汕頭(スワトウ)刺繍

以前、気になって調べた時には出ていなかった?気付かなかった資料も改めて検索すると見つけることができるものですね。

もしかしたら、調べる人がいたら情報を提供してくれる人が出てくる?そんな気がしてくるくらいです。

 

中国の広東省東部にある汕頭地方で受け継がれる手刺繍。

汕頭刺繍の発祥は、広東州東部の町「汕頭」。
1858年の天津条約を機に、宣教師たちがヨーロッパの刺繍技法を伝えたのが始まり。

 

ヨーロッパの感性と中国古来の技法とが融合。

 

オープン・ワーク(切り抜き刺繍)の一種で、生地を切り抜いたり、糸をかがったり束ねたりして透かし模様を表現する、ドローンワークという技法を使っており、とても手が込んでいるもの。

 

ヨーロッパでは多くの女性たちがスワトー刺繍に魅了されたそうです。舞踏会やパーティで使うための最高に上品とされている白い刺繍と白いレースのハンカチ!というように広まり…。正式の場所でこのハンカチを持つことが、貴婦人の誇りとなり、これをきっかけにヨーロッパ全土にまた世界へと広まっていったのだそうです。

 

と、ここまでは以前調べていて知り得た情報でした。

 

スワトウ刺繍の伝承ができていない結果です。農家のおばちゃんが親から子へ、子から孫へと受け継いだ技法が工業化・都市化の波でみんな割のいい仕事につくのでこんな手間のかかる刺繍などやりたがらなくなっているのです。今のスワトウギャルはボタンも付けられないと思います(ちなみに中国の小中学校には家庭科がありません。料理洗濯 家事全般できません。オフクロの味は中国ではすでに絶滅品種です。ちなみに書道もありません)。

 このように書いてあるブログを発見しました。そちらのブログでは、元々スワトウ刺繍と売っていたものは、安価なものだったと書いてあります。そして、現在は機械で作られているものが主流となっており値段が下がっていると。絶滅危惧種とも書いてありました。
以前調べた時はこんな話も見つかりませんでした。実際はどうなのかは置いておいて、中国の小中学校には家庭科がないというところにへぇ~って思わされました。
中国汕頭(スワトウ)地方に息づく汕頭刺繍は母から娘に受け継がれる手仕事の妙技。
18世紀、イタリアの宣教師によってもたらされたヨーロッパの刺繍の粋は、中国の美意識と少女たちの細やかな手を得て究極の手仕事として大きな花を咲かせ、現在に至っています。
1858年の天津条約を機に、宣教師たちがヨーロッパの刺繍技法を伝えたのが始まりといわれています。
と、具体的に書いてあるサイトも見つけました。1858年となると、18世紀?
スワトウ刺繍の特徴は、吸水性の良い綿と麻の生地に刺繍をしたものです。上品さとデザインの美しさとを合わせて、飾りにも実用にも合わせる、これがスワトウです。
こちらに文章は、中国の販売サイトの紹介文から。
 汕頭刺繍には大きく分けて2種類有り1つは抽綉「ツオシュウ」で織り上がった生地の縦糸、横糸を数本引抜き空間をあけ飾り糸を通す方法です。もう一つは拉綉「ラシュウ」で生地に糸を通し引きながら広げて空間をあけてゆく2つの技法があります。
この詳しさと写真は嬉しいなぁ…って思わされました。
 
スワトウ(汕頭)といえば『刺繍』で我々には有名です。ところが町にはそのかけらもありません。中国人には、『汕頭』=『刺繍』のリンクはまったくありません。得た仮の結論は、外貨稼ぎの為に汕頭のごく一部の地域で刺繍が産業として存在しているのであろう、ということです。
と、書いてあるサイトを発見。日本で着物売り場で見るような扱いの刺繍ではないのですね。
検索し回って発見するのは着物の話とハンカチの話…と、日本のものばかり…。
あと、中国の工場?機械で作られているんだ…と、手作りではないのですね。
そう思わされました。

徳田八十吉さん 

九谷の磁器は、黄緑紺紫赤の5色を使った絢爛豪華な絵が特徴。

今は亡き三代目徳田八十吉さんのことを紹介したVTRを手に入れていました。見る機会を持てずにいたのでした。すでに亡くなられて拝見して、九谷焼きの伝統ってアグリッシブな感じがあるのかなぁ…?

 

五十吉さんの亡くなったときにも、どんな感じだったのだろう…?九谷について知りたく思っていました。だけど、亡くなられて…八十吉さんも亡くなられて…遅くなりましたが、このVTRを拝見して最初に目を引いた九谷が私にとっては八十吉さんの花瓶やお皿だったので、感慨深く思います。

 

 

三代八十吉さんは受け継いだ色を独自のものへされていった話。

成形した器の表面をやすりでこすり平らにきれいにして、塗っては焼き…を繰り返している。

 

思った通りの色、文様が出るように何度も計算して窯で焼く…って、描かれている様子で見える色はこんな色で?という色重ねされたものから違う色が出ますね。

 

三代目の色は電気窯でしか出ない色なんだそうです。薪では出ない色って今だからこその作品なんですね。現代だからこそ…新しい色なんだそうです。

 

昔使われていた色絵の窯。

今は使われていないんだって。

 

秘伝を息子ではなく孫に伝えていった初代だったそうです。

昭和31年に初代は亡くなって、当時22歳のお孫さんだった三代目。色の秘伝を12通り、伝えたんだって。半年ではそれだけだった…と三代目は途方にくれたんだそうです。

そんな中、お経を見て、初代の手帖にある文字が、そのお経の文字で1~10を暗号化していたことを発見。100以上あった色を教えてもらった12の色から解読して初代の色の調合を習得されたのだそうです。

三代八十吉さんは自分の色も無数に…。

色の調合は他にもらさないというのは、どこの窯もそれが一番その窯らしさにつながるということなのでしょうね。

 

創生?この字でいいのかな…その作品が気にいっている作品だそうです。

2回焼いて終わろうってしていたら、失敗していたそうです。そこで高温にして3回目を行ったら筋ができて新しい顔が出てきた…って。

本当に新しいものが出るということは偶然…なんだと思わされました。

 

線の集合体が面。数学の世界のような話をおっしゃっていたのですね。

 

二度目に失敗して三度目に…って計算されたものに三度目。

失敗したと思うものに手を加える面白さ。同じものをもう一度となると、偶然ではなくなる。

 

 

「恒河」

この花瓶にテッセン一輪さして、お花の展覧会に出品された方がいるんだそうですねぇ…すごい。

同じ作品かな?お店で飾ってあるのを拝見したことがあります。

 

「心円」

「石畳」

代表作を前に語る姿がVTRの中でありました。

 

同じものを作り続けることが伝承。

伝統とは形骸を伝えるのものではなく、精神を伝えるものである。

 

精神を受け継いで、作者らしさをその中で生み出す。

いろんな伝統を持つ中で生きている人たちの言葉を伺い学ぶ機会を持ちます。本当に、伝統とは?考えさせられるものです。

 

焼き物の表面に入る貫入は、生地と釉薬の収縮率の違いで現れるのだそうです。

「共生」

貫入は、窯から出てすぐ入ることもあるし、何年たっても入らないこともあるのだそうです。

 

徳田順子さん、現在の八十吉さん(4代目)ですね。

若い姿。

四代目襲名されて、今はどんな感じなのでしょう…?

三代目に似た作品を亡くなられた後拝見する機会が多いなぁ…って思いますね。

 

加賀料理の老舗での八十吉(三代)の器に料理がのっている映像は、やはり器は料理のためにあるものだなぁ…って思わされますね。すごい。

作っている人間には使ってもらえてどうか?

 

表面の装飾が中心の九谷。

 

自然体、率直、自分の仕事に意欲を失われていない。

 

作る人間はどういう風に使われるか?

美しい物良いものを作ろうが先立ち、どう使われるかを忘れがち。

 

 

自分の心にあう線は一本しかない。

 

 

『無限の彩を求めて』徳田八十吉

やきもの探訪

『三代徳田八十吉 陶の譜』

というVTRを見ながらのメモでした。

 

 

何度も窯で焼いて行くうちに光に近づいていく。

「旋律」

九谷の色を受け継ぎながら現代的な鮮烈さがあふれている

「恒河」

幻想的な色合い

「彩釉壺」

瞬間瞬間、全く別の表情を見せる海

24時間、365日の海

明」

日の出がモチーフ

50以上の色が塗り重ねあって、朝の陽光を表す

画像が欲しい…と思うとこういう形が一番載せやすいのでした。

 

本当に素敵だなぁ…。

ボーっと眺めていたのは何年前なのでしょう。

九谷焼って、一言で言うと「けばい」ってイメージしか持っていなかったのです。でも、当時の私には毒々しく色がいっぱいというイメージだったものを変えていってくれました。

いろいろと教えてくださった…九谷焼を販売されている社長さんに感謝。

 

昨年は同様にVTR今右衛門を拝見したんです。

あと…数本VTRまだ見ていないので、見よう!って思います。

新年あけましておめでとうございます

これを書きはじめた時、誰かが読むという意識が全く在りませんでした。読む人はいるかもしれない…だけど、自分のノート代わり…。

今も、ノート代わりに書いています。ただ、多くの方々がいろんなことを教えてくださる昨年一年間。感謝です。

 

世界中の方々とインターネットはつながっていることを改めて意識させられた昨年一年間でもありました。

また、もしかしたらこのブログからかしら…?懐かしい友達が見てくれたのかなぁ…?そんな年賀状を頂きました。

感謝。

 

ちょっとだけビックリしました。

 

 

今年の最初は恐らく来年のために…って今年作ったおせちのことについてちゃんと記録を取っておこう!と昨年末に思ったのでした。

今年の年賀状を作りはじめ…遅すぎって年末31日まで書いてました…。

その年賀状を作るために写真撮影!と写しまくって、結局どれが一番良かったのかなぁ…。選んだものはココには載ってません。というのも、データを加工して画素数あげているのでアップできるデータ量をオーバー…。

まだ出さないといけないかも…?ってデータを落とすのを辞めてます。

 

なんか、印刷されたこの蛇たちでも、ご利益がありそうなきらきらオーラを出している…。賀状を書きながら思ったのです。なので、撮った写真をできる限りアップ。実際どの写真がオーラ強かったのかなぁ…?

作った方のオーラを分けていただいた感じですね。

感謝。

薪窯による本焼焼成と工房(細工場・絵書座)の特別公開

柿右衛門窯 2012年秋の新作展の期間中、薪窯による本焼焼成の特別公開を行います。
通常は公開していない工房内での本焼焼成作業、細工場、絵書座を特別に一般公開いたします。

見に行きました。

細工場、絵書座は撮影不可!ということで、コレはOK?撮影しました。

本焼き焼成の様子でした。

 

こんなに煙が出ているんだ…と思わされたのでした。

5月に伺うことはあっても、この季節に伺ったことがなかったので、柿木がこんな風にあるとは…気づいていませんでした。

写してよかったのか?わかりませんが、床の間の掛け軸も柿。柿右衛門窯だ…って思わされました。

 

季節がちょうど柿のとき、新作展と出されている柿もなんだか素敵でした。

 

 

能 野守

昨日、ウィークエンド夜能というイベントで能を見に行きました。

 

正直、ちゃんと起きていられなかった…と、同じ姿勢を長時間していて体がきつかった…眠いというより、体が痛かった…。

でも、見ていたくて…と見る気は満々なのに…と、腰が痛くなったり肩が凝ったり…はちゃんと休憩中に体動かしておけば問題なかったはず…と次回はどうにかしたい…って思うのでした。

 

「野守」という能。ある意味なんか不思議で、なんとなくイメージはSFでした。

 

能・狂言ということで、狂言「柿山伏」と能「野守」の2つでした。

狂言「柿山伏」

修行を終えた山伏は、本国に帰る途中のどの渇きを癒そうと柿の木を見つけたたくさんの柿を食べる。そこへ、畑主が見回りにやって来て、山伏を見つける。

大事な柿を食べ散らかされて怒った畑主は、しばらくの間からかってやろうと、犬だサルだと山伏に動物の鳴きまねをさせ……

能「野守」

大和の国・春日野に来た山伏は、野守から「野守の鏡」についての故事を聞き、本当の「野守の鏡」とは昼には人となり、夜は鬼となってこの地を守っていた鬼神の持つ鏡のことだと知る。まことの「野守の鏡」を見たいものだと山伏が祈ると、鬼神が鏡を持って現れ、天界から地獄の底摩どぉ写して見せた後、大地を踏み破って地獄へ入っていく。

 

次のように書かれているブログがありました。

能「野守」は、大和国春日野に伝わる伝承をもとに、世阿弥が書いたものと思われている。鬼の能であるが、和歌をテーマにして上品な体裁になっている。

平安末期の歌論書「奥儀抄」(藤原清輔撰)によれば、雄略天皇が春日野に狩をした際、鷹が逃げたので、その行方を野守に追わせたところ、鷹の姿が池の水に映っているのを見て探し当てた。それ以来、この池は野守の鏡と呼ばれるようになった。新古今集に読み人知らずとある歌「箸鷹の野守の鏡得てしがな思ひ思はずよそながら見ん」は、この池を詠んだのであると。

世阿弥はこの野守を鬼に見立てた。古来日本人にとって鬼とは、死者の怨念が亡霊となった者をさしたが、世阿弥はそれを仏教的な荒ぶる鬼とした。ただその鬼は人間に危害を加える者としてではなく、池を守る精霊のような者として解釈し直されている。

 

「ウィークエンド夜能~yanoh~ 能 野守」自由席ペア1組

能面を博物館で見ていました。

ですから、今回、能面を結構必死に見ていました。不思議…。

本当に、角度によって表情が違うってわかったんです。また、色も違う…。ビックリでした。

老人の面。

そこから…着替えがあっている間の「では?」という情景音楽と説明された囃子。

つぎにでてきた鬼神はなんか凄く不思議な感じでした。

 

と、わからないなりにもちょっとだけ、能。

 

狂言でも山伏が出てきて、能にも山伏が出てきて、能楽の話を昔調べたことを思い出しました。

 

この世のものではないものの力などの力を信じている…そんな世界が、能。

この世のものではないものなどの力なんてない!という…そんな世界が、狂言。

覚え方正しいかはわかりませんが、そんな感じかなぁ?と。

 

「狂言」という言葉は、元々古代中国語で、日本では『万葉集』に見られる。
タワゴトと読まれていて、デタラメな言葉とか冗談という意味でつかわれていた。

キョウゲンと音読みされて普及するのは、白氏文集の中の「狂言綺語」の語が『和漢朗詠集』に引用されて以来と言われているそうです。

「狂言綺語」というのは、もっぱら仏教の立場から、物語などを偽りに飾ったものと否定的に言う場合に使われていた。しかし、次第に「狂言」という語も単独で、常軌を逸した言説や戯れの言葉を指すようになっていったそうです。
この「狂言」が滑稽な芸能を指すようになったのは南北朝時代のこと。

室町時代、「狂言」は能とともに演じられる舞台芸術として確立したが、江戸時代に入ると、それがあやしくなる。なぜなら、江戸幕府の式楽となった能楽四座(のち五座)体制の中に組み込まれなかった狂言師が、近世初期の歌舞伎の成立に参画。歌舞伎の出し物も「狂言」と呼ぶようになったから。
本来の狂言は、武士の専有物になったのに対し、歌舞伎は近年まで民衆演劇の王座を占めていた。「狂言」はむしろ歌舞伎の外題を指す呼称として一般化…。そのため、「歌舞伎の狂言」ではなく「能楽の狂言」という意味で、「能狂言」という名称も生じたとか。

1955年(昭和30年)ごろから狂言の評価の高まりにより、歌舞伎界でもなお狂言という言葉が使われているものの、ただ「狂言」というと能楽の狂言を指すようになった。

狂言という言葉の由来を知るきっかけとなり、「狂言綺語」なる言葉も知らなかったので、学ぶきっかけになりました。
確かに、同じ演目が歌舞伎でもあるな…となぜかわかってなかったけど、こうやって知ることで理解。
本を読んで出てきた情報だけど、インターネット上では見つけることができなかったなー。

現在は、能と狂言の総称を「能楽」と言っているけど、明治維新直後までは「猿楽」と呼ばれていた。
猿楽が能楽と改称されたのは、1881年(明治14年)に家族を中心に財閥や学者も加わって能楽社が設立されたとき、『能楽社設立之手続』に改称の理由として「猿楽の名称字面穏当ならざるをもって能楽と改称し…」とあるそうです。
明治新政府が外国からの使節に見せる日本を代表する舞台芸術として猿楽を指定した時、猿からモンキーを連想することが具合悪いと考えたのだろうと書いてあります。

能だけでも半人前、狂言だけでも半人前、両社でいわば一人格を形成している。

そんな表現を読みながら、不思議だな…全然違うようなのに…と思いました。

能も狂言も平安中期に成立した猿楽の流れを受けている。雑多な芸を包含したものでした。
室町時代初期、能が荘重な歌舞劇として姿を整えたとき、狂言は猿楽に見られた滑稽な寸劇からまだそれほど本質的な成長を遂げていなかったらしい。それが喜劇と呼ばれる舞台芸術にまで成長するにはそれから200年近い年月がかかっている。
その間、狂言ではほとんど舞台装置を飾らないガランドウの殺風景な能舞台で、能と交互に上演されて歴史を歩んできた。だから、純粋な写実的な対話劇として発展することはなく、能の劇形態の影響下で成長した?

元々は、今の漫才などのルーツと辿ると一緒なのでしょうけど、能の影響が色濃く変化してきたのでしょうね。

狂言は対話によって筋を進める曲が大多数。だけど、劇の発端は、登場人物が名のりをして、途中歩いて、相手の家に付くなど、能と同じようなパターン化されているとか。これは、今のコントとも似ているよね…と思います。
中には、次第の囃子で出て次第を謡い、名のりの後に道行を謡って目的地に到着する能をまねた曲もあるそうです。詳しくないから、何という曲かはわからない。

恋慕の狂乱などにカケリを、唐人の異国性の表現に楽を舞うのも能と類似する。

これは、ノートに写したけど、意味が全くわかりませんでしたね。多分、たくさん見ているとわかるんでしょうね。

全体の構成が能のパロディーである『通円』などの舞狂言のほか、能の一部をパロディーとして用いている曲となると数多いとか。その一つに、棒縛りもあると書いてあった。

どこがパロディーなのかも全くわかりませんが、能をそうやって笑いにしているものと能が一緒の道を歩んでいるって凄い。

能と同じ要素は、腰を入れたカマエ(重心を低くした姿勢)と擦り足のハコビ(歩き方)という演技の基本が一緒だそうです。

違うところは、
(道行)
能では、数歩前後するだけの動き
狂言では、本舞台内を名乗座から目付と脇座を通って再び名乗座へ三角形に動く
(泣く動作)
能 手のひらを目の前へ静かに上げるだけ
狂言は…? 写し間違えたかな?

演出・演技が、能は求心的・象徴的で重厚なのに対し、狂言は開放的・具象的で軽妙だとか。

能と狂言が別の演劇のように感じるのは、扱う世界や込められた感情・思想の違いによるところが大きいとか。

世阿弥は本説(出典・典拠)を重視したんだとか。
能は、『源氏物語』や『平家物語』他の古典文学や有名な伝説などを題材としたらしい。
多くは貴族的社会を描いているんだそうで…と1度しか見たことがない。

これに対して、狂言は当代社会の笑うべき断面を舞台化しているんだとか。
登場人物の中で、最高の階級である大名も、江戸時代の大名とは違い、たとえば「隠れもない大名です」と威張って名乗っても、「召し使うものはただ一人」という弱小の地侍にすぎないんだとか。鎌倉時代のことだからな…って思って見てみると、確かに平安時代の後、平家と源氏と…というところで、武家の社会になっていく。元々、自分で土地を耕し、自分の土地として認められて…といった武家が登場する過程を歴史で学ぶと納得!なんてこともあり。あまり歴史は得意じゃないけど、大名イメージも江戸時代のイメージではないというところを踏まえて理解していくと、少しわかる気がすることもある。
そんな大名の召使で下人階級である太郎冠者が最も活躍するところが、庶民的と本に書いてあった。下人階級は売買質入れされるような隷属民なんだとか。そっか…清水を見たときにはわからなかったけど、そうやって少し立場的なことなども知ってみると、かなりおもしろいだろうな…。昔の人達はそんなことも知っていたんだろうから、太郎冠者おもしろいことをしているな…だけではなかった楽しみ方があったんだろうな…。

能は悲劇的、狂言は喜劇的と言われるらしいけど、能は必ずしも悲劇ではないらしい。これもわからない。
途中まで悲劇であっても、ハッピーエンドになっている曲は多いんだとか、だけど、能は笑わないらしい。
それでも、約250曲ある能の現行曲のうち、笑いの表現は二曲『三笑』『景清』があるそうです。
それに対して、狂言は現行曲中、笑いの要素のない曲は、14,15曲なんだとか。

能と狂言において、現実認識や仏教感にも、甚だしい差異があるそうです。

能では、亡霊や怪異を登場させないと、なり立たなくなってしまうんだとか。
でも、狂言では例えば『武悪』では、幽霊になって主人の前に出よと言われた武悪が「身どもはついに幽霊になったことがない」と言って、太郎冠者から「いや、ここな奴が。誰あって幽霊になったものがあろう。きいたこともあろうによって、取り繕うておいでやれ」とたしなめられるんだとか。日本語は古典的だけど、要するに幽霊なんか見たことがないという人に、誰も幽霊になったことがある人もいないだろうし、幽霊の話は聞いたことはあるだろうから適当に幽霊になりきったらいいと言われているってことだよね…。ちっとも幽霊の存在は信じていない世界観。
狂言の『節分』や『博変十王』の鬼や閻魔大王も人間や亡者に手玉に取られて憂き目を見るんだとか。これは、絵本で見たことがある…なんて思うと、狂言そのものはあまり知らないけど、いろんな形で考えは日本では広まっているのかもって思いました。

能では、僧侶の祈祷は常に威力を発揮するのだとか。狂言では、『無布施経』『寝替』『宗論』など住持の物欲・色欲や権勢欲が風刺の対象として笑い飛ばされているんだとか。

そうやって見て行くと、なぜ、能と狂言が一緒にあっているのだろう…?と疑問。正反対に聞こえてびっくりしました。

そのことについて、室町時代という時代背景のことが書いてありました。
土一揆があったり物情騒然な中で、一方、東山には銀閣が造営される…なんて戦乱の中でも、雅もあり?
茶道や華道も成立している時代…と書かれるとほんとうに不思議。

カオス的な上下の観客に対応するために、能楽も能と狂言の役割分担を明確にしなければならなかったのだろう。

この一文は、なるほど…と理解。
そっか…、武士は命はって戦っている人達。幽霊とか信じていられる?そんなことを気にしていたら、人を斬るとかできないでしょうね。でも、その一方で、平安時代から?ずっと陰陽師や祈祷など目に見えない世界を信じてきた貴族たちもいる。いろんな価値観の中で、受け入れられていく必要ありとか言うのはわかるような気がする表現。
観阿弥・世阿弥の親子って凄い!なんて、能狂言そのものよりもそんな処世術に感動してみました。

源氏物語絵巻も、武家中心の社会になって、古典を知るとか、荒っぽくて野蛮なだけではないというところで、絵師に武士が描かせたものが海外に流出している…そんな話をテレビ番組で見たことを思い出しました。

狂言の歴史?
多分、本を変えて記録して行っているから、ノート途中から再度歴史とか書いてある…。
話すための記録だったからまとめてない…それをまとめずに書いて…と、自分のための記録としては大丈夫かな…。

奈良時代、中国から散楽といわれる芸能が渡ってきた。
この「散」という文字には「卑」という意味があるそうです。これは、宮廷で行われていた雅正な芸能であった雅楽に対し、曲芸・奇術・歌舞などを主体とする種種の卑俗な大衆芸能の総称だったんだとか。
後進国だった日本。この散楽も、国立養成組織といえる楽戸(がくこ)で教習。782年に楽戸は廃止されたそうです。

平安時代に入ると、散楽は滑稽さを強めると同時に、「散」の音から「猿」と呼ばれるようになった。
平安中期、『源氏物語』が完成してほどなく、宮廷学者だった藤原明衡によって書かれた『新猿楽記』には当時の猿楽の演目が記されている。

世阿弥は、狂言役者を「ヲカシ」と称しているとか。

室町時代
1349年2月10日春日若宮臨時祭の記録は、前代以降成長を続けてきた歌舞主体の劇のことを、「能」とよんで記された最古のもの。

田楽…もともと豊作を祈る農村の行事から発展した芸能。散楽系の曲芸を吸収していたが、この頃には能も演じていたと書いてある。これはよくわからないけど他の記述の本も読ませていただいた。何が正しいとかイマイチわからない。

1352年3月16日の『周防国仁平寺本堂供養日記』に芸能として「狂言」という語が初めて検出される。

観阿弥・世阿弥の父子は、足利三代将軍義満に認められ、その絶大な支援を得て、猿楽を帰属にも愛好される芸能に引き上げることに成功する。

観阿弥作の能は約10曲、世阿弥作の能に至っては、約50曲が、今日のレパートリーとして残っているとか。

狂言は、舞的な動きも含んでいたとしても、滑稽なしぐさや秀句(洒落)などの言葉遊びを主体とする笑劇のつねとしてアドリブで演じられており、能とともに芸術的に昇華されることは無かったと考えられる。
その上、死と背中合わせの日常だった武士が政権を掌握し、仏教思想が瀰漫していた社会では、軽妙な笑うべきものより深刻で荘重なものの方が高く評価されていただろうと書いてある。

世阿弥の『習道書』に出てくる「笑みのうちに楽しみを含む」
和楽の精神を一番よくあらわしているかもしれないと、狂言師の方が書いている本にありました。

ほのぼのとした楽しさみたいなものが雰囲気的に伝わっていくことが脇狂言の命だと思います。

だそうです。

太郎冠者の性格を大別していくと
愚直と才覚
なんだそうです。

狂言に付いて、調べてみて思ったことは、歴史について日本史を勉強して知ったことを違う角度から見ることができた。あと、お茶との関係やいろんな、今、別物と思って知っていたことたちがつながっていくことが凄い。

どれだけ、能や狂言が広く知られているのかということを学ばされました。

ルーズリーフに書いていったノート。もう一枚が行方不明…。

脇狂言という言葉がふつうにつかわれている文章を読みながら、脇狂言が何か?イマイチわからないまま読んでやっぱりわからないで…専門書はよく知らない人間には厳しい。

昔、「翁」「高砂」「末広かり」が番組のパターンになっていたと書いてある文章も意味がよくわからない。これは、能楽詳しい人にとっては当たり前なんだろうな…。そう思いながらも、この3つは人形などいろんなところで聞いたことがある名称で、こんなつながりがあるんだ…と感動しました。

 

 

狂言の山伏はとっても人間的でした。へんな言い方ですが、柿泥棒してごまかそうとして…呪術を使った…つもりだけど、ちっともかかっていない。完全に念仏を唱えることに意味を見出していない感じでした。

 

能では、山伏は不思議な力を持ってました。

 

衣装の違いやいろいろあるのかなぁ…?なんて疑問を持ちながらもわかりませんでした。

足袋の色が違うくらいはわかるけど…って感じ。