2013あけましておめでとうございます

ようやく、昨年いただいたコメントを読み終わりました。そこで、コメントを下さったみなさまへ。まずは、ありがとうございました。感謝申し上げます。本年分だ!とようやく今年いただいたコメントを拝見したので、書き始めします。

 

今年は、いつものように…よりがんばったのは、初日の出を見に行きました。


初日の出を見に行くのは久しぶりでした。

日本では一年に一度の最初の夜明けとしてめでたいとされ、初日の出参りを行う人は数多くいる。この習慣は明治以降に盛んになったと言われている。

これは、ウィキペディアにある一文です。

 

とりあえず…、本のタイトルは思い出せないけど、明治に入り政府主導でとにかく神社と寺と分けて、天皇を神として崇めることで国をまとめようとしたところに、ご来光って初日の出を見に行く習慣を奨励したようなことが書いてありました。

 

たぶん、山頂に上がったりして見たら日の出の時刻として発表されている時間に日の出を見ることができるのかもしれません。しかし、私が見た初日の出はそれから約10分過ぎてから。

 

「正月」という言葉は、中国から伝わった言葉。中国、周の時代に11月を正月と言っていたのだそうです。そして、王朝が交代すると暦も一変。時代が下って1月を正月というようになったのだとか。

調べてみないといけないと思っているのは、旧暦では必ず冬至を11月におくようにしていた理由。

冬至は日照時間が一番短い日。その翌日から日照時間が長くなりますので、万物を育む太陽が再生する日として、多くの文明で一年の終点(起点)として使用されています。それなのに、旧暦の一年の長さを単純に365.25日とするユリウス暦精度の暦と、歳差運動を考慮に入れた太陽太陰暦では、400年で約10日のズレが生じます。

ある年にユリウス暦精度の暦と太陰太陽暦が日付合わせをしたとします。常識的に考えて、ユリウス暦が冬至を大晦日とすることになるでしょう。1200年後にはユリウス暦の冬至は11月になります。太陽太陰暦は、太陽に合わせて月を決めるので、冬至がある月が12月でかわりありません。この冬至が11月になってしまったユリウス暦精度の暦が、ある年から精確な太陰太陽暦に移行すると、11月に冬至が来る太陰太陽暦ができあがります。東洋の暦、すなわち古代中国の暦が冬至を11月に置いていることは、千年以上の歴史があったユリウス暦精度の暦が、あるときから太陰太陽暦へ移行したことを物語っています。

  ここで気になるのは前漢の武帝が10月を翌年の1月にする改暦を行っていることです。前漢は秦暦を使っていました。秦暦は中原の暦と2ヶ月のズレがあり、秦暦の10月が中原の1月でした。前漢は武帝の時代に、秦暦を中原の暦に合わせたのです。中原の暦が太陰暦だったことは明らかなので、後ズレしていた秦暦がグレゴリウス暦精度太陽暦だった可能性が高いです。

 順番に言うと、おそらく商(殷)はどこかで千年以上の伝統がある太陰太陽暦を手に入れました。その時点で既に太陽暦と太陰暦の間には1ヶ月のズレがあり、商は11月を冬至とする太陰太陽暦を使うことになりました。西周と中原諸国はこれを継承しました。これに対し、西周を滅ぼした秦は、太陽の観測によって日付を補正しない固定太陽暦を使用しました。それは秦が文明的に後れていたためか、あるいは中原とは違う思想を持っていたためかどちらであるかは不明です。

と、書いてあるサイトから。

冬至を11月に置くように旧暦はできている。そんなルールと月の満ち欠け周期と太陽の周期。

新月から新月までの月の満ち欠けひとめぐりのサイクルは29.5日(正確には29.530589日)

冬至から冬至までのサイクルは365日(正確には365.24219日)

 

実はこの両者が重なることは非常に少なく、19年に一度。それが、今年起こる。これも貴重な年かも。

そんな日を「朔旦冬至」といい、今年はその年。めったに訪れることのない大変おめでたい日とされていたといいます。

冬至はかつて1年のはじまり。その後の紆余曲折をへて、いまでは旧暦の11月だけど…「朔旦冬至」は旧暦11月1日と冬至が重なる日って思うとびっくりでした。

 

天保暦では,冬至を含む月は11月,春分を含む月は2月,夏至を含む月は5月,秋分を含む月は8月となるように調整するというルールが加えられた

と、こちらは『新法暦書続録 巻四』にあるそうです。

 

旧暦2033年問題

なるものがあるそうで…こんなことを知るきっかけになりました。

 

 

正月の日本古来の呼び名は「ムツキ」。『日本書紀』にすでに一月は睦月と表記されているそうです。

「睦月」は「睦み月」仲良くする月の意。

「正月をむつきと申侍るは、しる人なrは、たかひに行かよひて、いよいよしたしみむつぶるわざを、しけるによりて、此月をむつびづきと名づけ、それを略してむつきと云也」と古書にあるそうです。

 

正月は、本来は歳神様を祭り、新たな年の豊作を祈るものだったところに、楽しみを求める人々の心が加わって現在の正月行事に発展したそうです。

 

小笠原惣領家の伝書に「正月朔日一日を元三ということは、年の初め、月の初め、日の初め、かくのごとき儀を持って三つの元というなり」とあるそうです。そこから、三が日と称したそうです。そして、正月の期間は「五カ日ということは、一日、二日、三日、七日、十五日なり」とあるそうです。

 

七日は、人日の節供あるいは七草の節供といって、一年の節供の始まりの日。男正月ともいう。

十五日は、小正月といい。また、地方名?女正月という。

 

 

古くは1月15日(小正月)までが松の内といい、この日まで門松を飾っていた。結構、成人式がずれるまではそうだった気がします。門松飾る期間を、江戸時代に徳川幕府の命により1月7日の大正月までとしたそうですが、関東地方以外には広まらなかった過去があるようですが…今は7日までみたいな雰囲気は広がっている気もしますね。

1月15日の朝には小豆粥を食べる習慣があったと過去では普通だったようです。古くは『土佐日記』や『枕草子』などにも、小正月に小豆粥を食べたことが記されているそうです。平安時代、宇多天皇のころから始められたそうです。「この粥は小豆粥といって、小豆、ささげ、きび、あわ、みのごめ、とろろいも、米を混ぜて粥とする」と7種のものを混ぜていたそうです。現在では、小豆と米と餅をいれたもの。ただ、現在でも東北地方の農村などに、左義長の前に小豆粥を食べる習慣が残っている地域があると東北だけのように書かれている文章を発見しました。ただ、「だんだら粥」ってものを食べていることを働き始めてすぐくらいに教えてもらったことがこのことにつながったときは感動しました。食べている子は意味わからないで食べているけど、この昔普通にあったらしい習慣って、方言と同じで伝わっていって残っているのですね。ちなみに、これらの地域では、元日から小正月の期間中に小豆(あるいは、獣肉を含む赤い色をした食品全般)を食することが禁忌とされている場合が多いのだそうです。こちらは本当なのかな?小豆粥を食べる習慣はなかった私ですが、確かに鏡開きをしてぜんざいは食べさせられていたのは覚えてます。

本を開くと載っている情報でも、サイトでは見つけることができませんでした。

 

歳神様は日の出とともにやってくると、明治時代山へ登り迎えに行くって広まったとのこと。

 

先日、鏡餅の説明をしていたら、「あのプラスチックの中に餅が入っているやつでしょ」という反応を受けて、「餅を丸めて重ねる」と話したら、「それは食べられないでしょ」ともったいないと言われてしまった。鏡開きというのがあって…と説明しても伝わらず…

 

 

ブロークンウィンドウ理論

このことを検索していたら、過去書いたブログの記事が上位に引っかかってきた。

はぁ…クローズしていると、検索が大変…と思わされた。

ブロークンウィンドウ理論 PWはJRの駅名。

 

一見なんでもないものでも、その放置が重大犯罪へ繋がりうる

これが、この理論のポイントだろうと思うのです。ただ、逆説的ですが、一見そこまで徹底しなくてもよいと思われることを徹底することでよくなることとも取れるはず…と思って、そのような視点から見たときは別の理論名があるのかと調べているところです。

 

調べている中で見つけたものはとりあえず、一緒に併記ということで書き上げます。

 

 

マザーグースのこの歌?もブロークンウィンドウ理論?

釘がないので 蹄鉄が打てない

蹄鉄が打てないので 馬が走れない

馬が走れないので 騎士が乗れない

騎士が乗れないので 戦いができない

戦いができないので 国が滅びた

すべては蹄鉄の 釘がなかったせい

For want of a nail ? Mother Goose Nursery Rhymes

For want of a nail the shoe was lost.
For want of a shoe the horse was lost.
For want of a horse the rider was lost.
For want of a rider the battle was lost.
For want of a battle the kingdom was lost.
And all for the want of a horseshoe nail.

 

 心理学系メディア「Psychology Today」の記事で、幸福に関しての権威、「The Happiness Project」のGretchen Rubin氏が、悪習はその習慣と直接関係のないことにでさえ影響をあたえるといっています。

この理論を検索していて、見つけた文章。

 

割れ窓理論

治安が悪化するまでには次のような経過をたどる。

  1. 建物の窓が壊れているのを放置すると、それが「誰も当該地域に対し関心を払っていない」というサインとなり、犯罪を起こしやすい環境を作り出す。
  2. ゴミのポイ捨てなどの軽犯罪が起きるようになる。
  3. 住民のモラルが低下して、地域の振興、安全確保に協力しなくなる。それがさらに環境を悪化させる。
  4. 凶悪犯罪を含めた犯罪が多発するようになる。

したがって、治安を回復させるには、

  • 一見無害であったり、軽微な秩序違反行為でも取り締まる(ごみはきちんと分類して捨てるなど)。
  • 警察職員による徒歩パトロールや交通違反の取り締まりを強化する。
  • 地域社会は警察職員に協力し、秩序の維持に努力する。

などを行えばよい。

 

これは、ウィキペディアから。

心理学者フィリップ・ジンバルドは1969年、人が匿名状態にある時の行動特性を実験により検証した。その結論は、

「人は匿名性が保証されている・責任が分散されているといった状態におかれると、自己規制意識が低下し、『没個性化』が生じる。その結果、情緒的・衝動的・非合理的行動が現われ、また周囲の人の行動に感染しやすくなる。」

この部分に注目されての、ブロークンウィンドウ理論への進展なんだろうなぁ…と思うのですが、状況を回復させるための話ってどうよ…と思わされますね。

 

恐らく、すでに、没個性化が起きた状態。匿名性が保障され、責任が分散されている状態。

そうなっていたところを、どうにかしたい…って「ブロークンウインドウ理論」に繋がっていっていると思うのです。

 

汚さが目立つ…

今まではなかった…

誰かがしてくれるだろう…と自分では何もしてこなかった人の気づきの言葉。

昨年度まできれいで、今年汚い。

イコールどういうことか?

2つあり。1つは、昨年度まで匿名性が保障され、責任が分散されていて、「自分は関係ない」と思っていた人がいてもせっせと綺麗にするために努めていた人がいたのがいなくなったということ。もう1つは、意識低下。

 

大々的なパトロールで犯罪発生率を低下はさせていない。しかし、住民の体感治安を向上はさせている。

これが、ブロークンウィンドウ理論へ繋がっていく1つの大規模実験による成果。

 

要するに、見回りって回ることの役割は、その場にいる人の心理的効果。

割れている窓ガラスを無くす方がよっぽど犯罪を無くすって話。

 

埃たっぷりの状況で、綺麗にしているつもりになっている。

実は一番の問題点は、この「つもり」だと思う。

では、なぜ「つもり」になれるか。

 

要するに、感知能力が低いということ。

本当にきれいではないけれど、まぁ…よしとOKを出してきたことに対して、すでに目をつぶる意識体制があるってこと。

気にしないことにしている。もしくは、気にしないってこと。

 

トイレ掃除に取り組んで会社が変わったと、「掃除道」を書かれている鍵山秀三郎さんをはじめ、本当に改革できる人たちがやることは、一つだと思うのですが…それをキーワードとして表す言葉が見つからない。そこで検索していたのが「割れ窓理論」近いかなぁ…?

 

経営についての話を書いた文章には、次のようにあった。

「経営の問題はまず小さなところから現れます。その変化を見逃さないこと、そして、早く手を打つことが大切です。また、徹底した小さなこだわりを続けることで、お客様に伝わり、その勝ちがドンドン大きくなり付加価値になり、企業経営に多大な影響を及ぼします。

小さなこだわりとは、毎日愚直に本気で仕事に取り組むことでしか生まれません。誰でもできる当たり前なことを、誰よりも真剣にやるしかないのです。毎日、細部にこだわり、それを実践し続けると、ある瞬間に爆発的に広まって生きます。

些細なことや目の前の子とに、必死になることで、将来に相当な影響を与える可能性があります。経営力は本質追及の継続力なりと言われています。」

 

ある高校の先生とお話をしていて、「本当に、先生のところの学校は生徒がよく掃除されていますよね」ってお話させていただいた。そうしたら、それも危機的な状態に陥ったことが今までに何度かあったんだという話を聞かせていただいた。驚いてしまった。実は、同じ言葉を他のその学校の先生にしても、「そうでしょ」って言葉が返ってくることはあっても、それ以上の気付きを持っている人に出会わなかった。それなのに、その状態が悪化劣化していく事態を察知して対応してきた話を伺えた。

兆候は人が普段行かないところに現れ始める。埃の山が見えてきたら、その都度、「危機だ」と感じて警告を発しているという先生に出会った。お話を伺いながら、自分がいるところは、危機を超えているなぁ…とだけ。

 

今ようやく何ヶ月か経ったんだけど、視界に入る埃が普通の埃になってきた。ようやく、厚く重なっている埃を目にする機会が減った…なんて思いながら、数箇所埃だらけの場所がある。それが目に付くようになってきた。すべてが汚いと違いが見えてこないけれど、差が出てくると違いも見えてくる。だけど、汚いところを清掃している人にはその差が気づけていないのだろうと思ったら、なぜ気づけないのか?って思った。

 

何周も周回しているはずの管理職たちがいるのに、変わらないということは、気づけない管理職ということ。そのセンサーの低さは会社だとイエローハットに学びにいく会社の管理職より劣る。気づけていないことに気づいていない。

 

要するに、問題意識が低いということ。問題解決するためのセンサーが劣っている?問題の関連性が意識化されていないということ。普段人が行かないところの埃がたまったから、荒れてき始めている…というセンサーが働く人と、別に人が行かないから問題ないという意識の人の違い。

 

要するに、2つの問題があると思われる。

1つは、気づく能力に欠けているということ。それを問題という認識がないということは、つまり、そのようなことが関係しているとは思っていない。些細なことをおろそかにして、後手に回っている組織の後手に回る理由の最たるところ。

もう1つが、フィリップ・ジンバルドさんが言っている「没個性化」のところなのでは?って思うのでした。要するに全体に対して匿名性が保障され、責任が分散されている。管理職ですら、自己責任の範疇に置いていないこと。だから、そんなことをおろそかにしても誰からもマイナス評価を受ける心配はないから、汚くしていても問題がない?常に、口うるさく言われないと動けない。これを常道化してきて、口うるさく言われなくなると行動できない人が増えている状態。気づかれないだろう…という甘え?

 

「問題意識を高めようとする要因」

1)チーム全体が目的意識がクリアでなく方向性がバラバラ

2)自分のなすべき役割がハッキリせず、自分のなすべきことが見えていない

3)どういう状態にすべきかが、目的と対比してもハッキリさせられない

4)問題は見えていても、どうしたらよいのかアイデアが行き詰ってしまう

5)日々ついつい問題を意識せず、後から気づくことが多い

 

どのレベルでのどの要因なのか、複合的なのかもしれないけれど、問題意識を高めるという話に、おもしろい文章を発見。ただ、その文章は意味が取りにくいなぁ…と思ったので、自分なりにまとめてみると…

 

問題意識があるから、問題が見えるのではないということ。

それは、問題意識があっても、問題が見えていないことがあるということ。つまり、「問題を意識する」ということができないと、問題が見えるようにならない。だから、問題意識を持たないもしくは問題解決につながらないということ。

 

あ~それは問題だよね…よくなるように…誰かがしてくれたら…の姿勢。どうしたらいいのか?わからない状態。つまり、解決させたことがないということ。どうしたらかいけつできるんだろうね…という言葉には、解決策を思いつけないということ。それが生じる理由は簡単。因果関係が理解できていないということ。些細なレベルが意識できない。大きな問題に繋がる兆候を気づけないということ。些細なことを見逃してきているから、問題として事象が起きるまで気づけない。

 

ハサップ的視点を…なんて話を聞いた後なので余計に思うけど、チェック能力が低いということ。

 

そこで、「問題を意識する」ことを高める4つの重要なことが

1)チームの仕事についての知識・経験を持っていること

2)目的が何であるかを知っていること(目的意識)

3)そのために自分が何をなすべきかを考えていること(役割意識)

4)それをしなくてはならないのは自分であると感じていること(当事者意識)

と紹介されていた。

 

認知心理学で「今はこういう状態である」という初期状態を、それとは異なった別の「~したい状態(目標状態)」に転換したいとき、その初期状態が「解決を要する状態」つまり「問題」と呼ぶそうで、初期状態を目標状態に意識させなければ問題がないとも読める。

目標がなければ、初期状態に問題は存在しないということ。

 

つまり…

 

1)問題と感じる人にとってのみ存在している問題は「私的レベル」であり、共通な問題が元々あるわけではない。共通な問題に私的レベルの問題をするプロセスを経ることなくしては、共通問題はない。

2)目標状態の中身を厳密に見ていき、単に「目標」でとどめない。つまり、達成すべき課題水準、維持すべき水準、保持すべき正常状態、守るべき基準などに敷衍する。目標状態が、自分の目的意識と結びつき意識されている状態でないと、現状に対して問題を感じないということ。意識化されるためには、今の状態を分析できる能力つまり水準の分析が行われていることが大事。

3)目標と関わる心理状態をレベル化する。「~したい」でとどめるのではなく、「~しなくてはならない」(使命・役割)「~する必要がある」(役割)「~すべきである」(義務)「~したほうがよい」(希望)と分けてみると、どのレベルで意識しているか?初期状態を認知する人が、どういう立場、どういう視点で状況に向き合っているかが見えてくる。逆に言えば、その初期状態をどういう心理レベルで見たら目標状態をセットアップするか?

 

 

そして、問題を見ていくと3つのパターンに人を分類できると思う。

1)問題と意識化していない人

2)問題と認識していても、責任所在を自分ではなく他人に求めている人(誰かがしてくれること)

3)自分の周りだけ(個人空間)にその問題がないならば、問題と意識しない(それはできないことと思っているということ)

 

 

問題を意識するための「知識」というのがおもしろく思われたのは、知識とは、所有型知識(Knowing That)と遂行型知識(Knowing How)。前者が、「~ということを知っている」ということで、これだけでは所有されている知識に過ぎない。後者の「いかに~するかをしっている」ことによって初めて生きた知識になる。つまり、知識があるということは次のような思考の枠組みがあるということ。

1)自分はどういうときにどうするタイプの人間化という自己認知

2)ある状態ではこういうことがおき、こういう風になるであろうという、行動や出来事の蓋然性についての知識

3)このような状況・立場では、こういう役割や行動が期待されているという状況への認知

4)人間はこういう性格と傾向があるという経験値

5)こうなればこういう風になるだろう、あるいは、こういうことがあればこういう風な結果が起きるだろうという因果関係の図式の認知

これらを持っているということが、コツをつかんでいる、腕があるというレベルだが、これらのいずれかに欠如がある場合、問題といわれずに解決可能な状態へと展開させることができないということ。

 

ある意味で大きな問題として出てきていなければ、問題と認識がとれないことが本当は問題であるはずなのに、大きな問題として意識されることが出てくるまで些細なことをおろそかにして誰かのせいにしてきた結末とは意識できない人たちの集まりであるとき、問題は途方もなく、解決策が思いつかないということになる。

 

要するに、些細なことに対して「これは問題と思わなくてよい」とか「これは私がする仕事ではない」とか…見過ごしてきた人たちにとっては、経験値がない。いくら年をとっていても、経験年数ではなく、問題意識できる年数がないということ。同じ状態に問題意識を持てるようになれないのは、問題と認知するプロセスを理解してアプローチされてきていないから、問題意識にできないということ。

 

要するに、誰かがしてくれること…自分には関係ない…ブロークンウィンドウ理論に集約されていく途中課程を分解的に見て、「割れた窓をなくす」ということは何を意味しているのか、どの程度を目標として結果として出ている水準とするのかを決めないといけないのに、問題意識がないと「10」のレベルで求められていても、「9」でOKを出す。つまり、「10」と「9」の違いがわかっていないから、そのたった「1」の違いが生み出す結果を予測できないということ。

 

他律的に、言われるからしているだけ…という意識の人間が生み出す結果は、逆を返せば「言われなければしない」ということに過ぎない。

この状態の組織ではHACCP的思考で取り組むことはできない。

なぜなら、言われていることに対して判断は「0」or「10」つまり、言われていなかったら「0」での対応をするから。その途中のグラデーションが理解できていないから、自立的に取り組まない。

指示待ち人間がすることに期待できない…と多くのところが困っている問題が、この言われなければ、「0」になる行動ということ。つまり、問題意識が無いということ。問題を意識化する能力の欠如は、自立的に問題解決する能力の欠如である。

「言われたらする」という指示待ち指導者が行っている指導で育てられた存在が、指示待ちになる以外に可能性が低いのはそこに判断がない。

100を伝えたから、100をする人をつくって満足している。100を伝えることに取り組むことが指導であると勘違いした育てられ方をしていると、100を言わないと100をしない人しかつくらない。

60を伝えて、100を求めたら、120になることもあるのに…って、精選して60に絞込み、不足をその都度補う手間を省く。手間を省かれた分、自分で気づく能力が養われない。40の気づくチャンスを与えず、常に100を与えられて育つと、気付きで広めていく学び方を学ぶ機会を逸する。

 

到達目標に対して全ての行程を指示し、全ての行程をその通りすればいいとしてしまうことで、100を達成させることはできても、その途中課程で身につけることができていることは違うということを重要視していない。

結果さえ100あればいい。その発想でベルトコンベアに載せて、部品を供給し続けて流すことをした弊害。

 

自分で歩かせているつもりでも、全てを与えて判断チャンスを奪っていることを理解していない供給をして求められていることを100やっているつもりになっているやり方を認知できないチェック機能。

問題と意識できない理由。

 

ブロークンウィンドウ理論の根底にある発想って、おそらく徹底したいい状態を作り出すということだろうと思うのですが、悪い状態を「0」いい状態を「10」としてみたときに、徹底する側の人間が「8」も「9」も「10」と同じと判断していたら、「8」と「9」と「10」の違いを見抜ける人間から見ると、「10」をやっているといいながら違うじゃないかともろさの方を見抜くと思うのです。

下限を測りにスレスレ行動を行おうとしている人間にとって、この「8」も「10」と見なしてもらえることをずるずると引き下げていこうという思惑と重なり、許容範囲が下がっていって言い訳している状態。問題が見えなくなっている状態を正当化した発言で通そうとする徹底したい状態を作り出そうとしている人たち。

ブロークンウィンドウ理論の一番の課題は、問題を起こした人たちではなく、保ちたい状況が何かを意識していない求めている人たちの問題意識かなと思います。その場から問題をなくすためには、問題に繋がる要素を意識し排除しなければ、ますます問題に繋がっていく。問題を気づけないから、問題が連鎖しているというところで、「0」の状態を「10」にする。本当なら…「7」でもいいんじゃない?なんて思っている人もいっぱいいるかもしれないけど、「3」落とした分のデメリットに注目したら、「7」は問題状態であると判断するということ。

 

スケーリングできることと因果関係がわかっていること、そして、他律的に結果を出しにいくのではなく、「考える力」を持って、集団のすべての人が自律して結果を出しにいくことをする。うるさくアナウンスされているから、やっているというレベルの取組みの生み出す結果は低レベルで当然。うるさくアナウンスをすることが仕事をしていること、また、うるさくアナウンスしないと結果が出ないと意識して動いているレベルのやり方がいいとおもっているということは…逆を返せば、他律的にしか行動できない集団だということ。

 

問題を解決するための初歩は、問題と意識するところから。

問題と意識する理由を因果関係として紹介する。エビデンスを示すことをしないと認識できないことは、ある意味その集団にとってはそのことを重要視していないから取り組んでいないから伝わらないということ。

それをすることが大事と認識が取れている人たちが集まっていたら、エビデンスを示して話をしなくても、「あぁそうだった…」となれるけど、因果関係をわかっていない人は面倒とかイヤだという思いが先立ち、すること自体に抵抗感があるから解決しない。

 

類推するとか、推測するとか、おもんぱかる…などの能力が不足しているから、「考える力」の育成が求められているけれど、指導する側の人が100を言われないと100しない人たちで、問題を問題と意識化できない集団であったら…解決可能にならない。それを取りまとめているはずの管理職も問題と意識化していなければ…どこにも問題が無いけど、大きな問題が起きている!!なんて愚かな話になる。些細なことを問題視しない集団は、些細なことの積み重ねで滅びる。

 

埃が1cm溜まっている…壁がすすこけている…2,3年の仕業ではない。その程度にいたるまでの年月を測ることもできるけど、とりあえず…よい状態を意識化させることによって、他の全てもよい状態へ繋がっていく。意識化させるときに「10」を求めるなら「9」も駄目ということ。この徹底振りができないと、この理論を使って取り組んでも、いい結果は出ないかな。うまく活用できない例も出ているというのはそういうことかなぁ…なんてね。

 

とりあえず記録。

 

 

 

歳寒三友

約300件、コメントありがとうございます。
今、久しぶりに開いたら、ありました。
本当に感謝です。

正直、「歳寒三友」という言葉を、これまでの人生で使ったことなんかありません。ただ、これって、松竹梅のこと。
松竹梅はよく耳にします。

この「歳寒三友」という言葉は、奈良時代に中国から伝わった言葉。

論語からの言葉だそうです。

これは古い本みたい…と思うのですが、本のタイトルがわかりません。
そちらに書いてあることには…

中国で画題として登場したのがいつか…
松は、唐の時代の中ごろ
墨竹画は、唐の終わり~5代
梅は、北宋~南宋の時代

日本に伝わったのは、明の中期といわれているそうです。

と、こう書いてある文献を見つけながら、私の読んだ本は「歳寒三友」が日本に伝わったのは奈良時代と書いてありましたので、時代が違うなぁ…。

明時代は、1368年 – 1644年

奈良時代は、710 – 794年

言葉として、「歳寒三友」と松竹梅がつながるのは後ということでしょうね。

中国では、「岁寒三友」と書くのだそうです。

論語の 「子曰、歳寒然後知松柏之後凋也」 「益者三友

から生まれた言葉だそうです。

歳寒三友とは、厳しい時の三人の友を指すとのことなんだとも。

三番目の友が「直なる友」=「物くれる友」

二番目の友が「諒なる友」=「義侠心の強い友」

困った時に自分のことのように親身になって相談に乗りかつ動いてくれる友のこと。

一番大切な友は「多聞の友」=「知識が豊かで冷静に判断をしてくれる友」、「原理原則を教えてくれる友」ということ。

なのだそうです。

歳寒三友という呼称は、風雪や厳寒に耐えながら、一年中みどりをたもつ松の持久力(マツは“持つ”に通じ、長寿命につながるとも言われている)、屈することなくすくすく伸びる竹の成長力、春、百花にさきがけて花を開き、ふくよかに香る梅の生命力に捧げる賛辞でもあります。そして、このことばをいかなる困難にも耐えしのぶ志操堅固な人をあらわしたりもするそうです。

 

「厳寒三友」とも。

松や竹は厳冬の霜雪に耐えて千年の常緑を保つことから、梅は霜雪を凌ぎ百貨に先駆けて馥郁と香るところから、高潔・節操・清純などの象徴と賞されて「厳寒三友図」が日本へ室町時代に中国から伝わってきたそうです。

 

ではなぜ、これが日本に取り入れられたか?

もともと日本では、

松は神霊が宿る木という信仰が古来からあり、神聖な気とされていて、平安時代には長寿につながる樹木としてめでたいもの。

竹も、古来より神聖なものとして扱われており、天に向かってまっすぐ伸びる「猛々しい」という意味が付け加えられて演技のよいもの。

そうやって、縁起のよいものとして、室町時代に松と竹を新年に門口に飾り延年を祝うようになったそうです。

江戸時代に、春に先駆けて花を咲かすというところから梅も門松に加わりました。

 

中国では

後期・高潔な植物とされていた松竹梅。

 

日本は

古来からの松や竹への信仰、

そして、吉祥・瑞祥の象徴としての性格が

強調されたのだそうです。

 

江戸時代になって、地歌、長唄などに松竹梅が取り入れられた祝儀曲が数多く作曲されて、唄われたことも広くもてはやされるようになった要因とも。

 

中国の絵画では、厳寒に耐えている中に梅。雪と梅の春の兆しとして扱われることが多いのだとか。

 

日本では、梅に鶯の方が今では多いかも…。だけど、着物柄に、氷梅もありますよね。

 

門松も、もともとは3メートルもある松に竹が添えられていたそうです。

 

日本の文化は、中国の文化の影響を受けているけれども、面白いことか、他国の文化をどのように取り入れているか…という点ではどの国も不思議なかんじですね。

紙本墨画 歳寒三友之図

 

特にめでたく縁起がよいという組み合わせ

「松に鶴」

「竹に雀」

「梅に鴬」

よくある組み合わせ…かな

 

もともとは「松竹梅」に優劣はないのですが、この順番に言うことが多いから、この順番に優劣の順位があるように商売で扱われているからイメージとし優劣ありそうに伝わってしまっているのは本当は残念なことかな。

 

なんと…

「梅ちゃん先生 第23週 名前の秘密 歳寒三友」

ということも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

出雲めぐり

コメントをたくさんありがとうございます。いまだ読めていないもの300通。読ませていただきオープンにしております。

 

先日、島根県に行きました。

出雲大社へ。

といいながら、いろんなところへ。

読まれた方はラッキー?になりますように…ということで、私の回ったところを紹介します。

まず、出雲でタクシーに乗りました。

このタクシーが素敵でした。

【人気No1】出雲の“定番パワースポット”めぐり

このプランに参加しました。

というのも、行ってみたいなぁ…ってところが2箇所入っていたのです。

自分で車を借りて運転しようかなぁ…って思っていたのですが、山を登っていく自信はないなぁ…と辞めて正解でした。

説明をしてくださって、その上でうかがうことができてよかったです。

 

と、私確か…7箇所行った気がする…とプランが違ったのを気づきました。

参加したのはこちらのプランでした。

神々が集う出雲 「神在祭」ゆかりの神社探訪B

あいのりということで、4名だったので本当にお得な気がします。

自分が運転するとしたら…こんなに道もわかりませんので、難しいと思います。

万九千神社

こちらは、神様が最後に集まってお別れしてそれぞれのところに帰るのだそうです。

とっても素朴なお社でした。

向かい合わせにもう一つ。

朝早かったためか、参拝者もいらっしゃらなかったので、ゆっくりお参りさせていただきました。

 

朝山神社

全国の神々は出雲大社の神在祭の前、旧暦10月1日から10月10日までこの神社に立寄ってから出雲大社へ向かわれるとのことでした。

こちらでは、蛇が出ました。

神様をお迎えに来るのが蛇というお話を伺っていて、帰り道に蛇が…

つづら道を上がっていき、道もわかりにくいところでした。

 

 

須佐神社

こちらは、たくさんの方がいらしていました。

ちょうど、お昼頃だったので太陽も真上に

大杉

須佐神社にて

お社の裏にある大杉の写真です。

この社の木がスゴイ!とおっしゃった…スピリチュアルの…名前が思い出せません。ごめんなさい。

その方がおっしゃってから、たくさんの方がいらっしゃっているとか。

木に触れる人が増えて、木が枯れそうになったとのことで、廻りに囲いがありました。

正直、この社の裏手に回って木を拝見したとたん、とても強い気を感じました。圧倒されるくらいに…。

スゴイなぁ…と思ったのですが、触れるといいと木の根っこだけは触ることができるようになっていると触れたのですが、冷たく感じました。

温かく感じる方もいるそうですが、私は冷たいと思いました。

そのあたりに近づいたときの方がすごい…って思ったのですが、触れて思ったことは冷たい…木の根っこが生きていない感じがしてしましました。屋久島の屋久杉も多くの方が集まって木が枯れそうになって…とのことでしたが、たくさんの気を太陽から得て、いろんな方のマイナスな気をいっぱい受けているのでしょうね…。

その社の前に、もう一つのお社があります。

天照社です。こちらの方が穏やかな感じでしたが、神様はいるなぁ…と思わされました。

長浜神社

こちらでは、ちょうど神楽の準備で大変なときに伺いました。

綱引きの祖=スポーツ上達・不動産守護の神としてのご神徳が…ということで、翌日に駅伝?マラソン?が出雲であるとのことで、車がたくさんなのかと思ったら、神事のある日だったそうです。


あいのりタクシーの方が作った動画だそうです。

 

日御碕神社

日御碕神社

 

こちら「日沈宮」は「伊勢大神宮は日の本の昼の守り、出雲の日御碕清江の浜に日沈宮を建て日の本の夜を守らん」(伊勢神宮が「日の本の昼を守る」のに対し、日御碕神社は「日の本の夜を守る」) との神勅により祀ったのが始まりと言われているのだそうです。

伊勢神宮と繋がるようなお話を伺い驚きました。

伊勢参りをした後に出雲へ伺ったので本当に不思議。

「神の宮」は今は参ることができません。

日御碕神社

 

 

稲佐の浜

 上の宮

この2箇所は車中にて

 

出雲大社

こちらで解散でした。

出雲蕎麦もどこなら入りやすいなど教えていただいたり感謝です。

 

京都へ行くことになっていると私に行っていたのを日にち勘違いして覚えていた母、この3連休時間あるなら行ってみないか?と言われて、行きました。

20年に一度の伊勢へ参り、60年に一度の出雲へも…という思いがあったのでしょう。

私も、大宰府天満宮の宮司さんが、「出雲の遷宮のとき、ちょうど社に移られるときだけ晴れた」とお話聞かせていただいていたので、行ってみたいなぁ…って思っていたのでした。タクシーの運転手さんも同じことをおっしゃってましたが、ちょうど遷宮の日は大変な雨だったそうですね。

すごいですね。

 

出雲大社には、大黒様をお祀りするための社だったとか、たくさんの大黒様の像を展示されていて、高村光雲など著名な方々の作品もあり不思議な感じがしました。大黒様と恵比寿様が親子だったとは…と、いろんなお話を伺ったのですが、確認してみようと思ってはいます。

 

もうひとつ、ちゃんと調べてみようと思ったのは青い光。

何のことだろう…?と思わされました。

 

須佐神社にて

写真に撮っていいのか…と考えましたが、写してみました。神様が写っていると思います(笑)
写真に撮っていいのか…と考えましたが、写してみました。神様が写っていると思います(笑)

 

 

 

こちらの社は上から写真を撮らせていただきました。

徳川家光が建立したとか。日光東照宮に通じるような彫刻がたくさんありました。

日御碕神社

日御碕神社の彫刻

 

こちらの写真は

出雲大社です。神々しい太陽と共に。

DSCF5259

伊勢神宮は写真を撮ってはいけないといわれます。

ですから、いいのかなぁ…と少し思いながらも、写させていただきました。

青い光が入ると、須佐神社でタクシーの運転手さんがおっしゃっていましたが、この出雲大社の写真の方が青い光が入りまくっている気もします。

 

青い光って何かしら?

夜寝る前とかに、手をかざして見ていると手の廻りから青い光が手の形で見えたりってしませんか?

普通じゃないのかなぁ…子どものころよく眠る前に手を見ていると手の輪郭に青くなっていて、夜っておもしろいなぁ…って思って見てましたね。

 

本当に人の多い一日でした。

帰りは自分たちで…との、出雲大社から帰るとき、電車に乗るために並ぶ…なんと駅から飛び出て並んでいるのに続いたのです。こんなに人が乗れるの???1時間に1本の電車で、ぎゅうぎゅう詰めになりながら帰りました。乗るために30分並びました。出雲大社前発の切符というのがレトロに記念切符みたいに選べるようにもなっていました。

北海道だったか、幸福駅だったかなぁ…昔うかがって、ここの切符が…なんて、聞いたことを思い出しました。

何か持っているものを貼るといいなんて、定期券を貼った気がします。懐かしい…。

 

三纈 さんけち

さんけちだったかしら…

説明されても、覚えてない。

染め方に3種類あるというお話でした。

 

「しょうざん」って何?と知らないものに関心を示さない…という意味では、ある意味もったいないご縁をもったのでした。

しょうざん染色工芸館

 

浸染の基本 三纈

 

この字で、「さんけち」と読みます。

古くから日本で行われてきた染色技法だそうです。

蝋纈 ろうけち

夾纈 きょうけち

纐纈 こうけち

この中で、夾纈は珍しいとか。拝見させていただいたんだけど、「けち」という言葉は頭に残っていたけど、名称は覚えることできていませんでした。

きおくあるうちに書き留めないと、すっかり忘れそう…と広告がまだネット上にあるうちに検索しました。

 

染色方法の源をたどると、すべて、天平の三纈(さんけち)と呼ばれる「纐纈(こうけち)、夾纈(きょうけち)、蝋纈(ろうけち)」にいきつく。

この文章を発見して、3つは基本なんだ…と改めて思わされたのでした。

そのうちの「きょうけち」は珍しいらしい。

珍しいものばかりを見る機会があるなぁ…ってお話したら、普通のものはいっぱい売っているところで見るといい…とのこと。確かに…珍しいものを拝見させていただけることは学べる機会としては本当に感謝です。

正倉院にこの「さんけち」のルーツとなるものがあり?

 

正倉院伝来の染織品は、正倉院裂と称され、現存するものは件数にして約5千件、点数としては、用途不明の断片なども含めると十数万点に及ぶ。技法的には錦、綾、羅などの織物、上代三纈(さんけち)と呼ばれる臈纈(ろうけち)、纐纈(こうけち)、夾纈(きょうけち)などの染物など、当時の日本で行われていた染織技法を網羅している。日本製のものと中国からの将来品が混在しているが、おおむね8世紀の製品である。

纐纈

絞り染の一種で、糸で括り防染することで文様を白抜きに表す。そのもっとも単純なものは目結文と呼ばれるもので、布面を小さくつまんで糸で括り、染液に浸すと、括られた部分が防染され、鹿の子状の文様が現れる。正倉院宝物には纐纈で縞状の文様を表した袍がある。正倉院裂の纐纈には複雑な文様を表したものはなく、裏地などの目立たない部分に用いられた例が多い。上代の三纈のうちでは、平安時代以降も引き続き行われた唯一のものである。

臈纈

現代の「ろうけつ染」と同じ原理の蝋防染の染物である。各種の文様を表した版型に蝋を塗り、これを布面に押捺してから染液に浸すと、蝋の付着した部分のみが防染されて文様となる。型には木型のほか金属の型も用いられたとみられ、大きな文様の場合は筆で蝋を置くこともあった。正倉院の「象木臈纈屏風」「羊木臈纈屏風」などが典型的作例である。唐からの蜜蝋の輸入が止まったこともあって、平安時代にはこの技法は衰退し、やがて全く行われなくなった。近世の友禅染や型染では防染のために使われたのは蝋ではなく米糊であり、蝋による防染が再び行われるようになるのは明治以降である。

 

夾纈

「夾」は「挟む」という意味で、文様を彫った2枚の板の間に布を挟み込んで染液に漬ける、板締め染である。正倉院宝物の夾纈には、「紺地花樹双鳥文様夾纈絁」( – きょうけちあしぎぬ)のように、多色の複雑な文様を表したものがある。近世の友禅染のような引き染とは異なり、この時代の染色は、浸け染であった。したがって、複数の色を染めるためには、布を何度も染液に浸す必要があり、多色の複雑な文様をずれや滲みもなく染める技法は長年謎とされていたが、1970年代になって、インドのアーメダバードで板締め染に使用する板の実物が発見されたことで、夾纈の製法がほぼ解明された。アーメダバードの文様板では、異なった色に染める部分がそれぞれ輪郭線で区画されて、隣の区画と色が混じらないようになっている。各区画には染料が流れ込むための穴があいており、防染する場合にはこの穴を栓でふさいで、その区画には染料が流れ込まないようにした。正倉院の夾纈もこのような板を用いて染められたと推定されている。夾纈には左右対称形の文様を表すものが多く、布を2つ折にして板に挟み、染めたことが明らかである。

こちらは、ウィキペディアの「日本の染織工芸」という欄から。

東京国立博物館で展示されていたようです…正倉院の織物たち。

 

染色の文化

コレは、染色のことを科学的に書いてあり。
知らなかった言葉ですが、作品は本当にスゴイ。綺麗でした。