Believing is seeing

日経新聞2102年8月28日の経営書を読むという欄で『予想どおりに不合理』アリエリー著の本が紹介されていました。

ことわざ「百聞は一見に如かず」は「Seeing is believing」と訳されるけれど、「Believing is seeing」であることをアリエリーが証明?しているんだそうです。

 

人って、一度「こうだ!」と予測してしまうと、結果が客観的にはっきりしたものでない限り、自分の予測にあわせて結果を解釈し、納得する傾向があるんだそうです。

迷惑な話…とそんな風に接されて嫌な思いをしまくったりする側は思いますが、そうやっている人達はそれがバイアスであって偏見ということをちっとも自覚していません。

でも、この本面白そう…って思ったのは「酢を数滴たらしたビール」と「普通のビール」を双方試飲してもらうことをしてみたり、「コーヒーを飲む雰囲気が高級だとコーヒーの質も高級に感じる」などの話が出ているんだそうです。

 

問題解決には、まず仮説を立て、それを検証することにより真の結論を導き出す「仮説思考」が重要。しかし、さまざまな情報の中から「仮説」あるいは「予測」を正当化する情報だけを集めてきて、「やっぱり正しい」などと考えてしまうリスクも知っておくべきと書いてあります。

これは本当に意識しておかないといけないなぁ…って思わされました。

 

人間はもともと「不合理」なものという大前でいてどのように対処できるか?ということを指摘した本なんだそうです。

まぁ…記録までですね。

 

奈良美智 君や 僕に ちょっと似ている

今朝の新聞で、「奈良美智 君や 僕に ちょっと似ている」という展覧会があっていると紹介されていました。

 

昨年3月以降の新作を中心として展示しているんだそうです。

私の中の彼の絵のイメージは、こんな感じ…でした。

でも、糖尿病を発症して…と絵が変わっていったと聞いていたのです。

 

その上、福島県境に近い栃木県・那須の自宅で震災にあったそうです。

新聞に乗っていた写真にある作品は印象が違う…と思わされました。

新聞に書いてあった言葉…

父や友人の死を経験した後でもあり「空虚な感情」に襲われたという。鉛筆や筆がもてなくなり、多くの人が被災地へ支援に入る中「美術はなんて力のないものと思っていた」と振り返る。

と書いてあったりします。

 奈良美智:君や 僕に ちょっと 似ている(横浜美術館 ~9月23日)と、首都圏で放映された番組らしい。そこにこう書いてありました。

奈良さんは、
「体当たり。体が考えてくれる。筋肉で考えてくれる。手が勝手に動いていく。粘土と格闘した跡がいっぱい残っている。」と語ります。

と昨年9月から約半年かけて素手で粘土と格闘するように作ったという像のはなしが載っていました。

「昔の作品には“甘さ”や“なめている感じ”のものが多かった。姿勢を正して“気をつけ”をして、まじめに取り組むようになった。」
と語る奈良さん。

新聞には白黒一枚の絵でしたが、本当に伝わってくるモノが何か違う…って感じでした。少し調べてみたい…と調べてみたのでした。

認知的不協和

認知的不協和とは cognitive dissonance

人が自身の中で矛盾する認知を同時に抱えた状態、またそのときに覚える不快感を表す社会心理学用語。アメリカの心理学者レオン・フェスティンガーによって提唱された。 人はこれを解消するために、自身の態度や行動を変更すると考えられている。有名な例として、イソップ物語のキツネとすっぱい葡萄の逸話が知られる。  これは、ウィキペディアから。

 

この言葉を調べてみようと思ったのは、『新しい学習指導要領の理念と課題』という本に出てくるから。

 

現行の学習指導要領に置いて…?多分、私が思うのは、ちゃんとどんなものかを知らずに表面だけをさらった人達が行った指導の中で、「自ら学び自ら考える」という面ばかりを強調されすぎたということについて書いてあるのです。

…そのために、保護者や教師、自分と違う友達の意見や感じ方の違いなどを虚心坦懐に受け止めることがおろそかになりました。また

自分と異なる感じ方や考えを内面で自分のものと照らし合わせて吟味・検討するといった面が弱かったように思います。

と書いてあります。

正直、「自ら学び自ら考える」と言って野放図にした人達から非難されまくったのは、展開等に対して系統だってさせようと課題を与えることなど。はぁ~?ってバッカみたい…と無視してました。だって、「自ら学び自ら考える」ためにはいきなりは難しいから、ステップバイステップと指導準備が大切。それをしないで、いきなり言われる生徒の方が混乱して当たり前でしょ…それを「なんだそれは…」みたいな言葉かけをする先生気取りの人達と働きながら、「そんなに口出しするな」とか言われるけど、それはそういうふうに考えてやるという風土をつくりだして、そんな形が定着したところからしかできないのにね…と無視してたのでした。だから、拍手!ってくらいに思います。

まぁ、徹底的に与えて…という人達もいますが、この余地のなさも嫌い。そんな思いの私には読んでいて、スーッとした「でしょ、でしょ」と思うところ。

 例えば、これまでの授業では、自分で課題を見つけ、自分で取組むことが強調されてきました。しかし、それだけではなく、教師から与えられる課題も、時には必要です。その時には関心が薄くても、大事な課題を与えられて取り組む中でその大切さがわかってくる、あるいはそれができるようになって達成感、有能感を味わう、という学習経験も必要だからです。

と、ホント、スーッとしました。課題を見付けさせるって結構難しい。枠を設定してあげて、その中で…など段階を経ていくと、全体的な漠然としたものも多くの生徒達が取り組めるなぁ…と思わされることはあります。だけど、初回からそれをするのは違うでしょ…という思いと、後はできる子もいるけど、そうできない子にとっては伸びずに終わるんだよねぇ…と思うのです。どちらかというと、伸びずに終わるのが問題と思っています。今の学校でも、与え方まずいよねぇ…って思うことばかりあっていて、意見する機会がない!ともう形が大まかにできてからしか話を出してこないしくみが「例年通り」の一番問題と思いますね。そして、問題にやらないと気づかないの…?とビックリするようなことでも、スーッと通っていたりしてます。「形をつくる担当になった人がこんなに頑張ったんだから…」の一辺倒で済まされるので、これってまずいよ!と知っていて言っても通らない…理由は3つ思ってます。1つは、これではまずいと言ってすでに変える話をやった経験がない。もう1つは、年齢でしか人を見ない。ラストは、勉強不足・視野が狭い・知識不足…で言っていることを理解してもらえない。最低最悪パターンを体験して思うのは、だから日本はよくならない…。そんな失敗談なんてとうの昔に過ぎている学校とかを体験して、言っていても、「なんでそんなことを言うんだ、やってもいないのに」という言葉を吐く年配者たちに出くわす度に勉強していないから何でも年数で経験したことしか…と言っていたら腐るでしょ?と思います。ホント…まぁ古いやり方から重い腰を上げるのが遅い対応の学校で思うことは、後追いする学校は嫌い!何でも最先端で取り入れてみて検討を重ねよくしていくということをしないと、法規法令が改正されて不都合にも対処できないと最初の職場で学んでいる私には受け入れがたいスタンス。どっぷり昔流…その昔流が大っきらいな私には頭古い…が何十年前の指導要領を見た話をしていますか?って思う度に嫌悪感しか感じません…と違うことを書きたいのに…。

 

書いてある所には、

教師から与えられる課題も、ときには必要です。そのときには関心が薄くても、大事な課題を与えられて取り組む中でその大切さがわかってくる、あるいはそれができるようになって達成感、有能感を味わう、という学習経験も必要だからです。

 先生から注意される、友達から違う意見をぶつけられるというのは嫌なものです。心理学的には「認知的不協和」というのですが、先生や友達から思わぬことを言われたら、それ自体が不快ですから避けようとします。しかし、それでは、世の中を生きていくことはできません。安易な上滑りの人生になってしまいます。

ということ。

実は、このところの課題を不快に受け入れない…。違う意見を出しても耳にしない自分を通す…ってやり方をする自己流の人と話すときに、こんな風に書いてある本を片手にでも話さない限り耳を貸さない年配者たちって学校教員は多いなぁ…って思います。本当にやっていたりしている人と話すときは、違いを理解して取り組むときに役立つって思いますが、もう「こう!」と決めているそのものがおかしい!と言っている言葉が通じない…。無知無学で教えようとしている人たちと接して共有するって本当に難しいです。こんな指導要領とか頭に入っている人達と働けていたことを本当に過去のこと…ですが、あのころがよかったって思います。全く通じない人達と働いて思うのは、だから生徒が伸びない!理由は簡単ですね。自己流以外知らない人たち…。実は先生の方がこんな「認知的不協和」を避けるから、生徒にそんな体験をさせないのかも?させているつもりになっているかも。

 

…「自ら」や「自主性」は最後に目指すものであり、プロセスでは教師の指導をもっと大切にしよう、ということをきょうちょうしているわけです。

 

とあります。そうだよね…と納得です。

 

 

例えばおいしいと評判のラーメン屋に行って行列に並んで食べたがあまりおいしいと思えなかった経験はあるでしょうか?

このとき人は「おいしいと評判の店。行列に長時間並んだ。」なのに「ラーメンが美味しくなかった。」という事に矛盾を感じ認知的不協和に陥ります。そして以下のように考えます。

「このラーメンは美味しいけど自分には味が分からなかっただけ。なのでこのラーメンはやはり世間一般的には美味しい。」

このように人は認知的不協和を解消するためにこのように感情を理論的にコントロールしようとします。この現象が大きく影響するのはプライシングです。

こう書いてある「認知的不協和」の説明サイト。こんなのも「認知的不協和」なのですね。

 

自分の状態(気持ち、経験)にそぐわない状況に置かれた場合、居心地の悪さ:認知的不協和が生じる。

  その居心地の悪さ:認知的不協和を避けようとして、自分を納得させられるような、自分の状態(現状・過去・欲望…)を正当化(合理化)するような、理屈や態度をこしらえて
 ・安心が得られるように
 ・自分自身の内部に矛盾がないように
 ・自分をほめることができるように
人は自分の考え方を変えてしまう

 

自分自身にもあることかなぁ…とは思いますが、教育の場でこれを体験させながら学ぶ機会を得る意義について書いてある文章を読む機会を得てよかったです。

 

 

 

サルヴァトーレ・フェラガモ

忘れる前に書いておかないと…とフェラガモ。

 

もう忘れてきている…

9歳で靴を作りはじめて

11歳の時、自宅で靴屋を開業。

結構繁盛して、15歳でアメリカに靴の修業?

アメリカでは靴を手作りから工場生産になるところ。ボストンで、映画用のブーツをつくったのが流行るきっかけになったんだそうです。

足を痛めない靴をつくるために、南カリフォルニア大学で解剖学を学んで土ふまずの部分をケアしてあげるといいとか言っていた…テレビ番組で見ていたのです。

注文がたくさん舞い込んでも、一緒に手作りをするような靴職人がアメリカにはいなかったから、イタリアにもどって店を開いたって言ってました。イタリアでは職人がいて、分業制を取り入れたと。

サルヴァトーレ・フェラガモ

フィレンツェのミュージアムにて「マリリン・モンロー展」を開催している話が放映されて、その中で、衣装もだけど靴が展示されていた。

 

マリリンモンローの靴のレプリカ?も限定で販売されているってあった。

 

今どのように靴がつくられているか…等も放映されていて、そんなブランドなんだ…と学んだのでした。

 

8月15日(水)18:57~21:54  「笑コラ!遂にバルセロナ新支局も開設!ローマ支局と地中海はおまかせよ3時間SP」

 

「フェラガモの靴」と、バブル絶頂期などよく耳にしながらも、全く関心なくいたけど、そんな風に研究しながら作っているんだ…と思うと、知るって大事だなぁ…と思わされました。

忘れてしまう前に記録しておかないと、随分たったので記憶がボケますね。

 

 

 

 

 

 

 

飲酒運転

福岡海の中道大橋飲酒運転事故によって、本腰あげて「飲酒運転撲滅」を言ってますが無くならない。

なぜだろう…?と考えた時に、なくならないでしょうねって思ってしまいます。

 

なぜなら…

昨年度は教頭が

この夏は講師が…

学校関係者というか、教員が平気でやっている。

正直、今までそうやっている人達を何人も見てきたし、知っている。

私は、実は飲んで運転したことは1度ある。まだ父が生きているころ、かなり前。その時に、ビール1杯くらいだったのに、判断がずれる体験をしたので、その後はウイスキーボンボンとか、そんなものを食べた時でもちょっと心配になる。許容範囲だと思うけど、自分で辞める。

私が辞める理由は、判断がずれた体験を持っているからかなぁ…?

それよりも、法治国家として存在できるか否かのひとつだからかな?

こんだけ言われていて教頭が…というのは、正直、ビックリ。

さらに、24歳で…?2006年の福岡海の中道大橋飲酒運転事故を未成年で知っていても、飲酒運転して教員として教壇に立つんだ…とビックリ。教員でなくても、なんてひどいんだろう…って思うのです。きっとこういう人は、学校規則とかも平気で破っていた人なんだろうなぁ…と勝手に思います。

今だけでなく昔から、学校規則を力で圧してさせるということをしてきた人達がいるから、変わらないんだと思います。圧されて規則を守る…そういうふうに覚えてきた人達には、言われていることを守る意義が理解できていない。強く言われなかったらしない…そんな感じの人が多いなぁ…。だから、福岡ではなくならないんだと思うのです。「なぜ」というのをわからないような指導。頭ごなしに「校則に決まっているんだから守れ」としか言えないような校則も…でしょうね。指導する教員がなぜそれをさせないのかなど理解していない指導を見ていて、圧している指導をしても意味ないのに…それが多い。正直、そんな指導をされた人達が職場に来られると迷惑この上ないだろうなぁ…と思うのです。注意されなかったらいいと思う…モラルも何もない判断を学校でも見かけます。お尻を出すような腰パンで生徒の前に立つ講師と出会って、お尻の割れ目が視界に入ったときには…正直、服装モラルにうるさく言われた最初があったことに感謝…。

飲酒運転もきっと、同じなんだろうなぁ…って思います。親の感覚がきっとルールは守らなくていいと子どもに教えて…、子どもがきちんとするということを嫌がるのを受け入れていった親たちに迎合した指導。ダメなものはダメ!と学ばずに子ども達が育って、24歳で飲酒運転。友達と飲んでいたのなら、その友達もおかしいんじゃない?って思います。

誰かに対して、守れといわないといけないルールがあるのなら、自分が守って見せるって大事では?と思うけど、口先だけの教員多し。そして、口先だけの大人多し。

オバタリアンと言われて、並んでいる列に割り込んだり…そんなのを見て覚えたり、「赤信号みんなで渡れば怖くない」とか、モラルハザード促進した人達をもてはやしてマスコミに流す…とかも、ルールを守ることの大切さを学ぶ前に壊していいと覚えるんじゃない?と思います。笑いながらね。

 

どうしたら、飲酒運転がなくなるのか?

路上タバコもそうですが、税金を払うことも…同じだと思うのです。

守っていない人たちをもてはやしたりするのをやめた方がいいと思います。あと、家で教えることにルールを守るとか、ちゃんとした方がいい…と子どもには守るように言っているけど、目の前で反対のことをしている大人たちでは見た方を真似るのも当然では?

 

大人にモラルがなくなっているのかもなぁ…と思います。

そして、それを見て育っているのでは?

悪循環ですね。

体罰しても平然として働いている人達を見たら、別にいいんだ…って学ぶ子ども達がいても仕方ないと思うのです。それをたくさんやり過ぎた福岡県だと思うのです。他の県は知らないけど、それをされたら覚えるのは…ルール守らなくてもいいでは?