遺伝子検査

先に、今現在、あと370の未読コメントがあります。コメントを書いてくださっている皆さん、ありがとうございます。

 

2014年4月11日日本経済新聞にて、遺伝子検査についての記事が載っていました。

いろいろと気になることがあったのですが、抽出してメモに。

 

人間の体は約60兆個の細胞からできている。細胞1個1個に同じDNAが存在する。アデニン(A),グアニン(G),シトシン(C) ,チミン(T)の4種類の化学物質(塩基)からなるDNAは、長い紐のような形で、細胞核の中に折りたたんでしまわれている。

遺伝子はこのDNAのところどころに点在し、生命活動にとって大切な約10万種類のたんぱく質を作り出す。人間だとDNAの約2%が遺伝子に当たる。約30億の塩基のペアからなるDNA全体が「生命の設計図」でゲノム(全遺伝情報)と呼ぶ。

 

病院の遺伝子検査

ある遺伝子の変化が特定の病気の原因となることが科学的にはっきりしている場合にのみ実施する。代表例は、神経難病や遺伝性の乳がん、家族性アルツハイマー病など。昨年、ハリウッド女優が遺伝子検査を受けた結果、ガンを予防するため乳房を切り取り、大きな話題になった。

最近は効果的なガンの治療薬を選ぶために遺伝子検査をすることもある。健康保険が適用されるケースが多い。

遺伝子検査を病院で実施するには、原因と結果の因果関係をはっきりさせ、検査方法も確立し、効果的な治療法があると言ったいくつものハードルを越えなくてはならない。

 

遺伝子研究の歴史

1865年 オーストリアの植物学者メンデルが遺伝子の存在を提唱し、親から子に受け継がれると発表

1910年 米の遺伝学者モーガンが遺伝子が細胞の核の中にあると証明。

1944年 米の細菌学者エーヴリーが遺伝子の正体がDNAであることを証明。

1953年 ワトソンとクリックがDNAの二重らせん構造を発見。

2000年 国際チームがヒトゲノムの解読をほぼ終えたと発表。

2003年 ヒトゲノムの完全解読

2005年 校則に遺伝子を解読する新しい装置(シーケンサー)が登場

2008年 日本人を含む1000人のゲノムを解読する1000人

プロジェクト」がスタートする。

 

本当に欲しいものは

2001年5月5日土曜日 西日本新聞「思春期 心のカルテ」から。

電話の声は思ったより明るかった。冬美さん(19)=仮名=は、北九州津屋崎病院での入院生活を終え、四月から標語県内の美容室で見習いとして働き始めたばかり。「仕事?きついけど楽しいですよ」さびしい夜には、まだ悪い癖が出る。「頭では治ったと思うのに。後は自分次第だよね」

 

十七歳、高校三年生のころ。冬美さんは、真っ暗にした自分の部屋にいた。スーパーで買い込んだ七千円分の弁当、パン、惣菜、お菓子…。維持置換食べ続け、十分間吐く。一日十回は繰り返した。「食べてるときは楽しくてしょうがない。でも太るのはイヤ」。摂食障害の始まりだった。

慎重156㌢、体重52㌔。それが、数ヶ月で体重は34㌔にまで落ちた。歩くのもやっと。学校を休んで入院し、ベスト体重の48㌔まで戻すのに、一年かかった。

二度目の高校三年生。一学期はまじめに通ったが、九月に恋人ができて生活は一変した。親に隠れてスナックでアルバイト、日給六千円を手に毎日、朝まで遊んだ。居酒屋で思う存分食べた後、トイレで吐いた。そして複数のメル友(メールのやり取りをする友人)とのセックス…。

高校を卒業する今年三月まで入退院を四回繰り返した。

 

「何でも与えられすぎたから、何がほしいか分からなくなってた」

冬美さんは宮崎で生まれ育った。自営業の父と母、祖父母、三歳下の弟。初孫でかわいがられ、しかられた記憶はない。おもちゃ、お小遣い、ご飯のおかわり。何でも「欲しい」と言う前にあった。中学の吹奏楽部に入ると、両親はすぐ高価なホルンを買ってくれた。

小学校時代から元気で勉強できるいい子。中学では生徒会役員に選ばれた。だが、何かが違っていた。「はまりすぎてつまんない」。そして高校の入学式。茶髪に化粧で変身した自分がいた。以来、勉強も部活もほうり出して遊んだ。

中身は変わっていないつもりだったが、親や教師の評価は落ちた。次第に自分でも自分を認められなくなった。

「せめて外見だけでもきれいにならなきゃ、やせなくちゃって、思いつめちゃった」

 

北九州津屋崎病院の森崇副院長は、冬美さんを神経性大食症と診断した。親の愛情をモノで受け取ってきた彼女は、満足することを学習せずに食欲と性欲に走り、そんな自分を信じられなくなっていた。「摂食障害が本当に治るのは、自分が社会で役立っていると言う経験をするか、信じられるパートナーに出会ったとき」と森副院長はいう。

与えられるものではなく、本当に欲しいものは何か。冬美さんは探し続けている。

【メモ】

摂食障害には、最低限の清浄体重を維持できなかったり、拒否したりする「神経性無食欲症」と、むちゃ食いとおう吐、絶食などを繰り返す「神経性大食症」がある。青年期、早期成人期に発症することが多く、女性が9割を占める。食べ物が豊富で、やせた女性が魅力的とされる先進国に多い。女優オードリー・ヘプバーンも典型的な摂食障害だった。

 

 

と、ここまでが新聞記事。今から13年前。だから、この記事に書かれている冬美さんは少なくとも30歳は超えているんだろうなぁ~。

 

この記事の衝撃があったからか、ずっと残していた記事。

 

 

プチ制服化現象

これは以前入力した気がするけど…消える前だったのかもしれない。

 

今から何年前の新聞の記事なのかも記録をとっていないけど、今や普通?

 

古館伊知郎のTV的職業病

プチ制服化現象

個性的?実はみんな同じ

目からウロコが落ちるとはこのこと。消費不況直撃の最中、大手デパートで今、売れに売れているものがあるという。それは女子高生の制服だ。

いや、厳密にいうと制服ではない。従来の制服は、それぞれの学校指定の文字通りの制服だったが、今売れているのは限りなく制服っぽいデザインの私服。紺のブレザーにチェックのスカート、襟元にはリボンという名門私立校風のデザインで、伊勢丹では「自由服」と呼んでいるらしい。

制服と私服の間に自由が存在するのか?私の硬直化した脳はこの現象を理化するのにちょっと時間がかかる。私の高校時代など制服こそが不自由の権化。したがって怒られるのを覚悟で学生服の下にわざわざ赤いセーターを着ていって、金ボタンを二つぐらい外して画一化に反抗したつもりになっていた。しかし、それはあくまで学校という組織の中でのアピール。「自由服」を選ぶ現代の女子高生は完全に外へ向けたアピールだ。

世間では女子高生ブランドを押し出したほうが注目されて得をする、という戦略。彼女たちは重大にして、すでに市場原理というものを学んでいる?我々の世代が埋め込まれた「自由」だの「個性」だのといったたちの悪い幻想に惑わされていない。どうせ個性なんて大したことない。だったら女子高生というグループへの帰属を前面に出した方が「ヨクナクナイ?」というわけだ。

このプチ制服化現象は、勝手気ままな私服全盛とみられがちなTVの現場にも実は蔓延している。一見それぞれが自由で個性的なふりをしつつ、よく見るとスタッフからタレントまでみんながみんなTシャツを着ている。まるで襟付きのワイシャツ、ポロシャツの類は厳禁というルールでもあるかのようだ。もし襟付きのシャツをはおっていたとしても絶対にその下にはTシャツを着ていて、しかもシャツのボタンは一つもかけず、Tシャツを丸見せにしている。もし本当の自由人だというなら、「少年の心のままに」詰襟の学生服でスタジオを仕切るディレクターが一人はいてもいいはずだ。

かつてサラリーマンの事実上の制服といえば「どぶネズミ」の背広一色であった。しかし、今は昔よりオシャレ。中間管理職系には相変わらずどぶネズミ系が多いが、CEOなんて言葉が流行りだしてからだろうか、役員クラスはオシャレな黒系のダークスーツが主流になり、一方若いサラリーマンはダーク系3つボタンにダークカラーのワイシャツ、同じくダークなネクタイというスタイリッシュないで立ちが台頭している。

しかしこの現象は一つだった制服が立場によって三つに分かれただけの話。これはまさに、光り物とくくってしまえば一つだが、アジとサバとイワシにそれぞれの立場が分かれるのと同じだ。そして同じ種類の魚が群れで行動してくれるからこそ一網打尽で網に引っかかる。そのあたりの原則は海の魚も陸のヒトもあまり変わらないという大自然の法則を私は完全に理解できた気がした。

 

 

とりあえず…いつの新聞から切り抜いたのかわからないけど、5年以上は経っている気もする。

 

多分、8年~10年前の記事では?って思います。

 

制服の概念はいろいろとあるのでしょうけど、制服みたいな私服を着て、高校生という枠組みに入る…それを崩して着る…女子高生が幼稚化しているなぁ…と、読んだ記憶あり。それなのに、そこからいきなり就職…大学へ行ったとしても…4年で就職…

「かわいい」ものが売れるのも、納得…と、世界中での傾向なのでしょうか?

 

制服っぽい私服を着るという気がしれないなぁ…って思っていたけど、たとえ私服だとしても、確かに20代の人が着ていたら…本人もきついなぁ…って感じているでしょうねぇ…とAKB48などを見てしまいます。

そんな制服っぽい格好をしないと、20代も10代も違いないような…そんな化粧をして同じような服を着て…ある意味、早く大人になりたい…というのか、大人として化粧する?一方で、短いスカートの制服もどきを着るとチグハグで…気持ち悪さを感じたりもするのですが、改めてこの記事を読んでいたら、親も服装低年齢化しているかもなぁ…。

好きな服装を着ているだけ…か。とも思いました。

 

きれいに着ることからうまくできないなら、立ち振る舞いも着方に合うよねぇ…というのは、イマイチ感いっぱいに感じます。

遠めで昔ではよく見かけたフォーマルスタンダードなスーツ姿の若い女性を見ると、どんな人だろう?と興味を持つくらいにズレテイルなぁ…がいっぱいで、きれいに歩いていたら本当に感動してしまうのでした。

今は東京どうなっているのかなぁ~?

知的ノートの作り方

出典はわかりません。このことを書いたプリントを頂き、ずっと持っていました。

 

ノートと成績のあいだに何故迂回関係が生じてくるのか。人工の脳ともいわれるコンピュータの使い方と比較してみるとわかりやすい。コンピュータはすばらしく頭の良い機械だが、それに命令を与えるプログラムが良くないと、本来の機能を果たしてくれない。一方、私たちの頭脳は天然の優秀なコンピュータ、それに入れるプログラムがいい加減だと、やはり能率よく働くことは無理だ。

このプログラムに当たるものが、学習の場合ノートである。学習内容をいかに能率よく正しく頭に入れる過渡いう命令がうまくセットされていることが必要である。

ノート作りの最大のメリットは、「ノートをとる」「ノートに整理する」という作業そのものが、学習にもっとも大切な記憶力・理解力を高めてくれる点である。つまり、ノートを作るという手の動きと思考回路は、常に同時進行しているのである。

 

1)暗記に強い人より、整理上手の人の方が成績が伸びる。

「10で神童、15で才子、20過ぎればただの人」

成績の二分局化現象が、なぜ高校時代に起きるのか、その原因は

①小学校時代は、誰でも機械的な暗記力が強いが、中高校と成長するにしたがって少しずつ低下する。

②学習量が、中学から高校へ入ると、飛躍的に増えること。

③勉強の内容が高度になる。自分から積極的に働きかけていかなければならない。

これまでの暗記中心式の勉強法を整理中心式、つまり、毎日の授業で習う程度の高い膨大な情報を、テキパキと整理していくやり方に切り替えていく。

☆ 整理中心式の勉強法の主役、それがノートである。

☆ノートを見れば、その人の成績がわかる。

2)バラバラの知識は、それだけでは役に立たない。

ノートの内容と頭の構造とは、密接な関係がある。

ノートは単なる知識の寄せ集めではなく、学習上価値のある情報の記憶装置でなければならない。そのためには、あまりひつようでない情報は最初からボツにして、利用度の高いものだけを選出し、それらを必要なときにいつでも再生できるように、順序良く配列しておくことが大切である。

(情報収集からノート整理までのプロセス)

①情報を集める

②選択する

③考える

④理解する

⑤書く 自分で説明するように書く

 

 

あと、3)として時間の経過と忘却度について書かれているプリント。

 

これを読み返して、思うことは対象は誰だったのだろう?ということ。

ノートについての考えとしていただいたプリント内容。

正直、ここに書かれているノートイメージを共有しないままプリントでこの考えを知った程度なので、どんな状態を想像しながら書いているのかはdふぁ

ブロークンウィンドウ理論

このことを検索していたら、過去書いたブログの記事が上位に引っかかってきた。

はぁ…クローズしていると、検索が大変…と思わされた。

ブロークンウィンドウ理論 PWはJRの駅名。

 

一見なんでもないものでも、その放置が重大犯罪へ繋がりうる

これが、この理論のポイントだろうと思うのです。ただ、逆説的ですが、一見そこまで徹底しなくてもよいと思われることを徹底することでよくなることとも取れるはず…と思って、そのような視点から見たときは別の理論名があるのかと調べているところです。

 

調べている中で見つけたものはとりあえず、一緒に併記ということで書き上げます。

 

 

マザーグースのこの歌?もブロークンウィンドウ理論?

釘がないので 蹄鉄が打てない

蹄鉄が打てないので 馬が走れない

馬が走れないので 騎士が乗れない

騎士が乗れないので 戦いができない

戦いができないので 国が滅びた

すべては蹄鉄の 釘がなかったせい

For want of a nail ? Mother Goose Nursery Rhymes

For want of a nail the shoe was lost.
For want of a shoe the horse was lost.
For want of a horse the rider was lost.
For want of a rider the battle was lost.
For want of a battle the kingdom was lost.
And all for the want of a horseshoe nail.

 

 心理学系メディア「Psychology Today」の記事で、幸福に関しての権威、「The Happiness Project」のGretchen Rubin氏が、悪習はその習慣と直接関係のないことにでさえ影響をあたえるといっています。

この理論を検索していて、見つけた文章。

 

割れ窓理論

治安が悪化するまでには次のような経過をたどる。

  1. 建物の窓が壊れているのを放置すると、それが「誰も当該地域に対し関心を払っていない」というサインとなり、犯罪を起こしやすい環境を作り出す。
  2. ゴミのポイ捨てなどの軽犯罪が起きるようになる。
  3. 住民のモラルが低下して、地域の振興、安全確保に協力しなくなる。それがさらに環境を悪化させる。
  4. 凶悪犯罪を含めた犯罪が多発するようになる。

したがって、治安を回復させるには、

  • 一見無害であったり、軽微な秩序違反行為でも取り締まる(ごみはきちんと分類して捨てるなど)。
  • 警察職員による徒歩パトロールや交通違反の取り締まりを強化する。
  • 地域社会は警察職員に協力し、秩序の維持に努力する。

などを行えばよい。

 

これは、ウィキペディアから。

心理学者フィリップ・ジンバルドは1969年、人が匿名状態にある時の行動特性を実験により検証した。その結論は、

「人は匿名性が保証されている・責任が分散されているといった状態におかれると、自己規制意識が低下し、『没個性化』が生じる。その結果、情緒的・衝動的・非合理的行動が現われ、また周囲の人の行動に感染しやすくなる。」

この部分に注目されての、ブロークンウィンドウ理論への進展なんだろうなぁ…と思うのですが、状況を回復させるための話ってどうよ…と思わされますね。

 

恐らく、すでに、没個性化が起きた状態。匿名性が保障され、責任が分散されている状態。

そうなっていたところを、どうにかしたい…って「ブロークンウインドウ理論」に繋がっていっていると思うのです。

 

汚さが目立つ…

今まではなかった…

誰かがしてくれるだろう…と自分では何もしてこなかった人の気づきの言葉。

昨年度まできれいで、今年汚い。

イコールどういうことか?

2つあり。1つは、昨年度まで匿名性が保障され、責任が分散されていて、「自分は関係ない」と思っていた人がいてもせっせと綺麗にするために努めていた人がいたのがいなくなったということ。もう1つは、意識低下。

 

大々的なパトロールで犯罪発生率を低下はさせていない。しかし、住民の体感治安を向上はさせている。

これが、ブロークンウィンドウ理論へ繋がっていく1つの大規模実験による成果。

 

要するに、見回りって回ることの役割は、その場にいる人の心理的効果。

割れている窓ガラスを無くす方がよっぽど犯罪を無くすって話。

 

埃たっぷりの状況で、綺麗にしているつもりになっている。

実は一番の問題点は、この「つもり」だと思う。

では、なぜ「つもり」になれるか。

 

要するに、感知能力が低いということ。

本当にきれいではないけれど、まぁ…よしとOKを出してきたことに対して、すでに目をつぶる意識体制があるってこと。

気にしないことにしている。もしくは、気にしないってこと。

 

トイレ掃除に取り組んで会社が変わったと、「掃除道」を書かれている鍵山秀三郎さんをはじめ、本当に改革できる人たちがやることは、一つだと思うのですが…それをキーワードとして表す言葉が見つからない。そこで検索していたのが「割れ窓理論」近いかなぁ…?

 

経営についての話を書いた文章には、次のようにあった。

「経営の問題はまず小さなところから現れます。その変化を見逃さないこと、そして、早く手を打つことが大切です。また、徹底した小さなこだわりを続けることで、お客様に伝わり、その勝ちがドンドン大きくなり付加価値になり、企業経営に多大な影響を及ぼします。

小さなこだわりとは、毎日愚直に本気で仕事に取り組むことでしか生まれません。誰でもできる当たり前なことを、誰よりも真剣にやるしかないのです。毎日、細部にこだわり、それを実践し続けると、ある瞬間に爆発的に広まって生きます。

些細なことや目の前の子とに、必死になることで、将来に相当な影響を与える可能性があります。経営力は本質追及の継続力なりと言われています。」

 

ある高校の先生とお話をしていて、「本当に、先生のところの学校は生徒がよく掃除されていますよね」ってお話させていただいた。そうしたら、それも危機的な状態に陥ったことが今までに何度かあったんだという話を聞かせていただいた。驚いてしまった。実は、同じ言葉を他のその学校の先生にしても、「そうでしょ」って言葉が返ってくることはあっても、それ以上の気付きを持っている人に出会わなかった。それなのに、その状態が悪化劣化していく事態を察知して対応してきた話を伺えた。

兆候は人が普段行かないところに現れ始める。埃の山が見えてきたら、その都度、「危機だ」と感じて警告を発しているという先生に出会った。お話を伺いながら、自分がいるところは、危機を超えているなぁ…とだけ。

 

今ようやく何ヶ月か経ったんだけど、視界に入る埃が普通の埃になってきた。ようやく、厚く重なっている埃を目にする機会が減った…なんて思いながら、数箇所埃だらけの場所がある。それが目に付くようになってきた。すべてが汚いと違いが見えてこないけれど、差が出てくると違いも見えてくる。だけど、汚いところを清掃している人にはその差が気づけていないのだろうと思ったら、なぜ気づけないのか?って思った。

 

何周も周回しているはずの管理職たちがいるのに、変わらないということは、気づけない管理職ということ。そのセンサーの低さは会社だとイエローハットに学びにいく会社の管理職より劣る。気づけていないことに気づいていない。

 

要するに、問題意識が低いということ。問題解決するためのセンサーが劣っている?問題の関連性が意識化されていないということ。普段人が行かないところの埃がたまったから、荒れてき始めている…というセンサーが働く人と、別に人が行かないから問題ないという意識の人の違い。

 

要するに、2つの問題があると思われる。

1つは、気づく能力に欠けているということ。それを問題という認識がないということは、つまり、そのようなことが関係しているとは思っていない。些細なことをおろそかにして、後手に回っている組織の後手に回る理由の最たるところ。

もう1つが、フィリップ・ジンバルドさんが言っている「没個性化」のところなのでは?って思うのでした。要するに全体に対して匿名性が保障され、責任が分散されている。管理職ですら、自己責任の範疇に置いていないこと。だから、そんなことをおろそかにしても誰からもマイナス評価を受ける心配はないから、汚くしていても問題がない?常に、口うるさく言われないと動けない。これを常道化してきて、口うるさく言われなくなると行動できない人が増えている状態。気づかれないだろう…という甘え?

 

「問題意識を高めようとする要因」

1)チーム全体が目的意識がクリアでなく方向性がバラバラ

2)自分のなすべき役割がハッキリせず、自分のなすべきことが見えていない

3)どういう状態にすべきかが、目的と対比してもハッキリさせられない

4)問題は見えていても、どうしたらよいのかアイデアが行き詰ってしまう

5)日々ついつい問題を意識せず、後から気づくことが多い

 

どのレベルでのどの要因なのか、複合的なのかもしれないけれど、問題意識を高めるという話に、おもしろい文章を発見。ただ、その文章は意味が取りにくいなぁ…と思ったので、自分なりにまとめてみると…

 

問題意識があるから、問題が見えるのではないということ。

それは、問題意識があっても、問題が見えていないことがあるということ。つまり、「問題を意識する」ということができないと、問題が見えるようにならない。だから、問題意識を持たないもしくは問題解決につながらないということ。

 

あ~それは問題だよね…よくなるように…誰かがしてくれたら…の姿勢。どうしたらいいのか?わからない状態。つまり、解決させたことがないということ。どうしたらかいけつできるんだろうね…という言葉には、解決策を思いつけないということ。それが生じる理由は簡単。因果関係が理解できていないということ。些細なレベルが意識できない。大きな問題に繋がる兆候を気づけないということ。些細なことを見逃してきているから、問題として事象が起きるまで気づけない。

 

ハサップ的視点を…なんて話を聞いた後なので余計に思うけど、チェック能力が低いということ。

 

そこで、「問題を意識する」ことを高める4つの重要なことが

1)チームの仕事についての知識・経験を持っていること

2)目的が何であるかを知っていること(目的意識)

3)そのために自分が何をなすべきかを考えていること(役割意識)

4)それをしなくてはならないのは自分であると感じていること(当事者意識)

と紹介されていた。

 

認知心理学で「今はこういう状態である」という初期状態を、それとは異なった別の「~したい状態(目標状態)」に転換したいとき、その初期状態が「解決を要する状態」つまり「問題」と呼ぶそうで、初期状態を目標状態に意識させなければ問題がないとも読める。

目標がなければ、初期状態に問題は存在しないということ。

 

つまり…

 

1)問題と感じる人にとってのみ存在している問題は「私的レベル」であり、共通な問題が元々あるわけではない。共通な問題に私的レベルの問題をするプロセスを経ることなくしては、共通問題はない。

2)目標状態の中身を厳密に見ていき、単に「目標」でとどめない。つまり、達成すべき課題水準、維持すべき水準、保持すべき正常状態、守るべき基準などに敷衍する。目標状態が、自分の目的意識と結びつき意識されている状態でないと、現状に対して問題を感じないということ。意識化されるためには、今の状態を分析できる能力つまり水準の分析が行われていることが大事。

3)目標と関わる心理状態をレベル化する。「~したい」でとどめるのではなく、「~しなくてはならない」(使命・役割)「~する必要がある」(役割)「~すべきである」(義務)「~したほうがよい」(希望)と分けてみると、どのレベルで意識しているか?初期状態を認知する人が、どういう立場、どういう視点で状況に向き合っているかが見えてくる。逆に言えば、その初期状態をどういう心理レベルで見たら目標状態をセットアップするか?

 

 

そして、問題を見ていくと3つのパターンに人を分類できると思う。

1)問題と意識化していない人

2)問題と認識していても、責任所在を自分ではなく他人に求めている人(誰かがしてくれること)

3)自分の周りだけ(個人空間)にその問題がないならば、問題と意識しない(それはできないことと思っているということ)

 

 

問題を意識するための「知識」というのがおもしろく思われたのは、知識とは、所有型知識(Knowing That)と遂行型知識(Knowing How)。前者が、「~ということを知っている」ということで、これだけでは所有されている知識に過ぎない。後者の「いかに~するかをしっている」ことによって初めて生きた知識になる。つまり、知識があるということは次のような思考の枠組みがあるということ。

1)自分はどういうときにどうするタイプの人間化という自己認知

2)ある状態ではこういうことがおき、こういう風になるであろうという、行動や出来事の蓋然性についての知識

3)このような状況・立場では、こういう役割や行動が期待されているという状況への認知

4)人間はこういう性格と傾向があるという経験値

5)こうなればこういう風になるだろう、あるいは、こういうことがあればこういう風な結果が起きるだろうという因果関係の図式の認知

これらを持っているということが、コツをつかんでいる、腕があるというレベルだが、これらのいずれかに欠如がある場合、問題といわれずに解決可能な状態へと展開させることができないということ。

 

ある意味で大きな問題として出てきていなければ、問題と認識がとれないことが本当は問題であるはずなのに、大きな問題として意識されることが出てくるまで些細なことをおろそかにして誰かのせいにしてきた結末とは意識できない人たちの集まりであるとき、問題は途方もなく、解決策が思いつかないということになる。

 

要するに、些細なことに対して「これは問題と思わなくてよい」とか「これは私がする仕事ではない」とか…見過ごしてきた人たちにとっては、経験値がない。いくら年をとっていても、経験年数ではなく、問題意識できる年数がないということ。同じ状態に問題意識を持てるようになれないのは、問題と認知するプロセスを理解してアプローチされてきていないから、問題意識にできないということ。

 

要するに、誰かがしてくれること…自分には関係ない…ブロークンウィンドウ理論に集約されていく途中課程を分解的に見て、「割れた窓をなくす」ということは何を意味しているのか、どの程度を目標として結果として出ている水準とするのかを決めないといけないのに、問題意識がないと「10」のレベルで求められていても、「9」でOKを出す。つまり、「10」と「9」の違いがわかっていないから、そのたった「1」の違いが生み出す結果を予測できないということ。

 

他律的に、言われるからしているだけ…という意識の人間が生み出す結果は、逆を返せば「言われなければしない」ということに過ぎない。

この状態の組織ではHACCP的思考で取り組むことはできない。

なぜなら、言われていることに対して判断は「0」or「10」つまり、言われていなかったら「0」での対応をするから。その途中のグラデーションが理解できていないから、自立的に取り組まない。

指示待ち人間がすることに期待できない…と多くのところが困っている問題が、この言われなければ、「0」になる行動ということ。つまり、問題意識が無いということ。問題を意識化する能力の欠如は、自立的に問題解決する能力の欠如である。

「言われたらする」という指示待ち指導者が行っている指導で育てられた存在が、指示待ちになる以外に可能性が低いのはそこに判断がない。

100を伝えたから、100をする人をつくって満足している。100を伝えることに取り組むことが指導であると勘違いした育てられ方をしていると、100を言わないと100をしない人しかつくらない。

60を伝えて、100を求めたら、120になることもあるのに…って、精選して60に絞込み、不足をその都度補う手間を省く。手間を省かれた分、自分で気づく能力が養われない。40の気づくチャンスを与えず、常に100を与えられて育つと、気付きで広めていく学び方を学ぶ機会を逸する。

 

到達目標に対して全ての行程を指示し、全ての行程をその通りすればいいとしてしまうことで、100を達成させることはできても、その途中課程で身につけることができていることは違うということを重要視していない。

結果さえ100あればいい。その発想でベルトコンベアに載せて、部品を供給し続けて流すことをした弊害。

 

自分で歩かせているつもりでも、全てを与えて判断チャンスを奪っていることを理解していない供給をして求められていることを100やっているつもりになっているやり方を認知できないチェック機能。

問題と意識できない理由。

 

ブロークンウィンドウ理論の根底にある発想って、おそらく徹底したいい状態を作り出すということだろうと思うのですが、悪い状態を「0」いい状態を「10」としてみたときに、徹底する側の人間が「8」も「9」も「10」と同じと判断していたら、「8」と「9」と「10」の違いを見抜ける人間から見ると、「10」をやっているといいながら違うじゃないかともろさの方を見抜くと思うのです。

下限を測りにスレスレ行動を行おうとしている人間にとって、この「8」も「10」と見なしてもらえることをずるずると引き下げていこうという思惑と重なり、許容範囲が下がっていって言い訳している状態。問題が見えなくなっている状態を正当化した発言で通そうとする徹底したい状態を作り出そうとしている人たち。

ブロークンウィンドウ理論の一番の課題は、問題を起こした人たちではなく、保ちたい状況が何かを意識していない求めている人たちの問題意識かなと思います。その場から問題をなくすためには、問題に繋がる要素を意識し排除しなければ、ますます問題に繋がっていく。問題を気づけないから、問題が連鎖しているというところで、「0」の状態を「10」にする。本当なら…「7」でもいいんじゃない?なんて思っている人もいっぱいいるかもしれないけど、「3」落とした分のデメリットに注目したら、「7」は問題状態であると判断するということ。

 

スケーリングできることと因果関係がわかっていること、そして、他律的に結果を出しにいくのではなく、「考える力」を持って、集団のすべての人が自律して結果を出しにいくことをする。うるさくアナウンスされているから、やっているというレベルの取組みの生み出す結果は低レベルで当然。うるさくアナウンスをすることが仕事をしていること、また、うるさくアナウンスしないと結果が出ないと意識して動いているレベルのやり方がいいとおもっているということは…逆を返せば、他律的にしか行動できない集団だということ。

 

問題を解決するための初歩は、問題と意識するところから。

問題と意識する理由を因果関係として紹介する。エビデンスを示すことをしないと認識できないことは、ある意味その集団にとってはそのことを重要視していないから取り組んでいないから伝わらないということ。

それをすることが大事と認識が取れている人たちが集まっていたら、エビデンスを示して話をしなくても、「あぁそうだった…」となれるけど、因果関係をわかっていない人は面倒とかイヤだという思いが先立ち、すること自体に抵抗感があるから解決しない。

 

類推するとか、推測するとか、おもんぱかる…などの能力が不足しているから、「考える力」の育成が求められているけれど、指導する側の人が100を言われないと100しない人たちで、問題を問題と意識化できない集団であったら…解決可能にならない。それを取りまとめているはずの管理職も問題と意識化していなければ…どこにも問題が無いけど、大きな問題が起きている!!なんて愚かな話になる。些細なことを問題視しない集団は、些細なことの積み重ねで滅びる。

 

埃が1cm溜まっている…壁がすすこけている…2,3年の仕業ではない。その程度にいたるまでの年月を測ることもできるけど、とりあえず…よい状態を意識化させることによって、他の全てもよい状態へ繋がっていく。意識化させるときに「10」を求めるなら「9」も駄目ということ。この徹底振りができないと、この理論を使って取り組んでも、いい結果は出ないかな。うまく活用できない例も出ているというのはそういうことかなぁ…なんてね。

 

とりあえず記録。