絵文字ではないのね…笑

ありがとうございます~と、偶然にも書いていただくことができました。感謝。

以前、他の方にも書いていただいた…って思い出して探し出しました。

IMG_2215

 

これは2009年と日付入り。

そして、昨日

IMG_2209

 

書いていただくことは同じですが、本当に…書いていただいていろいろとイメージが違いますね。

 

以前、書いていただきながら伺った話は、文字に対して特許を取っているというお話でした。

 

今回、書き方を教えていらっしゃると…絵と文字をくっつけて…絵を楽しんでもらいたい方が強かったのかしら…と、思わされました。

 

検索しておかないと、わからなくなりますね。

以前書いていただいた方は、やまだとしおさん。下手な検索したら、政治家が出てきました。

詩書家とのこと。笑顔文字。

似顔絵を描いていただいて、名前を書いていただいたのでした。

 

今回は、扇面に書いてくださるとのことで…

なんて不思議なこと…と、こちらは笑文字。

書画家とのこと。田中太山さん。

 

ありがとうございました。

 

カレンブロッソ

カレンブロッソは老舗履物メーカー菱屋のプライベートブランドです。大正15年の創業以来、培った「和」の感性・技術に、「洋」の機能性・ファッション性をミックスした<洋風和装>雑貨つくりを目指しています。

と、菱屋のHPから。「花ごよみ」という和装品のシリーズを展開し、花ごよみをCalender of blossomと訳し、「Calen Blosso」と名づけたんだそうです

こちらのバッグを2006年オープンらしいので…2006年か2007年頃購入しました。お茶のときなど、着物のときにも使えて、普段も使えるバッグが欲しいなぁ…って。いちご錦。

だけど、サイズがイマイチ…と、少し小さかったのでした。

それで、やはり同様の目的でいろいろずっと探していました。

 

別にメーカーなども気にしない。そんな私にとって、いろんなところで拝見する…としていたのですが、やはりカレンブロッソで購入しました。

 

理由は簡単。探していたものというのは、和でも洋でも使えること。そして、お茶道具等いっぱい入ること。

そして、博多織のもの。

 

実は、いちご模様のものを購入したのですが、記事がキャンパス生地。やはり着物と同様な感じがいいなぁ…とも。

 

結構探して…と、いろいろみてまわっていました。

そんな途中に見つけて購入したものは矢羽模様のバッグは…大阪の会社名が思い出せない…

こうやって検索すらできなくなっていく…。

博多織バッグ

 

ん…検索してもでてこないってことは、もうない廃盤品?

 

撤退される店舗で、注文させていただいたもの。

対応してくださった店員さんに感謝。素敵な色で仕上がったものをいただきました。

献上柄の色から革の色まで…全部自分で選べるなんてホントビックリ。

 

実は、これをお願いした後に、この博多織の織元さんのお店で違う博多織地のバッグを拝見。そんなのなかった…と、そちらのバッグは織元さん店舗のみのものなんだって。ちょっと…こっちがよかった…なんて、思いを持ったのでしたが、実際に出来上がってきたものを拝見して大満足。

ご対応くださった店員さんも、店舗が閉まっちゃうとありがとうございますも言えませんね。

 

アポロを目指す!と楽しんで色を選択させていただきましたが、アポロというよりはラズベリームースって感じになりました。

 

いろんなところで、和の柄のバッグを拝見して歩いて…、いろいろ見たのです。でも、ホント、これがよかった…としみじみ感謝。

お茶道具も入るし、B5まで入る。いっぱいモノが入って嬉しいです。

大丸にあった店舗を見なくなったなぁ…と思ったら、三越で拝見したのが最初でした。

 

博多献上柄の色使いも、献上柄だけど、色使いのお陰か、すっきり見えます。

最初に博多織のバッグいいなぁ~って思ったのは、HAKATAJAPANさんのバッグを見て。シーホークで隅っこの方で営業されていた頃。

百貨店においてあるバッグも見て回っていたし、本当に10年くらい?探していました。

完全に和装のみはいやだなぁ…というのと、正装ではなくて…という願い。

お茶会にも持っていける感じで、普段にも使えるものがいいなぁ…とわがままに探して出会ったものでした。

 

全て革というものは持っていたし、本当は博多織にこだわっているわけではなかったのですが、博多織の帯地は本当に強いし、光沢があって嬉しい。

バッグの皮の部分や内側のつくりなどもきれい…というのは以前覚えていたから、しっかりしたものができてくるということは信じてました。ただ、以前は柄を間違えられた…ので、もうイヤだなぁ…と他のお店でないかなぁ…と探してました。

オーダーにしても、既存品の価格から大きく値段が上がらないところはとっても魅力でした。感謝。

 

既存の形の色・素材を選べるなんて凄い。

もう、地元には店舗が無くなったので拝見する機会が減るなぁ…って感じですね。

Calen Blosso 箱バッグ

こちらのページに載っている色もいいなぁ~って思いました。茶色。

 

今日、喜寿表彰というお話を伺いながら、隣にお座りになっていた先生はお元気そう…って85歳。ん…「私の半分も…若いわねぇ…」と言われると、そうですねぇ…。喜寿表彰される方の多さと、全然高齢者という感じではなく、皆さんバリバリの現役茶人。ホント…まだまだこのバッグは活躍する時を有しているわ…と思わされました。

菱屋-Calen Blosso- ( ヒシヤ カレンブロッソ) から「カフェバッグ(ポスト3)」

IZAって?

Bag(Calen Blosso for IZA)

 

へぇ~

こうもり柄とかのモノと同じかな?

 

実は、改めてシンプルだけど懐の深い献上柄の凄さを思わされたバッグでした。

 

そして、本当に感謝~。

職人さんがいて、縫製も日本とおっしゃってはいましたが、こんなにデタラメにいろんな色を使ったバッグですが、縫い糸も合わせて変えてくださっているのです。ホント、嬉しい~。

 

選ぶときにすでに明るい色の帯地はなくなっていたので、この色か白っぽいものか茶色か…と選択肢狭くて残念…って思っていたのですが、織元さんのお店にはもっと素敵な帯地で作られたものが並んでいたし…ってショックもあったのですが、大満足なバッグを本当にありがとうございます。

縫ってくださっている職人の皆様にも感謝。

 

 

 

日本人が最初に洋服に接したのは?

過去書いたブログから引っ張ってきてます。

日本人が最初に洋服に接したという表現がとっても微妙。まず、『洋服』って何?というところから考えてみると、本当にそうなのだろうかってんと思わされます。どこまで遡っていけるか、記録がないところでいろいろあったかもしれないと思うと浪漫ですね。

その1
今昔物語、に出てきている表記に、シベリアに漂流した農民が、馬を駆って疾走していく赤毛の巨大な人間達を見て、後にその人たちを胡人と記しているそうです。それが洋服と接した最初?当時のシベリアではどんな服を着ていたのでしょうね。宇治拾遺物語にも「胡人」が出てくるそうです。

その2
天正3年に、鑑真和上来朝の際、同行した多くの弟子達の中にペルシヤ人がいたそうです。このペルシヤ人はどんな服装だったのでしょう…。中国仏教では服装の規定はあったのでしょうか?

その3
天文12年に、ポルトガル商船「アバイス号」が種子島に漂流したそうです。これは、結構歴史で習いますね。その際に、乗組員の救助にあたった日本の漁夫たちは、今まで検分していた唐人服とは違った異装の姿を見て驚いたのだそうです。助けられたお礼として、乗組員達は着用していた上着、チョッキ、ズボンなどを漁夫達に贈呈していたそうです。それが、鹿児島の郷土伊集院兼房に謙譲されて…、この服がわが国に渡来した最初の西洋服だといわれているそうです。
時の領主島津貴久の臣で、薩摩藩士新納喜右衛門が次のように報告したと残っています。
「未知夷狄風情。於衣袖無之。分乎上着下穿矣。羽織長大。不恰好。猶不結紐。其奇體何不審也。」
この衣服はどこかにまだ現存しているかもしれませんね。船乗りの何気ない服だったかもしれないのに、それが献上品になったというのはおもしろい感じです。お茶道具にある抹茶茶碗にもそんなかんじの由来のものがたくさんありますね。

その後、天文18年に、スペイン人フランシスコ・ザビエルがキリシタン伝道の目的で鹿児島に上陸しました。南蛮貿易については、学校で学ぶところですね。
いろんなものが輸入されていったそうです。輸出するものが、銀、刀剣、漆器…すごいですね。それに対して、生糸・絹織物などが輸入されたそうです。中でも喜ばれた衣料は、羅紗・ビロウドなどだそうです。羅紗には、いろんな色があったそうです。その中でも、猩々緋(しょうじょうひ)と呼ばれる緋羅紗が最高級品だったそうです。そう思って、この時代の武将等の肖像画などを見ていくと、陣羽織、胴服の衿などにつかわれていたとか、肖像画もファッションの記録として見ることができそうですね。
猩々緋は、日本では得られない鮮やかな色だったため、織田信長や豊臣秀吉が格別に愛好したそうです。

天正の頃には、諸大名の間で南蛮服を真似ることが流行したとか。多くの大名達は、合羽、頭巾、短い軽袗・無縁帽子などを持っていて、武将間の贈答に利用されていたそうです。着物の上に衿輪や南蛮式の長袴を用いるものもいたというのは、織田信長の肖像画などを見てもわかるところでしょう。

しかし、天正15年に布教の禁止と宣教師の追放を豊臣秀吉が行いました。そして、寛永12年鎖国令…
天正の頃の南蛮文化の流行によって、和洋折衷をよしとする風潮が、大名から武士・町人にまで浸透しつつあったそうです。しかし、鎖国政策の強化に伴い、西洋の文物が自由に輸入されることはなくなり、庶民の生活には渡来品が縁遠いものとなっていきました。
さらに、寛永14年の島原の乱以後、洋服姿の日本人はキリシタンとみなされて、処罰される対象に。民衆にとって、洋服=忌むべきもの、恐ろしきものと受け取られるようになったそうです。

それでも、特権階級にとっては別。鎖国前と変わらずオランダから猩々緋をはじめ様々な布地が、将軍に献納されていたようです。これは政策の一環…ちょっとだけ、ある国で、鎖国のやり方で国民を支配する権力の持ち方に参考にされたのでは?と危惧します。でも、開国後の大変さも一緒に学んでほしいですよね。

享保5年洋書の禁が解かれ、キリスト教の書籍以外が輸入されるようになり、蘭学を学ぶものが多くなりました。オランダ人より蘭学を学ぶ日本人達にも、戎流または唐人仕立てという異名を持つ装束を身にまとい始めたそうです。オランダ人の服装のことを、戎模様、戎衣装もしくは戎の袖なしと呼んでいたようです。

いろんな変遷がありながら、日本に洋服が定着していったのですね。

参考文献:『日本洋服史―一世紀の歩みと未来展望 (1977年)』発行者 出口稔
総合服飾史事典 (1980年)』丹野郁編者

おとき

今、おにぎりのことを調べていました。おむすび…。

そして、いろんな動画を拝見しました。

 


「おむすびを作るときは、お米の一粒一粒が息ができるようにと思って握ります」
佐藤 初女さんの言葉だそうです。

 

心がこもる…そんなことをおむすびおにぎりと調べていました。

 

ふと、父の葬儀にあたり最期の食事…と、いただいたおにぎり?ご飯を思い出しました。

「おとき」と言ってましたが、調べてみていると、私の知っている「おとき」とは違う話もあったので、素朴に「おとき」ってなんだ?

 

基本的に食べもののことをこちらに書いていないけど…さすがに葬儀にまつわる話を食べものの話だから…って書くのも気が引けたし、調べてみたかったのでこちらにノート代わり。

 

おときとは、仏事の後に頂く食事のことだと書いてあるサイトを発見しました。そちらには、いろいろと詳しく書かれていました。ただ、そういえば法事の後にお食事を一緒に…ってお坊さんと食べるなぁ…って思い出しても、「おとき」と言った覚えがありませんでした。

日本が貧しかった時代、仏事の御斎(おとき)は御馳走でした。

そう書いてあったのを読んでなるほど…とは思うこといっぱいでした。

亡き人を偲び、杯を献じ、亡き人と共に頂く食事であり宴会でない

そう書いてある文章もありました。

 

私は、葬儀が始まる前に親しい方々と「おとき」をいただく…という、故人と共にいただく最期の食事のことを「おとき」というと思ってましたが、全て仏事法事に関わる食事のことをさす言葉なのですね。

○ 決められた時間内に食べる斎食(さいじき)が由来

○ 食事をする時刻「時」(とき)に語源を発している

なんて書いてあるものもありました。どちらが正しいとかわからないなぁ…。

 

斎食儀(食事作法)

このサイトは天台宗の食事作法について書いてありました。

 

今、ウィキペディアで「を発見。そこで、へぇ~

この漢字の読み方が変わる話が載ってました。

  • 斎(いつき) -神道で、ものいみ(潔斎)をして神に仕えること。また、その人 
  • 斎(とき) -仏教寺院における食事。また、仏事の際に寺院で出される料理、斎食
  • 斎(ものいみ) -正教会における断食と食物品目の制限。食事のみならず行動も律し、祈りを増やす事が求められる

 

設斎供養という言葉も初めて知りました。

年回の供養において、法要の読経などがつとまった後に、一同に会して食事をいただく席を設けます。これを設斎といい、また当佛のみならず導師はじめ参列者に対する供養と称し、その一連の行いを法事とも呼び習わしています。

と書いてありました。こちらは曹洞宗のお寺のサイト。

 

『日本書紀』に、推古天皇時代(606年)に「この年より初めて寺ごとに4月8日、7月15日に設斎(おがみ)す」という言葉が出てきているそうです。

四月・七月斎会の史的意義

神戸大学の文献みたいです。お盆の話で載ってます。

 

設斎は、法会に食を供すること、「中を過ぎて食せず」、午後の断食であり、午前中の食事の意味と注される。ここでは”をがみす”と訓じており、香華灯塗(こうげとうず、お香をたき、香を塗り、お花を供え、お灯明をつけ)、供物をそえてお祀りすることではないのか。四月八日は、花御堂(美しい花で飾った小さなお堂:ルンビニー園)に、甘茶(竜が降らした甘露の雨)の入った水盤を置き、誕生仏の頭に甘茶をそそいでお祀りする潅仏会(かんぶつえ)。七月十五日は、餓鬼道に落ちて苦しんでいるお母さんを、釈迦の教えにより、修行を終えた多くの僧侶に供養をして救ったという故事、あるいは長い間子孫により供養されず逆さ吊りにされている死者の霊に飲食を与えて救うといふインド古来の祖先崇拝による盂蘭盆(うらぼんえ:ウッランバナ「さかさづり」を意味する言葉)とされた。

これは、日本書紀について解説しているサイトにあった文章です。

 

お葬式・豆知識vol.2【お斎(とき)について】

という記事があるブログを発見。

【斎(とき)とは・・・ 小乗仏教の僧侶は正午以前に食事をとり、それ以後は摂らないが

食事をしない時間を非時(ひじ)といい、食すべき時の食事を時食、斎食という。

そのことから、僧侶の食事や法事での食事を斎という。】

こう書いてあった。この人は誰だろう?なんて調べようと探してもわからなかった。まぁ調べるきっかけにはなるかなぁ…って言葉たち。

 

お斎というのは、本来、不殺生という戒律を守った寺院での食事のこと

書いているサイトには、ビルマのことなども触れて書いてあります。

 

お斎(とき)とは、今では広く仏事の際にいただく食事をさしています。しかし、斎という言葉には「つつしむ」という字義があり、本来は身を慎んで清浄な生活をおくることを意味します。また「斎戒」(さいかい)ともいいます。

これはQ&Aと天台宗のサイト?に書いてあります。もっと詳しく書いてありました。

もともとインドの仏教では、出家者は正午を過ぎてから食事をしないという戒律があり、食事をつつしむのが斎の由来

なるほど…とインド由来の話なのですね。

 

ただ、私の覚えている「おとき」って、父が亡くなって葬儀の前にドタバタとそこにいたみんなで食べたお別れの食事だった…って調べてみたら地方によるもの?

別れの杯なるものが出てきました。

出立ちの膳(ワカレメシ、タチメシ、ナキワカレとも)」って言葉を発見。

飲食は人間の交わりを象徴するものですから、死者と食事を共にすることによって、死者と最後の交わりをし、別れを行ったものと考えられます。したがって、こうした飲食の席では、しばしば死者用にもお膳が用意されます。神と食事をすることで神の力をわが身に取り込む神人共食の観念が影響しているとの考えもあります。 

なるほど…

出立ちの膳 出棺の際に,参会者に供する一膳飯。でたちめし。

この言葉はあるのですね。

 

三重県では、涙汁というものがあるって書いてありました。

 福岡では、出棺の前に遺族や親近者が集まって故人との最後の別れの食事として、簡単な精進料理を食べます。これは「出立ちの膳」と呼ばれています。柳川市では、この出立ちの膳に、冷酒を出すこともあるそうです。

葬儀屋さんがいっぱいあるなぁ…と思わされる検索ですが、とりあえず紹介されているものをメモしておかないと忘れる…。

佐賀県では、「出立ちの膳(でたちのぜん)」と呼ばれる通夜振舞いを、身内だけで食べます。

鹿児島県の一部地域では、出棺前に「別れ飯」を食べ、北部の一部地域では、参列者にもこの「別れ飯」を振舞うことがあります。最近では火葬場で食事を取るため、別れ飯を省略する傾向が強いそうですが、古い家などではいまだに行われています。

ほんとうにいろいろあるのだなぁ…って思わされます。

 

日本の伝統的食慣習のタブーの両横綱は、肉食と一膳飯でした。ご飯を一杯しか食べないのが好ましくないとされたのは、肉食同様に仏教との関わり合いです。 死んだ人の「枕飯(まくらめし)」が一杯盛り切り、出棺の前に近親者が食べる「出立飯(でだちのめし)」も一杯限りですから、普段は一膳飯は禁忌でした。 さらに波及して、お嫁入りで実家をたつときも一膳飯だったのです。

こんなことが書いてあったサイトは、「握り寿司はなぜ2個で出されるのか? なぜ1貫、2貫と数えるのか?」ということで、書いてありました。

一膳飯を調べていて、よそい方のことに触れている文章を発見。2杯食するという話が書いてある中、一度にご飯をよそわない…って書いてあることを読んで、そういえば…一度でよそうなって言われた気がする…と遠い記憶。

ご飯を一回でよそう
ご飯に箸を刺す。
何を以てマナー違反何ですか?教えてください。

質問サイトの質問で読んで、はっとさせられました。それは回答の方。

当たり前にしていることに疑問を持つことってほんとうに大事。そして、伝えるときにも、意味を知らずに伝えていくことにより偏見やタブーなど根拠不明な「ねばならない」がたくさんできることになる…ってね。

 

それはしてはいけないといわれて育つと、違和感がある質問。でも、確かに…仏教での死者を弔う対応の話。箸をご飯に立てるのを止めましょうと同じなんだよねぇ…。素朴な疑問は理由を知ると、極力しない方がいいことと、別にやってもいいことに別れていく…

 

「おとき」について知りたかったのですが、広がりを持って知ることができてよかった。

 

後は…サイトで検索しても出てきにくい…と、おときの形態。宗派によって違うのかなぁ…?なんて思いながら、一膳飯ではなく丸くなったおむすびというのか、それを食べたんだよね…。

 

作ってくれたおばちゃんが言ってたなぁ…遠く離れて子どもが住んでいると、いろんな人が亡くなったときにそんなもろもろの対応の仕方を覚える機会がないと。祖父母の死の際に見て学ばず、父母の代…一方が亡くなる際にもいなければ、実際に自分が喪主でするようになったとき、全くわからないだろうなぁ…って。確かに…。いろんな流儀があるとは思いますが、その家の慣わしって途絶え、一般化されていくのですよね。

 

先日といっても、もう2週間以上経ったのかなぁ…お通夜におまいりに行きました。そのとき、お坊さんがえらくホント、説教された。まぁ…お通夜の枕教の後に説教されるって体験することは多いけど、よく言う「説教」と普段耳にしている言葉通りのモードでの説教だったので、面食らった。声を荒げて…と、お焼香の仕方について言われていた。そんな喪主が若いから、最初に覚えるためにだろうなぁ…なんて思ったりもしながら、斎場の方の説明とは違うお話。斎場の方の言うとおりに真に受けてはいけないと学んだのではありますが、そんな所作についての説教を遺族をはじめ多くの方のいるところで…なんてそんなに細かいものかな…と思わされた。帰宅して、母に尋ねたら、さもありなん…なんて、母方の実家の宗派と同じだから聞いたらそう言われた。どう焼香するかなど、所作大切とのことだった。祖父祖母をはじめ葬儀や法事に行って、確かにお経を読むように…って冊子を回される体験などするけど、焼香の仕方を言われたことがなかったなぁ…。同じ禅宗のはずでは…なんて思うと違いを意識させられることは多いよなぁ…確かに。

 

焼香の仕方ひとつ…って、そういえばちゃんと教えてもらって…なんてしたことがない気もした。

 

あんまり仏教だ…なんて意識して育っていない気もする。父が亡くなってからいろいろと覚えたり…。母の実家にはお坊さんがよく遊びに来ている…ってお盆に行ったりするからか出会っていた。弟たちが木魚叩いてお経を読んでいても私自身は興味なかったから?お墓参りに行くとかは行ってもちゃんといろんな習慣ってわかっていないのかもしれないなぁ…。

お仏壇にご飯をよそうのも、まるくしないといけないと言われるけど…なぜだろう?とか、疑問を持ち始めるときりがないなぁ…。

 

疑問を持たずにやっていることも、実は違う立場から見るとふつうではないはず…という意味では、おむすびを調べていて、おときが気になって調べてみたけど、お寺で教えてもらうしかわかる方法はないのかも…?おんなじ宗派でも、総本山の流れが違うだけでもなんか微妙に違ったりする…ということを体験したりもして思うのです。ちゃんと細かく伝えられて…って普通しているものなのかなぁ…?なんてね。

きっと、弟たちは私より知らないはず…なんて思うし私も知らないなぁ…。

 

 

 

義経千本桜と

先日、歌舞伎を拝見しました。

そのときに、正直、あ~能も狂言も…歌舞伎も、いろんな日本の文化はつながっているから、どれかひとつだけを取り上げて知る努力をしても、ゆくゆくは全てを知ることに努めることになるんだなぁ…。そう思わされました。

 

義経千本桜」という演目の歌舞伎を拝見しながら、これどこかで見たことがある…。

 

見たことがあるということは、私の見た数少ない体験とつながるということ…って検索。

わかったのは、能だったのです。

船弁慶

多分、似ている…って、出てくる登場人物が重なるくらい?かも…

だけど、似ている…と感じた何か…って調べてみるとつながるものですね。

 

独立行政法人日本芸術文化振興会が運営する伝統芸能を調べる・見る・学ぶためのサイトに「義経千本桜」

これは歌舞伎の誰が演じたなどはなれて書いてありますね。

そちらに、影響を受けた作品ということで、3作品書かれていました。

人形浄瑠璃『天鼓』

能『船弁慶』

能『正尊』

 

能『船弁慶』の船の上で…という話が引っかかって思い出せたのですが、話は違う…印象はそんな感じでした。

私の母は、何度かこの『義経千本桜』を見ているそうで、何度か見ていると反応も違うのでしょうね…。そう思わされる感想を後日聞きました。しかし、私は初めてでしたので、感想は…とにかく見たことのある話があるぞ~って感じで少し気持ち悪いというか、ナンだろう?と探すきっかけになったのでした。

義経千本桜とは…

ウィキペディアの文章から…

源平合戦後の源義経の都落ちをきっかけに、じつは生き延びていた平家の武将たちとそれに巻き込まれた者たちの悲劇を描く。

 

なんて簡潔…という説明ですが、そうまとめている凄さを思わされました。

5幕にわたるお話。そりゃ…前後わからないと、理解難しい…ってところがあって当然かも知れません。ただ、前後のお話も見たことなくても、源義経という題材、きっと歌舞伎が起こった江戸時代の人々にとっては、なんとなくでも知りえている過去の歴史上の人物。そんな共通認識がある人だったのかなぁ…って推測させられました。こんなの5幕全てを…って見るのは大変だなぁ…って思ったのです。でも、ふとそういえば…銀座の歌舞伎座に昔フラッと行って一幕だけ見るってしたことを思い出して、ずっと朝からの続き…という流れの一幕を「歌舞伎」ってこんなものだ…って見たときのことを思い出させられました。

きっと、好きな人は朝からずっと…って江戸時代を思うと大掛かりな娯楽だなぁ…ということも思いました。

 

『船弁慶』では、平知盛って死んでいた…というのは記憶にあって、フィクションの世界はいかようにも…というのは思うのですが、歌舞伎と能狂言とのつながりや違いなどを意識させられるのでした。

 

ちょうど『平清盛』という大河ドラマがあった後、少しは平氏についても理解が広まっている?そんな時分なのかもしれないとも思わされました。

 

平家の落人たちがつくった村とか、八女の方では安徳天皇だったか、皇族が生き延びた話を地元の方に聞かせていただき、文書や手紙を見せていただいた気がするなぁ…。とにかく、史実というか、学校で学ぶことと違う話を聞く機会を持つのは、何事も本当のことは何か…?わからないなぁ…と、ものの見方考え方を操作するということは教育の仕方ひとつでも違うなぁ…としみじみ思うのでした。

 

『義経千本桜』を拝見させていただいて、こんな演目を見ながら江戸時代の人たちはどう義経のことを思っていたのだろう~?なんて考えました。歴史で習ったりするとき、私は「源頼朝は源義経が謀反を起こしたとし、殺した?」なんて感じで兄が弟を…という風に聞いた気がしてました。そんなときでも、モンゴルに逃げただの…そんな話を聞いたりして、実際は…?正直、こんな歌舞伎を見て育っていたとしたら、私自身も平泉まで逃げて…モンゴルまで行っちゃった?なんて信じて伝えていくかもなぁ…。こうあって欲しいという願望かもしれない話と、実際本当のところどうなったのか…わからないことはいっぱいだなぁと思わされる内容。

 

歌舞伎として、『義経千本桜』を拝見して、日本の文化がつながっている…ということを感じた要素を3つあげるとしたら…

一つ目は、幕が開くタイミング。能の囃子方をされている方のお話を伺ったとき、幕が開くタイミングはこのときと決まっているわけではなく、笛・太鼓の調子を聞いて幕を開けるタイミングをはかって開けると知りました。今回、歌舞伎もなのかなぁ…?幕の開き方は違うけど、疑問を持ちました。

 

二つ目は、衣装。山伏の衣装って出てきたかなぁ…テレビで団十郎さんの死去に伴ってやっていた追悼番組でかなぁ…それでも義経の平泉に逃げる話でした。武士の衣装というものを実際に着ている姿をその時代のものとして拝見するのは絵でしかない。能での衣装、狂言での衣装も違うとされて、江戸時代は歴史ある伝統のものとして、新興してきた歌舞伎との違いなどあるのだろうなぁ…。能と狂言と歌舞伎、違いを知りたいなって思わされました。

 

三つ目は、お茶道具の話や着物柄など、こんな舞台の話と全く違うところにちょこちょこと名称由来などなど…出てくるところ。静御前の話にしても…何事もか?昔の詩歌は歌うとき以前の詩歌をどれくらい知っているかで、教養等を見るという話で…と古典で古文を学ぶ…なんて学校レベルとは違う生きている昔の出来事たち?を踏まえてしか理解できない今のモノたち…。

 

自分の国の文化や歴史について誇りを持たせる…なんて国は言っているけど、本当に奥深いものだなぁ…と思わされます。

 

ただ、能楽も歌舞伎も拝見する機会をすすんで持つように努めるようになったなんて20歳過ぎてから…と振り返り思うのですが、この場面知っている気がする…とか、なんとなく似た話を見たことがある…と思い出されることは20歳前の記憶。宝塚歌劇団の公演を毎年のように見る機会持っていたからかなぁ…?なんて意味わからなくても見ていたりしたことも関係するのかもしれません。そんな中にドリフターズの番組を思うのです。テレビを見るのを制限されて育っていたけど、それでも『八時だよ全員集合』を馬鹿なことをしている…って大人たちが言う中でも見ていた…って小さい頃のこと。馬鹿なこと…って、バカ殿様のことやいろいろと…思い出されるのですが、バラエティ番組の内容ってある意味今とはかなり違っているのかもなぁ…なんて思わされました。狂言を拝見したときに、これってドリフターズのやっていたのにあった気がする…って思ったことをはじめ、いろいろそんな伝統芸能みたいなものが下敷きになっているお笑いってあった気がするのです。だけど、今は…?

ドリフターズのコントを踏まえて…って、それらを見て育った世代がバラエティ番組の中心に出ている今であっても、そんな古典を踏まえたようなバラエティ番組ってないなぁ…なんて思わされますね。なんちゃんの狂言を取り上げて取り組んだという番組があったそうですが…って感じでしょうか?

お笑いで下敷きにできるということは、その内容を知っている人が多いから、それを踏まえているって伝わるのですよねぇ…無知のものを下敷きに展開させて笑わせるって難しいだろうなぁ…なんて思うと、能楽狂言お茶お花…雅楽などなど…って、昔はそんなに広まっていたものだろうか?とも。

武士のたしなみとして…なんて内容が一般化されることはなかっただろうけど…雅楽→能楽と貴族文化から武家文化に移行していく中で文化の中心もいろいろと変わったことだろう…とは思いますが、今も昔も一部の人達しかちゃんとついていけていない…というのは一緒なのかも知れないとも思います。歌舞伎は庶民のもの…と広まっていったなんて思って、それでは今は?

 

ただただ、教養って言葉のもつ意味を考えさせられるなぁ…と思ったのでした。

 

 

菊人形で見たなぁ…とか、山笠で見たなぁ…なんてそんな感じも、全てつながっているのですよねぇ…

 

今で言うと、ウルトラマンや…なんてテレビの中のヒーローやアニメと一緒だろうなぁ…なんて思いも持たされました。

 

口上というものが元々はどんなところで、どんな風に言うものを大元として歌舞伎の口上が歴史的にどんなものか?そんなことも知らずに拝見しました。口上って何?って思っても関心がないときには、見たいとも思いませんでした。今回も、正直みたいと思っていたわけではありませんでしたが、拝見して口上ひとつもいろんなものがあるのかもしれないなぁ…って思わされました。

ちょうど、私が拝見した一年前に初めての襲名披露だったとか。それはお父様もいらした…みたいですね。ブロマイドが売ってありましたから。それを思うと、一年後の姿として…などいろいろとあるのだろうなぁ…。

 

芝翫奴というものを拝見して、ビックリしました。

なんであんな状態で、立ち上がったり…とリズムカルに…

 

ただただ、この世界で生きている歌舞伎俳優の方々の中にある日本文化が生きている在り様に、こんなに自分は日本文化を知っているのだろうか…?なんて、圧倒される体験になった観劇でした。

 

海外から日本へ…って日本の歌舞伎を見て、驚く姿と自分と違いがあるのだろうか?なんて思うこともあったりして、帰りがけに「今回の芝翫奴は…」なんて話し合っていらっしゃったご年配のご夫婦の会話が聞こえたとき、ホント…何度も見たりするから、精進されている姿も優劣を評せるのでしょうねぇ…って。オーケストラの演奏を聴いて…などとも一緒でしょうけど、その世界を楽しむって何事も奥が深いものだなぁ…。

 

何事もやってみたり…関心を持つから凄さも伝わる…

日本の文化などを次世代に…なんて言っているけど、私の好きな日本文化は…?なんて、それぞれが持つ背景は日本という単位でも違う。奥の深さを多方面へも理解しようとするというのは、自分が興味関心を持つ好きなものをマニアックに…ホント、オタクになるくらいの関心の示し方ができる人の方が、何でも無関心でスルーっと流しているより国際社会を知るにはいいのかもしれない?

 

周囲の大人が関心を示さないものを子どもが関心を示すわけがない…という意味では、日本文化を伝えないといけないから…って圧しつけようとしたら、きっとイヤになるかもなぁ…というのも同時に思いました。