ただそれだけですよね。
前頭前野は記憶や学習などをコントロールしているところで、ものを考えたり判断したりするときに働くとドンドン詳しくわかってきているようですね。前頭前野は「脳というコンピューターの中のコンピューター」といわれるくらい大切なところ。「頭がよい人」と言われるは、この前頭前野が発達していると考えられています。

人間と動物の脳を比べたときに、多く違うのは、「前頭葉」の中の「前頭前野」と呼ばれる場所。人間の前頭前野は大脳の中の約30%もしめていますが、動物の中でもっとも大きいチンパンジーなどでも7~10%くらいしかないのです。
チンパンジーと比較しても仕方ないとは思いますが、テレビを見たり、コンピューターゲームをしたり…いろいろな情報が入ってくるので、脳が刺激されて活発に働いている…だから、子どもに教育番組などテレビを見せているといいのでは?など、思っている人が多いからでしょうか?また、近年ではiPADを子どもに持たせて遊ばせている方も増えていますね…。タッチパネルだといいのかなぁ~?なんてわからないから、どうなんだろう…?と考えはします。ただ、実際に、テレビを見るコンピューターゲームをするという際には、脳のごく一部だけしか使われていなくて、前頭前野はあまり使っていないことがわかったそうです。ん…前頭前野を鍛えるには至らない…。

 

調理による脳の活性化について研究成果を発表

子どもの生活習慣と脳

調理が前頭前野を活性化させるという研究をされたものがデータとして出てきていたのですが…

豊かな人間性を培う家庭教育の在り方- 家庭教育の方法とその内容についての一考察 –
    指導主事 高 崎 隆 一

にあるのですが、前頭前野を必ず活性化させるとは限らないという事実ももちろん見逃してはいけないと思いますね。

 

失敗させないためのマニュアルを見て動くだけで完璧!みたいな調理実習。火加減もありとあらゆることをすでに教え込む。

絶対に失敗させない…と、料理教室では失敗は許されない…。マンツーマンなど少人数では教え伝える…ここで失敗はなくても、本来は実際に自分でさせると理解できていないところで失敗するはず…と思うのです。それを失敗させないイコール全て教え込む。これでは脳は活性化しないと思います。なぜなら、単に単純作業として書かれている通りをするだけだから。

 

沸騰するまでにどのくらい時間がかかるのか、火加減は?など、本来は考えて作業するということをしています。だけど、すべての行程を言われたように動くだけ…そんな学び方をして考えずに調理している人たちの後を請け負うとき、なんでこんなに受け身で調理するんだ~?と思うのです。また、自分で考えて動く人との違いは何だろう~?ってね。上手でなくても、言葉を自分なりに理解して動いて失敗する…それを大人が恐れすぎた結果として、子ども達が失敗を大きな恐怖と捉える…そう育っているという指摘もありますね。調理だけの話ではありませんが、そんな調理恐怖症をつくるのは結構簡単。

 

料理教室で、教えられている時はできる気がするけど家に帰ったらやっぱりできない…だからずっと通い続ける…これはとっても営業的にはいいと思います。ただ、その循環を生み出している料理教室はどんなことが身につかないか?考える力が身につかないと思われます。つまり、前頭葉を使わずに…ただ作業しているだけ。ポイントもコツも言われた通り…。

 

力を込めて、火加減をきちんとすべて押さえて伝えた…など言われうと思うのです。「バッカじゃない…」

火加減は状態に応じて中火も強火に近くしないといけなかったり、弱火も強火で対応しないといけない…と判断したり…。指示待ち君にしないためには、状態を見て判断させないと、弱火でやっていたのに…と人のせいにして考えずにマニュアル通りやったという料理をつくる…そんな人たちとたくさん出会いました。

その結果への感想というか、私の考察。

とにかく、失敗した方がいいんじゃない?

水分が飛ばないように配慮しての弱火とか、焦がさないための弱火…など、なぜそうするのか?それがわかってからの作業。臨機応変に状態を見て対応すると思うのです。

尋ねられるのが面倒だから…人数多い対応は大変!確かに。でもね、それよりも問題なのは、失敗させないで成功させる怖さ。

失敗しないで成功体験…何事も何度も失敗してうまくいくようになる…という学びを無視して何でも1回でうまく行かなければならない…。大人の他者からの評価(指導できない)などを意識した強迫観念から生まれる失敗させないための指導には、生徒の成長は少ないと思うのです。

教員の自己満足はあっても、実際にそんな人たちの指導したあとの生徒たちを対応する…私だけではありませんが、そんな体験をした時に全く動けない…そんな生徒たちに唖然とする体験は多いのです。

 

ではなぜだろう…?をつきつめていった時に、失敗したことがないからかも…?なんて思ったのです。

強火で沸騰させ続けて水分がなくなったものを食べた…食べなくても水を足せばいいのでしょうけど、そんな現象に対する理解が乏しいから、火加減も気にしない。状態を見ない。そして、「書いてある通りに作った」という。ならば、書かない方がいい。

なんでも書いて伝えて…マニュアル通りに動く指導をするようにして…と指導する自分の力量に自信がないから…とされている話を聞きながら、確かに…私も試行錯誤…そうしていたこともあり。だけど、上達しないんだよね…その場さえこなしてくれたらいい…。それって、高校で大学さえ通ってくれたらいいという発想と似てない?

 

考える力とか言っているけど、一番の足かせは、教師の失敗を恐れる姿勢というか、どうしたらいいか?と生徒をベルトコンベアーに乗せる方法…つまり操り人形に仕上げる方法の研究は余念がないけど、実力つける為の研究はしない…といばって操り人形にする指導のためのテキストを発表した人を思いだしました。だいたい、これをいいという人は、調理を教える力がない人だけだよ…ってね。当人の話もほんとうにわかっていない…って、何がわかっていないかというと身につけされたいことは何かというポイント。一番最低な方法だと私は思っています。マニュアル君作り。

調理実習で学習した内容が充分に活かされないま. ま,大半が忘れ去られている…忘れさせるようにつくったテキスト。覚える必要性がない。自分で記録も何もしない…これは、学習ピラミッドのどこに位置するか…?行動をしていても、頭を使っていないに分類される…ってね。ただ、これは料理の本特に、苦手な人用として売られている本の体裁と似ている。つまり、うまくならずに本を買わせるためには有効な手段かもね。

 

時間内に実習さえすればいい…なら、一番簡単だけど、実力つかないよ…。

こんな指導をしていては、就職難直撃コースに行けそうですね。

 

 

前頭葉を使いながら、調理するためには…?

教師が指導楽イコール失敗をさせない。

 

失敗を1回くらいさせた方が次からの伸びは大きい…くらいに構えることができない…大人が増えているからかなぁ…なんて思わされる話はたくさん。多分、料理だけでなくいろいろがそんな感じになっているのでは…?もう布に線が引かれた被服実習。工作などもそうかもね…。

頭使わないででき上がりがいいように…と仕組んだ結果の考える力のない若者たち育成結果と考えない若者…って言われる話を聞くのでした。もちろん、学校が全てではない…一番大きいのは家庭での学びと思ってます。

 

 

 

ラーニングピラミッド 学習定着率

久々に先日見ました。

これを押さえた学び方…って、セミナーで体験。と、そのときに、このピラミッドも一緒に紹介いただきました。

 

アメリカ国立訓練研究所(National Training Laboratories)

って、はじめて知って…セミナーでやった学び方。それは教えあうこと。そして、劇をする…。

 

エドガー・デール Edgar Dale が、その著書“Audio-Visual method in teaching (学習指導における聴視覚的方法, 1946) ”で提唱した学習経験の分類図、「経験の円錐:Dale’s Cone of Experience」が元なんだそうです。
抽象なものから具体的な次元に沿って「経験」を11の段階に分類。

「学習」は「経験」の一般化にあると定義して、そのためにはもっとも直接的で具体的な経験から、さまざまな抽象化の段階を経て、最後にもっとも抽象的な言語象徴つまり概念化に至ることを説いたものだったそうです。
エドガー・デールは、米国、オハイオ州立大学教育学教授 (1946, ナショナル・トレーニング・ラバラトリ National Training Laboratories: NTL) 。

「学習のピラミッド」は、当初、デールの「経験の円錐」 (Dale’s Cone of Experience) として報告されていた。

円錐に付随、提示されている数字 (%) は、示された活動方法や教え方の後に情報を「記憶している割合」の平均を示している。

 

NTL(National Training Laboratory)

集団と集団の相互作用や集団に属する個人と個人のコミュニケーションによる相互作用を研究調査し、個人と集団の相互的な行動やコミュニケーションを統御する一般法則を発見しようとする社会心理学の学問領域を『グループ・ダイナミクス(group dynamics:集団力学)』という。集団に所属する個人の行動・態度・発言・意見がどのような影響を受けるのかを考察するグループ・ダイナミクスの研究分野は、『場の理論』を提唱したゲシュタルト心理学者として知られるクルト・レヴィン(Kurt Lewin, 1890-1947)によって意欲的に発展させられてきた。

学習定着率と学習のピラミッド (出典: NTL)。
平均学習定着率 (Average Learning Retention Rates) から見ると、講義は5%の影響しかない、さまざまな教授方略、教授方術を工夫することが学習定着率を上げる、としている。特に学生同士が教え合う:Teaching Others は、非常に有効な教授方略と言える。授業内で学生同士が教え合ったり、話し合ったりする仕組みを取り入れると、学習へのモチベーションが上がったり、学習定着率が上がったりする、などと述べている。

このピラミッド図は、1960年代初期に NTL によって開発され使用された。しかし、NTL はこの数値の根拠となるオリジナルの研究結果を提示せず、また見つけることもできなかった、と報告している。*つまり、これら数字は、「経験の円錐」がいつのまにか「学習のピラミッド」へと独り歩きし、変化したようである。

 

まぁ…これにはじめて遭遇ってしたときに、思ったこと。それは、そうだろうなぁ…と理論がついてきた…って感じでした。

 

不思議な体験?

生徒として、「生活」という教科?総合的な学習の時間…実は、小学生の頃に体験して育ったんだよね…。今ならわかるのは、いっぱい先生たちが見に来ていたなぁ…は実は研究授業だったんだろうね。

 

また、教えあうことが学習定着につながるってこと。

これは中学のとき、社会の授業基本的に全部教えあいでしたね…当時は面倒って思っていたのですが…。

自分が教える立場になったとき、これがうまくできると、授業で単に教わるよりもたくさん学ぶ機会を持てるよね…って体験からくる記憶。

だから、いろいろやってみた。

どうやったら、お互い教えるってことをうまくできるか?実は、うまくいかないと、調べて教えようとするのは一部の子だけ…これが私の中学で学んだこと。

 

多くの人がいろんな先生方から学んでいるんだろうけど、そんな中で、私もたまたま…で、こんな風な学び方をさせていただきました。

感謝ですね。

 

そんな体験が新たなものにつながっていくのですね…。

グローバル人材育成に向けた国際化戦略

新聞の広告欄ですが、読んで気になった文章だけアップします。

 

神戸大学・京都大学・大阪大学

中国蘇州シンポジウム 主催:池田泉州ホールディングス池田泉州銀行

日本経済新聞2012年10月22日

○主催者あいさつ 服部盛隆氏

グローバル時代に不可欠な人材とは、共通の言語で話し合え、双方の国の文化や習慣を理解でき、問題解決能力を備えた人です。本日は…

蘇州市は、池田泉州銀行の創業の地の一つである活けだしと1年前から友好都市関係にあります。また、およそ1700年前、後の国から機織りの技術が日本に伝わりました(日本書紀)。それが池田市であったといの言い伝えが残るなど、いにしえからの深いつながりがあります。その蘇州市から、中国と日本はもちろん、世界に向けて有意義な情報を発信し、相互理解を深めながら、不動の隣国である中国との懸け橋として、シンポジウムを通してお役に立つことができれば幸いです。

○近畿経済産業局 局長 小林利典氏

様々な難題が渦巻く世界情勢を打破するには、グローバルな視点が不可欠です。それを推し進めるグローバル人財とは、会話はもちろん、互いの共通点や相違点を正確に理解し、各々の文化や伝統を尊重し合うことが自然にできる人だと思います。言いかえれば、国の違いを障害ではなく、チャンスととらえる人です。…

○講演 神戸大学 学長 福田秀樹氏

いま21世紀のグローバル社会が抱える喫緊の課題を解決できる人材の育成が求められています。必要とされる人材像は深い教養と高度な専門性、グローバルな視野を供え、問題解決だけでなく、「問題発見型リーダーシップ」を発揮できる人です。異文化を理解し、日本人としてのアイデンティティーを供えていることも重要です。

京都大学 総長 松本紘氏

いま地球上には70億を超える人間が生存しています。人口は増加の一途をたどり、資源をどんどん食いつぶしている。この状況が続けば、現代文明が安泰でないことは明らかです。確かに豊かさを支えるのは学術研究であり、それに基づく科学研究です。しかしそれだけでは、いつかどこかで大きな問題に突き当たります。

そこで必要となるのが、人類の将来を見通せる力を持つリーダーです。確固たる世界観や哲学、志を持ち、視野が広く、外国語を駆使して十分なコミュニケーションができる。日本人としての自覚を持ったトランス・カルチャラルな人です。

中国の唐で学んだ空海は「国家の興亡の元は人にあり、人の育成は定めて教育にあり」と言っています。…

大阪大学 総長 平野俊夫氏

現代社会の抱える、複雑かつ地球規模の課題は、高度な専門性だけで解決することは難しい。従来の常識や枠組みを超え、異なる分野の知識や経験を終結することが不可欠です。そこで求められるのが高度な専門性を備え、総合的かつ的確な判断ができ、複雑で困難な課題に挑戦し、解決するためのネットワークを持つ人材です。

○復旦大学 副校長 馮暁源氏

これらの取組みを通じて再確認できたのは、グローバル人材を擁する世界トップクラスの大学とは開かれた学校だる事。そして絶えず教育・研究レベルの向上を図り、積極的に国際交流と国際協力を展開することが大事だということです。その結果、グローバルな視野を持つ人材が育ち、大学の発展に寄与する力になると考えます。

○上海交通大学 校長 張傑氏

いま大学では世界規模の課題を解決できる優れたリーダーを育成し、高度な研究を推し進め、国際化を通じて大学自身が変革と発展に取り組む必要があります。正に国際化は世界トップクラスの教育機関となるのに避けて通れない道です。

一方、中国は経済モデルの変革期にあります。持続的な経済成長を遂げるため、従来の労働集約型から知識集約型へと転換しなければいけません。教育手法もそれに合わせて変えていく必要があります。ポイントは知識の伝承だけでなく、知識の探求心、専門知識の向上、人格の養成と言う3つを、学生中心に三位一体で行うことです。

○浙江大学 校長 楊衛氏

…未来のリーダーとは、孫子兵法でいう「智、信、仁、勇、巌」の5つの資質を備え、国際的視野と異文化理解、多様なコミュニケーション能力を持つ人です。

そうした人材を育成する上で理解すべきトレンドは、これまで人は東から西へ、南から北へと移動し、知識はその逆に流れていましたが、国際交流が活発化したことで世界は互いに影響し合う段階に入り、ウィン・ウィンの関係を築くことが大切になったという点です。

ディスカッション

グローバル人材の具体像について

松本 グローバル人材の育成を考える上で、もう一つ重要なポイントがあります。それはリーダーとして活躍する人と、それを支える人の2種類の人材を育成する必要があることです。当たり前ですが、リーダーだけでは仕事は進みません。リーダーとは自ら進んでパラダイムシフトを起こせる人。そして強い意志と責任感を持った人です。

平野 …

そこで重要なのが、文化や宗教、言語などの違いを理解し尊重できる能力です。また多様かつ複合的な課題の解決は専門知識だけでは無理で、専門と専門をインタラクティブにつなぐ能力もいるでしょう。

「木を見て、森を見ず」ということわざがありますが、物事の一部や細部にとらわれ、全体を見失うことがないように、地球規模で俯瞰することが大切です。つまり正しい判断を下すには、目の前で起こっている事象の本質は何であるか、本質を見抜く、見極める力が必要です。また孔子の教えにある「怒」。相手の立場に立って物事を考え行動することも大切です。そして寛容の心。相手を受け入れて共生していくことも必要です。

張 予測が困難な現代、地球規模の課題を従来の常識や枠組みにとらわれていては解決することは難しい。そこで道の課題を解決できる力、イノベーション能力がとても大事です。

ではそうした能力を育成するのに、どうすればいいのか。科学技術の知識を掘り下げるだけではだめで、人文の知識を学ぶことが欠かせません。未来を見通すには文化・文明の発展の歴史など、過去を正しく理解することが必要です。多元的な文化はいけ煮の中で、異文化を尊重することの大事さも同時に教えなければいけません。つまり人文の知恵を活かしつつ、科学技術の進歩を図ることが、未知の問題に対する解決方法であり、イノベーションを起こす力となるでしょう。…

閉会の辞 京都大学 総長 松本紘氏

今日シンポジウムが開催されたこの蘇州の地で、1300年前、唐の詩人である張継氏が漢詩「楓橋夜泊」この歌は張氏が役人試験に落ち挫折した際に作った歌ですが、彼はその後猛勉強して役人となり、国際的なリーダーとして大いに活躍されたそうです。彼のように自ら考え、実践して初めてグローバル人材としての資格ができる。仏教の教えでいう「聞・思・修の三恵」が大切だと思います。

人を育てることは国を超えた人類共通の課題。日中両国が互いに学び、尊敬し合い、対話し、ともに成長していくことを願ってやみません。

 

この全面新聞広告。

有意義なでも、危険なイベントだっただろうとしみじみ思います。なぜなら、今の中国と日本との関係。イマイチ。

国交正常化40周年という記念行事のうち、開催が見送られたりしているケースもあると聞きます。そんな中で、あったこと自体に有意義さを感じます。

拝読していて思ったことは、このレベルで国全体が動くか?そこは疑問であるということ。

ただ、この意識を持って次世代を育成されなければ、確かに未来はないかもね。ただ遅いなぁ…スタートとは思います。だから、ヨーロッパも今大変~って状態になっているんだよね…多分。だから、きっと近い将来、大変~がやってくるだろうな…と思わされました。

 

正直、私立に我が子をやって、教育はこれで安心~って思っている親。これも一つと思います…って、自分でできる自信がないなら誰かに頼むって意味で。だけど、親世代の高学歴化が進む中で大切なことは、親がどう子どもを育てるか、主体的に親が行うことができるかどうか…これがこれからの時代を生き抜くことができる子どもになれるかどうかだと思うのです。

公立学校の限界というものもありますね。その中で、真のグローバル化に対応できる人材になれるか否かは、学校裁量ももちろんあると思いますが、それよりも親の教育力だと思います。それが欠落していれば、その子どもは大人になって自分で身につければいい…?出会いは大きいですね。公立学校での教育の求めるところが、文部科学省が何を言っても変わらない…っていうのを辞めること。つまり、本当に変えることが大切だと思います。ただ、それをするのは難しい…?難しい話ではなく、簡単な話。企業ではできて、官公庁公立でできない理由は一つ。姿勢が違う。JRやJTなどに学ぶことが大いにあると思いますね。そして、ある意味で断行しなければいけないと思います。