食材と向き合う

実は、長い間、探していた情報の一端を発見できました。

 

どこに書いておこうかなぁ…

 

改めて、本文をPDFにしてリンクするつもりで、必要事項だけ…というか、記録まで。

 

「ご飯粒を残すと、目が潰れる」

実は初耳でした。

だけど、書いてある文献には、「この言葉は、ほとんどの方がどこかで耳にしたことがあるのではないだろうか。実際、食事に関するしつけの際に語られることの多いフレーズである。」と書いてあったのです。

最初の三行がこれで、なんて決めつけで始めた文章なんだろう…と思いました。しかし、とりあえず、読んでみるとしたところ、結構、知りたかったことに近いことでは?と思われることを書かれていました。

 

私の母はキレイに食べることができていないときに言っていた言葉で覚えているのは、「仏教の家なんだから」でした。ちゃんと残さず食べなさいと。ご飯粒一粒までも…でした。

 

ん…

 

わかりませんでした。

正直、仏教の家は残してはいけないんだ…という疑問だけが残っていました。

ただ、読んだ文章には、なぜご飯粒を残すと「目」が潰れるかが書いてありました。

そして、「日本人の米食文化を支える米農家さんに対して感謝」や「あらゆるものに命が宿っているとする伝統的なアニミズムの観点」から、「ひとつひとつのお米の命を無駄にしてはもったいない」といった感覚が存在するとしながらも、目が潰れるのかという疑問に対して直接答えていないとして、ちゃんと直接答えているあたりが有難かったのです。

 

『典座教訓』の中で、道元禅師が北宋時代に活躍した保寧山仁勇禅師の「眼晴なる常住物を護惜せよ」という言葉を引用しながら、「米や野菜などの材料を人間の目のように大切にしなさい」と述べられているのだそうです。

そして、存じ上げない方ですが、長野県で青少年の教育に携わってきた奥村秀雄さんというかたが、ある公園の中で次のように語っているそうです。「ご飯を粗末にするような子には、そのものがどんな命を持っているかという本質を見抜く心の窓が曇るということを教えた」と。「つぶれる目」とは、食にまつわる構造や背景を見渡すことのできる「心の目」であると位置づけられていたのだそうです。

あるがままの視野を持つ「心の目」を養うというところだと書かれていました。

 

書き進めるには時間がないので、とりあえず…これでスッキリ!と思ったのでした。

 

母の実家の…ご先祖様?何代前かの方か、江戸時代?僧侶に儒学なのかなぁ…何かを教えていたようなことを聞いていて、取りあえず「〇〇先生」なるお墓があるのですが、母に至ってはダメということは覚えていても、なぜ…ということはよく覚えていないこと多々。まぁ…今となっては歳ですし…。最悪、知りたかったら、その町の郷土史の本を開いたらどうにかなるかもなぁ…と思えるのは祖母が「この本に載っていた」と教えてくれていたから。

母方は曹洞宗であるということは覚えていたので、私が読んだ文章を書いていた人も曹洞宗だから多分大元は一緒なんじゃないかなぁ…ってね。

 

伯父などに伺うともしかしたら、理屈持って知っているかもしれないなぁ…とは思いましたが、なんで仏教だったら米粒を残してはいけないのか?茶道の食べるルーツも仏教だから、食べ方で米粒を残すことは言われることだよなぁ…と思いながら、何に出てくることやら…知ることができたらいいなぁ~くらいでしたが、少しスッキリしました。

典座の心構えとしての「三心」

喜心

老心

大心

これは覚えておきたいなぁ…と目にして読むことができて感謝です。

 

 

 

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